揃って出かけて指切って
パァーーン。電車の汽笛に威嚇されてあとずさる。アナウンスに従って、黄色い線の内側へ。
今日も今日とて電車は椅子が全部埋まる程度に混んでいた。つり革に掴まって電車が動き出すのを待つ。うなじに当たる冷房が気持ちいい。
私はもう二年生になった。今日終業式があって、明日からは夏休み。特に予定もない私には退屈な時間。クラスが変わって教室で絡まれることもなくなったから、別に長期休暇がありがたいとも思わないし。
驚いたことに、進級した私のクラスには、一年のとき同じクラスだった人が一人もいなかった。こんなことあるのかと思ったけど、お陰で今のところ平和だ。相も変わらず空気みたいに過ごせている。
そして、ここしばらくおじさんとは会っていない。今年の夏休みにも会う予定はない。おじさんは、今頃あの子の面倒を見てくれているはずで、私から会おうとするなんてとても出来なかった。
……はぁ。退屈な夏休み。
溜息をついたところで、降りる駅に着いた。
「ただいまー……ん?」
駅から家は近い。十分くらい歩けば家が見えてくる。ドアを開けると、沓脱ぎに知らない靴があった。二足、片方は革靴で、もう片方は女性用のスニーカー。お客さんかな。珍しい。
もしお客さんなら、おばさんが相手をしてるはず。私が入っていくと迷惑だろうから、音を立てないようにそっと階段に足をかける。
と、リビングの扉が開いた。
「あ」
「あっ」
扉の向こうにいたのは、なぜかスーツ姿のおじさんだった……なんか、似合ってない。
「おー、久し振り!元気にしてた?」
「……おじさん?えっ、なんで?」
「なんでって、君に会いに来たに決まってるじゃんか」
ガシッと肩を掴まれてリビングに連れて行かれる。リビングでは人が二人テーブルを囲んでいた。一人はおばさん。で、もう一人は……。
ショートカットの女の人が振り返る。
「……あ、」
「やっと来た!久っさし振りー!」
首に凄い力がかかってガクンと頭が揺れる。うしにいたおじさんに支えてもらってなんとか受け止めた。
このテンションの高さには覚えがある。ちょっと思ってたより高過ぎる気もするけど。
首にしがみつく手を剥がして顔を見る。にこにこと溢れそうな笑顔。「大丈夫だよ」と言って自信満々に浮かべていた、あの笑顔。
「え、あの……?」
「私だよ私!思い出した?」
またドスンと来た。グワングワン、視界が回る。
おじさんに促されて、わけが分からないままテーブルについた。おばさんが出してくれた麦茶を飲んで気をとりなおす。
「……それで、おじさんはなんでここに?」
「この子が君に会いたいって言ってたから、僕もご無沙汰だったし、お邪魔しちゃおうかなって。驚いた?」
「驚いたよ……」
あまりにも見透かしたようなタイミングだったから。
「でさ、急な話でなんだけど、明日暇?もし空いてたら三人で出掛けようかと思ってたんだけど、どうかな?」
「えっと……」
私はいいけど、突然のことだしおばさんはどうなんだろう……。顔を伺うと、おばさんは笑顔で頷いた。
「行ってきなさいよ。ここしばらく出かけてなかったでしょ?二人には泊まっていってもらって、明日出掛ければ」
「えっ、泊まっていいんですか!?」
「別に構わないわよ。むしろ、彼なんか最初から泊まってくつもりだったろうし」
おばさんがチラリとおじさんを目で指すと、おじさんは頭を掻いて照れくさそうに笑った。
「あはは……バレてました?」
「バレバレよ」
三人がドッと笑う。私だけ、テンションがついていけてない。
泊まるの?え、二人が?泊まり?
「やったっ!ねえ、一緒に寝てもいい?」
「え……うん、まあ、いいけど……」
「じゃあ、早速部屋に行こうよ!どんな部屋なのか見てみたい!」
「あ、じゃあ……こっち?」
すぐに私の部屋にはもう一つ布団が敷かれて、おばさんは五人分の晩御飯を作り始めた。
「いやっほっいー!」
バフン、と音を立てて布団が凹んだ。床が揺れるのが分かる。
「ちょっと、揺らし過ぎだよ」
「あ、ごめん。つい……」
謝りながらも今度は布団の上を転がりまわってバタバタと足を動かす。夜中とは思えないくらい元気だ。
「もう寝ようよ……」
彼女のテンションに付き合ってたらいつまで経っても寝れなそうだから、先にベッドに入って布団を首元まで掛ける。すると、隣でも布団に潜り込む音がした。
「電気、消すよ」
「あーい」
パチン。部屋が真っ暗になる。少しずつ目が慣れてくると、天井の照明の形がぼんやり見えてきた。
「……ねえ、起きてる?」
「もちろん。なんで?」
「いや……なんでだろう?」
「あはは、なにそれー。……ところでさ、学校、どんな感じ?」
声のトーンを抑えた彼女の問い返し。ピク、と手の筋肉が反応して指が動く。
