「遠き山に日は落ちて」
眠っているところを起こされた。
路面電車の都電荒川線。和巳はいつも早稲田駅から乗ってくるが、史は学習院下駅で待つことが多い。夕刻に流れる『遠き山に日は落ちて』のメロディを聞いたくらいまでは覚えているが、その後はうとうとしてしまったようだ。和巳に起こされるまでの記憶がない。
「よくこんなところで寝られるよな」
和巳は呆れたように笑う。この駅は明治通りと新目白通りの交差点の側に、交通量は激しく、おまけに電車が何度も目の前を往来していく。しかし、史は、この喧騒が殊の外好きだった。加えてこの小さな駅のホームは、何に囲われている訳でもないのに、何故かエアスポットに入ったように感じられて、とても居心地が良いのだった。
和巳は夜間部なので、大体帰りが遅い。史は先にアパートに帰っていてもいいのだが、いつもついフラフラと寄り道をしながら時間を潰して、最後はこの駅で彼を待つことにしていた。携帯のない時代。史にとっては、いつ来るとも知れない和巳を待つこの時間が、一番幸せだった。それに、先に帰って夕飯の仕度をして待つような、そんな所帯じみたことはしたくもなかった。
今日の和巳は何となく考え込んでいるようで、いつもの快活さがなかった。史の隣に腰かけて、次の電車にも乗る気配がない。
「何かあった?」
史がきくと、和巳は心を決めたように切り出した。
「今日就職課へ行ってみた。来年からは就活始めなきゃ駄目でしょ。史はどうするの?」
史は黙る。考えていることはある。和巳は史が答えない訳が分かっているように続ける。
「史は優秀だから、どこでもOKでしょ。それでさ、この先俺たち……」
少し言い淀んだ。史はとう潮時かと思い始める。和巳には隠していたが、史が男と暮らすのは彼が初めてではなかった。これまでにいろいろな男たちと、それぞれに恋愛ごっこを楽しんだ。最初はサークルの先輩。史の住んでいたマンションに連れ込んだ。その次は……。
「史さあ、俺と一緒に、ずっとやってくつもり、ある?」
自分から別れ話を切り出したのは和巳が初めてだった。和巳は一番人間らしかった。苦学生の彼に合わせて安アパートに住み、都電で通学し、『神田川』みたいに2人で銭湯にも行ったりもした。楽しかった。
「本当は俺知ってるんだ。史がいいとこのお嬢さんだってこと」
そうか。穏やかに言う和巳は、史が思っていた以上に史のことをよく理解していたのだ。
「ありがとね、和巳」
それは別れを受け入れるという意思表示だった。和巳は史は促すように、肩を抱いて少し笑た。
「分かった。次の電車に乗ろうね」