1 15-0 わたし、テニス選手になる!
前世の記憶が戻ったのが、およそ二年ほど前。
神さまに出会ったとか、転生イベントが発生しただとかは一切なくて、いきなり記憶が戻って多少混乱したりもしたけど、そもそもこの身体が三歳児だったのが幸いしたみたいだ。
三歳児には自我がほとんど無かったみたいなので、すんなりと記憶の融合が行われて助かりました。
まあ、幼女の身体になっていたのには多少ビックリはしたけどさ。
でも、これでまた好きなテニスができるという喜びの方が大きかったのが、正直な気持ちだったよ。
なんの因果かこれがまた、前世の俺だった時代の少し下の世代で活躍していたテニス選手の"庭野まどか"が私の母親なんだよなぁ。
私の父親は居ないから知らん。母親の名字が独身時代と同じで庭野のままってことで察してくれ。
母親がテニス選手の家庭に生まれるだなんて、なにやら因縁めいているだとか、前世での最後の願いが少し有利に叶って転生した感じがしないでもない。
テニスをやる環境としては、これ以上ない環境と言えるのかも知れない。
それで、輪廻転生した今世での私の名前は、庭野環希というらしい。
母親がアレだからなのか、たぶん庭野の庭と球で庭球=テニスにしたかったのだろうけど、球では変だから環にしたのだろうなと推測してみる。
あとの候補は、玉、珠、弾とかかな?
まだ珠の方が可愛らしい感じがするのに、あえて環を選んで希を付け足したのも、転生したという因果を感じさせる名前の気がしないでもない。
環は"めぐる"で希は"まれ"や"のぞむ"とかの意味があるのだから、神さまが恣意的に悪戯したとか勘繰りたくもなるよ。
偶然にしては、環希という名前は出来過ぎてる気がするしね。
それはそうと、庭野まどかが現役時代に稼いでくれたおかげで、プチセレブな家庭に生まれてこれたのだからラッキーともいう。
自宅に隣接してデコターフとクレーコート。この二面のテニスコートがプライベート用に完備されているのだ。
母上様は自分がテニスをしたいのもあるだろうけど、これって自分の娘に、つまり私に英才教育を施す気が満々ってことですよね?
もちろん、望むところなんだけどさ!
デコターフは流行りの青いコートで、クレーもただの土ではないよ? ちゃんとしたアンツーカー赤土です。
さすがに芝のコートはないけど、スペースはあるのだから、将来的にはグラスコートも考えているのかも知れない。
オムニ? なんですかソレ? 知らない子ですね。
もしかして、ソフトテニス用のコートの事でしょうか?
それとも朝鮮語で、お母さんって意味でしたっけ?
節子それはオモニや!
思わず、一人ボケ一人ツッコミをしてしまった。
……疲れてるのかな?
もっとも、こんなに広い敷地を都内で確保することはプチセレブ程度の財力では厳しかったみたいで、自宅があるのは横浜なんですけどね。
それとも庭野家が元々から横浜出身だったのかな? お爺ちゃんお婆ちゃんの家も直ぐ隣りだから、元々ここら辺りの地主が正解なのかも。
でもまあ、新横浜や東名のインターも近いし、羽田に行くのにも乗換は一回で済むし、交通の便は悪くなさそうなので十分に満足な立地条件だと思います。
扶養されている身分でおまえ何様だよとか突っ込まれそうなので、この話はこのへんにしときましょう。
それにつけても、プチセレブに生まれたその代償なのか、この身体は幼女なんだよなぁ。いわゆるTS転生とかいうヤツだな。
こんなにも恵まれた環境に転生できたのだから、性別が女になったぐらいは甘んじて受け入れるべきであろう。
そうじゃなきゃ罰が当たりそうで怖いしね。
ちなみに、母親である庭野まどかと前世での俺とは余り接点はなかったのであしからず。恋人だったとか元カノだったとか、残念ながらそんなことはなかった。
だから私の種が、前世の自分だったとかいうオチもないわけでして。まあ、それはそれで転生のミステリアスな謎になっていたのかも知れないけど。
彼女と比べてしまえば、前世の俺なんて月とスッポンぐらいランキングが違ったから会う機会も少なかったんだよね。
こっちはドサ廻りで、彼女はグランドスラムとプレミアだったからなぁ。
ダブルスとはいえグランドスラムで優勝したり、ランキング一位にもなったりしているのだから凄いの一言だ。
女子とはいえ、同じテニス選手として雲の上の存在だったのが、庭野まどかという人物なのだから。
そんな存在の人が今世では私の母親なんだから、有難い話だよね。神様に感謝しなきゃ。