変に緊張するのは、さっきとはうって変わった静かな雰囲気のせいかも知れない。
「ん……相変わらずだよ」
「そっか」
「……そっちは?今まで、どうしてたの?」
「……トイレで私を見つけてくれたことあったよね。見て分かったと思うんだけど、あのとき私、あの人たちにあそこに連れ込まれて、水かけられたの。『なにチクってくれてんだ』って。逃げなきゃって分かってたんだけどさ、バケツを頭に被った瞬間になんか、歩けなくなっちゃって。座り込んじゃってさ、それから何度も何度も水かけられた。蹴られたし、叩かれた。ヘアゴムも無くしちゃった。あれ、一番のお気に入りだったんだけど」
「うん……」
想像はついていた。ついていたけど、本人から聞いてみると想像よりずっと酷くて、なにを言ったらいいのか分からない。私が元凶だと思うと、尚更。
「それからさ、なんか学校行けなくなっちゃった。悪いのはあの人たちなのに、学校行って、もう一回先生に言えばいいのに。でも、もし、って思うと怖くて。お母さんとお父さんには体調が悪いって言って休ませて貰ってたんだけど、家で顔合わせる度に聞いてくるの。『大丈夫なのか』って。聞かれる度に苦しくって、気まずかった。だから、外に出歩くようにしてたの」
「……それで、あんな怪しい所にいたの?」
「私も、ああいう所には近づかないようにしてたんだけど、道に迷った時に、親切に道案内してくれた人がいてさ。その人があそこに私を連れてって……最初は笑ってくれたし、優しくしてくれて嬉しかったんだけど、あの人たちが他の私みたいな女の子を捕まえてあの店に無理矢理連れ込んでるのを見て段々怖くなって、行かないようにしてたの。けどあの人たち、私の駅まで来て……。『今まで親切にしてやったんだから、少しはこっちの言うことも聞いてくれ』って言われたら、どうしようもなかった。お兄さんと助けに来てくれた時あったじゃない?あのとき私、知らないおじさんと一日出掛けろって言われてたの」
「それって……」
「援交って言うんだっけ、ああいうの。お兄さんが言うにはほとんど売春に近いらしいんだけど。言われた時は断ったんだけど、何度も何度もやれって言ってきてて、前の日には凄くキツい言い方もされてて……もう、やろうかなって、」
「あのさ、」
もう聞いてられない。もうこれ以上聞きたくない。布団を跳ね除けてベッドの上に正座する。朧げだけど、うっすら布団に包まる彼女の影は見えた。
その影に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。それもこれも全部、私のせいだったのに、私の為だったのに、私、ずっと考えないようにしてて、無視してて、そのせいでそんなことになって……本当に、ごめんなさい……」
彼女は、すごく元気になった。笑って、笑って、笑いすぎて泣いていた。でも本当は、本心は、私を恨んでるのかも知れない。憎んでるのかも知れない。学校にいられなくなった元凶で、更には傷ついているのを見過ごした私を。
衣擦れの音。段々大きくなって、両肩に暖かい感触が伝わる。それは肩を掴んで、ゆっくり、私の顔を上げさせた。
「……謝んなくていいよ」
暖かい感触が、前から私を包んだ。首筋に吐息がかかる。シャンプーの匂いがいっぱいに広がる。背中に手が回されて、後ろに押し倒された。
「……あのあとね、お兄さん、ずっと私のそばにいてくれたの。家にまで来てくれた。私がお父さんとお母さんに本当のことを話すのに付き合ってくれて、一緒に説得してくれた。私、今転校して違う高校にいるんだ。お兄さんが勧めてくれたんだけど、楽しいよ。そのあとも時々遊びに連れてってくれてるし、今日ここに来たのだって、私が君に会いたいって言ったらすぐに連れてきてくれたの」
それは……私にしてくれたのと同じだ。おじさんは、私を助けてくれて、遊びに連れてってくれて、新しい家に入れてくれて。私が助けを呼んだ時も、すぐに来てくれた。
「ありがとうね」
すぐ耳元で、くぐもった声が聞こえる。
「もうダメかなってときに助けてくれて、すっごく嬉しかった。学校のことはショックだったけど、でも私が先生の所に行ったときから心配してくれてたでしょ?水をかけられたのは、私が一人で舞い上がってそれに気づかなかった自業自得だし、気にしないでよ。……私は、もう十分助かってるし、幸せだからさ」
「……………」
そのまま、いつまでそうしていたんだろう。気がついたら、朝だった。
ジリリリリと目覚ましがけたたましく鳴る。手探りで止めて、起き上がる。肩からゴロンと何かが落ちる感覚。すぐ横でショートカットの子が寝息を立てていた……あれ、もしかして添い寝してた?
