Buon appetito in torta della tentazione. 誘惑のケーキを召し上がれ
昼過ぎ。聖カテリーナ女子修道院内の空気は華やいでいた。
院内で私語を話すことは慎むよう言われているのだが、静かな中にも甘く浮かれた空気をマルガリータは感じた。
頬を赤くして歩く者や、口元の弛みを噛み殺している者。
外はよく晴れていて、陽射しも穏やかだ。
ふわりとした風に、咲き始めた中庭の薔薇の香りが混じる。
「気のせいか、皆さまの様子がいつもと違うような。何かあったのですか?」
厨房の手伝いに来たマルガリータは、先輩にあたる修道女に尋ねた。
「ケーキの差し入れがあったそうですわ。とても綺麗なケーキで」
「まあ、そうですの……」
マルガリータは相槌を打った。
怪物の兄弟のところで食べ損ねたケーキをまた思い出してしまう。
惜しかった。
取ってあると言われたが、相手は怪物だ。絶対に罠だろう。
騙されるものですか。マルガリータは内心で徹底抗戦を宣言した。
ケーキはとても惜しいが。
「よほど美味しそうなケーキなのですね。廊下を歩いていても皆さまとても嬉しそう」
「嬉しいというか、その」
先輩の修道女は口元を抑えて俯いた。
「持っていらした方が……匿名の貴族の方らしいのですが」
「そうですの」
マルガリータは頷いた。
「修道院にそんな細かい気配りをしてくださるなんて、立派な方ですわね」
「立派……やだ」
先輩の修道女は、赤くなり向こうを向いてしまった。
「ソレッラ・マルガリータ、男性のお身体についてそんな如何わしいことを言うものでは」
マルガリータは、ぽかんとした。意味が分からない。
「あの方、もう帰られるようですわ」
三人ほどの修道女が、ぱたぱたと駆け足で厨房に入って来る。
皆さまいつも静かに歩くのに。マルガリータは目を丸くした。
一人の修道女が、玄関横に面した窓を覗きこむ。
「ここから見えますわ」
他の修道女たちも窓際に駆け寄る。
何が起こっているのかとマルガリータは戸惑ったが、とりあえず他の修道女たちの後ろから窓を覗いた。
女子修道院の玄関前から正門まで続く通路。
生い茂る木々の間から、上品な仕草で挨拶する男性が見えた。
略式の正装に身を包み、整った顔に微笑を浮かべている。
襟足の長めな濃茶色の髪が、優しげな中にも僅かな野性的な味を加えていた。
両脇には従者らしい男性が二人。どちらも主人に合わせ折り目正しく礼をしている。
マルガリータは頬を強張らせた。これ以上ないくらい目を見開く。
カルロ━━━━━━!!
脳内で声を上げた。
修道院の玄関前にいるのは、間違いなくカルロだ。
なな何しに来たのと、マルガリータは口をぱくぱくとさせた。
「素敵な方……」
修道女の一人が楚々とした仕草で口元を抑える。
「あんな御方がいらっしゃるのね……見て。物腰の品格のありますこと」
えええええっ。
マルガリータは頭の中で大きな否定の声を上げた。
あんな非常識な怪物のどこが良いの皆さま。昨日なんか、女子修道院内に無断で入って、しれっと修道女が食い放題とか言っていて。
「いけません皆さま、あれは!」
マルガリータは、修道女たちの背中に向け叫んだ。
怪訝な表情で修道女たちがマルガリータを振り返る。
「ソレッラ・マルガリータ、あの方をご存知ですの?」
修道女の一人がそう尋ねた。
「まあ、どちらの御家の方? 御名は何ておっしゃるの?」
他の修道女たちが色めき立つ。
皆、微かに頬が紅潮していた。
女子修道院は、良家や裕福な家の子女ばかりだ。幼少の頃に入れられた者も多く、世間知らずで男性に免疫がない。
ここは、はっきりとお教えして皆さまの危険を回避して差し上げなければ。マルガリータの心に使命感が湧いた。
「知っています。城壁のそばに住む怪物の一人です。修道女を誑かして、く、食ってしまう不埒な隼です!」
修道女たちは、ぽかんとした表情でマルガリータを見た。
「綺麗で美味しそうなケーキで釣り、いい匂いの花茶とか、可愛らしい紅色のカップとか……」
「ソレッラ・マルガリータ、薬湯をお持ちしましょうか?」
修道女の一人が言う。
他の修道女たちも心配そうにこちらの顔を凝視している。
なぜ薬湯。マルガリータは眉を寄せた。
夕飯時。テーブルのあちらこちらから、花やいだクスクスという笑い声が漏れていた。
修道女全員で分けるとケーキはかなり小さくなってしまったが、それでも口に含むと彼女たちは、お互いに顔を見合せ頬を染めたりして、恥ずかしそうに口元を抑えたりしている。
食事時には私語は控えるものとなっているので静かなのだが、目と目でカルロの噂をし合っている感じだ。
マルガリータは質素な長テーブルに着いた修道女たちを見回した。
小さな灯りで照らされた薄暗く殺風景な食堂広間。
姉妹と呼び合う方々とはいえ、堕落した様子を内心で非難ながらマルガリータはミネストローネを啜った。
ここは女子修道院では。
神に仕え、貞節を保つ清らかな女性たちの住み処のはずでは。
修道女が若い男性を見ることは滅多にない。珍しいというのもあるのかもしれないが。
皆さま堕落なさっている。
スプーンを握った手につい力が入る。
わたしはケーキに誘惑はされても、あの二人の男性としての誘惑には決して乗らなかった。
それ以前に誘惑されていない気もするが。
やはり皆さまのこのご様子は、あの怪物たちの巧妙な罠と得体の知れない魔力によるものなのかしら。
純粋で清らかな彼女たちであるからこそ、誑かされてしまうのか。
やはり許せないわ。ふしだらな怪物。
クスクスと浮かれた笑い声を聞きながら、マルガリータはミネストローネに浮いた春人参を睨み付けた。