219話 アナスタシアとおしゃべりしてるだけ
私が声を掛けたのが、ちょうど良いタイミングだったのか、アナスタシアは練習を中断して休憩に入りました。
『それにしても、タマキはもうランキングが27位とかマジあり得ないんだけど』
『まだ対戦相手の選手が私の手の内を知らなかったから、それで一気にジャンプアップできたんだと思うよ』
『それを言ったら、タマキも相手のことを知らないのは一緒でしょ?』
そうともいうのかな?
『まあ、それはそうなんだけど、若さゆえの怖いもの知らずの精神?』
『若さゆえの過ちの間違いでは?』
それを言った人は、連戦連敗の負け犬に成り下がってしまったんだよぉぉ!
私は若さゆえの無謀さで吶喊します!
『あやまちというのか、クリスを相手にして、いきなり蹴躓いてしまったけどね』
『ああ、全豪オープンのことね』
『そそ、男子の5セットマッチ並みに試合時間が掛かったのに、結局は負けたという非常に疲れて、くたびれた試合だったよ』
もっとも、全豪オープンでのクリスとの試合は、得るモノも非常に大きかったとは思いますけど。
骨折り損のくたびれ儲けにならなくて良かったよ。
いや、試合には負けたのだから、くたびれて儲け損なったが正解なのかな?
『あのクリスとの試合は、私も録画で見たけどマジで鳥肌が立ったわ』
生放送で見なかったんだ。そっか、時差の関係でアメリカは夜中だったのか。
まあ、自分の生活リズムを崩してまで、ライブでは見ないわな。
アナスタシアもドサ廻りの真っ最中だったことだろうし、余計と夜更かしは厳禁だもんね。
『全豪オープンでグランドスラム初出場初優勝を狙っていたけど、見通しが甘かったよ』
『グランドスラム初出場なのに、本気で優勝できると思ってたの?』
『クリスとシュタイナーに勝てれば、その勢いで行けるかな? とは、半分以上思っていたよ』
その事実に、クリスが全豪オープンで対戦した相手に対して、私もドバイとインディアンウェルズで対戦して勝っているもんね。
フェルナンデスやモジッチにアレンスカヤとかの選手のことです。
『呆れた…… でもまあ、事実上の決勝戦が、タマキとクリスが対戦したR128だったとか、笑うに笑えない冗談だったけどね』
『あはっ、クリスがセットを落としたのもタイブレークに突入したのも、私との試合だけだったもんね』
つまり、実質的に全豪オープンの準優勝者は、私といっても過言ではないのかも知れません。
ネットやSNSとかでも、そんな感じの発言をしているファンも多いみたいですしね。
『タマキはプロデビューしたてなのに、もう既にニュージーランドの250とドバイ500で優勝して、インディアンウェルズでも準優勝だもんね。素直に凄いと思うわ』
『でも、インディアンウェルズの決勝では、ドバイで勝ったシュタイナーにやり返されちゃったんだけどね』
『そりゃ、シュタイナーはランキング一位に君臨しているんだから、そんな相手と対戦して連勝できるなんて、そこまでプロの世界は甘くはないでしょ』
『あはは、ママにも同じことを口を酸っぱくして言われたよ』
私もママの忠告を聞いて、気を引き締めて試合に臨んだつもりだったんだけどなぁ。
まあ、それでもシュタイナーに負けちゃったんだよね。
つまり、相手の方が一枚上手だったということです。
プロとしての経験値の差を、身をもって思い知らされたということになりました。
『そのシュタイナーだけど、私が初戦を勝ち上がれば二回戦で当たるんだよね』
『うわー、厳しい山に入っちゃったのかぁ』
『一回戦を勝てれば、だけどね』
『初戦の相手は誰なの?』
『ランキング38位のファンバステンが相手よ』
ファンバステン? どこかで聞いたことがある名前ですね。
まあ、38位だったら名前ぐらいは知っていたとしても、べつにおかしくはないのだろうけど、その名前には覚えがあります。
そうだ、私の記憶が確かなら、昨年のウィンブルドンで私がヒッティングパートナーを務めた相手が、ファンバステンでしたね。
ファンバステンはオランダ出身のサウスポーで、ツアーでも250を5勝ぐらいしている中堅以上トップ未満の選手だったかな?
グランドスラムでの成績は、ベスト8が最高成績だったと思います。
もっとも、グランドスラムで準々決勝まで進出しているなら、十分にトップクラスの選手なのかも知れないけど。
それと、ファンバステンはグラスコートで強かったイメージがありますね。
ローランギャロスの翌週に、ファンバステンの地元のオランダで開催される、ウィンブルドンの前哨戦でもある芝の250大会を二度ほど優勝していたはずです。
ウィンブルドンもベスト8に入ったことがあったと記憶していますので、ファンバステンはグラスコーターなのでしょう。たぶん。
まあ、クレーでも優勝しているから、クレーコーターなのかも知れないけどさ。
翻って、ファンバステンのハードコートでのツアー優勝はゼロ!
ちょっと極端な成績のような気がしないでもありません。
うーん…… ハードコートでアナスタシアの実力だったら、ファンバステンに勝てないこともなさそうですね。
『ファンバステンなら、多少は知っているよ』
『そうなの? でも、タマキってファンバステンとの対戦経験はないんじゃないの?』
『昨年のウィンブルドンで、ファンバステンのヒッティングパートナーをしたんだよ』
まあ、練習と実戦では本気度合いが違うけど、それでもどんな感じなのか手応えは掴めたからね。
『そうだったんだ。それで、ファンバステンはどんな感じだったの?』
『うーん、アナスタシアだったら勝てる可能性も十分にあるんじゃない?』
『つまりそれって、私を高く評価してくれているってこと?』
いぐざくとりー! そのとおりでございます。
『そうだね。それにファンバステンって、あまりハードコートは得意じゃなさそうだし』
『それでも、トップ100とは戦ったこともないし、当然勝ったこともないのよね。ましてやファンバステンは、ランキング38位だし……』
ジュニア時代は勝気な性格だと思っていたアナスタシアが、自信なさげな顔をするだなんて珍しいですね。
そっか、まだアナスタシアはプロツアーでは、強豪選手と対戦したことがなかったのか。
だったら、ここは一つプロツアーの先輩として、私が一肌脱いであげることにしますか!
『私がアナスタシアの練習相手として、仮想ファンバステンと仮想シュタイナーの役をやってあげようか?』
『タマキが? ファンバステンはサウスポーだから、タマキがちょうど良いけど…… あー、タマキはサウスポーじゃなくて、変態的な両利きだったわね』
『そう、だから私は右でも左でもプレーできるんだよ』
でも、変態的は余分な形容詞だと思います。
『そっか、シュタイナーと互角の勝負をしたタマキだったら、私の練習相手として不足はないけど、いいの?』
『十年後のテニス界にクリスはいないだろうし、シュタイナーも引退している可能性が高いよね?』
十年後にはクリスは40手前で、シュタイナーも36ぐらいかな?
それに比べて、私とアナスタシアは十年後でも、まだ24か25歳ぐらいという、ちょうどテニス選手として一番脂が乗っている現役バリバリの年齢なのですよ。
『そうだろうね。でも、それとタマキが私と練習するのに、なんの関係が?』
『それは当然、未来のテニス界を盛り上げるために決まってるじゃない!』
ええ、それ以外に他意はありませんとも。たぶんだけど……




