帰って思って決意して
ガチャン、と音がしたような気がして目が覚めた。
目を開ける。見覚えのある天井。今朝目覚めたおじさんの部屋の、ソファーの上だった。部屋が薄暗い。窓の外から見える空は、もうほとんど夜と言っていいほど黒い。
「………もう夜か……」
私は今日一日、何をしてたんだっけ。
映画を観て、そのあとお昼を食べた。なにを食べてもいいって言われたけど、色んなものがあって決められなくて、おじさんと同じサンドイッチを食べた。食べてからはまたぶらぶらして、その時に何か買ってもらってたはずで……そうだ、髪を結うためのゴムを買ってもらったんだ。
それは左手の中にあった。青い紐に、小さな白い花のあしらわれた綺麗なゴム。この色合いが綺麗で、すっかり見惚れてたのをおじさんが買ってくれた。握り込んでいたせいか、すっかりあったかくなっている。
せっかくだし、これで髪を結ってみようか。髪を一つに束ねて、頭の後ろで縛る。うなじが涼しくなった。
ソファーから降りて窓の所まで行く。
空は黒いけど、下を見れば家や車の光がチラチラしていて明るかった。ここが周りより少し高いのか、夜景を見下ろすことが出来るのが新鮮で、同じような風景は家で何度も見てきたはずなのに、それより綺麗に見える。
「……ふふっ」
ここに来てから、目を輝かせてばっかりだ。そのことがなんだかおかしくて、嬉しくて、窓に映った自分の顔に笑いかける。ぎこちない笑みが返ってきた。
カーテンを閉じて、部屋を見回してみる。そういえばおじさんがいない。どこに行ったんだろう……ちょっと探してみようかな。
部屋を出ると、廊下の突き当たりに玄関があって、その手前にドアが二つあった。少し迷って、まず右側のドアを開けてみる……トイレだ。特に何もない。当たり前だけどおじさんもいない。ドアを閉める。
次は左側のドア。いるとしたら、おじさんはここにいるはず。さっきより少しだけ慎重に、音を立てないように開ける。
「ここにもいない……」
開けてすぐに分かった。電気がついていないから。ここにもいないなら、出掛けてるのかな。
スイッチを押して電気をつける。洗面台があって、その隣に洗濯機。その向こうの部屋は、たぶんお風呂だ。もちろん、そこにも人の気配はない。
電気を消して、ドアを閉める。玄関を確認してみると、私が履いたサンダルしかなかった。おじさんのスニーカーはなくなっている。
仕方ないから、部屋に戻る。もう一度ぐるっと部屋を見回して、隅に退けられたテーブルの上にメモが置いてあるのに気がついた。
『少し用があるので出掛けてきます。九時頃には戻るので、お腹が空いたら冷蔵庫の中の物を食べていて下さい』
時計を見ると、九時まであと三時間はある。長い……。なにをして時間を潰せばいいんだろう。テレビはあるし、つけてもあの人は怒ったりしないだろうなとは思うけど、なんとなくつけるのは悪い気がする。することもないから、薄いカーペットが敷かれただけの床に横になる。
横になって目を閉じると、今日一日の色んな光景がフラッシュバックした。
「……楽しかったなぁ……」
端的に言って、幸せだった。
初めて、自分の起きたい時間に起きた。不意に叩き起こされることに怯えないで寝れるのが、こんなに平和なものだなんて知らなかった。
初めて、人が笑顔で料理を振舞ってくれた。ちゃんと伝えられなかったけど、すごく美味しかった。
初めて、遊びに連れ出してもらった。服を買ってもらったり、自分の観たい映画を観させてもらったり、欲しいモノを買ってもらったり。してもらってばっかりなのが申し訳ないと思うけど、そう思うほど色んなことをしてもらった。
なにより、初めて人と笑いあいながら一日を過ごした。服を買いに行って置いていかれたときには少しムッとしたけど、そのあとはずっと笑っていた。笑わせてくれた。あのおじさんが。
「……楽しかったなぁ……あれ?」
楽しさを再確認するように呟いたら、視界が歪んだ。波打つように天井が揺れて、涙が目尻から溢れた。
「……あれ……あれ?」
なんで泣いてるんだろ、私。
起き上がって涙を拭う。何回も何回も拭って、なんとか収める。
その頃には、なんで自分が泣いたのか理解できた。
私は知っている。まだ家にいた頃、近所の図書館のパソコンを使って調べた。家出をした子供は、警察に捕まって家に戻されるんだって。そして、家出をしたほとんどの子供がそうなるんだって。親がいないと生きていないんだって。それを知ったとき、私はどうしてもあそこから逃げられなんだと悟った。
私はそう遠くないうちに、あの家に戻される。
初めてあのおじさんと会ったとき、私はお父さんとお母さんがどこにいるのか言わなかった。家に帰りたくないとも言った。だから、おじさんはこうやって家に入れてくれている。けど、そんなの長く続くわけがない。こんなことをしてたら、警察に捕まるのはおじさんの方。
おじさんが帰ってきたら、ちゃんと家に帰るって言おう。言わなきゃだ。これ以上、迷惑はかけられない。
そう決めた途端、また涙が出てきた。
今度は何回拭っても止まらない。思い直して、拭うのは止めて溢れるのに任せた。
