めかして登ってうなされて
ジリリリリ。目覚ましの音で目が覚めた。起き上がってすぐカレンダーを確認する。寝起きなせいでよく見えないけど、今日の日付けに大きく赤で丸が書かれているのは見えた。
おじさんが来る日だ。
それを思い出した瞬間目が覚めた。急いでベッドから抜け出して朝食に向かう。
もうおばさんは起きていて、キッチンからいい匂いが漂ってくる。
ぐぅぅ〜。
お腹が盛大に鳴った。
「あれ、今日は早いわね。どうしたの?」
「おばさん、おじさんが来るのは何時?」
お腹の虫もおばさんのからかいも無視して聞くと、おばさんはくっくっと笑った。
「九時って言ってたから、そんなに慌てなくてもいいわよ。朝ご飯を食べる時間くらいあるから」
そう言って手早くテーブルにお皿を並べていく。トーストにスクランブルエッグ、ミニトマトが二つと牛乳。
ぐぅぅうぅぅ〜。
時計を見ると、確かにおじさんが来るまでまだあと二時間はある。このお腹の虫を鎮める時間はたっぷりありそうだ。気持ちを落ち着けるためにも、いつもよりゆっくり、朝ごはんを食べる。
もぐもぐもぐ、ゴクッ。
もしゃもしゃもしゃもしゃもしゃ、ゴクゴクッ。
もっしゃもしゃもっしゃもっしゃ、ゴックン。っぷはー。
「……そこまでゆっくりし過ぎると、今度は時間がなくなるわよ?」
言われて気がついた。もうあと一時間でおじさんが来てしまう。残ったスクランブルエッグを強引に頬張って、大急ぎで部屋に戻って着替えを済ませる。
リビングでは、おばさんが机の上に大きな箱を出してなにやらやっていた。
「なにしてるの?」
「あ、ちょうどいいところに来た。こっちにいらっしゃい。メイクしてあげる」
「メイク?」
メイクって、クラスの女子がよく話しているあの、メイク?
「もう高校生なんだし、このくらいおめかししないと。ほら、時間ないから早く」
手招きされておばさんの近くに寄ると、おばさんは真剣な目で私の顔をいじりだした。
「……はい、出来た」
メイクには思ったほど時間は掛からなくて、すぐにおばさんは私の顔を解放した。渡された鏡で顔を見てみると、映った顔に思ったほどの違いはなくて、ただなんとなくこれがメイクなんだって感想しか湧いてこない。
「これ、なにかしたの?」
「ほんの少しね。あなたくらいの子は、下手に色々しない方がいいの。大丈夫、あの人はちゃんと気づいてくれるから。こういうのは見慣れてるはずだし。それより、もう時間じゃない?」
言われて時計を見る。八時五十五分。
「あ、ほんとだっ」
ちょうどその時、見計らったようにインターホンが鳴った。鞄を掴んで立ち上がる。
「いってらっしゃい。楽しんできなね」
おばさんに見送られて扉を開ける。黒のパンツにチェックのシャツを羽織ったおじさんが笑顔で立っていた。
「おじさんっ!」
「やあ。三ヶ月、いや四ヶ月振りかな?とにかく久しぶり……お」
おじさんは不自然に言葉を切って、私の顔をじっと見た。
「もしかして、メイクした?」
「あ、うん。分かった?」
「そりゃ分かるよ。目に見えて変わってるもの」
「そうかなぁ?」
いかんせんどこがどう変わったのかよく分からない私としては、素直に喜びずらい。
「変わってる変わってる。凄い綺麗になったよ」
「……へへ」
そう言ってくれると、素直に喜べるな。つい頬が緩む。
「じゃあ、行こっか」
「うんっ」
家の前に停められた青い車の助手席に乗って、シートベルトを締める。おばさんに挨拶を済ませたおじさんも乗り込んで、ゆっくり車が動き出した。
「それにしても意外だね。山に登りたいなんて」
車をしばらく走らせて周りに田んぼが目立ってきた頃、おじさんが話しかけてきた。
「この前テレビで見て、どんな感じなのかなって気になって。私、山とか登ったことないし」
「そういえば僕も登ったことはないなぁ。楽しみだね、そんな大きな山に登るわけじゃないけど」
「うん」
おばさんに聞いたところによると、これから行く山は凄く綺麗な川があったり珍しい木が生えてたりで自然が豊かな所らしい。鹿とかが見れたりしたら面白そうだ。
何時間かこれから登る山のこととか直撃するかもしれなかった台風が逸れてよかったとかそんな話をして、やがておじさんが待ちきれなくなったように話を変えた。
「そうだ、学校はどう?上手くやってる?」
「……………」
……正直、学校の話になるだろうとは思ってた。けど、いざその時になってみると口が閉じてしまう。
面倒くさい人たちに目をつけられて、虐められる側になってしまったこと。
そんな私のために声を上げてくれた正義感の強い彼女が、学校に来なくなってしまったこと。
正直に言った方がいい?虐められていると。私のために友達が一人、深く傷ついたと。
でも、おじさんに言ってどうなるの?おじさんは学校の先生じゃない。彼女のことも、あの三人のことも知らない。この楽しい時間を削ってまで話すこと?
