怯えて縋って謝って
女の子がいる。頭の横で作った二本の三つ編みを更に後ろで纏めた特徴的な髪型の女の子。蹲って動かない。
どうしてこの子はこんな所で蹲ってるんだろう。どうしたらいいんだろう。
周りを見回しても誰もいない。何もない。
「あの、どうしたんですか……?」
声を掛けても返事はない。肩に手を置こうとして、その子がずぶ濡れなのに気がついた。
「え……」
女の子が立ち上がった。顔は濡れた髪が邪魔で見えない。戸惑っている間に女の子は手を持ち上げて、私の腕を捕む。掴んだ手はベトベトで、振りほどこうとしても離れない。
「い、いやっ……離して……」
腕が引っ張られて顔と顔が近づく。髪から滴った水が顔にかかった。酷い匂い。吐きそうになる。
手はまだ私を離そうとしない。
「な……ん、で濡れてるの私……あなたな、らまだし、もな、んで私が、助けたわた、しじゃなくて、あ、あ、なたが」
「…………ち、違う、違うから……」
手が離れた。逃げる。走って逃げる。でも、すぐに足が止まった。
なんで?行き止まり?
そんなはずはない。どこもかしこもどこまでも真っ白で、行き止まりなんてどこにも、
背中に冷たいモノが当たる。
「どうして!なんで!?なんでなの!?私は、私は、きみが困ってたから、どうにかできるって思ったから!だから助けようと!なのに!なんで私はこんななの!?なんできみはそんなに幸せなの!?楽しんでるの!?おかしいよ!こんなの!正しいことしたのに!正しいことしたのにッ!!」
「許してっ!!」自分の叫び声で跳ね起きた。いつもの私の部屋、普段通りの時間。どこにもびしょぬれの彼女はいない。パジャマが色が変わるくらい汗で濡れているだけ。そして叫んでもいないはず。叫んでたら絶対誰かが来ている。
部屋で制服に着替えて一階に降りる。もう出来ていた朝ごはんを食べて、そそくさと家を出た。夏休み前より何十分か早いけど、下手におばさんと顔を合わせてなにか気取られると嫌だ。
夏休みが終わってから半月、毎日この夢を見ている。普通の夢なら起きてしばらくしたら記憶が朧げになるはずなのに、私の背中は今も冷たい。
教室には相変わらず空席が一つ。夢の記憶が薄れないのはあの机を毎日見てるせいもあるかも知れない。
椅子を引くと座面は濡れた布を敷いたように濡れていた。拭うのも面倒でそのまま座る。このくらい、背中の冷たさに比べたら寧ろあったかい。正体が分かってるだけマシだ。
その日も今まで通り休み時間毎に絡まれる。みんなの顔はいつもと変わらなくて、少し羨ましいなと思った。
私はいつも学校に電車を使って通っている。だから帰りも当然電車なんだけど、今日はいつも使うのとは違う電車に乗った。家と正反対の方向に向かう電車。制服が小さくなって、新調しなきゃいけなくなったから、それを買いに行くために。学校で買ってもいいけど、買ったと知られるとなにをされるか分からないから、三駅離れた市に買いに行くことにした。これだけ離れれば同級生はいないはず。
目当てのデパートは大きくて、改札を出た所からもう見えていた。ロータリーから伸びる横道を通ってデパートを目指す。
始めて来たこの通りは、思っていた以上に怪しい所だった。細い路地がいくつもあって、時々その奥に人影が見える。私が家出して捕まったのは、こういう所だったのかも知れない。
誰かと目を合わせないように、でも気になって横目で見ながら早足で通りを歩く。
「……ほらっ、早く行け」
ピンクのネオンで飾ったいかにも怪しい店を通り過ぎようとしたとき、怒鳴り声が聞こえてきた。見ないようにしてたのに、反射的に声のした方を見てしまう。
店のドアが開いて、高校生くらいの女の人が出てきた。男の人に肩を掴まれていて、引き摺られるように店の横のゴミが散らばった裏道に入っていく。
顔は見えなかった。服は私服らしいシャツにスカートで、どこの学校かは分からなかった。ただ、翻った髪は三つ編みに結わえられていた。
