La Santa Inquisizione. 異端審問所 i
カルロの話には動揺したが、商売のことなど一切教わっていないマルガリータにできるのは、せいぜい兄たちに注意を促すことくらいだ。
長兄がもう知っている内容なら、わざわざ報せるまでもないだろう。
女子修道院の私室。
マルガリータはベッドに座り、床を見詰めた。
膝の上で開いた本は、先程からパラパラとページをめくっているだけで、全く頭に入って来ない。
子供の頃から尊敬していたパオロ司祭が不正をしているなんて、信じられなかった。
もしかして手の込んだ嘘で揶揄っているだけなのかもしれない。
守ってあげると提案されたが、断って女子修道院に帰って来た。
それから二週間。
怪物たちのちょっかいは、ここのところぱったりと無い。
麗しい貴公子に恭しく礼をされ「守って差し上げる」と言われるのに憧れたことはあるが、生まれて初めてそれを言われたのが、敬虔なる修道女をオモチャにする怪物とは。
確かに見た目だけは麗しいけど。そう考えたところで、はたとマルガリータは考えを止めた。
修道女が。
神にこの身を捧げ、仕えると誓った修道女が男性の容姿について考えるなんて。
胸元のロザリオを握り締める。
動揺して信仰の道を見失っているのかもしれない。
パオロ司祭が不正なんて、絶対に嘘。
父の代からお世話になっていた司祭で、医学の知識を活かして貧しい人々を助けている高潔な人物で。
信じられない。
サァァと窓の外から音がする。
朝から曇りがちな空だったが、雨が降ってきたようだ。
修道院の裏庭から、何人かの修道女の慌てる声が聞こえる。
洗濯物を干していたのだろうかとマルガリータは思った。
ドンドンドンと激しく扉を叩く音がする。
「ソレッラ・マルガリータ!」
先輩の修道女の声だった。いつもは淑やかにノックをする方なのに珍しい。
「ソレッラ・マルガリータ! 早くお出になって!」
他の修道女たちの声も聞こえる。
「寝ていらっしゃるのかしら」
おろおろと話す声が聞こえる。
マルガリータは立ち上がり、扉へと駆け寄った。
「何ですの?」
そう尋ねながら扉を開ける。
数人の修道女が、非常に焦った表情でそこにいた。
確か今日は、食事当番でも洗濯当番でもないはず。それとも何か家事の手落ちでもあったのか。
「ソレッラ・マルガリータ! ああよかった!」
「いまから逃亡の手引きをいたしますわ。ついていらして」
修道女たちが服の裾をからげて踵を返す。
マルガリータは目を丸くした。なんのこと。
訳も分からないうちに、修道女の一人がマルガリータの部屋に入り、聖書とロザリオと手近にあったショールを手に取る。
「ともかく必要なものだけをお持ちになって。皆に紛れて裏口から出ますわ」
「あの……なんですの?」
修道女たちに背中を押され、マルガリータはつんのめるようになりながら尋ねた。
「異端審問所の役人方がいらしてますの」
修道女の一人が答える。
ドキリとマルガリータの心臓が跳ねた。
パオロ司祭が手を回すかもしれないとカルロが言っていたが、まさか。
「ソレッラ・マルガリータに、神に背く交流の疑いありと言っていらして」
「そんなものありません。お話しして来ます」
マルガリータは迷いなく玄関の方へと向かった。
異端審問所は、きちんと調べをする所だと聞いている。ろくな裁判もなく火炙りにするような、野蛮な国の役所とは違う。
「待って。お待ちになって。ソレッラ・マルガリータ」
修道女の一人がマルガリータの背後に駆け寄り止める。
「いま修道院長が対応してますの。その間に逃がしてくださいと。修道院長のご指示ですわ」
「なぜ修道院長がそんなことを」
マルガリータは、困惑して玄関口に通じる廊下の先を見た。
自身の信仰に、疑われるところなどあるはずがない。
仮にあったとしても、そんな背信者を修道院長が庇う理由はどこにも無いはず。
「ともかく、お話をすれば分かるはずですわ」
マルガリータは、修道服をたくし上げて駆け出した。玄関口へと向かう。
慌てて引き留める修道女たちに向けて声を上げる。
「大丈夫です皆さま! わたくし、お話して来ます!」




