前編
痛みさえ感じなければ、今でもきっと夢だと思っていた。
周囲に広がる光景は、私にとってあまりにも非現実的だった。
金属めいた光沢を持つ木。鳥でもないのに宙を飛び去って行く、毛の生えた獣。ネズミのような素早さで逃げて行く生き物は、手のひらサイズにまで押し縮めたヒトのような形をしていたように思う。
野外で寝た覚えもないのに気が付けば森の中で転がっていた、というのも十分すぎるほど異常事態ではあったのだが、それに対して動揺することはなかった。
見たことのない草花や、本の挿絵から飛び出してきたような、という形容が似合う生き物たちを見ても正気で、いやパニックを起こさずにいられたのは、目を覚ました瞬間から身体的な苦痛に襲われていたからだ。それも、周囲の非現実さがどうでもよくなる程の。
目が覚めて真っ先に感じたのは、頭を外側から締め付けられるような重い痛みだった。心臓が妙に速く脈打って、息苦しさも感じた。
全身がひどく重く、怠かった。
肘をついて上半身を起こしただけで吐き気がして、その場でえずいてしまう。ゆっくり時間をかけて立ち上がっても、地面が揺れているのかと思うような目眩のせいで、木の幹に寄り掛からなければ立っていることも出来なかった。
立ち上がった時点で、自分のまわりで起きている異常なんてどうでもよくなっていた。そんなことよりも、あまりにも苦しくて、早く解放されて楽になりたいと思う気持ちの方が強かった。
この場所が悪い、と感じたのは、本能かなにかだったのかもしれない。
ここから降りたい、という気持ちだけに突き動かされて、木を伝いながらさまよい歩いた。少し移動しただけで息が上がり、胸を締め付けられるような圧迫感があった。咳き込むたびにぐらぐら視界が揺れていた。せめて吐ければ少しは楽になるような気がしたのに、どれほどえずいても胃酸が食道を焼くばかりで、むかつきは悪化する一方だった。
数歩歩いては座り込み、立ち上がっては目眩と息苦しさに喘いでいたせいで、森を抜けるころには心身ともにボロボロだった。息は上がってしまって聞き苦しい音が喉から漏れるし、目眩と頭痛が悪化する一方で、立っているのもやっとの有様だった。
しかしそこで、現実から目を逸らすのに一役買っていた体調不良も、さすがに一瞬意識の端に追いやられるような光景を見ることになった。
あたかも海に浮かぶように、島が雲海の上に浮かんでいたのだ。
単体で見れば、それはとても美しい風景だった。
ほとんど藍色と言えるほど濃い青の空に、白い雲がくっきりと映え、そこに巨大なテラリウムのようにも見える島がいくつも浮かんでいる。島の下部は雲に隠れて見えないが、そこに巣があるのか、鳥が雲海を出入りしながら飛んでいた。
あまりに幻想的な景色が、夢だと言い張るには生々しすぎる身体の不調によって、現実のものとして突き付けられたのだった。
目の前の光景に対するショックか、歩こうとする緊張が切れたことによる脱力か。
私は気が付けば島の縁ぎりぎりに座り込んでいた。眼下に雲を眺めながら、から笑いをするしかなかった。飛行機に乗っている最中でなければ見ることができないはずの光景を、生身で目前にしていることに対する理解が追いつかなかった。加えて、一瞬忘れていた反動か、頭痛や吐き気、息苦しさが倍になって帰ってきたような気さえした。
振り返ってみれば、このときの私は正気ではなかった。
──標高が高い山に登ると、空気の薄さで体調が悪くなることがあると聞いたような覚えがある。今の私は雲より高いところにいるんだから、体調不良の原因はきっとそれだろう。なら、下に降りれば気持ち悪くなくなるはずだ!