「特になにもないよ。大きな行事もなかったし」
「ふーん。でもそっか、まだ一年の一学期だもんね。そんなに大したことはしてないか……あ、見えてきた。ほら、あれがこれから登る山だよ」
「えっ、どれどれっ?」
おじさんの指差す先には、低めのこんもりした山があった。ここからでも生い茂った緑の中にぽつぽつと赤や白が混ざっているのが見える。近くで見れば、あのぽつぽつは一つ一つの花になって、いい香りを醸し出しているんだろう。その光景を思い浮かべるだけで、早く見てみたくなる。
「こらこら、そんなにそわそわしなくたって、山は逃げないよ」
「山は逃げなくても花は逃げるかも。散っちゃったりして」
「よほど強い風でも吹かなければ大丈夫だよ」
「なら風より速く着かないと。早く早くっ」
ようやく山の麓に着いた。砂利の駐車場に車を止めて、登山道の入り口にある小屋に向かう。そこでお金を払って、生息する植物や動物のパンフレットを貰って山に入った。
登山道は綺麗に整備されていて、歩きやすかった。さすがにスカートだったら厳しかっただろうけど、今日はこんなこともあろうかと動きやすいズボンできたから楽に登れる。
地面を踏む度に、小枝が折れてポキリと折れる。
風が吹く度に、緑が揺れてさわさわと音を立てる。
鳥があそこでピィと鳴く度に、別の鳥がそこでピィピィと鳴き返す。
テレビで見た以上の、緑だ。山だ。自然だ。
三十分くらいそんな綺麗な風景を楽しみながら登ると、道が平行になって視界が大きく開けた所にきた。パンフレットによると、ここからは遊歩道のような平らな道がしばらく続くらしい。なんでも、足元に広がるのは大きな沼で、特別な植物が多く生えているそうだ。
「ねえねえおじさん、ここ、こういう花が咲いてるらしいよ」
遊歩道を半分くらい歩いた頃、パンフレットの写真の一つをおじさんに見せると、おじさんはなにかを思い出したような顔をして来た道を戻って行った。
「おじさん?どうしたの?」
「ほら、ここ見てみなよ」
おじさんが指差したのは、遊歩道の側の、影になっているような場所だった。そんな所になにかあったっけ?
おじさんに倣って木板の下を覗き込む。と、さっき私が見せた写真の花が小さく一輪、咲いていた。
「こんな所に……」
「さっき見かけて、面白い所に咲く花だなって覚えてたんだよ。まさか旬の花だとは」
「よく見つけたね、こんなに小さいの」
「うん、まぁ、目はいいからね」
よく見ると同じ花は少し離れた所にも咲いていて、この花だけが集団から離れて一輪で咲いていた。
独りぼっちで、音もなく風に揺れている。それがなんだか一人でぽつねんとしている普段の私みたいで、親近感のようなものが湧いてきた。喋るのも忘れて見入ってしまう。
「こういうのが好きなの?」
「好きっていうか、寂しいなって思う。独りぼっちで」
「あー、成程ね。でも僕としては、こういう風に一人でいて貰う方が助かるかな。困ってそうだったらすぐ気づくし、助けられるし」
「……そんな風に思うのはおじさんだけだよ」
でも……だから私はおじさんに助けて貰えたのかと思うと、一人でいた甲斐もあったというものかも知れない。
「行こ。おじさん」
道はまだまだあるらしい。膝に付いた泥をはたいて立ち上がる。
平らな遊歩道は長くはなくて、十五分も歩くとまた上り坂になった。平らな木の感触に慣れたせいで、ゴツゴツした坂が辛い。
「大丈夫?」
先を行くおじさんが手を差し伸べてくれる。
「ありがと」
遠慮なく手を取ると、グイッと引っ張り上げてくれた。少し足取りが軽くなる。
「ところで、ここってどの辺?」
聞かれてパンフレットを広げる。今湿地から少し歩いた所だから……、
「えっとね、たぶんそろそろ川が見えてくる辺りだと思う」
「川かあ。ここの川って凄いんだってね。どこだろ」
おじさんが首を伸ばしてキョロキョロ辺りを見回す。私もつられて木の枝の隙間から水の光が見えないか目を凝らした。
あっちかな、それともこっち、
「あ、あれじゃない?」
……先を越された。
おじさんが指差す先を見る。けど、木が邪魔でよく見えない。水の音はするから川はあるんだろうけど……。