「……嘘、」
嘘だ。見間違いだ。彼女が、こんな所にいるわけない。三つ編みは三つ編みでも、彼女のとは違う三つ編みに違いない。
自信満々な、ずぶ濡れな彼女の顔が浮かぶ。
……………。
人にぶつからないように道を横断する。足音を立てないように店に近づいて奥を覗くと、女の子が三人の男の人と向き合っていた。髪型は……ここからだと暗くてよく見えない。
あまりにジロジロ見すぎたせいか、男の人の一人が振り向いてこちらを見た。暗闇越しに不躾な目が私を見つめる。
虫酸が走った。
踵を返して、走る。さっきよりも視線を集めることになったけどそんなことを気にしてる余裕もなくて、デパートの自動ドアを通るまで走り続けた。
男の人は、追ってこなかった。
次の日も、背中を濡らしながら学校に行く。クラスは今日も一人欠席で、先生もそのことに触れない。出欠を取るときチラッと見て気まずそうな顔をするだけ。
「先生っ。少し宜しいですか」
HRを終えてそそくさと教室から出て行こうとする先生を呼び止める。首筋に刺さる視線は、ドアを閉めてシャットアウト。
「な、なにか用?」
「あの……なんで学校に来てないかとか、理由は分からないんですか」
主語が抜けたけど、先生にはそれで通じるはずだ。目が逸らされる。
「あー……向こうからは、ただ体調不良としか聞いてない」
「それって、やっぱりあの虐めの話が原因なんじゃ、」
「そんなこと言ったって仕方なかったんだ。あの三人をどうこうなんて出来なかった。ノートを度々破いたのだって手を滑らせただけって言ってたし、無視するようなことをしたのも単に気づかなかっただけだって……」
堰を切ったようになにもしなかった理由をまくし立てる、その顔を見てだいたいの事情が分かった。大人の顔色を伺うのは得意だから。
先生は、このことをなかったことにしたがってる。自分のせいで自分のクラスから不登校者を出したと、認めたくないって思ってる。自分じゃ、どうしようもなかったんだって。
そう分かった瞬間、スッとなにかが私の中から消えていくのが分かった。
「……分かりました。変なこと言ってすみませんでした」
「あ……ああ。授業の準備をしておきなさい」
教室に戻ると、私の机にいつもの三人組がいて、警戒心剥き出しで睨みつけてくる……そんなに気にしないで大丈夫だよ。私に声を上げる勇気なんてないから。
放課後、駆け足で駅に向かう。出発寸前の電車に飛び乗って、三駅。昨日きたばかりの駅で降りた。怯みそうになる足をなんとか動かして、怪しく光る通りに入る。
昨日目があった男の人の顔がフラッシュバックして、家出したとき口に押し付けられたハンカチの匂いも蘇る……でも、行かないと。
彼女がいた裏道には、今日は誰もいなかった。もう少し待ってみる?でも人の目が辛い。考えて、積まれた段ボールの山を動かしてその陰に隠れることにした。
持ってきた時計の長針が差しているのは六の文字。これが十二の所に来るまで待ってみよう。
「………あっ」
針が八に差し掛かった頃、目当ての人影を見つけた。今度は顔もはっきり見える。間違いない。
疲れた面持ちで私のすぐ目の前を通って、奥の暗がりに入って行く。いつのまにかそこには男の人がいて、なにやら話していた。
男の人が強引に彼女の手を掴んだ。
「やめて下さいっ!」
聞いたこともない必死な声を上げてその手を振りほどく。そのあとまたなにか話して、店の中に消えていった。
あんな声、初めて聞いた。彼女は、こんな所でなにをしてるんだろう。
ゴテゴテとライトアップされた店。
その入り口で声を張り上げる男の人の口上。
そして、そこに吸い込まれて行くスーツを着たサラリーマンらしい人たち。
嫌な想像だけが、どんどん膨らんでいく。
どうにかしたい。彼女が学校に来なくなったのは、私のせい。私のために、トイレの水を被った。それが原因でこうなっているなら、私がどうにかしないと。
でも、どうすればいいの?