そんな曖昧な根拠と思考をもって、苦痛から逃れたい一心で、雲海へ飛び降りたのである。
落ちている間は、半分意識を手離していたのだろうと思う。
下降するエレベーターに乗っているときの胃の持ちあがるような感覚を、もっと強烈にした浮遊感。痛みとして受け取るほど冷たい風が、耳元で立てる轟音。
そんなものを、気を失いかけながら感じていたような気がする。
何秒ほど落ちていたのだろうか。
正確にはわからないが、時間にすればせいぜい数十秒程度のことだろう。
急に風の音が弱まり、それを意識するより先に体を掬い上げるようにして受け止められた。同時に遠のいていた意識が引き戻され、呻きともえずきともつかない声が漏れてしまう。落下し続けていたにしては軽いが、疲労の蓄積された体には十分すぎるほどのダメージを与える衝撃によって咳き込むと、鉄臭い味が口に広がった。
いきがくるしい。あたまがいたい。たすけて。
ほとんどうわごとのように、自分を受け止めてくれた相手に向かって、そんなことを言ったような気がする。
霞んでろくに見えなくなった視界で、ぼんやりこちらを覗き込んでいるように見えた人影に手を伸ばそうとした時点で、記憶は一度切れている。
ベッドの上で目が覚めたときには、息苦しさを感じなくなっていた。
天井付近を円を描くように飛びながら青く明滅する何か──のちにバイタル測定装置的な役割の物だと教えてもらった──をぼんやり眺めた。寝すぎたときのように頭に重さが残っていてろくに思考が働かず、自分の置かれた状況の把握ができないままだったのだ。
そうしていると、聴診器を装着しつつ入室してきた船医を皮切りにして、にわかに人気が増えた。
船医や看護師たちの様子を何の気もなく見ていると、病院で受ける診察と同じようなことや、なにを知るためにしているのかわからないようなことをしていた。後者の内容が曖昧なのは、このときはじめて魔法──もとい医療魔術を意識がはっきりした状態で施され、情報の処理に時間がかかったからだ。
その後、船医から簡潔な自己紹介を受け、自分の体に起きていることについて説明された。
一言で言ってしまえば、私の身体の構造はこの世界で生きるには適さないらしい。
血の濃さがどうだの、呼吸効率がこうだの、血流がなんだの──と、おそらく大変気をつかって噛み砕かれた説明をまとめると、どうもそういうことなのだと言う。
要は、環境に適応した進化ができていないという話だ。
哺乳類や鳥類、最低でも爬虫類程度のスペックがなければ生きられない場所に、両生類の幼体が放り込まれたようなものというべきか。もっと単純かつ極端にすれば、魚を「ほら飛べ」と空中に放り出したような、というのが分かりやすい例えだろう。
船医の話を聞いている間、後ろ足の生えたオタマジャクシが瀕死になりながら水辺を求めてぴるぴると震えるイメージ映像が頭から離れなかった。
ざっくりとしたイメージだが、そう間違ってもいないんだろうなと思うとなんともいえないやるせなさがある。そりゃあ体調不良にもなるし、放っておかれたら死んでただろうなぁ、と思った。
話がひと段落ついたころ、ふと口を閉じた船医が出入口の方へ顔を向けながら立ち上がった。なんだろう、と思った瞬間、勢いよく扉があいた。
「目が覚めたと聞いた。面会はできるだろうか」
黒くて大きい、というのが第一印象だった。
全体的に見れば黒づくめの服装をしているというわけでもないのだが、栗色の長い髪や体格の良さよりも、手足や胸元を覆う黒い鎧にまず目が行く。いかにもファンタジックな服装は、魔法に比べれば衝撃はいくらか軽いが、それでも目の前にするとおもわず無遠慮な視線を向けてしまうようなインパクトがあった。