「……起きてー」
そっと揺すると、パチリと目を開けた。二度瞬きして、跳ね起きる。
「お腹空いたっ!」
「へっ?」
「お腹空いたっ!早く行こっ!朝ごはん!」
言うや否や、私の手を掴んで部屋を飛び出す。昨日と同じ、ハイテンションな彼女に戻っていた。
リビングでは私服に着替えたおじさんとおばさんがもう起きていて、笑いながらなにか話していた。ドアを勢いよく開けて、彼女は飛び込んでいく。
「おはよーっ!」
「……おはよう」
「おはよう。昨日はよく寝れた?」
「うん、ばっちり!」
「ならよかった」
朝御飯はもう出来ていたようで、おばさんがテーブルにお皿を並べてくれたのを隣り合わせに座って食べる。
「二人とも、ご飯食べ終わったら着替えて出掛ける準備しといてね」
「どこ行くの?」
「内緒。早く知りたかったら、早く準備してきて」
「だって!急がなきゃっ」
「うん」
去年の夏を最後におじさんとは遊びに行ってない。久し振りのお出かけは、やっぱり楽しみだ。自然と箸を動かす手も早くなって、いつもの半分くらいの時間で朝御飯を食べ終えてしまった。
部屋に戻って服を着替える。彼女が鞄から取り出した服に着替えるのを横目に見ながら、私も次に遊ぶ時にと前から決めてあった服に着替える。
ほんの少し青みがかかった白のワンピースに、同じ色のつばの広い帽子。ヘアゴムは……一応鞄に入れとこう。
鏡の前に立って、クルッとターン。おじさんと映画を観に行ったときに買ってもらった服。一番思い出深い服。
おじさん、覚えてるかな。
「よし、キマってる!」
彼女の着替えは終わったらしい。私もいそがなきゃ。
棚から、おばさんに貰った化粧箱を取り出す。箱を開けたはいいけどどうしようか悩んで、結局リップを塗るだけにしておいた。
「準備出来たー?」
「うん。出来たよ」
「よしっ、じゃあしゅっぱーつ!」
下では、おじさんが車の鍵を持って待っていた。……もしかしたら、おじさんが鍵をちゃんと持ってるのを始めて見たかも知れない。
「準備出来たみたいだね。じゃ、僕は先に行って車を出すから、靴が履けたら来て」
「うん」
リビングから出てきたおばさんにメイクをチェックしてもらって、鞄を肩にかける。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
ドアを開けようとしたところで、彼女はクルッと振り返って、おばさんにお辞儀した。
「あの、今日は泊めて頂いてありがとうございました。ご飯、美味しかったです」
「いえいえ、こちらこそ楽しかったわ。またいらっしゃいね」
「はい、是非!」
今度こそドアを開ける。途端、わっと蝉の声が押し寄せてきた。射し込む太陽の光が眩しい。堪らず家の前に停まっている水色の車に乗り込んだ。車の中はクーラーが効いていて、快適だ。
「いやぁ、やっぱり外は暑いね。さすが夏」
「だねー。でさ、どこ行くの?」
「海に行こうよ」
「え、」
「え?」
二人の声が重なった。海?
顔を見合わせると、ありありと顔に考えていることが出ていた。きっと私もそうに違いない。
「私たち、水着なんて持ってないよ?」
「それは現地調達すれば大丈夫だよ。それじゃあ出発するから、シートベルト締めてねー」
言うや否や車が動き出す。私たちはもう一回顔を見合わせた。
向こうで買えば大丈夫……なの?
海は結構遠い所にあるらしくて、もうかれこれ三時間くらい経っている。窓の外の景色もビル、山、ビルを繰り返して今は初めてみる街を走っていた。こんな遠くに来たんだ。
かなり長い時間走り通しだけど、ずっと喋ったりしりとりしたりしてたからなんだかあっという間だ……負け続けて躍起になってたせいもあるかも知れないけど。
時計を見ると、十二時になろうとしている。もうこんな時間。退屈はしてないけど、この時間になるとさすがに……。
「……あ、もう十二時か。なら、海に行く前にさ、先にお昼にする?」
「うん、お腹空いたっ」
「私も、先にお昼がいい」
「じゃあそうしようか。良い所知ってるんだよ」
そう言っておじさんは信号を右に曲がった。
それから十分もしないうちに、車はは民家みたいな建物の隣に停まった。
「ここって、なんのお店?」
「ラーメンの店。すっごく辛いラーメンがあるんだよ。それでちょっとやってみたいことがあってさ」
「へぇ……」
扉を開ける。中にはカウンターの席しかなくて、向こうには手拭いを頭に巻いたおじいさんがいた。おじさんを見るとにやりと笑う。
「よぉ、いらっしゃい。久し振りだな」
「どーも。元気でした?」
「おうよ。おめーも元気そうだな。かわいい女の子二人も連れて、両手に華って奴か?」
「そんなんじゃないですよ。ラーメン三つ下さい。一つは超劇辛ので」
「あいよ」
カウンター席に並んで座る。漂う湯気が熱くて、もう汗ばんできた。
「お兄さん。なんで辛いの頼んだの?」
「いやさ、ここの超劇辛ラーメンなら、君にも味がわかるんじゃないかと思って」
「え?味が分かるって、なんの話?」
「……あー、」
聞くと、おじさんは気まずそうに目を逸らして彼女を見る。彼女は笑ってあとを引き継いだ。
「私ね、食べ物の味が分からないの。学校に行けなくなってしばらくした頃からだっけかな」
「え……でもだって、」
彼女は、昨日おばさんの料理を誰よりも食べて、誰よりも喜んでいた。味が分からないようには見えなかった。
