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蚊らくり彼女  作者: ようへい
一章 片想い成仏委員会
10/43

File09・蚊

 無月学院には大きな庭園がある。開校時に作庭されたイングランド式庭園で、広い敷地は緑の植え込みで幾何学的に仕切られ、その内側をさまざまな色合いの花が彩っている。

 それはさながら数多のキャンバスに描かれた人的な絵画のようで、一方でのびのびと生育した植物の姿は大自然そのものをも彷彿とさせる。


 水曜日の放課後、仲谷は決まってこの庭園を訪れるという。

 その目的までは調べがついていないが、庭園管理士を伴っていることから、おそらくは教育の一環なのだと考えられる。──いかにもお嬢様然とした嗜みである。


 庭園に向かい歩いているうち、ぽつぽつ雨が降り出していた。傘を持っていなかったのでフードを被ってやり過ごし、庭門をくぐり抜ける。

 下調べの通り、敷地の中程に仲谷の姿を見つけた。その傍らには山吹幸子の姿もあった。


 ベンチの影に隠れ、彼女らの様子を遠巻きに窺う。雨のせいか周囲に咲くイングリッシュラベンダーの香りがやけに際立って感じられた。


 やがて山吹に動きがあった。携帯を手に取り何かを確認、それから仲谷に声をかけると庭園を外へと出ていく。

 おそらく優吏が仕事をしてくれたのだろう。

 入念に辺りを見渡し、もう一人の護衛である瀬崎の姿もないことを確認、一人となった仲谷のもとへと向かう。


 傘に視界を遮られているせいか、彼女はこちらに気付いていない。

 ひっそりと降る雨の中、彼女の姿が徐々に近付いてくる。雨靄に霞む花の中にぽつりと立つ彼女はなんだか儚げで、なんというか、妖精のようだった。


 もう少し、後十数メートルでたどり着くというところだった。こちらから見て横向きだった彼女が突如、くるりと背中を向けた。

 そのまま庭園の出口の方へ、花柄の傘をくるくる回しながら歩んでいく。


 俺の存在に気付いて逃げたのだろうか。いや、逃げられるような覚えはない。こちらに気付かないまま庭園を立ち去ろうとしているだけに違いない。

 ともあれ接触の機会を逃すわけにはいかない。優吏と太陽にサポートまでしてもらっているのだ。


 そう思い彼女のもとに駆け出した、その時だった。


「うげっ」


 どこからともなく現れた人影に衝突した俺は、みっともなく尻もちをついた。

 ぬかるみに沈んだ尻が気持ち悪い。……誰だ? やはり瀬崎が潜んでいたのか?

 そんなことを思い顔を上げると、しかしそこに居たのは金髪イケメンではなく、黒々としたスーツを身に纏った大人の男だった。


「……キミが小湊心か」


 出し抜けに名前を呼ばれて驚いた。

 やけに背が高く威圧感のある男だ。ウェーブのかかった黒髪をオールバックに撫でつけ、整えられた顎ひげと銀縁眼鏡が貫禄を思わせる。その年頃は四十前後だろうか。

 男は大きな黒い傘の下、眼光鋭く俺を見下ろしている。俺はといえばチンプンカンプンのまま何も返事をできずにいる。


 すると男はやおら小さくため息を吐き、


「小湊心くん。彼女に近付くのはもうやめてくれないか」


 いかにも渋い低音の声でそう言った。

 彼女というのは仲谷椛のことだろうか。


「あの子はね、キミが思っている以上に特別な子なんだ」

「……あの、っていうか、どなたさまですか」


 ここにきてようやく声が出る。

 すると男はもう一度、今度は深々とため息をついた。


「名乗らなくてはいけないか? キミのような人間に」


 虫けらでも相手にするように言われ、胸の辺りがムラッとした。

 確かに俺は大した特長のない一般人だが、見知らぬおっさんになめられるいわれはない。


「名前も知らないおっさんの言うことを聞けと?」


 投げつけるように言うと男はフッと笑ってみせた。

 それからおもむろに屈み込み、尻もちをついたままの俺の顔を覗き込む。


「──キミは蚊を叩き潰したことがあるか?」


 囁きかけるような口調だった。


「いきなり何の話だよ」


 脈絡のない質問に腹が立って言い返す。


「あるだろう? 何の感慨もなく、ピシャリと手を打って小さな命を奪ったことが」

「……なんだよ。俺みたいな虫けら、簡単に叩き潰せるぞって言いたいのか?」


 言いながら、この男は何者なのか思考を巡らせる。


 仲谷の関係者であることは間違いない。身なりを見る限りそれなりに立場の強い奴のようだ。威圧的な態度は権力者のそれを思わせる。

 彼女のことを調査していると気付き、その抑止のため俺に脅しをかけにきたのかもしれない。これ以上踏み込んでくるようなら叩き潰す、と。

 だが俺の問いを受けた男は、薄い笑みを浮かべるとゆっくりと首を振った。


「そうじゃない。私は彼女の話をしている」

「……彼女の話?」


 意味がわからない。

 