爪先立ちになってピョンピョンしている私を見かねたのか、おじさんが私の前でしゃがんだ。
「ほら、乗って。肩車すれば見えると思うから」
「え……私、結構重いよ?もう高校生だし」
おじさんの腰は大丈夫だろうか。そう思って聞くと、面白いことを聞いたと言わんばかりに笑い出した。
「僕だって大人なんだから、そんな心配しなくても大丈夫だよ」
そこまで言うなら。うなじ跨るように立って、足を回す。
「よし、じゃあ立つよ」
ぐんっ。視線が一気に高くなった。上半身がグラグラして、おじさんの頭を掴んでバランスをとる。遠くを見えるように背筋を伸ばす。
見えた。白い光がチカチカと、重なり合った葉の向こうから射し込む。風で枝が動いて、音を立てて流れる水が見えた。
「どう、見えた?」
「うん。すごく綺麗……あっ!」
「え、なに?」
「鹿がいる!」
ビクッとおじさんが反応したのが分かった。
「鹿?」
「そう、鹿!」
鹿は、川の向こう側の茂みから現れて水を飲んでいる。角は短いし、メスかも知れない。
「僕も見ていい?」
「え、うん、じゃあ、」
降りるよ、と言おうとした瞬間、おじさんは「よっ」と掛け声をしてジャンプした。
「きゃあっ!?」
グルンッ。さっきとは比べ物にならないくらい視界が揺れた。体が宙に浮く感じがして、腕でおじさんの頭を抱きかかえる。
トスッという着地音と共に一瞬で浮遊感はなくなった。
「ちょ、ちょっと!」
「ごめんごめん。 別に下ろさなくてもいいかなって思って、つい」
「下ろしてよ!」
バシバシと頭を叩く。怖かった。死ぬかと思った。
肩から降りる。おじさんは嬉しそうに腕を回していた。
「本当にいたね、鹿。あれって野生でしょ?初めて見た」
「私は修学旅行の時に見たから、二回目。でもちょっと種類が違ったのかな……」
公園中を歩き回る鹿に煎餅をあげたのは、つい半年前のことだ。
「あ、そっか、あの公園に行ったんだ。やっぱりあそこは定番だよね。僕は行ったことないんだけど」
「そうなの?」
鹿を見て満足して、また歩き出す。
「中学の修学旅行は風邪で休んじゃってさ。高校は沖縄だったし」
「沖縄行ったの?」
確か私の高校は京都だったはずだ。別に楽しもうなんて思ってないけど、またかと思ったのは覚えてる。
「 高校で沖縄は割と定番だよ」
「そうなんだ。どんな所行ったの?」
「うーん、もう何年も前のことだから、だいぶ記憶も曖昧だけど……一番はっきり覚えてるのは、ガマかな」
「ガマ?」
「そう。防空壕って言えば分かる?」
「あー……」
言われてみれば、歴史の授業で聞いたことがある気がする。沖縄戦の時、アメリカ艦からの砲撃から逃れるため、住民が隠れた防空壕。その内の多くは上陸した兵士や戦車に焼き払われたり、追い詰められた人たちが自決したりして、血に染められたらしい。
「そこに行ったことだけは凄くよく覚えてるよ。あそこは……」
言葉が尻すぼみに消えて、おじさんはビクッと震えた。
「あそこは?」
「……気になるなら、今度機会があったら行ってみるといいと思う。けど、何回も行くのはオススメしないよ」
「そうなんだ……」
おじさんがこんなことを言うなんて、ガマと言うのはそれほどの場所なんだろう。行ってみたいような、やっぱり怖いような。
と、おじさんが遠くを見た。
「あれ、頂上じゃない?」
見ると、確かに木が途切れて木漏れ日よりずっと強い陽の光が射し込んで来ている。頂上かも知れないと思うと、必然足も速くなる。
着いみると、おじさんの言った通り頂上だった。山の名前と標高を記した札が立っていて、ベンチがいくつか置いてある。そのうち一つに並んで座った。
「うわぁ……」
「おおー、壮観だね」
見下ろす斜面には紫やピンクの花が至る所に群れで咲いていて、麓には私たちの車が小さく見える。
私、本当に山を登ったんだ。
おじさんも同じ感想らしい。
「いやー、すぐに登れちゃったし、大したことないかと思ってたけど、こうしてみると達成感あるね」
「……だね。あ、そうだ」
大事なことを思い出して、鞄を広げた。鞄には今朝おばさんに預かったお昼ご飯が入っている。お弁当を取り出すと、おじさんの目が輝いた。