「ストレス性のものだとは思うんだけど、実はまだ治ってないんだ。だから、凄く強烈な味のを食べればもしかしたら味が分かるんじゃないかと思って、僕が知ってる一番刺激の強い食べ物の店にきてみたんだよ」
「……………」
「はいよ。お待ち」
なんて言ったらいいか分からなくて、でもなにか言わなきゃと口を開いたとき、遮るようにラーメンが運ばれてきた。二つは醤油味の普通のラーメンだけど、おじさんの前に置かれたラーメンは凄い色をしている。
赤色のスープに、所々浮いた赤い脂。野菜も麺も赤色に染まりかけていて、見てるだけで水が欲しくなる。
「……うわー、初めて頼んだけど、ここのってこんな凄いんですね……」
「おうよ。ウチ一番の自慢だからな。辛さは保証するぜ」
おじさんはしばらく仰け反ってラーメンを見ていたけど、一つ深呼吸をして箸を手に取った。
「取り敢えず僕が一口食べてみるから、それで大丈夫そうだったら食べてみるといいよ」
そう言って、まずはレンゲでスープを掬う。息を吹きかけて冷まして、一口。
「くぁwせdrftgyふじこlp!!?」
……うん、取り敢えず余りの辛さに吐きかけて、それを慌てて堪えた、ということは分かった。
おじさんは無言のままバンバンとカウンターを叩いて、差し出されたコップの水を一気に飲み干すとふらふらと立ち上がる。
「どこ行くの?」
「……ちょ、っとトイレ……」
「あ……うん」
パタン、とドアが閉まる音がして、お店の中が一瞬静まりかえる。
「ッがはははははははっ!なんだアレ!」
「あっはははははっ!!お兄さん、あっははははっ!」
すぐに建物が揺れそうな勢いの大爆笑が起きた。二人があんまり笑うものだから、私もつられて笑ってしまう。
「……っくく、くくくっ」
「あはっ、あははっ、あっ、ははははははははっ」
「がはははははははははははっ!!」
「……君たち、笑いすぎじゃない?」
「あ、おじさん。大丈夫……っくくく……」
「だから、笑いすぎだってば」
おじさんはまだちょっと赤い顔のまま席に座る。私の分の水を差し出すと、あっと言う間に飲み干してしまった。
「お兄さん、そんなに辛かったの?大袈裟じゃない?」
「いや、これマジで洒落にならない辛さだからね?」
「えー?ホントかなー?」
「なら一口食べてみなよ」
おじさんがラーメンのお皿を押しやると、彼女は醤油ラーメンを啜っていた手を止めて、真っ赤なラーメンに移した。
「じゃ、食べてみよーっと」
「スープぐらいにしといた方が、ってあっ!」
彼女は止める間もなく麺をごっそり掴んで口に入れてしまった。
「んー、味するかなー……あっ」
一口食べて首を傾げると、もう一口。今度はスープもたっぷりレンゲ一杯分流し込んで、口の中でもごもごさせる。
と、クワッ!と音を立てんばかりに目を見開いた。おじさんを見、私を見る。その顔がどんどん赤くなっていく。
「……か、辛っ。辛いっ!お兄さん、辛いよっ!!」
「……え、本当に?」
「うんっ。ホント、ホントに辛い、あ、か、辛すぎっ……水、水頂戴……」水を差し出す。一瞬で空になって返ってきたので、もう一杯貰って渡した。
「……ぷはー。あー、辛かった。でもやった。味が分かったっ!」
「本当……?」
正直、これでいいのかと思わなくもない。
味が分からないなら、尋常じゃない刺激を与えてみようって、こんな乱暴な話はない。
「うんっ!」
でも彼女は本当に嬉しいようで、がばっと首に抱きついてきた。椅子から転げ落ちそうになるのを踏ん張って抱き止める。こうも喜んでいるのを見ると、これはこれでいいのかなとも思う……けど、おじさんたちの微笑ましい光景を見る目が辛い。
スキンシップは嬉しいけど、あの目でずっと見られてるのは恥ずかしい。なんとかして逃げよう。
「ね、ねぇ、あのラーメン、私も食べていい?」
「ん、これ?いいよ、食べてみなよ」
おじさんに聞いてみると、二つ返事で丼を渡してくれた。ニヤニヤしてるし、私にも食べさせて同じ苦しみを味わらせようと思ってるのかも知れない。
「……頂きます」
彼女を見習ってまず麺を啜る。真っ赤なスープが絡んで、一瞬で口の中が熱気で満たされるのが分かる。
……うわ、辛っ……想像以上に辛い。喉は焼けるし、鼻の奥がツーンとする。舌が痺れる。
「どう?お味は」
気がつけば三人が私の反応を楽しみに見ていた……なんか、ここで辛いって言ってギブアップするのも嫌だ。涙目になりそうなのをぐっと堪えて睨み返す。
「……別に、辛いけど、食べられなくはない」
「おいおい、マジかよお嬢ちゃん。無理はしなくていいんだぜ?」
「そうだよ。あんなに辛いんだよ?」
「ほらほらー、ホントは辛いんでしょー?辛いんでしょー?正直に言っちゃいなよー」
やっぱり信じられてない。確かに正直に言うと辛いし、今にも泣きそうだけど、ここまで来たら今更引けない。
「……別に、無理なんかしてない。全部食べられるもん。おじさん、私の分食べといて。私これ食べるから」
「え……えっ?本当に言ってる?」
もう返事はしない。麺を啜る。もやしを噛み砕く。チャーシューを引きちぎる。浮いた脂を飲み干す。
何回これを繰り返したか。
麺がなくなる頃には鼻水が出かけて、視界は涙で歪んでいた。
「ごちそうさまっ」
勝った。箸とレンゲを置いて水を飲む。足りなくてもう一杯。四杯目を飲んでようやく目も鼻も落ち着く。
「どう?ちゃんと食べられたでしょ?」
どうだと思って目をあげると、三人とも無言だった。ただただ無言でずっと私を見つめている。
え、あれ、どうしたの?