私一人で?無駄だ。一介の女子高生が一人で乗り込んだところであの男の人たちに勝てるわけがない。
先生を呼ぶ?無理だ。あの先生は、もう駄目だ。この状況をなんとかできるような人なら、そもそもこんなことにはならなかった。
おばさんに相談する?駄目だ。おばさんなら、相談したら絶対に動いてくれる。でも、迷惑をかけたくない。縁もゆかりもなかった私を家に置いてくれていること自体畏れ多いのに、それ以上を望むなんて。
警察?それが一番いいかも知れない。今すぐ駅の反対側にある交番に行って、知り合いの女の子が怪しい人たちに捕まっているって教えれば。
……おじさんは、どうなんだろう。私を同じような状況から助けてくれて、そのあともおばさんを紹介してくれたり遊んでくれたり、親切にしてくれるおじさん。あの人に言ったら、どうなるんだろう。
本音を言えば、見ず知らずの警察に行くより、おじさんに頼みたいと思う。でも、連絡がつくか分からない。今だって、半年に一度しか会ってない。
段ボールの山から抜け出して、走って駅に向かった。
「おばさんっ。おじさんに連絡出来る?」
家に帰るとすぐにおばさんのいるリビングに駆け込む。椅子に座って新聞を読んでいたおばさんは、新聞を破る勢いで迫る私の剣幕に圧されたのか、何度か目をパチパチさせた。
「おじさんに?なんで?」
「大事な用事があるの。今すぐに」
詳しいことは、あまり言いたくない。なんとかこれで伝わってくれないだろうか。おばさんはまた目をパチパチやって、ふっと笑った。
「……分かった、やってみるわ。けど、あの人今海外にいるみたいで、繋がるかどうか分からないわよ」
「それでもお願い。あと、もし繋がったら、私に話させて」
おばさんはその場で早速電話してくれる。私は二階の自分の部屋に戻って、繋がったらなんて言おうか考えていた。この状況を、端的に、でも大事なことなんだと伝えるには、なんて言えばいいのか。
階段を登る足音がする。
「繋がったよ」
ドアが開いて、おばさんが携帯を差し出す。おばさんが下に降りたのを確認して耳に当てた。
「もしもし」
「あー、もしもし?珍しいね、君から電話なんて。どうかした?」
おじさんの声だ。なんて言おう。さっきまで考えてたはずの言葉は頭の中をぐるぐる回るばっかりで纏まらない。
「……助けて」
結局、これしかまともに言えなかった。
キーンコーン、カーンコーンとチャイムが鳴って、先生が足早に教室から出て行った。騒がしくなった教室に背を向けて、出て行った先生のすぐ後ろにつける勢いで私も教室を飛び出す。
今日学校に来てから放課後になるまで、一体何時間かかったんだろう。時間割に書かれた時間の何倍も待った気がする。朝から夕方まで、何回指で机を叩いたか数えることも出来ない。
おじさんは、二つ返事ですぐに行と返事をくれた。でも遠くにいるから、帰るのに一日かかるとも言われた。
だから私は昨日と今日を足を揺すりながら待って、このあと、ようやくおじさんと会える。
ダッシュで駆け込んだ電車に揺られて十五分。ドアが開ききるのも待ちきれなくて、肩をぶつけながら電車を降りる。ホームの階段を駆け上って、カードを叩きつけるようにして改札を潜る。
「お、きたきた」
