後編
「診察が終わり次第に部屋へ来てほしいと、艦長殿から伝言を預かったが」
「大丈夫そうかね?」診療簿から目を離さないままの船医の言葉に、少し息が詰まるような感じがした。
だって、まだ何の整理もついていないままだ。
それでも拒否なんてできるわけがないから頷けば、船医がちらりとこちらを一瞥する。
「……そうかい。本人がそういうのであれば僕は止めはしないが、まあ、少しくらいは僕の患者に肩入れしておこうか」
「……先生、これは?」
なおざりな仕草で渡された物を手のひらで転がす。薄く黄色みがかったたまご型のそれは、自分の親指と変わらないくらいの大きさで、握りこむのにしっくりくるサイズ感をしていた。
なんかうずらの卵っぽい。
つるりとした触り心地はガラスや磨かれた鉱物に似ている。たまごを横に二分割するように、ぐるりと一周する切れ目が指の腹に引っかかった。
質問に対する回答はないまま、船医は左手を顔の高さまで持ち上げ、人差し指と親指の間でなにかを潰すようなジェスチャーをしてみせた。
「上下から力を加えてみなさい。思いっきり、ひびを入れるつもりで」
船医に促されるまま、素直に力を入れた。やや強めの抵抗ののち、押し込めた手ごたえを感じた瞬間に思わずたまごを取り落とした。
耳を劈く大音響。
肌に振動を感じるほどの騒音が部屋に溢れる。
両手で耳を塞ぎ、後ずさった。かわいらしいフォルムと控えめなサイズをした物体から発されているとは思えないほどの、暴力的なうるささだ。
不意に床に転がったたまごが、すい、と浮かび上がる。
とっさに目で追った。
船医はたまごを手のひらで受け止めて掴んだまま、空いている左手で机の上に置いてあった、蓋が開きっぱなしの小箱を引き寄せている。小箱は見た目に反して底が浅く、中央にちょうどたまごが入れられるくらいのくぼみがあった。
カチ、と音を立ててくぼみに嵌めこまれると、けたたましい音を立てていたたまごはたちどころに沈黙した。
滅多に表情が変わるところを見ない彼にしては珍しく、うっすらと笑っていた船医は、左耳から耳栓を取りながら指先で枠を何度か叩く。
「いちど鳴らしてしまえば、対応する台座に嵌めるまで鳴り続けるわけだが、その台座はこの通り僕の手元にある。鳴っている間は台座の蓋が勝手に開いて閉められない仕組みになっているからね、音が聞こえなかったとしてもすぐにわかるわけだ」
つまりは保護者への通知機能付き防犯ブザー。
質問を無視されたのではなく、実演付きで回答されたらしい。もっと言えば動作確認も含んでいるような気がする。
指を鳴らす音とともに、たまご型の防犯ブザーが手元に飛んでくる。ふわふわ空中に漂うそれを両手で捕まえると、一拍遅れて微かな重さが手のひらに感じられた。
「必要だと感じたら鳴らすといい。ためらわず、遠慮なくね」
「……はい。ありがとうございます」
「うん。話は以上だ、お大事に」
会話を切り上げ、再びペンを手に取った船医の背中に頭を下げた。
***
面接練習より緊張する。
大きく息を吐きだし、艦長室のドアの前で防犯ブザーを握りしめた。
心音が耳元で聞こえるし、握りこんだ指先が冷たい。もうまずノックをするところからハードルが高い。右手がずっと変な高さでうろうろしてる。
一対一で話をしなければいけないこと以外に、ドレイクさんの言う“話”の内容がまったく予想できないのも怖かった。
言いつけを守らず勝手に移動してしまったのは完全に私が悪いが、ドレイクさんはたぶんそのことで怒ってるわけではない。それならその場で怒った理由、というより何がどう危なかったのかを説明されて、もうしないように釘を刺されて終わりだからだ。いつものパターンなら。
それ以外にドレイクさんを怒らせるようなことをした覚えがないので、とても始末が悪かった。
ドレイクさんが感情的になってるところなんて見たことがない。機嫌が悪そうというか、気分を損ねたとわかる態度を見たのは、それこそ件の言いつけを破ったときが初めてだ。
その原因は確実に私にあるはずなのだが、本当にまったく思い当たる節がないので、軽率に謝ることもできない。詰み。
“ごめんなさい”を封じられた状態でドレイクさんに対峙する勇気が出なかった。