「……嘘だろ……オレのラーメンが、負けた……」
おじいさんがカウンターの向こうで崩れ落ちる。
「ね、ねぇ大丈夫!?口とか、喉とか、おかしくなってない!?」
肩を掴まれて強く揺すられる。しまいには口を開けられて覗き込まれた。
「なひかほんなにほはひいの?」
「だって、あんなに辛いのを一人で全部食べるなんておかしいよ!味覚障害だよ!私のなんかよりよっぽど心配だよ!」
そんなにおかしいことかな。まあ、心当たりはあるんだけど。
小さい頃から家じゃ好き嫌いをする余裕なんてなくて、食べられるかどうかも怪しい物も食べたりしていた。そのときに舌とか胃とかは結構鍛えられたはずで、だからこの劇辛ラーメンもなんとか食べられたんだと思う。まさかあのときの経験がこんなことで役に立つとは思わなかったけど。
でも、こんなところで役立つなら、あのときのあれこれも案外悪いものじゃなかったのかも。
「大丈夫。私、こういうの結構強いの。そんなことよりさ、早く海行こうよ。なんか暑くなってきちゃった」
「あ、ああ、うん……ならそろそろ行こうか。僕もちょい暑いし」
おじさんが席を立っておじいさんにお金を払おうとすると、おじいさんはそれを押し返して私を見た。
「……なぁ、お嬢ちゃん。オレのラーメンをあんなにペロッと食べられたのは初めてだ。だからよ、金は要らねぇから、また来てくれないか。次来るときまでにもっととびっきりに辛いラーメン作っとくから、リベンジさせてくれや」
「うん、また来る」
ここのラーメンは正直人が食べるものじゃない気がするけど、醤油ラーメンは普通に美味しかったし、なにより楽しかった。また来たい。そう答えると、おじいさんは、歯を見せて気持ち良さそうに笑った。
「おう。待ってるぜ」
おじいさんに手を振ってお店を出る。日はもう真上に昇っていて、じわっと汗が滲み出てくる。車のエアコンからは生暖かい風が吹き出てきた。
「お兄さん、ここから海ってどのくらい?」
「すぐそばだから、そんなに時間はかからないんじゃないかな」
車が動き出す。五分くらい経つと並んだ家々の間から海が見えるようになって、すぐ車は海辺の駐車場に着いた。
車を降りると、ぶわっと風が吹きつける。慌てて帽子とスカートを抑えた。
この風、おじさんと一緒に遊びに行ったときのと同じだ。けど昔は分からなかった風も今ならこれが海風か陸風か分かる。これは海風の方。昼間、海側から陸に吹く風。
浜辺に降りてみると、人があまりいなかった。夏だし、もっと人がいるかと思ったけど、少し以外。でも、実質貸し切り状態だと思うと嬉しい。
「じゃあ、濡れてもいいようになにか買ってきなよ。たぶんそこに売ってるから」
「おじさんは?」
「僕はここでレジャーシートとか準備しとくよ」
おじさんが教えてくれた小さな平屋のお店に二人で向かう。その途中、無意識にポケットに手を入れて、大事なことに気がついた。
「ねえ、ポケットの中になにか入ってない?」
「え?ポケット?なんで?」
「いいからいいから」
私のポケットじゃないなら、そっちにあるはず。案の定、彼女はショートパンツのポケットに手を入れて目を丸くしていた。
「あれ?これ……」
ポケットから出した手には、黒い財布がある。何度も見た、おじさんの財布。やっぱりこっちに入れてたか。
「まただ……」
「もしかして、前にもこういうのあった?」
「うん。転校したあと、お兄さん何回か遊びに連れてってくれたんだけど、なにか買おうとする度にポケットとか鞄にこれが入ってて」
「そうなんだ。実は私もなの。中学生のときに何回かやられた」
「そうなの?……でも、なんでこんなヘンなことするんだろ」
「だよね、普通に渡してくれればいいのに。他にもさ、いきなり慣れないお店に一人にされたりもしたし、時々よく分かんないことするんだよね」
「あっははっ、ホントよく分かんないね、お兄さん。優しいから私は好きだけど」
「うん。まあ私も好き、かな」
そんなおじさん話で盛り上がってる間にお店に着いた。『海の家』と書かれた看板が立っていて、中にはラムネや軽食だったりシャツや水着が並んでいた。
「なににする?水着とか?」
ビキニって言うんだっけ、こういうの。上下にセパレートした色とりどりの水着たち。可愛いけど、これを私が着るってなると……、
「うーん、なんか恥ずかしい……」
「うん……」
でもこの服を濡らしたくはないし……。そう思って他のものを探すと、隅の方でハンガーにかけられた物が目に入った。
「あ、ねえ、これとかどう?」
「いいね!私もこれにするっ、お揃いで!」
二人とも異議はなかったので、早速それを買って、海の家の更衣室で着替えさせて貰う。そのままおじさんの所に戻ろ、
「あっ!ちょちょちょ、こっち来て!」
腕を掴まれて海の家の陰に連れ込まれた。
「なになに、どうしたの?」
突然おじさんに背を向けて歩き出した彼女に尋ねると、よくぞ聞いてくれました、という風に笑って耳元に口を寄せてきた。
「あのさ、まずはさっきの服でお兄さんの所まで戻って、そこでこの水着見せようよ」
「え……おじさんの前で着替えるの?」
正気か?
