Angelo e agnello rapito. 天使と拐われた子羊 i
悪魔と闘うなら、ロザリオが必要。
マルガリータは急ぎ自室へ戻り、怪物の兄弟から取り戻したロザリオを手にした。
不意に修道服に何かが触れる。
腰の辺りだ。目線を下に向ける。
幼子が駆けるような靴音が聞こえた気がして、室内を見回した。
五、六歳ほどの金髪の少年が、マルガリータの寝台に両手を付き脚をかけて登ろうとしている。
「え」
突然のことにマルガリータは目を丸くした。
悪戯で紛れ込んだのだろうか。服装は、どちらかといえば裕福な家の子に見える。
「えと……どこの子?」
マルガリータは問うた。
少年は構わず寝台に這い登り、ぱふんと音を立てて腹這いになった。
「ああ疲れたあ。箒持って追いかけられたのなんて、百年ぶり」
「え?」
「ね、ちょっと休んでいい?」
少年が無邪気に尋ねる。
「え……どうぞ」
ついそう答えてしまう。
「ええと……どなたか大人の方は」
「僕ね、ガリーって人に会いに来たの」
質問にはまるでお構いなく、少年がそう答える。
自分にと一瞬マルガリータは思ったが、この子に心当たりはない。
「別名、ペタ胸っていうんだって」
マルガリータは無言で顔を歪ませた。
高確率であの兄弟の関係者の予感がする。
「ガリーって人いる?」
少年は腹這いのまま顔を上げ、毛布に頬杖を付いた。
サラサラとした金髪と大きな薄青の目。無邪気で可愛らしい様は、宗教画の天使のようだ。
だがおそらくは、あの兄弟の関係者だ。そして多分、人間ではない。
あの二人にはもう関わらない方がいいと思う。修道女と怪物がそうそう関わって良い訳がない。
「ガリーなんて人はここにはいないわ。ちなみにわたしの名前は、マルガリータ。マルガリータ・ディ・ジョヴァンニ」
マルガリータは一気にそう自己紹介した。
「ガリーじゃないね」
「そうよ。ガリーじゃないわ」
次の瞬間。
「ガリー」
甘いテノールの声が聞こえる。
上部の明かり取りの窓から隼が顔を出した。
するりと室内に入ると、床に着地して身形の良い青年の姿に変化する。
カルロだった。
「な……」
マルガリータは口元を歪ませた。このタイミングで呼ぶとか嫌がらせなのか。
「あっ、カルロ!」
少年が上体を起こし、脚を投げ出して寝台に座った。お尻を上下させ、ぱふぱふと音を立てる。
カルロは寝台に近づくと、屈んで少年に鼻先を寄せた。
「やっぱりここに来てた」
「カルロも休んでく?」
少年が無邪気に言う。抱っこをせがむようにカルロの首に両手を回した。
「ファウストは来てないの?」
「お昼寝の最中だよ」
カルロが少年の背中をぽんぽんと叩く。
見かけだけは麗しい。天使のような可憐な少年と甘い美貌の青年貴族といった感じだ。
「僕、ファウストの方が気が合うんだけどなあ」
「そうだね、君は」
「あの」
マルガリータは口を挟んだ。
「保護者の方がいらしたなら、早々に連れ帰って欲しいんですけど」
カルロが少年の顔を見る。
「保護者ではないよね」
「保護者ってなに?」
少年が天真爛漫に問う。
「レオナルドの方が歳上なんだ。混乱するかもしれないけど」
品の良い仕草で少年を指し、カルロが言う。
「レオナルド?」
マルガリータは記憶を辿った。どこかで聞いた気がする。
「で、こいつはマル何とかなの? それともガリーなの?」
少年がマルガリータを指差す。
「マルガリータよ」
「ガリーだよ」
二人同時にそう答えた。
眉を寄せ、マルガリータは改めて答える。
「マルガリータよ」
「略称がガリーね」
カルロが被せて言う。
「僕の持ってくるケーキに文句言いたいのはこいつ?」
レオナルドはマルガリータを指差した。
「ケーキ?」
そういえば。
カルロたち兄弟の屋敷に、しょっちゅう甘ったるいケーキを持ち込む人物の名がレオナルドと言っていなかったか。
「いつもケーキを持ってくるレオナルド」
カルロがそう言い、改めて少年を指す。
「……なんでここに」
「ケーキの文句を直接言いたいらしい人がいると言ったら、じゃあ聞いて来るって」
「……なに余計なこと言ってるの」
マルガリータは顔を歪ませた。
カルロが耳打ちする。
「この前も言ったじゃないか。僕たちじゃ言いにくいんだ」
「なぜ言えないの。歳上だから? 怪物にも年功序列みたいなものがあるの?」
マルガリータも声を潜めて問う。
「単にあの雰囲気」
「ねえねえ、ケーキって美味しいでしょ? 好きでしょ? 嫌いな人いる訳ないでしょ?」
寝台に座ったレオナルドが愚図るように言う。
可憐な天使のような様子に、さすがにマルガリータも逆らい難いものを感じた。
「え……えと、わたしはケーキは元々嫌いでは」
「ガリー……」
カルロが額に手を当てる。君もかと言いたげだ。
「あの。後日ではだめなの?」
マルガリータはそう切り出した。
「自室に男性がいるなんて問題なんですけど。とりあえず帰って」
カルロはぽかんとした。室内を見回す。
「……ここガリーの部屋なの?」
「そうよ。早く帰って」
「……殺風景すぎるから空き部屋かと思った」
「僕も」
レオナルドがお尻で寝台の上を跳ねる。
何を言われているのかマルガリータはよく分からなかった。
「女の人の部屋って、大抵カラフルな小物なんかがあって、お菓子とか香水とかいい匂いがしてたりするんだけど」
カルロが改めて室内を見回す。
「ファウストだったら、色気ねえーって一刀両断にしそう」
レオナルドが笑って同調する。
「大きなお世話よ」
マルガリータは眉を寄せた。
「修道女の部屋は質素なものなの!」
「前に仲良くなった修道女さんは、寝台に可愛らしいピンクのブランケット掛けてたっけ」
カルロが言う。
仲良くなった修道女さんてなに。マルガリータは眉間に皺を寄せた。
寝台の上のブランケットを知ってるってどんな仲よと思う。
「わたしは、あなた達と仲良くなる気はないわ」
「僕は仲がいいつもりだけど」
カルロが笑う。
「さっさと帰って」
「しょうがないね、レオナルド」
カルロがレオナルドの方に歩み寄る。
寝台から降りさせ、手を引いて出入口の扉の方へと連れ出した。
「ちょっと待って。どこから帰るの?!」
マルガリータは焦って駆け足で後を追った。
「廊下を通って玄関から」
カルロが当然のように答える。
「窓からは帰れないの?! 空を飛んでとか」
「黒い牡山羊が空飛んでたら、街に戒厳令が出ちゃうねえ」
カルロが声を上げて笑う。
「ここの人たち、お祈りするとこ見てただけで箒持って追いかけて来るんだもん」
レオナルドが面白そうに笑う。
「牡山羊……?」
マルガリータは目を見開いた。
先ほど皆さまが言っていたサバトの牡山羊って、もしかして。
「じゃ、ガリー、邪魔したね」
カルロがドアノブに手をかける。
「ちょっ、ちょっと待って!」
マルガリータは引き留めようとした。
サバトの牡山羊が自室から出るところなんて見られたら。
いえ、レオナルドは今は天使のごとき少年の姿なので、まずいのはカルロの方。混乱する。
「待って!」
混乱している間に、カルロは扉を開けた。