ぼうっとしているうちに部屋に入ってきた彼は、ベッドから少し離れた、お互いに手を伸ばしても触れらない程度の位置で膝をついた。その動作で鎧がこすれる金属質な音がして、あ、本物なんだ、と場違いな感想を抱いた。
視線を合わせるためか、少し首を傾げてこちらをのぞき込む瞳は、私の知る空の色をしていた。
「もう苦しくはないか? どこか、痛むところは?」
「──え、っと、い、まはどこも……痛くない、です。ありがとうございます」
「そうか……よかった」
「気にかかっていたんだ、ずっと」と言って、柔らかく空色の目が細まる。その顔が本当に嬉しそうだったから、つられて笑ってしまった。
落ち着きのある口調とは裏腹に、笑った顔の印象は驚くほどあどけなかった。
ドレイク、と名乗った彼に名前を聞かれ、はっとして姿勢を正した。
「美魚です。あの、助けてくださって、ありがとうございました」
「ミオか。ああ、助けられてよかった」
ちらりと歯を見せて笑ったドレイクさんは、ゆっくりとした動きで立ち上がった。ちょうど戻ってきた看護師(別の部屋から椅子を運んできたようだった)に椅子を勧められ、すまなそうに眉を下げて首を振った。この部屋の備え付けの椅子に座って書き物をしていた船医は、数秒だけ顔をあげて首をすくめると、またすぐにペンを動かし始める。「邪魔をした上に気をつかわせてしまって申し訳ないが、今はあまり長居すべきではないだろうから」とドレイクさんは椅子だけ受け取り、そのまま視線がこちらに向いた。
「目が覚めたと聞いて、気持ちが先走ってしまった。ミオ、きみにはまだ休養が必要だというのに、すまなかった」
「いえ、私はそんな」
気をつかわれ過ぎて恐縮してしまう。返せるものが何もないから、余計に据わりが悪かった。
無一文で治療費すら払える目途が立たないのに、さらに悪いことに元の世界に戻らない限り健康体にはなれない。
働いて返す、と言おうにも、今の体の様子──正確には森の中をさまよっていたときの不調を踏まえると、アルバイト程度の作業さえできると自信を持って断言できない。試していないので意外と働ける可能性もあるが、あっさり倒れる可能性もまたある。嫌なシュレディンガーだ。
あ、なんか胃が痛くなってきた気がする。
ブランケットを体に引き寄せるようなそぶりでごまかしつつ、お腹の上に手を添えた。帰り方を見つけるより先に、なんらかの原因で死にそうな予感がした。
なにせ、今の私は変態途中のオタマジャクシなので。
「──怖がらなくていい」
短く息が漏れた。
いつの間にか下へ落ちていた視線をあげると、ドレイクさんは表情を消して私を見据えていた。言葉を選ぶように目を伏せると、ほどなくしてゆっくり口を開いた。
「この船に乗っている間は、何も気にする必要はない。行くあてのない者を俺は拒まない。飢える心配も、凍える不安もいらない。傷つけられることもないし、傷つけさせもしない。俺が請け合おう」
彼は、静かな声で言い切った。
不安が顔に出ていたのだろうか。思わず口元を手で隠した。初対面の相手に悟られるほど、あからさまに動揺していた自覚はなかった。
目を見開いてドレイクさんを凝視していると、彼はふっと表情を和らげてゆっくりまばたきをした。
「だから、そうだな。安心して回復に努めてくれ」
***
ここは潜空巡天艦パンスペルミア。
そしてドレイクさんはその艦長。
だからこの艦の中で、彼の言葉は絶対なのだという。
教えてくれたのは船医だ。検診だ問診だリハビリだなんだかんだと一緒に過ごす時間が一番長く、雑談まじりにぽつぽつと艦内のことやこの世界のことを教えてくれる。
ただし聞いたところで理解できるとは限らない。せんくうじゅんてんかん、という単語も未だによくわからないまま雰囲気で話を聞いている。
巡天はまあわからなくもないけど潜空ってなに。空に潜るってホントになんなの?