「だいじょーぶ!水着を下に着てけばいいんだよ!」
「なるほど……」
水着の丈はワンピースより短いから、上手くやれば隠せそうだし……おじさんを驚かせるのも面白いかも。
「……やってみよっか」
「よしきた!」
早速上に着てきた服を着て、おじさんの所に戻る。おじさんはレジャーシートの上で寛いでいた。
「おかえりー」
呑気な声でおじさんが迎えてくれる。私と彼女は目配せして、同時に服の裾に手をかけた。
「くぁwせdrftgyふじこlp!!?」
本日二回目のふじこ。おじさんは火がついたように飛び上がってあちらを向いた。
「ぷ、ぷっあははははっ!」
「もーおじさん、驚きすぎだよー。別にこっち見たって大丈夫だよ」
「い、いや、いやいやいや!」
正面に回り込む。おじさんは手で目を隠していた。……すごい防御力。
「本当に大丈夫だって」
「…………?」
おじさんは指を少し開いて、隙間から目を覗かせた。私たちが着替え終わっているのを確認して、ようやく手を離した。
「……びっくりした……。急に服脱ぎだすから……」
「そんなことしないよ。ちゃんと下に着てたに決まってるじゃん」
「なら良かった……驚かせないでよ」
おじさんは 溜息を吐くと、私たちをじっと見つめた。
「どうしたの?」
「……いや、お揃いにしたんだなって思って」
「あっ、気づいた?で、どうどう、似合ってる?」
彼女がスカートの裾を摘んで見せる。私のと色違いの、お揃いのワンピース型のだ。これなら私がさっき着てたのとデザインは似てるし、あんまり抵抗もない。
「……うん、似合ってるよ。お揃いなのも個人的にポイント高い」
おじさんはそう言って親指を立てて見せる。そんなポイントがあったなんて知らなかったけど、稼げたならよかった。
「やったっ。じゃあ、お兄さんも驚かせれたことだし、早く海行こ!」
「うんっ。……あれ、おじさんは?」
今にも駆け出しそうな彼女とは正反対に、おじさんはシートから動く気配がない。聞くと、おじさんは笑って首を振った。
「僕はいいかな。二人で遊んできなよ」
「ふぅん……」
そう手まで振られると、これ以上は食い下がりにくい。あとでまた呼んでみることにして、海に向かって走った。
海の水は綺麗で、目を凝らすと少し離れた水底まで見える。足をつけてみると、チャプチャプと足首にかかって少しくすぐったい。
ザァーッ……ザァー……。
遠くから音を立てて波が押し寄せる。一気に膝下まで水に浸かったと思うと、今度は勢いを増して引いていく。
「ひゃっ!?」
「うわっ」
その力に引かれて足が滑る。踏ん張ろうにも柔らかい砂はずるずる滑って、バシャッと盛大に水飛沫を上げて二人仲良く尻餅をついた。
「わっ、水飲んじゃった。しょっぱい……」
転んだ拍子に跳ねた水を飲んだらしい彼女が、必死に顔を拭っている。
「ねえ」
「ん?なに?」
「えいっ」
手で掬った水を無防備な顔に思いっきり浴びせる。クリティカルヒット。仰け反って、勢い余って背中から倒れる。
「ぶっ!?な、なにするの!」
「飲んだ?」
「飲んじゃったじゃん!」
バシャッ。どんな顔してるかなと覗き込んだところへ反撃の水鉄砲。口だけじゃなくて鼻にも入って、鼻の奥がツーンとする。
「ゴホッ、ゴホッ!ちょっ、鼻には入れてないのに!」
「やられたらやり返す、倍返しだよ!」
「この……っ!私、絶対に土下座はしないからね!」
そこからは不意討ちとかフェイントとかは一切考えないで、ただ水をかけ合う。すると、長い髪が段々邪魔になってくる。
「ちょっとタイム!」
まだ水をかけてこようとするのを手で制して、おじさんの所まで戻る。
「おじさん、私の鞄取って!」
鞄には念のため持ってきた白い花のヘアゴムが入っている。それで髪を纏めて、再び戦場へ。
そんな水のかけあいは、疲れてきてどちらともなく止めるまで続いた。
「……はっ、はぁ……」
「あー……疲れた」
わざと大きく水飛沫を上げて仰向けに寝転がる。耳まで水に浸かると、水が当たって立てるチャポンという音が不思議なくらいすぐそばで聞こえる。
そのどこかリズミカルな音を楽しんでいると、左手の指に何かが当たる感触がした。チョン、と当たると離れて、少し待つとまたチョンとくる。
なにこれ?
しばらく待っても何かは当たったり離れたりを繰り返すだけ。いい加減待ちきれなくなって指を動かすと、いきなり凄まじい痛みが走った。
ガブッ。真っ先に頭の中にそんな擬音が浮かんだ。噛みつかれたっ!
「うわぁ!?」
立ち上がって手を水から出すと、人差し指に蟹がぶら下がっていた。大きい方のハサミで指を挟んでいる。
「え、なに、どうしたの……って、蟹?」
「痛い痛い痛い、離してよっ!」
手を振りまわしても蟹は頑なに指を離そうとしない。どころか振る度に遠心力がかかって、痛みはどんどん増していく。
「ぷっ、あはははっ、はははははっ、蟹に指挟まれてる……あっはははっ」
「笑い事じゃないよ!痛ったたたた……」
「あっはははははっ」
「なになに、どうしたの?」
やおら大騒ぎになったのを見ておじさんがやってきた。図らずも呼び出せてしまったのはラッキーだけど、今はそれどころじゃない。痛い痛い痛い。
「おっおじさん、蟹!蟹取って!」
左手を差し出す。おじさんは目の前にぶら下がった蟹を見て、まず噴き出した。
「……ぷっ、ぷふふふっ」
「もうっ、おじさんまで!早く取ってよ!」
「あ、ああごめん。今取るよ」
おじさんは蟹のハサミの上側と下側を持って、両手でこじ開けた。案外蟹は素直に離れて、人差し指から痛みが引く。指に、真っ赤な跡が残った。
「ありがと……痛かった……」
「にしても、蟹に挟まれるなんて君も災難だね。餌と間違えたのかな?」
おじさんが蟹を砂浜に下ろすと、蟹は蟹歩きで近くの岩礁に向かって行った。
「あはははっ。あー笑った。あれ、蟹は?」
ひとしきり笑い転げた彼女は、おじさんの指差した先の蟹をじっと見ると、あとを追って歩き出した。
「どこ行くの?」
「あの蟹の巣を見てくる。一緒に来ない?」
「えー……」
人差し指の腹を見る。まだ赤みは引いてなくて、見るだけであの痛みが蘇る。これをつけた因縁の蟹の巣窟……行きたくないなぁ。
悩んでいると、おじさんが立ち上がった。彼女と連れ立って蟹のあとを追おうとする。
「え、おじさんも行くの?」
「うん。あそこに行くなら一応僕も行かないとだし」
「……待って、私も行く」
こんな所で一人になってもつまらない。指をさすりながらあとに続いた。
岩はゴツゴツしていて、肌が少し擦れるだけで痛みが走るくらいザラザラだった。足を滑らせないように、おじさんに手を引いてもらいながら登る。
岩を登りきると、視線が高くなった分海がよく見えた。さっきは見えなかった遠くの波まで見える。これなら、来てよかったかも。
「あっ!二人共こっち来て!ここすごいよ!」
少し離れた所から私たちを呼ぶ声がする。行ってみると、声の主は窪んだ所にできた水溜りを覗いていた。
「ほら!色んな生き物がいる!さっきの蟹も!」
う、蟹……。
恐る恐る覗くと、水溜りの中は確かに色んな生き物で賑やかだった。
フジツボが、見たこともない触手みたいな物を先端から出している。名前も分からない巻貝がのそのそと動いている。水に驚いたフナムシが走って、岩と岩の隙間に蟹がひそんでいる。大きくもない水溜りに、沢山の生き物が動いていた。
「……あれ?」
底の方に、なにか白っぽいのが落ちている。なんだろう?
