1 5-5 0-0 いつもと違う
「たまちゃん、朝よ。起きなさい」
「うーん… あと、五分…」
あれ? なんで、ママじゃなくてお婆ちゃんの声で起こされるんだ?
ああ、そっか。ママはヨーロッパに遠征中でしたね。
「お婆ちゃんが、まどかに怒られるんだから、ダメでーす」
お婆ちゃんに掛け布団を剥がされてしまった!
「お婆ちゃん、おはよう」
私は眠たい目を擦りながら、お婆ちゃんに朝の挨拶をした。
「はい、おはようさん。お婆ちゃんは朝食の仕度があるから行くけど、二度寝をしてはいけませんよ」
「はーい」
時刻は朝の6時15分。ゴールデンウイークが終わって、いつもの日常が戻ってきました。
今日から一週間は、普通に学校へと通って、来週には私もオーストリアに旅発つ予定となっております。
トイレを済ませて顔を洗って目を覚まさせる。
「うん、今日もたまきちゃんは可愛い」
洗面所の鏡に映った自分を見て、毎度お馴染みのセリフを一言つぶやくのが、私の日課の一つである。
自己暗示って、結構馬鹿にできないとか聞きますしね。
ムニムニ…
コメックスのジャージに着替えて、ラジオ体操を済ませたら、ランニングに出発です。
なぜか着替える途中で、おっぱいをムニムニするのも日課の一つになってしまったのは、謎なのですが…
自分の胸を揉んでも別に嬉しくも何ともないのですけど、なぜか無意識に揉んでしまうのですよね。
前世の自分には、膨らんだ胸は付いてなかったから、なんとなく物珍しくてムニムニと触り始めたのが、それが癖になってしまったのかな?
「ハッハッハ」
「環希ちゃん、おはよう。相変わらず朝から精が出るね」
「おはようございます!」
近所に住んでいる、顔見知りのお年寄り数人とすれ違いざまに挨拶を交わしながら、自宅の周囲、約一キロのコースを三周回る。
もう既に、入院前の体力は完全に取り戻しています。
クールダウンを終えて、サッとシャワーを浴びたら、朝食の時間です。
「いただきまーす」
「はい、いただきます」
今日の朝食は、ご飯、納豆はじゃこと紫蘇入り。大きめの鮭の切り身と、甘めの玉子焼きがメインですね。
サラダはワンパターンだけど、レタス、トマト、キュウリに、今日はブロッコリーじゃなくて、カリフラワーでした。胡麻ドレッシングで頂きます。
あと、きゅうりの酢の物に胡瓜の浅漬けと、きんぴらごぼうがあります。味噌汁は、昨日の夕食の残りの豚汁になります。
昨夜の残り物とはいえ、朝から豚汁を食べられるなんて、ちょっと贅沢に感じられて嬉しくなっちゃいますね!
それにつけても、我が家では相変わらずキュウリが多い食卓だとは思いますけど、先祖が鶴見川の河童なら仕方ないよね?