そんなためらいもむなしく、艦長室のドアが内側へと開いたことで盛大に肩が跳ねた。変に空気が通った喉が悲鳴じみた音を立てて鳴る。
「……ミオ? どうした、何をしているんだ?」
「な、なにも……?」
廊下に出ようとしたらしいドレイクさんに見下ろされ、答えに詰まった。まさか正直に『お話をする覚悟が決まらず、部屋の前でうだうだしてました』なんて言えない。
「あの、なにか外に用事があったなら、出直しましょうか……?」
ごまかし半分にそう言えば、空色の目が数度またたいた。
「いや用は……ああ、急ぎのものはないから、気にしなくていい。入ってくれ、鍵は閉めなくていい」
ドアが閉まらないように押さえながら、ドレイクさんが視線で促してくる。失礼します、とほとんど独り言のような声量で呟き、爪先を絨毯の上に載せた。
「好きに座ってくれ。椅子を移動させても構わない」
「はい……」
ドレイクさんが防犯ブザーに視線を向けた気がした。すぐに背を向けて部屋の奥へ歩き始めたので断言できるわけではないが、存在を察されてはいるように感じる。ドレイクさんが用途を知らないはずがないし、そうだとすると失礼なことをしたのではないかと心臓が縮んだ。
ドレイクさんが備え付けの机を挟んだ向こう側に座る。自分も急いで手近な椅子に腰を掛けた。
机を挟んで対面しているものの顔を直視できず、指を組んだ状態で机の上に載せられたドレイクさんの手を見つめる。いつも手元まわりを守っている鎧は外してあり、色素の薄い手の甲がむき出しになっていた。
そういえば床が絨毯であることを差し引いても、歩くときに金属がこすれる音がしなかったので、足元まで防具を外しているのかもしれない。胸当てはつけているとはいえ、いつもの首から下をガチガチに覆い固めた重装備を考えると、ここまで軽装なドレイクさんも珍しい。
「──まず」
ドレイクさんが口火を切った。
いつの間にか少し丸まっていた背中が反射的に伸び、視線がドレイクさんの手から喉まで上がる。背もたれがある椅子ではあるが、深く座ったりなんかとてもできない。
ぜんぜん関係ないこと考えてたのがばれたかと思った。現実逃避が自分の首絞めにきた。
防犯ブザーを握りしめる右手を左手で覆う。指先どころか、手のひらまで冷たかった。
恐々としながら視線をドレイクさんの口元まで持ち上げると、真一文字に引き結ばれている。
アッ無理やっぱ顔まっすぐ見らんないこわい。
目をドレイクさんの胸元を覆う鎧に向けて固定した。そもそも怒られるの苦手なのに、相手がドレイクさんだから余計に怖い。心臓が痛くなってきた。
「……まずは、謝罪を聞いてもらえるだろうか」
「……え? ドレイクさん、が?」
私が謝るんじゃなくて?
想定していた話と方向性が真逆で、思わず顔をあげる。ドレイクさんは少し顎を引いて肯定してみせた。
「昼間の件だが、感情的になってしまった。……恐ろしかっただろう? すまなかった」
「いえっ、でもそんな、あれは私が勝手に移動して──」
「違うんだ、ミオ」
遮るように否定され、言葉を飲み込んだ。
ドレイクさんがふと目を伏せた。机の上で緩く組まれていた指が、手のひらを合わせるようにきつく組み直される。
「俺は……きみがいなくなったことで、冷静さを欠いたわけではない」
ですよねそんな気はしてた、という納得半分、いっそ『言いつけを守らなかったから』というドレイクさんらしくはなくてもわかりやすい理由があってくれた方が安心だったという不安半分で頬の内側を軽く噛んだ。
ドレイクさんに理由聞くのこわい。
でも知らないまま解散するのももっとこわい。
うっかりすると涙腺が緩みそうだった。まばたきを増やしてごまかしつつ、声が震えてしまわないように、意識して息をしっかり吸い込んだ。
「じゃあ、本当の理由は何だったんですか? 私が何かしてしまっていたなら、教えてほしいです」
「それは──、」
ふつりと声が途切れる。
薄く開いたままだった唇が、緩やかに閉じて引き結ばれてしまった。
ドレイクさんは顔にかかる髪をかき上げるようにこめかみに触れた。そのまま指先に栗毛を絡ませ、考え込むように眉間を寄せている。
「俺の……私情、だ。きみの行動に原因があるのではなく、行動と感情を切り離せなかった俺が悪い」