そっと手を水に入れて、蟹に挟まれないように気をつけてその白いのを取ってみる。……なんだろう、これ。
それはラグビーボールみたいな形をしていて、よく見ると茶色い斑点がある。裏側にはギザギザした縁の切れ目が入っていて、中は空っぽだ。
「おじさん、これなに?」
少し離れた所で波を眺めていたおじさんに見せてみる。おじさんはそれを手に取ると、目を丸くした。
「へー、これ宝貝じゃん。随分珍しいの見つけたね」
「宝貝?」
「うん。宝貝っていう貝。貝殻が綺麗で、お金に使われたこともあるから、宝貝っていうんだって」
「そうなんだ」
「え、なになに?なにか見つけたの?」
私とおじさんが話しているのを聞きつけて寄ってきた彼女に宝貝の貝殻を見せる。
「すごっ!私も探そっと!」
話を聞くなり目を輝かせた彼女は、私が宝貝を見つけた水溜りを熱心に探し出した。
「たぶん波に打ち上げられたんだと思うけど、もしかしたら他にもあるかも知れないし、探してみたら?」
「うん。探してみる」
私も岩礁の上を歩き回って、さっきみたいな水溜りを探して覗き込む。うーん、ここはない。ここもない。あそこも、そこも……。
「あっ!あった!あったよお兄さん!」
しばらくして、そんな歓声が聞こえた。ぴょんぴょんと跳ねる彼女の手には、私が見つけたのと同じ形のともう一つ、丸っぽいものが握られていた。
「ほらほら、これっ。宝貝だよね!」
「そうだね、宝貝だ。まさか二つもあるなんて、驚いたな」
「ねえ、それは?」
彼女は少し黄色味がかかった宝貝ともう一つ、丸い形で、所々から棘のような物が生えた貝殻を持っていた。
「これね、なんか宝貝の隣に落ちてたの。お兄さん、これはなに?」
おじさんはそれを受け取ると、目の高さに掲げてじっと見つめた。
「なんだろうこれ……巻貝で棘のある貝って……あっ!」
「え、なになに?」
「これ、もしかしてサザエじゃない?」
「サザエ?」
サザエって、あの私が生まれる前からやってるっていうアニメの?サザエさん?
「そう。珍味で有名なんだけど、こんな所で採れるなんて、相当レアだよ」
「やったー!これね、岩の隙間に挟まってたの!こう、二つ並んで、ちょこんって!」
ふーん、岩の隙間かあ……。
はしゃぐ彼女を横目に、一度見て回った場所をもう一周して、水溜りだけじゃない水のない岩の窪みや隙間も見て回る……あっ!
岩の隙間の奥、影になった所から白いものが飛び出している。貝殻だ。手を伸ばして、人差し指と中指で挟んで引っ張る。岩に引っかかってなかなか抜けない。何度も角度を変えたりして、ようやく取れた。
それは、見たこともない形をしていた。一筆書きした星みたいな、棘が五本飛び出した形。
「おじさん、これなに?」
早速持っていって見てもらう。私が手に乗せて差し出したのを見るなり、おじさんは目を丸くした。
「え、それヒトデじゃない?すっげー、こんな感じになったヒトデって、初めて見た」
「え、本当?そんなに凄いの?」
「うん、なかなか見れるものじゃないと思うよ」
やった。内心でガッツポーズ。
「おじさん、失くさないように持ってて!」
宝貝とヒトデを押し付けて、まだ確認してない場所に急ぐ。もっと他のも見つけたい。
「お兄さーん!これなにー?」
「それは……アワビかな?」
「これは?」
「そっちは多分モノアラガイだね」
「じゃあじゃあ、これは?」
「うおっ、亀の手じゃん!へー、こんなのも流れてくるんだ」
「おじさん、これ」
「あ、ホタテ!これ僕が一番好きな貝なんだよ。そんなにバンバン見つかるなら、僕も探してみようかな」
貝探しは、さっきまで水から顔を出していた岩が水に浸かっているのを見たおじさんが「引き上げよう」と言うまで続いた。
拾った貝を抱えてシートの所まで戻る。いつのまにか水面が上がって、シートのすぐそばまで波が寄せてきていた。私たちが水をかけあった所は、もう海の底。
「潮が満ちてきたね」
遥か遠くで白い水飛沫を立てる波を見つめながら、おじさんが呟いた。
「潮?」
「そう。海ってね、干潮と満潮ってのがあるんだよ。だからほら、」
おじさんが指差した先には、さっきまで貝集めをしていた岩礁がある。登る前より明らかに小さくなっている。
「ああいう岩みたいなのは、干潮のときは外に出てるけど、満潮になると水に浸かるんだよ。だから、海とかで遊ぶときには気をつけないとね」
「ふうん……」
シートに座って、みんなで拾った貝殻を広げる。色んな形、色んな色の貝殻がシート一面に広がった。
これが宝貝で、これはヒトデ、こっちはモノアラガイ、それにホタテ。結構拾ったなあ。
二人も貝殻を広げていた。サザエ、亀の手、アサリ、フジツボ……シートが青いから、まるで海の中みたい。二人も同じことを思っていたようで、黙って並んだ貝を見ていた。
「……あ、そうだ。二人とも、ちょっといいかな」
沈黙を破ったのはおじさんだった。大事なことを思い出したという風に手を鳴らして、私たちに向き直る。
「僕、もう君たちには会わないかも知れない」
「え?」
いきなりなんの話?