「何を言ってるんだ? 誰か知らないけど……」

「蚊は害虫扱いされる。人の血を吸うからな」


 男は俺の言葉を遮るように、その話を続けた。


「だが知っているか? 彼女たちメスの蚊が、吸血に命をかける理由を」


 有無を言わさずといった強圧的な口調。

 そのまま俺は何も言えなくなってしまった。


「蚊はそもそも花の蜜なんかを吸って生きている。しかしそれだけでは腹の子を育てられない。タンパク質が足りないのだ」


 訳が分からないまま男の話を聞く。


「その栄養分を補うのが我々の血というわけだ」


 このおっさん、頭がおかしいのか?


「オスは血を吸わない。吸血するのは子を宿したメスの蚊だけ。彼女たちは皆、我が子のために命の危険を冒している。己をひと叩きで殺せる巨大生物、その血を奪取するためにね」


 言いながら、男は深く鋭い視線を俺に向けた。


「おい、いい加減にし……グッ!」


 立ち上がろうとする俺の視界を男の手が覆う。

 顔面を押さえつけられ、後頭部がぬかるみを打った。頭がくらくらして、意識が一瞬微睡(まどろ)んだ。

 その瞬間、俺はとある錯覚をした。

 

 眼前の男、その瞳の奥に、「蚊」が映りこんでいる──



 ――彼女は我々の血を吸うことでしか世代を更新できない。


 命がけで人家に侵入するのはそのためだ。例えそれが魔境の地であっても、そこに足を踏み入れるほかない。網戸の隙間をかいくぐるか、扉開閉の瞬間を見極めるか。


 彼女は少しの風で飛行障害に見舞われる軟弱な生物だ。そんな彼女からすれば人間は怪物でしかない。

 だがその怪物に近付かねばならない。見つかれば一方的に殺戮されるというリスクを負って、無防備に宙を飛び、自ら姿を晒しながら、怪物の肌を目指し近付いていく。


 どうにか気付かれずに着地できた。だが本当の勝負はこれからだ。

 ノコギリ状の針を使い、怪物の肌を切り裂いていく。そして血の凝固を防ぐための液体を注入する。これは大切な手順だ。吸った血が体内で固まってしまえば、彼女自身が死んでしまう。

 無論その間も決して、怪物に気付かれてはいけない。


 そして彼女はようやく吸血針を刺し入れる。

 ここまでくればもう少しだ。血を吸い上げるまで約二分、どうか気付かないでくれと祈る。それがどれほど長い時間か、人間には想像もつかない。


 やがて充分に吸い上げた血の管を包み、慎重に針を引き抜く。

 ここで焦ってはいけない。大切な我が子の栄養分を零すわけにはいかない。


 ようやく怪物から離れられ、彼女は思う。

 必要な栄養素が手に入った。これでお腹の子を育てられる──。


 血を詰め込んだ身体はひどく重い。

 彼女は必死に羽をはばたかせ、その重い身体を宙へと浮かせる。怪物の巣から脱出しなければならない。


 しかし出口は簡単には見つからない。

 ここで気付かれたら絶体絶命だ。血を吸って重くなった身体は容易く打たれる。そうなれば我が子もろともぺしゃんこだ。


 ようやく確保できた我が子の栄養素を巻き散らし、ティッシュで拭い取られ、無惨にすり潰される。そしてゴミ箱へと放り捨てられる。

 そこに生命の尊厳などありはしない。


 それは彼女にとって、ごく身近な現実だ。

 それでも死を厭わない。そうすることでしか子を、種を守れない。世代を更新することができないからだ。


 ああ、怪物に殺された同胞はいかほどか。腹の子もろともすり潰された同胞は――



「分かってくれたかな? 仲谷椛のことは放っておいてやってくれ」


 そう最後に言うと、男は表情をにこりと和らげた。

 そしてゆっくりと立ち上がり、踵を返す。


 その姿が雨靄に消えるまで、俺はぬかるみで雨に打たれていた。

一章はここまでとなります。

ここまで読んでくださりありがとうございます。二章以降もお付き合いいただけると嬉しいです。

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