再び手を組み、これ以上の会話を拒むように目を閉じてしまったドレイクさんに向かって、「でも」と声をあげた。
ほとんど勢いに任せての口応えだ。手の震えがひどいし、おまもりの防犯ブザーもちゃんと握っているかどうか感覚がない。『自分が悪い』で終わりにしてくれようとしてるんだから、素直に受け入れておけば丸く収まっていいじゃんとはちょっと思う。
それでもここで食い下がらなければ、何もわからないまま謝られるだけ謝られて話が終わってしまうと思った。分からないままにしておくとまた同じ地雷を踏んでしまいそうで怖いし、ドレイクさんが頑なにすべての責任を負おうとするのも、何とも言えず不自然で落ち着かない。
ドレイクさんの瞼が、重たげに上がる。
まつげの影が落ちて、目の色が濃く陰ってみえた。
「その感情の原因は私じゃないんですか? 私の行動でドレイクさんを不快にさせたりしていたんだったら、私も悪いですよね」
「仮にそうであったとしても、態度や行動に出すべきではなかった。俺は……俺だけは、感情で動くべきではないのだから」
いやだからそうじゃなくてさあ。
いま反射で返事をすると、荒れた語気で余計なことを言ってしまう気がして、軽く俯き下唇を噛んだ。防犯ブザーの表面に親指の爪を立てて気を紛らわせる。溝に爪が引っ掛かり、指先に少し振動を感じた。
静かに息を吐きだす音が聞こえて、顔をあげた。不満が表情に出ていないか気になり、口角が下がらないように意識する。ドレイクさんは眉を少しだけ下げて、困ったような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「納得できないか」
「……はい。どうしてドレイクさんだけが悪いことになるのかわかりません」
ドレイクさんが机に肘を乗せ、左眉のあたりに指を添えた。
短い沈黙ののち、おもむろにガラス瓶に手が伸びるのを目で追った。瓶の中の飴同士がぶつかって、硬い音を立てる。
「これはたとえ話であって、他意はないことを理解したうえで聞いてほしいのだが」
「はい」
飴が一粒、瓶の中から拾い上げられる。蕎麦の花の蜂蜜に似た、濃い茶色が灯りに透けた。
左手の親指と人差し指の間で転がしながら、「たとえば」ドレイクさんが息を吸った。
「きみの生命と生活を保障する立場である俺が、保護されている立場のきみに対して、私欲から何らかの要求を行ったとする」
飴をつまむ人差し指の爪が、じわりと白くなるのが見えた。
「そうなったらきみは、自分の意志に関係なく受け入れるしかないだろう?」
ドレイクさんが飴に加える圧力を強くしたようだった。とうとう耐えきれなくなった飴に、大きく亀裂が入る。ほんの微かな音のはずなのに、やけに響いて聞こえた。
「……それは……」
確かにその通りではある。
たまたまドレイクさんに好意を抱けたから、仮に何か要求されたとしたらある程度までは喜んで従うような気はする。でも好きだからといってなんでも肯定できるわけじゃないし、生理的に受け入れられないこともまあ、ないとは言い切れない。
それでも見捨てられれば遠からず死ぬのは変えようがないから、私に死ぬ気がない以上は、そんな要求をされた時点で選択肢はない。
ドレイクさんがそんなこと言うはずないが、「面倒を見てやっているんだからこいつ殺してこい」とかみたいな、絶対やりたくない命令をされても、自分の命を盾に取られたら受け入れてしまうかもしれない。実行できるかは別として。
自分の手のひらの上の防犯ブザーに目を走らせると、きちんとたまご型を保ったまま鎮座していて、浅く息を吐いた。
右手で砕けた飴玉を受け止めながら、ドレイクさんは目を眇めた。
「強い立場にいるものが感情に任せた行動をするのは、弱い立場にいるものからすれば脅されているのと同じだ。そしてそれは、対等ではない立場にいるもの同士に限った話ではなく、圧倒的な力の差がある場合も変わらない」
飴玉のかけらがソーサーの上でパラパラと跳ねた。
ドレイクさんが自分の左手首を右手で押さえ込むように掴む。
噛んで含めるような、穏やかな声の調子で言った。
「俺は人より、きみよりずっと力があって強いから、感情に任せた行動をしてはいけないんだ」