元の世界でいう海が、この世界でいう雲海ないし空の位置づけなんだろうな、程度の理解で考えるのを止めた。気にするだけ無駄なものも生きていれば色々ある。
よく知らないがこの世界の船は飛ぶもの。たぶん魔法の技術で飛んでいる。まほうのちからってすごい。
そんな事よりどうにかしたいのは自分の体のほうだ。
これがまた笑い話にもできないレベルでどうしようもなかった。
軽く動くだけで息が弾むのは序の口。おしゃべりしながら歩くなんて無理。普段通りの感覚で動こうとしたら待っているのは呼吸困難。失ってはじめて気づく、運動に耐えうる体のありがたさ。
心肺機能の脆弱さに加えて、肌もダメだった。水ぶくれになるくらい日焼けした。日焼けのせいで熱まで出た。肌の露出があった部位どころか、服まで貫通して全身まっかっかだった。
体感気温はやや肌寒いくらいの冷涼さだったせいで、完全に油断していた。予想外の方向からダメージを食らってちょっと泣いた。日焼けを舐めてた。太陽光は強い。
このときはドレイクさんが肌の変化に気付き、しかしまさか日焼けとは思わず「熱があるのか?」とおでこに直接触って確かめようとしたため、こちらは悲鳴のち半泣きで悶絶、あちらは予想外の反応に狼狽という悲劇が起きてしまった。誰も悪くない悲しい事故だった。強いて言えば環境に適応できていない私の体が悪い。
そのほかにも肉体的不適応エピソードには事欠かず、それはつまりそのエピソードの数だけ「ウワこいつ弱ぁ……」と思われるような醜態をさらしているわけで。
結果として、ドレイクさんに“目を離したら次の瞬間に死ぬ生き物”として認識されたようだった。
開口一番に発される「ミオ、大丈夫か? こちらへおいで、あまり無理をしてはいけない」というセリフも、いちおう数パターンのバリエーションがありつつこちらの体調を案ずるものである点はぶれない。
また苦しんでいるのではないだろうか、というような心配がありありと伝わってくる目でこちらを見てくる。
しかしそう見当違いの心配ではないところがもの悲しい。
私の体がオタマジャクシなせいで。いまならロケットに乗せられたメダカに共感と同情ができそうだった。妙な環境下に連れ込まれて本当にかわいそう。元いたところに帰してあげてほしい。
ドレイクさんの前で身体的な脆さが露呈するたび、彼からの扱いがじわじわと過保護になっていくのは気のせいではない。
甲板で発見されれば何かと理由をつけて艦内へ誘導、もしくは搬入される。艦内で遭遇してもさりげなく手首を掴みつつ、いつ倒れても抱き上げられるポジションを取られる。
手首をつかむのはたぶんアレ、動きを制限するのと同時に体温と脈を取られているのだろうと思う。この世界での体基準でやや激しめな運動をしたときに、「おや……?」みたいな顔をされたからたぶん間違ってない。ちなみにその時はしめやかに有無を言わさず抱き上げられて、流れるように治療室に直送された。
影に日向に目を配られ気遣われている。
艦長という地位にあるとは思えないほど頻繁に様子を見に来てくれる。最低でも一日一回は必ず顔を合わせる。
いろんな意味で大丈夫なんだろうかと、遠回しにわざわざ無理してまで私に構わなくても大丈夫なので、という趣旨のことを言った。言ったら「俺が会いたくて来ている」とか返されてしまうのだから本当に困る。
何が困るって、ドレイクさんを意識しちゃってドキドキするのだ。
その、恋愛的な意味で。
考えてもみてほしい。
色々あって不安なときに手を差し伸べてくれて、わざわざ時間を作って足を運んでまで甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、そのうえ顔がいいのである。
これで好意を抱かずにいられるか。私は無理だった。
ドレイクさんはたぶんというかほぼ確実に誰にでも優しいとわかっちゃいても、ドキドキするもんはする。ただでさえ速くなりがちな脈拍がすぐ上振れする。本当に勘弁してほしい。