「さっすがー、気が利くよねあの人は」
「うん。それは私も思う」
おばさんは気がきくし、すごく勘が鋭い。上手く隠していたつもりのことを言い当てられたことはしょっちゅうだ。けど察しもいいのか、本当に気づいて欲しくないことには触れてこなかったりもする。
バスケットを開けると、ハンバーガーが入っていた。ベーグルにタマゴ、キャベツ、ハムとトマトを挟んである。
お腹も空いていたし、一つをおじさんに渡して、もう一つに早速かぶりつく。反対側からトマトが滑りそうになって、慌てて口で拾う。大きいから食べるのが大変だ。でも、このボリュームが空腹には嬉しい。
お互い溢さず食べるのに必死で、食べている間はずっと無言だった。
「……ごちそうさま。ふー、結構量あったね」
「うん。食べるの大変だった」
「でも、食べるの早かったね。僕より早いとは思わなかった」
どこから取り出したのかおじさんはお茶のペットボトルを持っていて、一本渡してくれた。右手で受け取って、早速口をつける。
ぷは。冷たくて美味しい。
「……にしても、綺麗な所だな……これならたまに登ってもいいかもね、山」
「うん……」
さっきの忙しさからの沈黙とは違う、充足感で口数が減っていく。ぼんやり風に揺れる花と遠くの山を見ていると、段々瞼が落ちてくるのが自分でも分かった。あ……やばい、寝そう……。
途切れそうな意識で最後、体を右に預けた。
女の子がいる。頭の横で作った二本の三つ編みを更に後ろで纏めた特徴的な髪型の女の子。蹲って動かない。
どうしてこの子はこんな所で蹲ってるんだろう。どうしたらいいんだろう。
周りを見回しても誰もいない。何もない。
「あの、どうしたんですか……?」
声を掛けても返事はない。肩に手を置こうとして、その子がずぶ濡れなのに気がついた。
「え……」
女の子が立ち上がった。
「起きた?」おじさんの声がした気がして、目が覚めた。
車は走っている。私はその後部座席で寝ていた。窓の外には緑が多くて、まだ出発してからそんなに時間は経ってなさそう。
「……どのくらい寝てた?」
「一時間くらいかな」
一時間。食後だったとは言え、随分寝てしまった。ちょっと朝早く起きすぎたかも。これから取り返そう。
身を乗り出して前の座席に顔を出す。
「おじさん、次なんだけどさ、」
と、私の腕に水滴がついているのに気がついた。あれ、いつの間、に、
夢の中
三つ編みの
女の子
水滴
滴る汚水
女子トイレ
水溜り
腐った臭い
仕返し
制裁
私のために 良かれと思って
助けようと思って
汚水を被って
私は元気
私だけ元気
ただしいことをした
なのに
ぐっちゃぐちゃ
いやなことをされた
なのに
えがお
なんで
どうして
わたしだけ あなただけ
なにがわるい
だれがわるい
こんなめに
あうなんて
おもいもしなかった
ただしいこと
したんだから
助けて
助けろよ
助けて頂戴
助けて下さい
助けてよ
助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ助けてよ
「ねぇ、なんでワタシだけ?」
「おじさんッッ!!!」
「ぐへぇっ!?」
車がガクンと止まる、次の瞬間には大きく回ってキィッッ!と甲高い音を立てて、止まった。
「ど、どうしたの?!」
「……はぁ……はぁ、はぁ……」
おじさんの首を締めていた腕を離す。足から力が抜けた。シートに座り込むつもりが横に倒れてしまう。立ち上がれない。
おじさんは後部座席にくると抱え起こして背中をさすってくれた。苦いものが込み上げてくる。辛うじて吐くのだけは堪えて、口の中に溜まった痛いものを吞み下す。
「大丈夫?」
「……うん、大丈、大丈夫だから……」
声が掠れて上手く喋れない。お茶の残りを飲んで、喉のざらつきを流す。
「……あはは、初めて山に登ったからかな、ちょっと疲れちゃった」
「そう……。ならもうちょっと寝てるといいよ」
おじさんに背を向けて横になると、やがて車が再び動き出した。
家に着くまで何分経ったろう。
もう一度目を瞑ることは出来なかった。