Caprone nera. 黒い牡山羊
女子修道院の廊下に次々と悲鳴が響く。
礼拝堂のある方角から順に声が上がっているようだ。
マルガリータは自室で書物を読んでいた。中断して廊下の方を見る。
寝台には質素な生成の毛布、机と簡素な燭台くらいの飾り気もなく殺風景な部屋。
他の修道女の私室にはもう少し女性らしい小物があったりするのだが、マルガリータはそういったものは堕落の元だと考えていた。
悲鳴がいつまでも続く。
マルガリータは眉を顰めた。
もしかしてまたカルロが何かしたのかと思い至り、椅子から立ち上がる。
出入口に駆け寄り、扉を開けた。
「何事ですの?!」
箒を手に通りかかった修道女たちを呼び止める。
「ソレッラ・マルガリータ!」
「あああ、あなたはご無事で!」
修道女たちが口々に声を上げた。
「また不埒な怪物が、修道女を食すなどと馬鹿げた企みで参りましたのね!」
「怪物?」と呟いて修道女たちが顔を見合わせる。
「そんなものではありませんわ、ソレッラ・マルガリータ。もっと恐ろしいものです!」
修道女の一人が険しい表情で説明する。
「ではファウストの方?! それとも兄弟揃っての来院ですの?!」
修道女たちは、ぽかんとして再び顔を見合わせた。
「ソレッラ・マルガリータ、こちらへ」
修道女たちはマルガリータを庇うように囲み、廊下の端に連れ出した。
何人かの修道女が警戒するように背後を振り返る。箒を構えた者が一番後方に付いて来た。
「お可哀想に。恐ろしさのあまり正気を失っていらっしゃるのね」
「どうかお気を確かに」
修道女たちが口々に言う。
ええと……とマルガリータは目を左右に泳がせた。
「怪物じゃないんですの?」
「山羊ですわ!」
一人の修道女が声を上げる。
「……どこかの農家から逃げた?」
「そんな普通の山羊ではございません!」
修道女がふるふると首を振る。
「ソレッラ・マルガリータ、気を確かにお聞きになって。漆黒の牡山羊。悪魔ですわ」
箒を構えた修道女が答える。
「え……?」
マルガリータは頬を強張らせた。
「た、確かですの?」
マルガリータの問いに、修道女たちが震えつつ頷く。
怪物が優雅な屋敷でお茶会を嗜んでいるのだ。それに比べたら悪魔がそこら辺にいても不思議とは思わない。
マルガリータは震える手で自身の修道服を握りしめた。
修道女の一人が口を開く。
「あれは確かに書物で見たサバトの牡山羊でしたわ。礼拝堂に忘れ物を取りに行きましたら、跪き台の上に座り、話しかけてきましたの」
修道女の何人かが震えた息を漏らす。
「な、何と話しかけて来ましたの?」
「ねえねえあのさ、と」
「あああああ!」
修道女の一人が両手で頬を包み、恐怖の声を上げる。
「わたくしが悲鳴を聞きつけ駆け付けましたときには、天井まで届く巨大な姿で、片手を振っておりましたの」
「ひぃっ」と修道女たちは裏返った声を上げた。
「なぜこのような敬虔なる修道女の住む家に!」
「まさかどなたか、神に背く行為をなさいましたの?!」
修道女の一人が周囲を見回す。
マルガリータは嫌な汗をかいた。怪物にケーキと花茶で持て成され、同じ寝台で同衾、その後差し入れられたケーキを口にして、罪深いことに美味しいと思ってしまった。
わたしのこの背徳の数々が、悪魔を呼び込んだのかしら。
「落ち着いて。ソレッラ・ジョアンナ」
一人の修道女がソレッラ・ジョアンナの手を取る。
「ここにそんな不徳の方はおりませんわ。そういう疑心暗鬼が悪魔に付け入る隙を与えるのではなくて?」
ソレッラ・ジョアンナは、碧い大きな目を見開いた。
「申し訳ありません、ソレッラ・フィオーレ。わたくし間違っておりましたわ」
二人の修道女が手を取り合う。
他の修道女たちは目を潤ませた。
「皆さま! 神に召されるときは一緒ですわ。悪魔にわたくし達の信仰と団結力を見せつけてやりましょう!」
一人がそう言い、箒を構える。他の修道女たちは目を拭い頷いた。
麗しく盛り上がる修道女たちの様子を見詰めながら、マルガリータは罪悪感にかられていた。
皆さま申し訳ありません。
悪魔の牡山羊を呼んでしまったのは、わたしかもしれません。