おじさんは改札の向こうで待ってくれていた。なんとかそこまでは駆けたけど、息切れが酷い。膝に手をついて息を整えていると、額の汗をハンカチで拭ってくれた。
「はぁ、はっ……おじさん、来て……」
汗が引いたところで、おじさんの手を取って走る。昨日より一本早い電車に乗っては来たけど、それでもあんまり時間はない。あそこに彼女が来てしまう前に先回りしておきたい。
すれ違った大学生に振り返られながら、店に入ろうとするスーツ姿のサラリーマンに怪訝に見られながら、あの裏通りを目指して走る。
あと少し、あともう少し……ここだ。
そっと覗くと、まだ誰もいなかった。
「ここがどうかしたの?」
なにも言わないで走りだした私についてきてくれたおじさんもひょいっと通りを覗く。まだ詳しい話をしてなかった。昨日作った段ボールの山の陰に隠れて、事の顛末を説明する。
「……この前、ここに同じクラスの人が一人でいたの。それで、一緒に変な男の人も何人かいて、凄く困ってそうだったの。だから、」
「だから、その子を助けたいってこと?」
俯いた私の顔を覗き込んでおじさんは後を引き取ってくれる。頷くとおじさんは考え込むような顔になった。
「……その子、一学期から学校来てなくて、でも先生も詳しいこと知らなくて、それで……」
どうしよう。ここから先は、言ってもいいのか。この前山に登ったとき、私は何もない、平気だって答えた。今ここでいじめられているって言うと、嘘をついたってことに、
しゃがんだ女の子。
三つ編み。
汚い水。
嫌な臭い。
「なんでワタシだけ?」
……いや、言わないと。嘘つきだって言われても、それでも。
ーー「好きっていうか、寂しいなって思う。独りぼっちで」
「あー、成程ね。でも僕としては、こういう風に一人でいて貰う方が助かるかな。困ってそうだったらすぐ気づくし、助けられるし」ーーおじさんは、そう言っていた。一人でいれば、困っていたとき、すぐに助けられるって。なら、彼女は、一人で深く傷ついた彼女は。
目を開けて、おじさんと目を合わせる。
もう吐かない。
「ごめんなさい。実は、私、一学期から学校でクラスの人たちに絡まれてて、その人は私を助けようとしてくれたの。私が普段なにをされてるか先生に言って、でも上手く言い逃れされちゃって、それで……」
おじさんは、私が嘘をついたことにはなにも言わなかった。顔を顰めて、
「あー、まあ高校生くらいにもなればそのくらいの頭は回るよね。その君に絡んでたっていう人たちって、女の子でしょ?」
「うん、そうだけど……」
「やっぱりねー。女子ってその辺男子よりよっぽど上手くやるからね。ま、相手が悪かった」
それだけ言うと、おじさんは立ち上がって通りをみた。あの子は、まだ現れない。
「分かった。なんとかやってみよっか……でも、君は大丈夫なの?」
気遣わしげな目になって、おじさんが聞いてくる。その目をしっかり見て頷いた。
「うん。私は全然平気。言い逃れできるようなことしかしないし、大したことはしてこないから」
「そっか。じゃあ、ここにいてもしょうがないから、一旦駅まで戻ろう」
おじさんは今度は逆に私の手を引っ張って駅まで戻ると、近くのカフェに入った。コーヒーとココアを頼んで、外がよく見える入り口近くの席に座る。
「なんでここまで戻ってきたの?」