身体的な接触も多いものだから、否応なしにドキドキする。日本人にはスキンシップの習慣は薄い。ひいては耐性も低い。接触にドキドキしてるのか、それとは関係なくドキドキしてるのかわからなくなってくる。
単に顔がいいだけなら、「綺麗な顔のお兄さんを見たらドキッとくらいするよね」ですませられた。
ただ一度助けて手を差し伸べてくれただけなら、「優しい人だなあ」ですませられた。
気が付いたときにふらりと様子を見に来てくれるだけなら、「艦長だから責任もあるんだろうなあ」ですませられた。
全部あわさってしまったら無理だ。
健康な体を諦めてもいいくらい好きか? 傍にいられるなら帰れなくてもいいと思うか? そうじゃないよな? よしほら恋じゃない浮つくな落ち着け──と自問自答し自己暗示をかけなければ、うっかり本気で好きになりそうだった。
というか正直そう言い聞かせてもぐらっと来ることが多々ある。だってかっこいい人が優しくしてくれたら誰だってぐらつく。私だって普通にぐらぐらする。
ほら、吊り橋効果ってあるじゃん? たぶんそれだよ勘違いだよもしくは依存だよ不安なときに優しくしてくれた相手に対する。
と、思っていたかった。思っていたかったが、ドレイクさんの声を遠くからでも無意識に拾うようになってしまっているのに気付いた時点で、恋愛感情そのものの否定は諦めた。
ちょっと好きなのは認めるが、これ以上好きになりたくはないので、ドレイクさんから距離を取るのがいいのでは、と思いついた。ドキドキすることが少なくなれば、気持ちもそのうち落ち着くだろうと思ったのだ。
だというのに相手の方からやってくる。思いっきり物理的な距離を詰めてくる。これっぽちの他意も下心もなく。
初対面でのパーソナルスペースの保ち方なんて記憶の彼方。
ただしそれに関しては、虚弱シーンをドレイクさんの前で何度も披露してしまっているのも一因であり、実際に艦体が揺れて甲板に顔から転びかけたときに間一髪で助けられたりなどもしているので致し方ない面もある。
それはそれとして、よろけたところを腕一本で支えられたり軽々抱き上げられたりしてしまえば軽率にときめいてしまうのである。
もう存在を否定できない程度には好意があるため、本当にダメだった。なんとも思っていない人にされたら「すごい力持ちだなあ」とは思ってもドキッとまではしないだろうが、ちょっとでも恋愛的に意識してる相手だと平常心が保てない。身長差があるせいで直立していると声が聞こえにくいらしく、かがんで顔を近づけられるだけでもうドキドキする。
ドレイクさんにその気がないことはわかっている。あれは本当に純粋な厚意と気遣いと優しさ由来の行動だ。
聖人なのでは? とても徳が高い。
そういう目で見ていない相手からの一方的な好意の迷惑さもわかっているし、ドレイクさんに放り出されたら行くあてどころか命に直結するという打算的な考えもあって、恋愛沙汰でごちゃごちゃ言いたくない気持ちもある。
ドレイクさんのことを恋愛的な意味で好きになりそうなのは認めるが、命を懸けられるほどではない。というか命も惜しくないほど好きになりたくないのだ。そこまで行ったらいよいよ取り返しがつかない。
まだギリギリ、あとでいい感じの思い出にできる程度の、“憧れまじりの淡い恋心”と言い張れるレベルで踏みとどまっていたいのである。
***
人がいる以上、社会ができて、文化が生まれる。
それは、異世界であろうと同じらしい。
レンガ造りの建物が立ち並ぶ光景は、どこかヨーロッパの古い街並みを思い起こさせ、しかしそれそのものと言い切るのは躊躇われる違和感がある。
桟橋の手すりを握ってみる。見た目には木製に見えるが、手に伝わる質感や冷たさは金属のものだった。
「ミオ、忘れ物はないか」
ドレイクさんの声に振り返る。黒く見えるほど濃い藍色の、この世界の空に似た色が視界を覆った。顔をあげるとドレイクさんと目が合う。
艦内で過ごすときとは違い、膝下を越えるほどの丈のマントを羽織っている。物々しい防具を隠す意味もあるのだろうか。藍色の下に隠されて、黒の印象は薄れてみえた。
「大丈夫です。帽子も、リストも持ちました」