「これからの話」
おじさんは真面目な目で私と、話についていけなくてポカンとしている彼女を見つめる。
「実は僕さ、明日から海外に行くことになってて……何年間か、帰ってこれなそうなんだよね」
「えっ!?」
ようやく話を呑み込んだ彼女が素っ頓狂な声を上げる。反対に私の声は沈んで、押し殺すような声になった。
「……それって、仕事?」
「そ、仕事。それも、近年稀に見る大っきな仕事。いつ帰れるか分からないし、君たちと会うのも、これが最後になるかも知れないような」
「え……え、待って!会うのが最後になるかも知れないって、それって!」
おじさんの不穏な物言いに動転した彼女が、おじさんの肩を掴む。おじさんは宥めるように微笑んだ。
「本当はもうちょっと前から来いって言われてたんだけどさ、今出て行くわけにもいかないからって先延ばしにしてたんだよね。ただ、それももう限界かな。向こうも相当切羽詰まってるみたいだし。……でもまあ、味の方も少し光明は見えたし、君たちもすっかり元気になったし、もう行っても大丈夫かなって思って」
「大丈夫って……大丈夫って!おじさんがいなくなったら、それで元気なくしちゃうよ!」
えー、それは困るなあ。
おじさんは心底困ったように笑った……本当に、会えないんだ。
口の中で呟く。
なんでだろう、自分の心に自分で違和感を覚える。本当なら、私も彼女みたいにショックを受けそうなものなのに、不思議と絶望感がない。
これが最後だなんて、思わない。
だっておじさんは、絶対に会えないとは言ってないから。仕事が大変で、そのせいで会えなくなる『かも』と言っただけだから。おじさんがその仕事を終わらせれば、また会える。
……もちろん、今までどこまでも私たちのために動いてくれたおじさんがそうまで言う理由は分かってるっていうのもある。駄々を捏ねたって、この人に迷惑をかけるだけだ。
もう高校生なんだから、子供じゃないんだから、自立しないと。
常識を弁えないと。
でも。それでも。
「……だからなに?」
「え?」
「だからなに!」
勢いよく立ち上がって振りほどく。おじさんもおじさんに抱きつく彼女も、驚いて私を見ていた。
「分かってるよ。仕事はしなきゃいけないし、それを私の我儘で邪魔しちゃいけないって。ちゃんと知ってる。けど、私、そんなの知らない」
手に持っていたヒトデを見る。私ですら知っている、約束事をするときの儀式がある。これで、代用できるかな。
「おじさん。ちょっと手、出して」
「え?……こう?」
差し出された手のひらにヒトデを置いて握らせる。もう片方の手の小指には私の小指を絡ませた。
「おじさんがいないと、学校なんか行ってられない。あの家になんていたたまれない。おじさんがいないと駄目なの。……こうなったのはおじさんのせいだから。あのときおじさんが私を警察に届けなかったから。あの家に預けたから。だから、責任取ってよね」
おじさんは目をパチクリさせている。ああ、引かれたかな。でも今更言ってもしょうがない。
それもこれもあれもどれも全部、この人のせいだ。
「約束。仕事が終わって戻ってきたら、また遊んで。一年後でも三年後でも、何年後でもいいから。お願い」
「……分かった。約束するよ」
「もし破ったら、このヒトデを飲ませるから……指切った」
ぶんぶんと左手を上下に振って、指を離す。
「あ……じゃあ、私もっ」
彼女も取り落としていたサザエをおじさんの手に握らせて、小指を絡めた。
「うっそつーいたらサザエさん飲ーますっ、ゆーび切った!」
「……うん。指切った。絶対帰ってくるよ」
「じゃあ、おじさん。仕事、頑張ってね」
「ありがとう。仕事が終わったら、必ず会いに行くよ。約束だ」
夕日を背にして、おじさんは笑った。
つられて、私も笑った。彼女も笑った。
それから一年経った。私は高校を卒業した。卒業したあとは、大学には行かないですぐに働くことにした。
その次の年には、私は家を出た。
五年後、大学に進学した彼女から無事大学を卒業して就職したと連絡があった。その頃には私の生活も落ち着き始めていて、何度か会うようになった。
私はもう二十六歳になる。
おじさんからは、なんの連絡もない。