幼年時代 ――太助、ある男の生涯
いきものは、おとなになることなく、死ぬのが、あたりまえ。
私が生き続けているのは、異常なことなのだろう。
昭和28年春。ソメイヨシノの桜が満開になり、蓮に生まれたものの上に舞い散る花吹雪ように花が舞い落ち、葉桜になり始めた頃、直美は、実家に向かっていた。埼玉の蕨にある実家は、蝶よ、花よ、と育てられた楽しい思い出しかない家であった。いつも直美を大切に慈しむ父、母のもとで、子を産むために帰るのだった。二人目の子供だった。長男の克美は、板橋の産院で生んだ。しかし、今の直美には産院で子を産む経済的余裕はなかった。やむをえず、両親に甘えることにしたのだ。産婆(当時の「助産婦」の言い方)の費用から、食事などの子供を産むための諸費用を持って貰うのだ。
直美は、当時の通商産業省の国家公務員として事務の仕事をしていた。もちろん、公務員試験は受けていたが、当時は、それほど難しい試験でもなく、会社で働く女性も少なく、それに父は小さな蕨市であれ、地元では名士であり、そのような娘が国家公務員に採用されることは難しいことではなかったようである。
父は、蕨市で大きいとは言えないが工場を営んでいた。そして、戦争当時、軍から鉄ヘルメットの製造を請け負っていた。鉄の原料を自由に確保することできる時代ではなかった。鉄兜を造るための鉄を軍から供給をされていた。その鉄を使って鍋を造った容疑で父は警察に捕まった。幸い起訴されることなく釈放された。事実は、何とか別のところで確保した鉄で鍋を造っていたのだ。非常時に鍋を造るなど、「けしからん」というのがあったのかもしれない。しかし、父からすれば、飯を造るための必需品ではないか、という思いがあったのだろう。そして、日本が敗戦すると、父は日本共産党への強い親派になる。彼は、小資本家であり、小資本家に留まろうと思っていたわけでもない。できれば大資本家にもなりたかったが、なれなかっただけである。だから、社会主義や共産主義に共感を持っていたわけではない。
裕福で、蝶よ、花よ、と育てられ、地元では、「蕨小町」と噂さていた直美だったが故に、若い男たちは、高嶺の花と敬遠して、嫁にしようなどとは考えなかった。ところが、二人の男だけは、そんなことを気にもせず、なんとしても嫁にほしいと、臆面もなくいってきたのだ。その一人が後藤正之、夫になる男であった。もう一人は、朝鮮半島出身の男だった。後藤は、すでに30歳を過ぎており、当時としては結婚適齢期を過ぎていた。その分、後藤は積極的だった。しかし、戦地から戻ってから間もない後藤は、まだ定職につけていず、生活が不安定だった。圧倒的に条件が悪かった。だから、積極的だった。それで、直美の父は、後藤に対し、生活のめどのつく仕事を見つければ、結婚を許すという条件を提示したのだ。それに勇気を得た後藤は金を何とか、かき集め、小さいながら本屋を開店させることができ、めでたく結婚することができた。二人とも幸福の絶頂期であった。後藤は初めて幸福をつかんだ。しかし、後藤は、つかんだ幸福を一瞬で失い、直美は順風満帆だった人生から奈落の底へ落ちてゆくことになった。
後藤は、岐阜の田舎町の出身だった。両親は商人宿(今のビジネスホテルみたいなもの)をやっていた。母は大変な働き者で、宿を一人で切り盛りしていた。父は典型的な「髪結い床の亭主」で、毎日ぶらぶらしていた。父は色男だったらしく、近所の娘をたぶらかしたとして警察に事情を聞かれたこともあるらしい。事実は、娘が一方的に熱を上げていただけだったらしい。「後藤一族は美男・美女が多い」と後藤は言っていたが、本人も含め兄弟の顏見る限り、とても信じがたく、どう見てもサル顔で、秀吉の血が流れているのではないかと思われるくらいである。男3人、女3人の兄弟であるが、ただ、3男の忠之だけは、ハンサムと言えた。しかし、悲劇は忠之から始まる。