「そうか。では、行こう」
当然のように左手を差し出され、少しためらってしまった。
ドレイクさんから触られるのは、もはや介助の一環だと言い聞かせられる。だが、自分からドレイクさんに触るとなればそうはいかない。手が震えてしまわないか、なんでもないような顔ができるか、自信がなかった。
音を殺して息を吐き、手のひらに指先を乗せた。すると手首に薬指がかかり、親指と人差し指、中指が緩く手の甲に回される。小指の付け根に、紐がこすれる感触があった。彼の中指の根元で結ばれた、手甲を留める紐だろう。ドレイクさんの手の形に合わせて指を曲げれば、彼の手の甲を覆うぬるい鉄に指先が触れた。
ドレイクさんがゆっくりとした足取りで歩きだすのに引かれるようにして、私も足を踏み出した。
ドレイクさんは、私よりも少し体温が高い。肌も硬くて、ほんのわずかにざらついている。爪が大きくて、かなり短めに整えてあるのにもかかわらず、やや伸びぎみの私の爪と同じくらいだ。そもそも、指も一回りくらい太い気がする。
「……ミオ? 聞いているか?」
ひらり。目の前で黒が振られる。
はっとして顔をあげると、かすかに眉尻を下げたドレイクさんが、右手を宙に浮かせたまま首を傾げていた。
話しかけられていたのに、無視をしてしまったらしい。
思わず繋いだ手に力が入った。舌がもつれないように意識して口を開く。
「すみません、ぼんやりしてました。えっと、何でしょう」
「──、いや。そうか、構わない。買い物は、小物と服と、どちらから先に見たいか聞きたかった」
「じゃあ……服から見たいです」
わかったと頷いて、前を向くドレイクさんの横顔には、普段通りの薄い微笑みが浮かんでいる。
変にこじらせる前に、なんとかしないとなぁ。
細く息を吐きだして、斜め前で揺れるマントの裾を目で追った。ドレイクさんに察されてしまう前に、けりをつけておかなければいけない。
一通りの買い物が終わる頃には、日が真上に昇っていた。
ドレイクさんの右腕には膨らんだ荷物が鈴なりに下がっている一方で、私の左手は空のままだ。重いでしょう、動きにくいのでは、と荷物に手を伸ばしながら訴えても、「気にしなくていい」の一言で退けられてしまう。
喉の奥が乾燥して、少し締まるような感じがした。気管を広げるように咳ばらいをすると、ドレイクさんが少し眉を下げてこちらを見る。
「どうした、大丈夫か、ミオ」
「ちょっと乾燥しただけです、ありがとうございます」
「……ああ、そういえばしばらく水分を摂っていないな……そこの店で飲み物を買ってこよう、ここで座って待っていてくれ」
ドレイクさんの示す先を見ると、見たことがない植物の実が並べられた露店があった。この世界の果物かなにかだろう、店主が手のひら大の実を絞ってジュースにしている。遠目からでも綺麗な赤色をしているのが見てとれた。
座ったのを見届けたドレイクさんは、帽子をかぶせ直すように私の頭に軽く触れ、「すぐに戻る」と口角を僅かに緩めた。わかりました、と答えつつ、待っている間だけでも荷物を持っていようと手を伸ばしたが、やんわり避けられてしまった。
雑踏を縫って露店へ向かう背中を目で追う。あれだけ大量の荷物を片腕に抱えていて、重そうにも邪魔そうにも見えないところがすごいと思った。あの体幹と筋力、体力があれば、そりゃあ気軽に人を抱えて持ち運べもする。
「ぅわ、」
下から巻き上がるような風が吹いて、反射的に目を覆う。頬にぱらぱらと砂粒が当たった。帽子が持ち上がる感覚に慌てて抑えようとしたが、頭から離れるほうが早かった。
立ち上がってあたりを見回すと、帽子は少し離れた店の脇に積まれた荷物の影に落ちていた。人の流れからは外れた場所に落ちたことにほっとする。取りに行く間に踏まれてしまうことはないだろう。
ちらちらとドレイクさんの方を気にしながら、小走りに帽子に駆け寄った。拾い上げ、軽く砂ぼこりを払う。深くかぶり直すと、広いつばによってできた影が胸元まで落ちた。
太陽がまぶしくて、やや伏せぎみだった目をあげる。
「──え」