わかってくれるね? と言いたげに、いつも通りの優しげな微笑みが口元に浮かんでいる。本心を覆い隠すための微笑みだ。
頷いて、引くべきなんだろうと思う。踏み込み過ぎた気がするとも感じている。
そうわかっていても素直に受け入れるのが嫌で、靴の中で親指に力を入れた。
ドレイクさんが『自分が悪い』の一点張りだった理由はわかったが、納得はできないままだ。自分でも不思議なほど胸がもやついていた。
対等にコミュニケーションを取る気がないんだな、と唐突に理解した。
とても気をつかって配慮して、間違っても誰かを傷つけてしまわないようにふるまっているのはわかる。
その安全装置の仕組みが、『自分を殺して距離を取る』ことで成り立っているのが嫌なんだ。
ドレイクさんが自分を犠牲にしてることも気に入らなければ、やんわり線を引かれて距離を取られていたのも腹が立つと。そしてたまたまそれに気付くきっかけがあって突っ込んでも、流されて丸め込まれて元通りにされそうなのが不服なのか私。ああ。なるほどね。そういうこと。
──いやなにそれ私ドレイクさんのことめっちゃ好きじゃん。
呻きそうになって唇を噛んだ。顔を両手で覆って背中を丸める。たぶん真っ赤になっているのだろう、耳が火照る感覚があった。膝から防犯ブザーが滑り落ちるのがわかっても、拾う余裕なんてない。
いやマジ? マジか。線引かれて拒否されて悲しくなっちゃうとか、それはもう恋じゃん手遅れなレベルの。ガチ惚れじゃん。
困惑まじりに名前を呼ばれる。顔を抑えたまま反応できずにいると、椅子を蹴倒すような音が聞こえた。
これはもうダメでしょ言い逃れできないんだわ。やばいちょっと涙でてきた。心臓うるさいし。息しづらくて苦しいし。しんどい。
絨毯が殺しきれなかった足音が、速足に近づいてくる。私が座っている椅子の手前でしゃがんだようで、ドレイクさんの呼吸が頭の少し上の高さから聞こえた。「ミオ、どうした、気分が悪くなったのか」と気遣う声が思ったよりも近くで聞こえた。右肩に軽く手が触れ、そのまま背中をさすり始める。
たぶんいま、顔のぞき込まれてる。
触れるくらいの近さにドレイクさんの気配を感じただけで、心臓が痛いくらいにドキドキする。ドレイクさんを困らせているだろうこの状況に申し訳なさを感じると同時に、心配して気遣ってくれていることに対する嬉しさもこみ上げてしまうから、本当にこれはもう、言い逃れできない。
──ああ、うん、よし。もういいか砕けてこよう!
ゆっくり顔をあげる。左手で口元を押さえたままドレイクさんのいるほうへ目を向けた。背中からドレイクさんの左手が離れる。それを追いかけて手首をつかむと、一瞬わずかに筋肉が強張るのを感じた。
そういえば、私からドレイクさんに触るのは、初めてだったかも。
「……ミオ? なにを……」
「今からあなたに告白したいんですが、聞いてくれますか」
息を呑む音を間近に聞いた。距離を取るようにドレイクさんの重心が後ろへ移動するのを感じて、手首を握る手に力を籠める。左手でさりげなく目元をぬぐってから、濃く色を変えた目を覗き込んだ。
「私、ドレイクさんが好きです。ドレイクさんにそんなつもりがなくても、ちょっと距離が近かったり接触があるだけで意識しちゃってドキドキします」
ドレイクさんの瞳孔が拡がる。喉仏が上下に動くのがはっきり見えた。
なにか言われる前に、遮られる前にと急いで言葉を繋ぐ。
一度でも勢いを断たれてしまったら、もう何も言えなくなるだろうなとわかっていた。もう自分が何を言ってるのかわからなくなりそうなくらいドキドキしてるし、緊張で舌がもつれそうだった。
「それでも健康な体は惜しいし、家族にだって会いたいですから、元の世界に戻りたいとも思います」
手が震える。手首をつかんだままだから、きっとドレイクさんにも伝わってしまっているだろう。恥ずかしくて涙が出そうだ。
「あけすけに言うと、未練になりそうなのでドレイクさんのこと必要以上に好きになりたくないな、と思ってたくらいには帰りたいです」
ドレイクさんの表情がわずかに、だがはっきりと険しさを帯びる。
そりゃあそうだろう。あまりにも身勝手なことを言っている。『元の世界を捨ててもいいくらいあなたが好き』とでも言えれば、もっと説得力があったのだろうけど。