岐阜は、長野とともに日本最大の山岳地帯である。それは、米の取れない貧農地帯でもある。近代化とともに貧農の娘たちは、白い米をもとめ製糸工場へと働きに出る。劣悪な労働条件の下で、彼女らは結核を患い故郷に、「野麦峠」を越えて帰ってくる。そして、故郷に結核菌をもたらした。
家族の中でただ一人忠之が結核にかかった。小さな町では、それを隠しようがなかった。宿の経営にとって、それは致命傷になった。特に、常に利用していた商人ほど、噂を素早く聞きつけ、宿に泊まることをやめた。次第に宿は傾き、末娘は学校に行くこともできないほど貧しくなった。そして、長年の苦労がたたり、大黒柱であった母がなくなった。後藤家は崩壊した。
忠之は、若い時を結核病棟で暮らすことになった。「塞翁が馬」であろうか、忠之は戦争に行かずに済んだ。しかし、戦争にいった二人の兄は、無事戦場から戻ってきたのだから、何とも言い難い。戦後の長い病棟暮らしの中、彼は患者会の委員長になり、患者たちの病院内における待遇改善に尽力した。その過程で日本共産党に接近していった。党員になることはなかったようだが、強い支持者であった。たまに、忠之は兄の正之の家に遊びに来たが、そのたびに、共産党を毛嫌いしていた正之と口喧嘩をしていた。正之は「共産党は貧乏人が支持しているだけだ」といつも言い、それに対して、忠之が喰ってかかるのだった。
正之が何故、共産党を毛嫌いしているのか、その理由は定かではないが、直美の父への反発なのかもしれない。だだ、下層の学歴の低いものほど、共産党を毛嫌いするものは多い。学歴の高いものは、嫌うにしても、それほどでもないのだが。社会主義体制になって、最も利益を得るのは、彼ら下層のものだと思う(?)のだが。共産主義運動は、どこまでいっても、インテリの運動でしかないのかもしれない。
「美人薄命」。弱いものは美しくみえるものだろうか、忠之も50歳を超えることなく、命を終えた。肺の切除手術行いながら、結核と戦い続けた短い生涯だった。
直美が銭湯から帰ると、本屋がなくなっていた。火事だった。火の気は、全然なかったはずだ。消防・警察は、放火の可能性あるとみているようだったが、原因を特定できなかったようである。幸いというべきか、正之は子供を連れて、仕事と遊びがてら出かけていた。これで正之は、その後の人生を敗者の精神で送ることになる。
金のなくなった彼らは、やむを得ず近くのボロアパートに住むことになった。そのアパートは木造二階建てで、玄関を入ると下駄箱があり、それぞれ上履きに履き替える。永い廊下の左右に各部屋の扉があり、畳敷きの四畳半の部屋がある。その部屋には押し入れ以外ないもない。便所も洗い場も共同である。東武東上線中板橋駅の商店街中にあったせいか、水道は上水道がついていた。洗い場と便所は、一階と二階とにそれぞれあった。洗い場は長いシンクに、いくつかの蛇口がついていた。かまども、ガスもなかった。それで各自が、ここに七輪を持ってきて煮炊きをした。七輪も各家庭一個しか持っていなかったので、まずご飯を炊き、魚のおかずのある時は、それを焼き、最後に味噌汁を温めるのだった。だから晩飯時は、洗い場は喧騒を極めた。便所は、もちろん汲み取り式である。当時は、都区内といえども水洗トイレを探すのは至難の業だったろう。
直美とっては、初めての貧乏生活。何もかも、初めてのことだった。アパートの住人や、貧乏と軍隊生活のお蔭で一通りのことはできる夫の正之に、教わりながら家事をこなしていった。一方の正之は仕事を探さなければならなかったが、学歴もなく、手に職もなく、敗戦してから、それほどの年月の経っていない、元兵士にとっては仕事を見つけることは、なかなか難しかった。それを言い口実にした。仕事を探しに行くようなふりをして、家をでて、外をぶらぶらしていた。しかし、家族三人が食べていくには、金が必要だった。お姫様のように扱われてきた直美は、プライドが強く人より低くみられるのは耐え難かった。直美は、意を決して収入のいい、夜のホステスをすることにした。