それで今何をしているのかといいますと、テレビを見ています。
テニスの全米オープンの決勝ですね。
『小坂やりました! 日本人初の快挙です!』
『いやー凄い試合でしたね。おめでとう!』
『今年の全米オープン女子の優勝者は、日本の小坂なおみ選手です!』
『いつかは私の成績を越える選手が現れるとは思ってはいましたが、随分と時間が掛かりました』
『いやー、長かったですね』
『そうですね。私がオバさんになるぐらいですから』
「私、この人苦手」
おいおい、いくら自分の娘しかこの場に居ないからって、テレビに向かって「この人苦手」とか、それではまるでオバチャンの独り言みたいだぞ。
まあ、ママがハム子を苦手なのはなんとなく理解できるけどさ。
向こうは先輩でシングルスのランキングは向こうが上で、ダブルスのランキングと生涯獲得賞金はママの方が上だったしねぇ。
そりゃあ、二人ともトッププロだったしプライドも高くて、お互いにやり難かっただろうね。
私なんか前世では年下の西織にもペコペコしてたもんな。
まあ、アイツは世界ランキングも二位まで行ったし、男子の日本人選手の中では別格ではあったのだが。
『ちなみに優勝賞金は、なんと! 380万ドルとのことです!』
『いや~、凄い金額ですね。私の生涯獲得賞金の大部分を一度の優勝で稼ぐのですから、羨ましいの一言です』
『安達さんが活躍した時代と比べて賞金額も違いますからねぇ』
ふむふむ。しかし、解説のオバチャンやい。あなたの活躍した時代は四半世紀も昔ではありませんか。
「私が引退して6年しか経ってないのに、今年の賞金額が6年前の1.5倍とか、ありえなーい。引退するの早まったかなぁ」
いや、ママ。あなたが引退してくれたおかげで、こうして私は転生してこれた訳ですから、現役を続行されてたら私はこの場にはいない訳でして。
それに、ママ。あなたのグランドスラムでシングルスの最高成績はQFがベストですやん。元々380万ドルは無理でっせ。
まあ、QF進出しただけでも、十分に凄いんだけどね。なんせ男子と女子の違いはあるにせよ、前世の私は初戦突破すら出来なかったんだし……
く、悔しくなんか、悔しくなんかないもん!
それはそうと、プロテニス界の近年における賞金額の高騰、インフレ率は凄いの一言に尽きるのは確かだ。
もっとも、その賞金額の高騰は、グランドスラムや男子のマスターズ1000に、女子のプレミアマンダトリーとかに限った話ではあるのだが。
いや? 正確に言えば、それは違うのかな?
そういえば、ITFの下部大会での最低賞金額も、1万ドルから1万5千ドルと1.5倍には上がってはいるのだから、倍率で言ったら同じなのか。
でも、グランドスラムとかの賞金は元々の額が桁違いなのだから、
1万ドル大会の賞金を五割増額して、1万5千ドル大会にしました!
とか言われても、霞んでしまうのは否めないよなぁ。
ちなみに、私の一人称は「私」で固定されています。前世の記憶が戻った直後に、自分の一人称を何回か思わず「俺」って言ってしまった事があって、それを聞いてしまった時のママの絶望した顔といったら……
うん、ママその節はすまなんだ。反省してます。
ほっぺたうにゅーんの刑を何度もされたらそりゃ矯正もされますってば。
前世を思い出している時は、たまに俺なんて出てきたりもしますが。
話がそれたけど、ママの言葉は話を切り出すタイミングとしては丁度良かったぜ。
「ママはプロのテニス選手だったの?」
まあ、私には前世の記憶があるから、ママがプロのテニスプレイヤーだった事は知ってはいたけどね。
「そうよ。ママはこれでも、そこそこ強かったのよ」
えへんと言ったママは、力こぶを作るポーズをして見せてくれた。
なるほど。確かにママの二の腕は、普通の女性に比べたら遥かに筋肉質で盛り上がっているのが分かる。
さすがは元ダブルス一位でシングルスも二十位以内だっただけのことはある。
「ママ!」
「環希、なぁに?」
あなたが叶えられなかった夢、前世の俺が叶えられなかった夢を実現しようじゃないか。
「わたし、ママみたいなテニス選手になる!」
「ママみたいなって…… 環希ちゃんがそう言ってくれるのはママも嬉しいけど、大変よ?」
大変なのはモチのロンでっせ。
「わたし、がんばる!」
「そう…… 環希がその気ならば、ママも全力でサポートするわ!」
そう言ったママの眼が怪しく光ったような気がするのだけど、気のせいだよね?