「わがままですよね。すみません。自分でも勝手なこと言ってるなと思います」
声が情けなく揺れてしまう。この距離じゃ、目が潤みきっているのも隠せない。感情が昂っただけで緩む涙腺が憎い。同情を引きたいわけでも、泣き落としがしたいわけでもないのに。
「ドレイクさんの善意で生活と命の保証をしてもらってる立場ですし、なにをしたって自力じゃ生きていけない体ですし、特になんの役にも立ちませんし」
右手を緩める。私が体勢を少し変えたせいで距離が空いて、手を掴む位置が指先の方へずれた。ドレイクさんの手首を握るというより、もうほとんど手の甲に手を添えているだけだ。
拒否されるならいっそ、今すぐ振り払ってほしいような気にさえなってきた。
「元の世界への諦めもつかないので、好きだのなんだのと個人的な感情でぐだぐだ言わないようにしようと思っていたんですが……やめました」
「すみません」と、言った自分でも何に対して謝っているのかわからない、無責任な謝罪を口に出す。とうとう目を見ていられなくなって、未だに振り払われずにいる手に視線を落とした。
「口に出すべきではありませんでした。これは、自分ひとりで処理しておくべき感情でした。でも、すみません。殺しきれずに、欲が出てしまいました」
欲。
言葉にすると、好きだの恋だのという綺麗な表現より、今の自分の抱える気持ちを表すには正しいように思った。
「本心を隠されると寂しいです。怒りでもいいから、作った表情じゃない顔を見せてほしいと思います。ドレイクさんの、本音が知りたい」
息が乱れてきたのを、言葉を切って整える。ただ喋り続けるだけのこともできないのが歯がゆい。努力すれば対等になれる、隣に立てる可能性がある体ならよかったのに、と思ってしまう。
「迷惑だったら、すみません、切り捨ててください。もう自分じゃどうにもできないんですけど……ドレイクさんに拒絶してもらったら、整理つけますから」
本当に自分勝手で、自己満足でしかない言いぐさだなぁ。
握り続けるには後ろめたくて、それでも自分から離すには惜しくて、ドレイクさんの人さし指と中指に触れていた。
喋り通しだったせいで弾んでいた呼吸が、次第に落ち着いてくる。
しばらく黙ったままだったドレイクさんが、短く息を吐いた。
「本当に、勝手なことを言うな」
するりと手の中から指を抜き取られる。
「俺の気持ちが知りたいと言いながら、俺の気持ちを決めつけているように聞こえたが──考え違いか?」
下から掬い上げるように、引こうとした右手を掴まれた。親指で手の甲を軽く押さえられ、薬指は手首にかかっている。
振り払えないほどの力ではなかった。たぶん、あえてその程度の力加減にされている。
ドレイクさんの意図が読めなくなって、顔をあげた。
目が合う。
落ちそうなほど深い空のような色をした目が、こちらを覗き込んでいる。
ドレイクさんはずっと絨毯に片膝をついた姿勢のままだから、僅かな高低差ではあっても、見下ろしているのは私の方なのに。
酸素の薄さのせいではない目眩がした。
「ミオ」
低く掠れた声が私を呼ぶ。背中がぞくりと震えた。
掴まれていない左手を胸に当てる。呼吸する度に上下する胸郭の下で、心臓が激しく鳴っていた。
「抱きしめるが、いいか。嫌なら殴るなり蹴るなり、なにをしてもいいから全力で抵抗してくれ。どうせ俺には大したダメージにならん」
抵抗する気なんて少しもなかった。
腕を引かれて、座面から腰が浮く。床に両膝をついても、絨毯があるおかげで痛くはない。懐へ引き込むように抱き寄せられ、冷たい鎧で覆われた胸に自分から体重を預けた。
耳元に呼吸が聞こえる。
首の後ろに手のひらの硬さと温かさがある。
栗色の長い髪が垂れてきて、ちくちくと肌を刺した。
腰には腕が回されて、添えるような力加減で当てられた手の存在を背中に感じて、そんな気もないくせになぜか、逃げ場を奪われたと思った。
頬に押し付けられた胸当てのひやりとする冷たさが、だんだん体温を奪ってぬるんでいく。錆びたような、鉄臭い匂いがする。
「俺も、きみが好きだ」
ゆっくりとした動きで、ドレイクさんが僅かに身を引く。密着していた胸元が離れて、風が抜けていった。
首筋に添えられていた右手が、髪を撫でて、緩慢な動きで顎の線にかかり、頬を包む。そっと持ち上げるような力加減で、顔を上向けられた。