直美の努力によって家族三人は、何とか食べていけるようになっていたが、正之は、あいかわらず、ぶらぶらとヒモのような生活をしていた。そんなとき、直美は妊娠していることに気づいた。妊娠しないように気を付けていたのだが。直美は悩んだ挙句、医者にゆき妊娠を確認した。その夜、寝床に入ってから正之に事実を伝えた。
「今日、医者にいって妊娠してるのがわかったわ」
「…………」
「私、この子産むわよ」
「え。仕事はどうするんだい?」
「できるわけないでしょ!」
直美は、背中を向けて寝てしまった。正之は、しばらく布団の上に座ったままじっとしていたが、やむなく立ち上がり、白熱電灯のソケットのスイッチを回して明かりを消した。
次の日、九時頃になると、正之は一張羅の背広きて、ネクタイをして「行ってくる」と言って出て行った。今までになかった正之の行動に直美は笑顔で送り出した。そして、ホステスをやめる数日前に、正之は笑顔で帰ってきて開口一番、仕事が決まったことを告げた。小さな出版社であった。かつての本屋の知り合いによる紹介であった。給料は低いものだった。学歴ない正之でも入れるのだから、仕方がないところだろう。当面は使い走りのような仕事をさせられたが、サラリーマンだったから、収入は安定していた。
四月末、直美は赤ん坊を産んだ。産婆は「男の子です」と愛想なく言った。それは産婆の性格なのだろうか。板橋の産院では、看護婦が「元気で立派な男の子ですよ」と満面の笑みで言った。淳はお世辞を言える赤ん坊ではなかった。小さく、弱弱しかった。直美は兄との違いに心が痛んだ。貧しさゆえの母体の栄養不足の結果であること明らかだった。親の因果が子に報い。淳は一生、これを背負うことになる。
東京の板橋区にある都立豊島病院の小児病棟に淳は疫痢で入院した。赤痢での入院は、2度目だった。前回は兄と二人一緒だった。淳は、その時のことを覚えていない。淳が目覚めたとき、白い部屋にいた。これが淳の人生の始まりである。それまでは母の人生の一部に過ぎない。
一つの部屋にたくさんの子供たちが入院していた。白く塗られた鉄パイプで作られた飾り気のないベッドがたくさん並べられていた。患者同士を遮るものは何もない。部屋全体を一望に見渡せた。
『あっ。お尻が冷たい。又、おねしょをしてしまった。』
淳は毎日、おねしょをしてしまう。隣に直美が居なかった。いつもは、ベッドの横で寝ていたが、昨日の夜は家に帰ってしまった。まだ一人で着替えができない。直美が来るまで冷たいのをガマンしなければならない。
『そうだ、牛乳を飲みに行こう。』
いつもは直美がベッドまで持ってきてくれた。淳は起きあがり、ベッドの横に座った。小さいから足が床に届かない。ちょっと、飛び降りた。冷たい。少し足を開き気味に歩いて、牛乳がある所へ行った。そばに看護婦いる。
「あら、めずらしいわね。おはよう、はい」
看護婦は、フタの開いた牛乳瓶を渡してくれた。
冷たい。両手で、しっかり持った牛乳瓶は冷たかった。淳は、お尻が冷たいのが気に掛かったが、いつもよりおいしく感じた。空き瓶を看護婦に返して、ベッドに帰るとき、がに股に歩いた。
牛乳は、当時まだ安いものではなかった。それでも、入院している子供たちの栄養を考えて支給されていたのだろう。事実、学校給食に牛乳が普通に出されるようになるのは、遥かにあとこのことで、それまでは想像を絶せるほど、まずい、脱脂粉乳が出されていたのだ。
直美が来た。
「また、お漏らししたのね」といって、直美は寝間着とパンツを脱がし、新しいのと変えた。淳は気持ち良く、元気いっぱいになった。
先生が病室に入ってきた。4人の看護婦が一緒に付いている。先生は一人一人のベッドを廻って声をかけていく。淳のベッドに来た。
「どうですか」
「おかげさまで、だいぶよくなったようです」
「そうですか」
先生は、眼の下を押し下げ、眼をのぞき込んだ。そのまま何も言わずに隣のベッドに行った。直美は、心配そうな顔をしていた。