あの段ボールの陰にいた方が良かったんじゃないかって思う。駅に戻る理由が分からない。
「もしかしたら、今日に限ってあそことは違う裏道で待ち合わせてるかも知れないし、そうならここでその子を待ち伏せる方が確実だから」
「今日に限ってって、そんなことあるかな……」
「分かんないよー。なんせ裏道街道まっしぐらな人たちのすることだから」
そう言っておじさんはコーヒーを啜る。それを見てると、私も喉が渇いてきた。冷たいココアを飲んで外を見る。電車が着いたのか、どっと人が溢れてきた。目を凝らして制服姿の人を探すけど、見つからない。
と、カチャカチャと音がした。前を向くと、おじさんが腰に提げた鞄に手を突っ込んでいる。
「なにしてるの?」
「んー?いや、ちょっとね、持ち物の確認を」
「ふうん」
はぐらかされたから窓の外に目を戻す。もう人も減って、歩いているのはほんの数人。サラリーマンっぽい人、大学生、制服を着た女の子。
「……あ、」
手からカップが滑り落ちる。その音に驚いたおじさんが顔を上げた。
「いたっ!待って!」
急いで店を出る。制服を着た背中が通りに入っていくのが辛うじて見えた。あとを追って角を曲がる。
時間が遅くなったからか、通りはさっきより人が増えて騒がしくなっていた。見えるのは男の人の大きな背中ばっかりで、制服はどこにも見えない。
見失った……。どうしよう。
「今日に限って場所を変えているかも知れない」おじさんはそう言っていた。でも、そうなったら土地勘もないのに探すなんてできないし、同じ場所にいることに賭けるしかない。ピンクにけばけばしく光る店を目印に歩き出す。
やっぱり、ここを歩くのは辛い。
肩がぶつかった人が舌打ちするのが聞こえる。
看板を掲げて羽織を着た人がじろじろと私を見ている。
さっきから、大学生っぽい金髪の二人があとを付けてきている。
気持ち悪くて、軽く涙が出そうになる。戻っておじさんと合流しようか?いや、そんなことをしてる暇はない。
やがて、見覚えのある装飾が見えた。お願い、そこにいて……!
裏道に駆け込む。果たして、制服の女の子はいた。暗がりで、一人でこちらに背を向けている。男の人の姿はない。
「あのっ!」
声を掛けると、ビクッと肩を震わせて振り返った。
目があう。
「……あ……」
「やっぱり……!」
駆け寄って、肩を掴んで顔を寄せる。間違いない。
「なんでこんな所にいるの!?」
「あ……」
彼女は、口の中でなにか呟くだけで答えない。でも、そんなことより早くここから出ておじさんと合流しないと。そう思って走りだ、
「……どうしたの?」
「あ……」
彼女は動こうとしなかった。引っ張っても、足で踏ん張って逆らおうとする。
「……駄目だから」
「え?」
「勝手にここを動いちゃ、駄目だから」
手が振りほどかれる。なんで……。
「こんな所になんの用かな?お嬢ちゃん」
「っ!?」
暗闇からぬっと男の人が現れた。前に二人、後ろに一人。肩に手が置かれる。
「やめてくださっ……」
振りほどこうとしても、がっしり掴まれているせいで離れない。指が食い込んで痛い。
「ちょっとこっち来てくれるかな?」
男の人は凄い力で奥に引き摺り込もうとする。手も掴まれて、抵抗することもできない。
助けて……!