「帰りたがっているのも知っていたから……言うつもりはなかったんだが」
ドレイクさんは「一度タガが外れると、どうも駄目だな」と眉を切なげにしならせて、吐息をこぼした。
少しばかり動く余裕が与えられたものの、ゆるい腕の囲いはまだ解かれないままだ。
必要に迫られてでも、気遣いによる行為でもない。『ドレイクさんがそうしたいから』という理由で抱き込まれている。
……これ、抱きしめ返しちゃダメかな。自分から触るのはよくても、触られるのは嫌なタイプだったらどうしよう。
受け入れてもらえなくてもいいやと思ってはいたけど、ここから改めて拒否られたらへこみそう。
嫌そうな反応されたらやめるから、と言い訳をして、右手をそっとドレイクさんの腰のあたりに添えてみる。
頭の上で喉が鳴った。背中に添えられた手に力が入り、体が密着する。
左肩にドレイクさんの頭が乗る。重さを支えきれなくて、少し体勢が崩れた。ドレイクさんは慣れた仕草で私を自分の左ももに座らせる。
絨毯が敷いてあるとはいえ、床の上に直接座らせないように気遣われたのだろうと思うが、妙に照れくさかった。安心感はすごくあるんだけどなんか恥ずかしい。むずむずする。この程度の接触はそれこそ慣れているというか、慣らされたはずなのに。
「俺は、執着心が強い性質でな」
落とされた声音が存外に硬くて、ドレイクさんの横顔を見上げる。髪と同じ色をしたまつげが灯りに透けて、小刻みに震えた。
「視野が狭くなりがち、というか……他のことが見えなくなってしまう」
今ではないいつかを見るような、遠い眼差しをしていた。
「……そのせいで以前、大切な人たちを死なせてしまった」
息を呑んだ。
ドレイクさんが私を見下ろす。私の腰を支えていた手が後頭部に回って、ドレイクさんの肩口へ頭を寄せさせた。
「だから……もう判断を間違えないように、自分を抑えることはやめられないし、そのつもりもない」
ドレイクさんに傷を見せてもらったんだと理解してしまったら、この発言は私に対して限りなく譲歩してくれたものだと、そう思わずにはいられなかった。
勢いで特攻かけたことを、少なからず後悔した。確実に、彼の傷を抉ってしまったはずだから。
あからさまに後悔を顔に出してしまっていたのだろうか、背中をあやすように軽く叩かれた。ドレイクさんがよく見ているのか、私が顔や態度に出過ぎなのか。
……どっちもかなきっと。
「それでも」、とドレイクさんは言葉を続ける。
「嘘をついているつもりはないけど、本当のことを言わないことも多い、ってわかってたら。……気付く自信、あるか?」
体を起こそうとすれば、妨げることなく好きにさせてくれた。
どこか気恥ずかしそうにはにかんだドレイクさんの顔を見つめて、声を絞り出す。
「……踏み込ませて、くれるんですか?」
「ここまで話させておいて聞くのか? いまさらだな」
ドレイクさんが歯を見せて笑った。眉間にしわを寄せて、本当におかしそうに声をあげている。
──素で笑うとき、こんな笑い方するんだ。
クラスの男の子とかみたいな、同年代の子がしそうな笑い方だった。
ドレイクさんの頬に両手を添える。くすぐったいのが、首を少し縮めていた。
「いつか、いきなりいなくなるかもしれなくても?」
「……いついなくなるかがわからないのなんて、ミオだけに限ったことじゃないさ」
いなくなる理由が死じゃなければもうそれでいい、と頷かれる。何を言うのも間違いにしかならない気がして、口をつぐむしかなかった。
「俺を見ていてくれ」
「はい。私も……その、今まで以上に体には気をつけるようにしますね」
ドレイクさんは、虚をつかれたように目を丸くしてから破顔した。
この先なにがあるのか、どうなるのかなんて、誰も予想はできないだろう。
来たときと同じようになんの前触れもなくあっさり帰れるかもしれないし、一方通行で帰れないかもしれない。
なんだかんだと案外しぶとく生き残るかもしれないし、ちょっとしたことが原因で死んでしまうかもしれない。
どんなことがあるとしても、ドレイクさんが傷つくことがなければいいなと、心から思った。
ドレイクさんが指力だけで粉砕した飴は、後ほど本人が残さず食べました。