先生が出て行って、しばらくすると、看護婦が、淳の背より高く、胴回りより太そうな試験管のオバケ見たいのが2本ついたものを持ってきた。その底に管がついていて、その先に注射針がついていた。オバケの試験管の中には透明な液体が入っていた。二本の注射針が淳の腿に差し入れられた。淳は刺されるときに少し痛みを感じたが、その後は痛みはなかった。淳は注射をされても泣くことはほとんどない。注射なんか、怖くも痛くもなかった。よく、医者にガマン強い子だと言われた。液体が体に中に入っていくのが感じられた。痛くはないけれど、その液がなくなるまで、淳は仰向けにずっとベッドに寝てなければならなかった。点滴。
「ママ、おしっこ」
直美は、ベッドの下においてあった、尿瓶を取り上げた。淳のパンツを下げ、ちんちんを尿瓶の中に入れた。ガラスでできた尿瓶が内ももに触れて冷たかった。
「いいわよ」
淳は、思いっきりおしっこをした。始め冷たかった尿瓶も温かくなった。直美は、ちんちんを振り、尿瓶を外し、パンツをあげた。
直美は心配で病院に泊まり込んでいた。当時は、重篤な患者のための特別な病室もなく、また、赤痢は空気感染をするものでもないので、家族が患者の横に泊まりこんでも問題なかったのだろう。
直美は二人が赤痢になったのは、正之が、たたき売りで買ってきた台湾バナナのせいだと思っていた。当時バナナは高価にもので、果物屋の店頭に並べられたものを普通のサラリーマンが買うのは厳しかった。駅前で行われていた、「たたき売り」で売られたバナナは、確かに、店頭に並べられない粗悪品であることは間違いなかったが、それに赤痢菌がついていたとは考え難い。やはり、ボロアパートの衛生管理に問題があったのだろう。周りから乞食アパートと馬鹿にされ、近所の子供たちの中には母親から「あそこの子供たちと遊んじゃだめよ」と、言われている子もいた。淳が退院した後もアパートの住人が赤痢になって、保健所から白い服きた男たちが噴霧器で白い薬をアパート中に撒いていった。アパート中が、一日、その薬のにおいで臭かった。
ある時、アパートの人たちが、ママを担ぐようにして部屋に入ってきた。ママは、顔が青かった。
「どうしたの?」
一人、部屋で遊んでいた淳はビックリした。
「2階から、おっこったのよ」と、隣のおばさんは言いながら、押入を開け、布団を敷いた。
「さあ、寝て」
「すいません」
「だいじょうぶ? お医者さんへ行かなくていい?」
「ええ、本当に、だいじょうぶですから。」
「じゃね、ゆっくり、やすんで」
そう言うと、みんな部屋から出て行った。外で、アパート住人たちが話しているのが聞こえた。
「2階の便所の床が抜けて、おっこったのよ」
「まあ、あぶない。だいじょうぶだったの」
「どうやら、大きなケガは、ないようだけど」
「ほんとうに、ぼろアパートなんだから」
アパート2階の角部屋にミヨがいた。ミヨは淳と同い年だった。淳はミヨが好きで、いつも一緒に遊んでいた。
ミヨの父は、失業中で、いまだに軍服を着ていた。それを見た淳は、その変わった服について母に尋ねた。
「帽子もね、ほら、上野動物園に行くとき、途中で片足がなくて、白い服を着て、こうやって音の出るの…」
淳は両手を左右に閉じたり、開いたりして、その楽器の演奏の真似をした。
「ああ、アコーデオンね」
それは、蛇腹になったものを開いたり、閉じたりして音を出すだけの単純なものだった。
「それで、お金を貰ってる人が、かぶっているのと同じものだったよ」
「それは、兵隊さんが着る服よ」
「ミヨちゃんのお父さん、兵隊さんなの?」
「ううん、もうやめてるのよ」
戦争が終わってから、もう10年余が過ぎた。まだ、10年余しか過ぎていない。人それぞれだった。戦争が終わったからと言って、すぐに『日本列島』に戻れた人ばかりではなかった。戦争の傷跡は深く、まだ癒えてはいなかった。
淳は父が買ってくれた絵本を見ていた。するとミヨが淳の部屋に入ってきた。ミヨは、突然、淳の絵本をとった。淳がビックリしていると、ミヨは走って逃げていった。