キィィィィーッ!と大きな音がした。通りが騒がしくなったと思うと、黒い車が突っ込んできて道を塞ぐように停まった。
「なんだ?」
男の人の手が緩んだ。
今だっ。
肩を大きく揺すって手を振りほどく。手を掴んだ人の腹は蹴飛ばす。
「ついてきてっ!!」
呆然と車を眺めている彼女の手を取って走る。
「あ、おい!待てこら!」
足音が迫る。車から背の高い男の人が降りて、こちらに向かってくる。
「ちょ、やめっ……」
「いいから!」
それでもまだ踏ん張ろうとする彼女を、勢いに任せて更に引っ張る。なんとか車まで辿り着くと、やっぱり車から降りてきたのはおじさんだった。おじさんは笑って私の頭をくしゃっと撫でると、男の人たちと私たちの間に立った。
「おい!なんのつもりだ!」
「いやーすみません、なんかこの子が勝手なことしたようで。でも、急に血相変えて「友達が危ない」なんて言い出すから、びっくりしましたよ」
「あ……?」
「こんな所に女子高生を連れ込んで、なにしてたんですか?」
「そんなのはこっちの勝手だろう!」
「……おい」
掴み掛かろうとしたのを制して、影からもう一人、男の人が出てきた。私の肩を掴んでた人でも、腕を掴んでた人でもない、三人目。銀色の眼鏡をかけていて、フレームが暗がりでチカッと光る。
その人は二人を下がらせて、おじさんの真正面に立った。
「……その子は、私の知り合いの子です。親の都合でうちの店で預かっていたのですが、なにやらあらぬ誤解を呼んでしまったようですね。その子を返して頂けませんでしょうか」
「預かっている?ここで?とても女子高校生を預かれるような店には見えませんが」
「なにも彼女に店の仕事をやらせているわけではありません。ただ家に一人で置いておくのも心配なのでここに来させているだけです。……だよな?」
眼鏡の人が彼女を見る。彼女は、ビクッと肩を震わせて俯いてしまった。間に割って入って、その視線を遮る。
「むしろ、ここに向かっている時の彼女の様子の方が心配でしたが。とてもじゃないけど知り合いの所に遊びに行く表情じゃなかった」
「……見間違いでしょう」
おじさんは笑みを崩さない。男の人も冷静な表情を崩さない。そのまま睨み合う。
先に動いたのはおじさんの方だった。私を振り返って、
「車に乗って、伏せて。外は見ないように」
と短く指示を出す。
「う、うん」
言われた通り後部座席のドアを開けて彼女を押し込む。彼女は、もう抵抗はしなかった。
「おい、なに勝手なことしてんだ!」
うしろに控えていた二人の手が伸びる。眼鏡の人も、今度はそれを止めなかった。おじさんが二人の手を掴んで止める。
「……手を放して下さい。信頼されて預かっている子を、見ず知らずのあなたに渡すわけにはいきません」
「こちらこそ、なにをしてるのかも分からない、素性も分からない男が寄ってたかって女子高校生を囲んでいるのをみすみす見逃すわけにもいきません。もし本当に預かっているのなら、親御さんには警察署まで引き取りに来てもらうことにしましょう」
そこから先は、ドアを閉めたせいで聞こえなかった。おじさんに言われた通り伏せていたから、なにが起きているのかも見えない。
おじさんはすぐに戻ってきた。運転席に飛び乗って、ドアが閉まりきる前にアクセルを踏んで発進させる。車は人を轢きそうになりながら狭い通りを走った。
「……おじさん……」
「ああ、ごめん、怖がらせたね。もう大丈夫……だと思うけど、一応後ろは振り返らないでね。人混みの中だから滅多なことはしないだろうけど、まだ危ないから」
「うん……」
隣には、夢にまで見た彼女が頭を抱えて蹲っている。肩に手を置くと、ゆっくり顔を上げた。目が合う。
何ヶ月か前に見たときよりも随分と痩せている。私が覚えている彼女はいつも笑っていたのに、今はその欠片もなくて、ただただやつれている。私と目が合っても、なんの反応もしない。
全部、私のせいだ。私のために、こうなった。
「……ごめんね。私を気遣って先生に言ってくれて、そのせいであんな目にあって……なのになにもしなくて、ごめんね……」
反応はない。焦点の合わない目はじっと私を見つめている。
君のせいで。
そう言われている気がして、その目を見ることもできなくなった。でも泣くのは反則な気がして、手で顔を隠して深く俯く。
「……ごめんなさい……許して……」
これしか、私に言えることはない。
おじさんはなにも言わなかった。誰もなにも言わないまま車は走って、やがて私の家の前で停まった。目で促されて、私だけ車を降りる。
「この子のことは僕がどうにかしてみるよ。まあ学校には当分行けないだろうけど、こんな感じの子の面倒は見たことあるから、心配しないで。なにかあったら知らせるから、それまで……くれぐれも、元気で」
そう言い残すと、おじさんは私一人を置いて走り去った。待って、ともありがとう、とも言えなかった。
二週間後、彼女は学校を辞めた。