息を呑んだ。心臓が跳ねた。考えるより先に、体が動いていた。
雑踏の向こう側。その後ろ姿。
人の間をすり抜けながら、目だけは離さないで走る。見失わないように。喉や肺の痛みも、見開いて乾く目も、耳元で聞こえる心音もどうでもよかった。
手を伸ばす。指先が袖に触れる。縋るように、離さないように握りこむ。
「おとうさん……ッ!」
振り返る。唇がうっすらと開いていた。袖を引いた相手を探す視線が、落ちてくる。
緑がかった薄い色の目が、ゆっくりと開閉するのを見た。
困り笑いを浮かべた顔は、父とは似ても似つかない。
「……ごめんね、お嬢さん。人違いかな」
指先から力が抜ける。行き場のなくなった右手を、左手で抱き寄せた。
「いえ……こちらこそ、すみませんでした」
「迷子かい? 親御さんとはぐれちゃった?」
父親を探していると思われたのだろう。眉を下げて、迷子の子どもに対するような話し方だった。
「あ、いえ、そういうわけでは……すみません、大丈夫です」
「……うーん……」
うっすらと苦笑が浮かぶ。迷子になった子どもが、意地を張っているように見えたのかもしれない。大丈夫そうには聞こえないな、と口に出してから自分でも思った。
「……そっか、大丈夫か。でも、もし道を教えてほしくなったら、通りを向こうの方に歩いていくと青い屋根の建物があるの、わかるかな?」
「はい」
「うん、そこに行くと、助けてくれるからね。行ってみるといいかもしれないよ」
「……はい。ありがとうございます」
そこで待っていたって親の迎えなんか来ないし、私が帰る方法を知っている人もいないだろうけど。
そんな皮肉っぽい考えが浮かんでしまい、返事が遅れた。自分の余裕のなさが浮き彫りにされた気分だ。自己嫌悪に表情が歪んでしまいそうだった。
男性は、頬に指を添えながらわずかに眉間を寄せた。ううん、と唸ったあと、躊躇いがちに口を開く。
「やっぱり、一緒に──」
腕を後ろに引かれて、たたらを踏んだ。緑の目がまるまり、次いで柔らかく細まった。二の腕を掴む手を辿って顔をあげると、濃く陰った空色と視線がかち合った。
「……ドレイクさん」
無言のまま、ドレイクさんは私から人違いをした男性へ視線を移す。右手首を親指と薬指で握りこまれた。残った二本が手のひらに這わされ、指の股を抑え込む。
「……お世話になったようで。ありがとうございます」
「いいえ、大したことはしていませんから。見つけてもらえてよかったね。じゃあ、もうはぐれないように、気を付けて」
前半はドレイクさんに、後半は私に向けられた言葉に頷き、お礼を言った。
男性はにこりと笑って踵を返す。後ろ姿は、やはり父によく似ていた。
「……ミオ」
静かに名前を呼ばれた。
ここで待っているように、と言われたのに動いてしまったことを思い出し、首を縮める。帽子が飛ばされたことがきっかけとはいえ、父に似た後ろ姿を追ってしまったのは完全に私の落ち度だった。
「ごめんなさい、ドレイクさん、私──」
「──いや、いい、ここでする話ではない」
目も合わないまま謝罪を遮られ、血の気が引いた。
──怒らせた?
息を殺してドレイクさんの様子をうかがった。髪が顔まわりにかかっていて、視線を遮られてしまう。ため息が降ってきて、肩がはねた。その振動が伝わったのだろうか。はっとした顔でドレイクさんがこちらを見下ろし、唇を笑みの形に曲げた。苦みの隠しきれていない、一目でそうとわかる作り笑いだった。
「すまない、怒っているわけではない。俺は……ああ、いや。一度、船に戻ろうと思うが、いいか」
「……は、い。すみません、でした」
「謝らなくていい。……後で……少し、話をしよう。今の俺は、冷静ではないから」
顔を見ていられなくて、靴の爪先を見つめた。右手を引かれ、やや速足に後ろをついて行く。
お互いに無言だった。
どうしよう。どうすればいい?
考えがまとまらないまま、ひたすら足を動かす。
自分が何に対して動揺しているのか──この世界での庇護を失うかもしれないことにか、ドレイクさんを怒らせたこと自体にか──わからなかった。