『わーい、鬼ごっこだ!』淳は嬉しくなって、ミヨを追いかけていった。ミヨは、自分の部屋に逃げいった。淳も追いかけてミヨの部屋に入った。そこにミヨの母がいて、その後ろにミヨは隠れていた。淳もミヨの母の後ろに、行こうとしたとき、
「絵本、貸してあげて」
母親はミヨをかばうようにした。淳が意地悪をして絵本を貸さないのだ、と、そういう眼で淳を見つめていた。淳は、立ち止まり、でも、ミヨの側に行きたかった。けど、部屋を出て帰った。
淳はミヨと遊ばなくなった。淳は母の側で遊ぶようになった。着せ替え人形遊びをした。それは、淳と兄が赤痢で入院したときに、父が買ってきてくれものだった。ボール紙でできていて、表に男の子や女の子が印刷され、それに着せ替えるための服がいくつか印刷されていた。それを一つ一つハサミで切って、遊ぶ。始め、病院で兄と一緒に遊んでいた。だけど、病院の子供たちが、「女の子みたい」と馬鹿にした。それから、兄は着せ替え遊びをしなくなった。淳は「女の子みたい」と言われても平気だった。淳にとって着せ替え遊びは、おもしろかった。それに淳は、よく女の子にまちがわれた。母も、たまに淳の頭にリボンをつけたりした。
『この子には、今日は、この服と、このズボン。この女の子には、この服とスカート。寝るときは、寝間着に着替えさせる。』淳は、この遊びが大好きだった。
淳の家族は別にすることもないから7時頃になると寝る。まだラジオもなかった。一個の白熱電灯の下に布団を敷いて、寝る前のひとときをたわいもない話をして過ごしていた。
突然、部屋のドアが開いた。各部屋のドアに鍵はついていなかった。ぬっと、大きな体をしたアパートの男が入ってきた。
「なんですか」と言った正之を突き飛ばして、布団に座っていた直美に迫った。酔っているみたいだった。直美は、思い切り足で、その男の顔を蹴飛ばした。男は仰向けに倒れた。物音に気づいたアパートの住民が「どうした」「どうしたの」と、みんな集まってきた。男は、すごすごと出て行った。
家族は、このアパートを引っ越すことになった。正之がサラリーマンになったので、薄給とはいえ、極貧の生活からは抜け出せたのだ。
引っ越しの手伝いで、直美の兄の子供、カズが来てくれた。中学生だった。
正之は荷物と一緒にトラックに乗って新しい家に向かった。直美と子供二人とカズは、電車で新しい家に向かった。東武東上線の中板橋駅から下りの電車に乗った。五つ目の成増駅で降りた。駅前を少し歩いて、坂道を下ってゆく。初めての道。暖かい春の日。中板橋のアパートは駅の近くで、家が隙間なく沢山あったが、この道は所々に空き地がある。竹が生えている場所もある。しばらく歩いて、淳は少し疲れてきた。すると直美は、ちょっと大きな農家の門へ入っていった。
「あれ、ここ人の家じゃない」と、カズが言った。
直美は何も答えずに、笑顔のまま中に入っていく。広い庭の中に大きな家がある。そこを通り過ぎ、家の裏へ廻った。そこに小さな家があった。これが新しい家。農家の裏庭に建てられた一軒の家。家の玄関の前には井戸がある。家の裏は、すぐに斜面になって、竹藪になっていた。
四人は家の中に入った。アパートより少し広い部屋。台所も付いていた。プロパンガスのコンロもあった。でも、アパートみたいな蛇口の水道はない。水は玄関の前の井戸からくむ。井戸は、コンクリートでできた井形に、コンクリートのフタがしてある。その端の方に鉄でできた手動式のポンプが付いている。ポンプは、鐘を小さくし、ちょっと長細くして、頂点に丸く穴を開けた格好に、水の出る口がバクの鼻のようなのが付いている。その反対側に長い棒が付いていて、それを上下させると、水が沢山出た。ここで、米を研ぐのも、食器を洗うのも、洗濯をするのも、そして、風呂=行水も、ここでした。その時に、なくてはならないのが、大きな木製の盥だった。大人一人が座って入ることができ、お湯を入れ行水もした。高さは30センチくらいしかなかった。洗濯には木製の洗濯板が欠かせなかった。電気製品のない家事は主婦にとって重労働だった。
