1 2-3 30-30 アナスタシア
前半アナスタシア視点、後半環希視点。
「とぅ!」
『ゲーム、ニワノ』
ハァハァ…… 息が苦しい。
わたしがここまで追い詰められるとは、いつ以来の出来事であろうか?
いや? もしかしたら、このわたしがここまで追い詰められたのは、テニスを始めてからは初めての出来事なのかも知れない。
いままで、天才テニス少女と周囲の大人から持て囃されてきた、このわたしが苦戦するなど、まったくもって屈辱の極みだわ!
タマキ・ニワノという、この小さい日本人は、一体何者なのだ?
第一セットで相手は最初のサービスゲームを、わたしにブレイクをされたというのに、その後のプレーでも表情を変えることなく、飄々とした表情でプレーしているなど、まったく子供らしくない。
逆にわたしが、第一セットの第7ゲームの途中で、人をおちょくるような、舐めたドロップショットを決められて、カチンときてしまった。
カチンときたわたしは、ギアを一段階上げて、サービスエースを奪いに行ったのだ。
しかし、わたしがギアを上げて打ち放った、そのサーブが通用したのも、サービスエースを二本奪ったところまでだった。
170km/h前後のスピードで相手のサービスコートに打ち込まれる、わたしのフラットサーブに対して、タマキ・ニワノという小娘は対応してきたのだ。
まさか、たったの二本わたしのサーブを見ただけで、もうアジャストしてリターンを返してくるだなんて、なにかの冗談だと思いたい。
「やぁ!」
『ゲーム、ニワノ』
ハァハァ…… まるで、経験豊富な大人のプロ選手と対戦している気分にさせられるとは、思いもよらなかった。
わたしは本気の必殺サーブを打ち返されたショックもあってなのか、それからリズムを崩してしまって、4ゲーム連続で相手にゲームを奪われ逆転されてしまい、結局、4-6で第一セットを落としてしまったのだ。
このわたしが自分のサービスゲームを、2ゲームも相手にブレイクされるなど、生まれて初めての経験だったので、かなりショックな出来事だった。
そのショックを引きずったまま、第二セットも立て直せずに、苦戦を強いられているという訳である。
テニスがメンタルなスポーツとは、まったくもって良く言ったものだと、この場面で実感させられるとはね。
「てぃ!」
『ゲーム、ニワノ』
本当に、この日本人の小娘は一体全体なんなんだ?
こんな対戦相手は、いままで対戦した相手の中にはいなかった。
その相手を見下すような、虫ケラを見るような目で、わたしの一挙手一投足を観察しやがって!
そのニワノと目と目が合った瞬間に、ゾクリと背筋に悪寒が走った。
なんなんだ? この不快感は? まるで、わたしの身体の内部まで見透かされたような、気持ち悪さを感じる。
そして、タマキ・ニワノは、ニタ~といやらしい笑みを浮かべたではないか!
ああそうか、わたしは観察されて、解析をされてしまったから、これは、それを感じ取った不快感だったのか。
その死んだ魚の腐った目で、無機質で機械的な目でわたしを見るな!
「でりゃ!」
『ゲーム、ニワノ』
どんなサーブを打っても、どんなリターンを返しても、相手は打ち返してくるのだから、もう何が相手に通用するサーブなのか、もう何が相手が返せないリターンなのかが分からないよ。
そう、まるで打つ手が見つからないのだ。
ああそうか、わたしが今までに対戦して降してきた相手も、こんな状況に陥って絶望的な心境を味わっていたのか。
今回その番が、わたしにも回ってきただけということか。
だがしかし、わたしは此処で絶望に打ちひしがれて挫けている暇はないのだ!
たとえ、今日の試合に負けたとしても、なにか相手から得られるモノを掴み取らなくては。
ロシアでも貧しいウラルの片田舎の出である、わたしは、テニスで成功して大金を掴まなければならない理由があるのだ。
わたしには、家族を始め大勢の人が期待を寄せているのだから。
この気持ちは、日本という先進国で豊かな生活を送っている日本人の彼女では、きっと理解できない心境なのでしょうね。
ロシアの貧乏人のハングリー精神を舐めるなよ!
※※※※※※
おや? 相手の、アナスタシア・トハチェフスカヤの雰囲気が変わった?
目から迸るような覇気が感じられます。私に殺気というモノが感じられるのであれば、それと似たような感じのモノの気がしますね。
結局あれから、第一セットを6-4と逆転で取って、現在、第二セットの第5ゲームに差し掛かろうとしています。
第二セットも、ここまで、4-0と私がリードしている展開です。
まあ、この私がちょっと本気を出せば、13歳の子では追い付けないのは無理からぬことだったようでした。
だから、アナスタシアさんの心は、もう既にへし折ったと思っていたけど、まだ彼女の闘争心は残っていたみたいでしたね。
しかし相手が、もう一段ギアを上げてきたならば、私もそれに合わせて、ギアを上げれば良いだけである。
絶望を味わわせてあげたと思ったけど、まだ物足りなかったみたいでしたか。
……彼女はMなのでしょうか?
それならば、さらに深い絶望を篤と味わうがよい!
いっちょ、揉んでやろう。
本当であれば、相手に真の実力を発揮させないまま勝つのが最上なんだけどね。
私には、スポ根マンガみたいな展開は似合わないのですから。
淑女はお淑やかに、たおやかに、優雅でエレガントに振る舞わなければなりません。
好敵手と書いて、ライバルと読む? ないない。私の辞書には、そんなチープな感じの三文芝居のような文字は載っておりません。
だって、考えてもみて下さい。私が自ら強敵になりそうな相手を、わざわざ育てる義理がどこにあるのですか?
そういう展開がお望みならば、少年マンガを読んで下さい。
私としては、楽して試合に勝てるのであれば、それに越したことはないのですから。
まあ、観客としては、手に汗握るスリリングな試合展開を望んでいるのでしょうけど。
試合をする当事者からすれば、ファイナルセットのタイブレークまで縺れる試合というのは、御免被るでござるよ。
そう思って慢心して油断していたのが、いけなかったのだろうか?
『だぁ!』
そのサーブは、もう既に見切ったのだから、私には通用しないよ!
「とぅ」
『15ラブ』
あれ? なんで、私のリターンがネットに突き刺さっているんだ?
『だぁ!』
さっきは油断してミスったけど、今度はちゃんとリターンを返させてもらうよ!
「てぃ」
『30ラブ』
むむっ? この私が二回連続で、アンフォーストエラーですと!?
おかしいですね? そうか、スピンの掛け方が違うのか。
これは真面目に一球、ちゃんと様子を見てみることにしましょう。
『だぁ!』
私はあえて、相手のサーブを見送って、球筋を見極めることにした。
『40ラブ』
ははーん、なるほどねぇ。これは、見事に騙されていたよ。
フラットだと思っていたけど、微妙に違う回転が掛かっていたというわけか。
これでは、フラットだと思ってリターンを返した、私がミスをするのも当然のことでしたか。
さて、あと1ポイント取られて、相手にサービスゲームをキープされる前に、対処できれば良いのだけど、どうなることやら。