ご飯も大盛りでお代わりをして、最後に胡瓜の浅漬けをポリポリと齧って、ほうじ茶をズズゥ~っと飲んで、朝食の終わりとしました。
「ごちそうさまでした!」
「はい、おそまつさまでした」
歯を磨いて制服に着替えて、身だしなみも整えたら、メイプルリーフ・ラグを弾いてから家を出ます。
この曲を弾くと楽しくなって、朝から元気が湧き出てくるのですよね。
だから、学校に行く前には、結構頻繁にメイプルリーフ・ラグを弾きます。
「行ってきまーす!」
「いってらっしゃい」
いつもの時間、小机駅のいつものホーム、いつもの磯子行きの電車に乗り込む。
しかし、いつもと違うのは、いつもの定位置の場所に優梨愛ちゃんがいないということである。
優梨愛ちゃんは先月の下旬から、ヨーロッパへと遠征に行っているので、日本には不在なのです。
少しばかり寂しい気もしますけど、こればかりは仕方ないよね。
私は手持ち無沙汰を紛らわすために、スマホで3chのテニス板を覗いて時間を潰すことにした。
なになに……
『庭野環希グラスコート佐賀に降臨!』
『庭野、ゴールデンウイークは佐賀に行ってたのか』
『でもなんで佐賀に行ったんだ?』
『ジュニアウィンブルドンの予行演習だろ』
『ローランギャロスもまだなのに気が早いなw』
『クレーの前に芝の練習なんかしてクレーの調子悪くならないのか?』
『それは人によりけりなんじゃね?』
『庭野だったらサーフェイスは関係なさそうな気がする』
『今までオムニでもハードでもアンツーカーでも結果を出しているからなw』
『六月の中旬以降になると梅雨時だから雨で練習の予定が組み難いんだと思う』
『ああ、それでゴールデンウイークに練習に行ったというわけか』
『たまきタンの自宅の庭でグラスコート作る工事をしているお』
『ハードとクレーに続いて今度は芝のコートかよ庭野家はブルジョアだなw』
どうやら、私にはプライバシーというモノがなかったみたいでした。
まあ、ユーチューバーもやっているんだし、いまさらと言えばいまさらなのかも知れません。
通学途中で知らない人に話し掛けられないだけ、まだマシなのだと思っておきましょう。
そこらへんは、みんな見てみぬふりをしてくれているのかな?
それとも、一部の人にしか私の顔は知られてないはずだから、私を庭野環希と知っている人と遭遇する確率が低いのかも知れませんね。
あと、芸能人ではないというのも大きいのかな?
ネットタレント紛いのことはしているのだから、似たような気もしないでもないですけど、あくまでも私は、テニス選手兼ユーチューバーピアニストである。
そう明言しておきましょう。
電車が横浜駅に到着したら、大勢の乗客が降りました。
そして、入れ替わりで電車に乗ってくる乗客の中に、私と同じ山手女学院中等部の制服を着た子を発見しました。
おんや?
あの145cmあるかないかの、ちびっ子ちゃんは…
「たまちゃん、おはよー!」
横浜駅で電車に乗り込んできて、いきなり私に声を掛けてきた、山女の制服を着たちんまい子は、米原ひなたちゃんでした。
どうやら今日は、ひなちゃんも同じ電車になったみたいですね。
「ひなたお嬢様、ごきげんよう」
「たまちゃん、ごきげんよう好きだねー」
「だって、お嬢様ごっこ楽しいんだもん」
「でも、お嬢様って呼ぶのはメイドだと思うよ?」
あー、そう言われてみると、確かに使用人が雇い主の娘に使いそうな感じはしますね。
「じゃあ、ひなたさん、ごきげんよう」
「たまきさん、ごきげんよう」
ひなちゃんに、ごきげんようを返されてしまった。
「なんか私が、環希さんって呼ばれると首筋がムズムズするよ」
「あはは、たまちゃんはソレを人に言ってるんだよ」
う゛、ひなちゃんに指摘されてしまった!
たしかに、人によっては、冗談でも言われるのを嫌がる人はいるかも知れませんでしたね。
「そ、そうだったかも…… ひなちゃんは、ひなたさんって呼ばれるの嫌?」
「ひなたは別に構わないけど、ちゃんと人を選んで呼んだほうがいいとは思うかな?」
「わかった。気を付けるよ」
「仲良くなった子に、冗談で言うだけにしたほうが無難だね」
ひなちゃんは、小さいけどしっかりとしていますね。精神的には私よりもずっと大人の気がするよ。
図体ばかり大きくなってしまった、私とは大違いだと思います。
これでも、二度目の人生で、前世では三十路手前までは生きていたはずなんだけどなぁ。
おかしいですね? 私の記憶にある前世とは、胡蝶の夢だったのでしょうか?