便所も家の中にあった。その便所のタンクがいっぱいにたまると、農家の大家が、くみ取りにきて、それを畑に撒いて肥料にした。
しばらくすると、正之がトラックでやってきて荷物を家の中に入れて、引っ越しは終わった。
引っ越してから、しばらくして、正之が蛍光灯という物を買ってきた。それは、白い長い棒の管でできていた。それまで使っていた電球よりも明るい。夜、家が明るくなった。そして、蛍光灯は、電球みたいに切れることがなく、古くなると、点いたり、消えたりした。
農家の大家には、二人の女の子供がいた。妹の名はサキと言い、兄と同い年だった。淳はサキ大好きだった。いつも、淳と遊んでくれていた。
ある日、子供四人で、近くの野原に遊びに行った。満開に菜の花が咲いていた。菜の花は変な匂いがした。淳にはいやな香りではなかったけど、好きな香りでもなかった。野原には、川が流れていた。小川には、鉄の管が橋のようにかかっていた。大家の姉妹と兄は、簡単に、その管を渡って向こう岸に行った。大人だったら、簡単に飛び越えられそうな小川。でも、淳は、こわくて渡れなかった。淳は泣いた。すると、サキが戻ってきて、淳をおんぶして管を渡った。母親以外で淳が背中におんぶされたのは、生涯で、この時だけだった。
この辺りには田んぼが広がり、野原もあっちこっちにあった。淳が一生で一度味わった「田舎」らしい生活だった。そして、ここは将来、巨大な高島平団地に変貌しいった。
夏になって、アブラゼミがジージー、ミンミンゼミがミンミンと啼き出した。ある日の夕方、井戸で淳の汚れた足を直美が洗っていたとき、「カナカナ」と、何かが啼いた。
「あれなーに」
「ヒグラシというセミよ。夕方になるとカナカナとなくのよ」
「おもしろいなき声だね」
東京の中心部でも、夏になればアブラゼミとミンミンゼミのうるさい鳴き声は聞きことができたが、ヒグラシの夕暮れをつげる、もの寂しい鳴き声を聞くのは難しかった。
夏になったからと言いてエアコンはもちろんなかったし、扇風機もなかった。アイスクリームや氷などという「贅沢」なものなどもなかった。しかし、東京の中心部を少しでも離れれば、そこはもうコンクリートジャングルではなかった。道も舗装されることもなく、せいぜい砂利が敷かれるくらいで、車など通らず、子供たちは交通事故など心配することなく道で遊んでいた。まだ、ヒートアイランドは生まれていなかった。
大家の近くには家がなかった。坂を下りきったところに、兄の幼稚園の友達がいた。その弟と淳は同い年で仲良くなった。そのうちにはテレビがあり、淳は兄と一緒に、夜、スーパーマンを見に、その家に遊びに行った。また、その近くに淳と同い年の晴美がいて仲よくなった。その家にもテレビがあって、晴美の父親が、よく相撲を見ていた。テレビは、まだ高級品で、普通のサラリーマンが買えるものではなかった。
正之がトースターを買ってきた。二枚の食パンを入れて、焼き上がると、二枚が一度にポンと飛び出すというものだった。それは、淳の家で電灯以外の初めての家電製品であった。日曜日の朝は、パンを食べることになった。もちろん、バターなど高級品であり買えるわけもなく、マーガリンさえもなかった。ただ、焼いて食べるだけだった。それでも、朝食の支度が楽になったことは間違いない。当時としては、珍しいトースターを買ったのは、直美に少しでも楽してもらうためだったのだろうか。それとも、正之が、ただ単に新しもの好きだっただけなのだろうか。
ある朝起きると、外は真っ白だった。雪がかなり積もっていた。板橋区の北西の端にある、ここは都心と比べて気温も低く、雪が降る時は、ある程度積もった。電車で20分くらいしか、かからない池袋で、みぞれでぜんぜん積もっていない時でも、ここは数センチ積もることが多かった。
早速、淳は兄と一緒に飛び出した。二人で雪ダルマを作っていると、大家の二人の娘のも出てきて、大きな雪ダルマを作った。それが完成すると、今度は二組に分かれて、雪が合戦を始めた。そのうちに、近所の人たちも集まってきて、大きな雪合戦になっていった。
直美は、この地域から立候補した共産党候補のウグイス嬢をやることになった。父親からの要請だった。それを聞かされた時、正之は苦虫を噛み潰したよう顔をしたが、「反対だ」と言うこともできなかった。直美の父親以外からの要請だったら、たとえ直美が「やる」と言っても絶対に許さなかっただろう。もし、直美が父親に正之が「反対している」といったら、どうなるかは正之にもわかっていた。そして、直美は快く受けた。直美が「やだ」と言えば、父親は無理強いはしなかっただろう。直美は共産主義を理解もしていなかったし、日本共産党を支持もしていなかったが。今や、直美にとって父は、より絶対的存在になっていた。その父も、それから暫くして他界した。
直美は産院に入院した。赤ん坊が生まれる。淳は正之と兄とで病院に行った。直美の寝ている横に赤ん坊が寝ていた。淳には、なんか、よくわからなかった。
直美と赤ん坊が家に帰ってきた。赤坊は柵で囲まれた木のベッドに寝かされた。
『かわいい? わからない。赤ちゃんって、変。』と淳には思われた。
ある日、医者が往診に来た。そして、直美がすごく泣きはじめた。
『何で泣いているの? 赤ちゃんが死んだらしい。死ぬ? それ、なあに?』淳には、よくわからなかった。
直美はずっと泣いていた。正之は怒って、箱に入れられた赤ん坊を便所に捨てようとした。直美は必死に泣きすがった。
それから、直美は毎日のように、何かあると泣いた。正之は酒を飲んで帰りが遅くなることが多くなった。そして、直美を殴るようになった。淳は正之が帰ってくる頃には寝ていて、その事実を知らなかった……。直美は、一つの布団に寝ていた淳を溺愛し始めていた。
貧乏「神」は、幼子に、まだ過酷な試練を与え続けたもうのだろうか。
淳は豊島病院に三度目の入院をした。今回は自家中毒だった。またもや、巨大な点滴が行われた。前回の赤痢は貧しさ故の衛生環境の悪さが、もたらした病気だったが、自家中毒は貧しさが肉体に与えて結果の内的な病気で、将来的に見れば、今回の方が深刻だった。幸い、回復し退院することができた。
正之は、家でも酒を飲むようになった。そして、直美を殴るようになった。子供たちが大きくなるにつれ出費も増え、酒代も馬鹿にならなかった。サラリーマンであることによって収入は安定しているとはいえ、余りに薄給で出費を賄え切れなかった。工場などの現場の労働者ならば、もう少し大きい会社に勤めることもでき、今よりも収入も多かっただろう。しかし、ホワイトカラーとして、学歴もなく出版社に勤めるとしたら、小さな会社に勤めるしかなかった。そのようなことを少しでも言えば、すぐに拳が直美に飛んできた。次の日の朝、母親の目の回りが青くなっているのを淳は不思議に思った。
「入院したほうがいいですね」と医者はいった。しかし、赤ん坊にかかった治療費・埋葬など諸費用、淳の入院費などで、お金が全くなかった。また淳を入院させるのは難しかった。正之は入院費用を浮かせるため、医者に自宅での治療を願った。
細くて折れそうなくらいの足の太ももに、それよりも太い注射器で針が差し込まれた。淳は、今で味わったことのない激しい痛みを感じ、大泣きし、直美にしがみついた。左足が終わると、同じように右足にも注射が打たれた。「いたいよ! いたいよ!」と泣き叫びながら、淳は直美にしがみ続けた。
先生が帰ったあと、正之は「淳は、学校に上がれないかもしれないな」といった。
「いえ、必ず、私が守って見せます」
直美は淳をおんぶして医者に通い続けた。淳は一時やめていた、着せ替え人形遊びを、また始めた。横で、直美が造花作りの内職をしていた。
「都営住宅に当たったのよ!」
「え、嘘だろう?」
「本当よ!」
淳の家族は練馬にある都営住宅に引っ越すことになった。