おじさんの前で泣かないで済むように、今のうちに涙を枯らしておこう。
ガチャガチャと鍵を開ける音がした。急いで目元を拭って、床に座りなおす。なんとか間に合った。
おじさんは部屋に入ってくるなり、テーブルの上にビニール袋を置いた。
「ただいまー」
「あの……なにをしてたんですか?」
「あー、ちょっと色々やっててね。こっちの話だから、気にしなくていいよ」
「そうですか」
しばし無言。
「あ、そうだ、夕飯はもう食べた?」
首を振る。
「え、まだ食べてないの?冷蔵庫に入れておいたのに」
「なんか悪いような気がして……」
冷蔵庫の中に夕ご飯が入っているのは知っていたけど、先に一人で食べるのも悪い気がして手はつけなかった。
「別に悪いなんてことはないんだけど……まあいいや。じゃあ、これ食べる?」
そう言っておじさんはビニール袋からお弁当を二つ取り出した。
「頂きます」
流石にお腹が減って辛かったから、二つ返事で貰った。割り箸をパキンと割って、さっそく食べ始める。
「そんなにお腹空かせてたなら、なんで我慢してたのさ……」
しばらく、お互い無言でお弁当を食べる。おじさんがお弁当を食べ終わった頃を見計らって話を切り出すことにした。
「……あの」
「ん?なに?」
「私、やっぱり帰ります」
「帰る?どこに?」
本当に分からないようで、おじさんはきょとんと私を見る。
「……家に、です」
「ああ……え、帰るの?」
全く、なんでこの人はさも不思議そうに言ってるんだろう。家出した子供が自分の家に帰る。当然のこと。当たり前のこと。
「……きっと、両親も探してますし、警察がじきに来ちゃいますし、」
目をあわせたくなくて目を伏せる。たぶん、私の顔はひどく歪んでる。
「それに、このままいつまでもお世話になるわけにもいかないですし、こんなことしてるって分かったら、おじさんだって……」
話してるうちに声も歪んだ。ちゃんとしたいのに、どうしようもなく震えて、涙がまた溢れる。嘘、さっきあんなに出したのに、なんでまた。
「……だから、帰らなきゃ……」
涙が次から次に、さっきよりも沢山溢れてきて、もうなにも見えない。
おじさんが立ち上がって、私の隣に座った気配がした。
「な、なに……」
頭に、手が置かれる。そのままワシワシと撫でられた。
涙が、どんどん溢れてくる。
「……もういいです」
しばらく経って冷静になるにつれて、頭を撫でられているのが段々と恥ずかしくなってきた。乱暴にならないようにやんわり手を退ける。
涙は今度こそ枯れた。もう行かなきゃ。勢いをつけて立ち上がる。なにか言われる前におじさんに深くお辞儀する。
「今日は楽しかったです。本当にありがとうございました」
「いやいや、ちょっと待って!」
手首を掴まれた。しっかり掴まれていて、振り解こうにも解けない。
「君の言うことも尤もだよ。確かに、ここでこのまま過ごすのは無理だし、だからどうにかしなくちゃいけないのは分かるんだけど、ひとまずそれは明日にしよう」
「……明日?」
「そう、明日。今日はもう夜も遅いし、外に出るのは危ないよ。それにさ、さすがにお風呂とか、入りたくない?」
「…………お風呂?」
「うん。もう少なくとも二日はお風呂入ってないでしょ。そろそろ気にならない?」
言われて、さっき結んだ髪を触る。言われてみれば少しベタついてる……かな。
「……………」
「入っていきなよ」
「……………」
確かに、もう九時だ。ここがどこだか知らないけど、今から帰ろうとしたら家に着くのはもっと遅くなる。それまでにまた捕まったりしないとも限らない。おじさんの言うとおり、今日一晩は泊めてもらって、明日出るのがいいのかも知れない。……それに、もう少しだけ、ここに居たい。
座り直すと、おじさんはにこっと笑った。
「お風呂はもう沸かしてあるから、お先にどうぞ。場所は分かる?」
「分かります」
頷いて見せてお風呂場に向かう。
浴室は、湯気が立ち込めてすっかり暖かくなっていた。こうして目の前に沸かしたてのお風呂があると、お風呂に入りたい欲がどんどん沸いてくる。なかなか泡立たないくらいに汚れていた身体を洗って、早速お湯に浸かった。
「はぁ〜〜〜」
気持ちいい。つい、出したこともない声がでた。今の私を鏡に映したら、私でも見たことがない顔をしてる気がする。
お風呂って、こんなに気持ちいいものなんだ。お湯に浸かるって、こんなにリラックスできるものなんだ。知らなかった。
口元までお湯に浸かってぶくぶくと泡を吹いてみる。
手で水鉄砲を作って水を飛ばしてみる。
十秒間、息を止めてお湯の中に潜ってみる。
「あー、ちょっといい?」
外からおじさんの声がした。慌ててお湯から顔を出す。
「は、はい!?」
「洗濯機の所に着替え置いとくから、出たらそれに着替えてね。じゃ、ごゆっくり」
あ……着替えのことをすっかり忘れてた。どうしよう、おじさんの服を貸してくれたのかな。でも下は……。
急いでお風呂を出る。洗濯機の上には何故かお店の紙袋が置かれていて、中には新品の着替えが入っていた……これ、おじさんが用意しておいてくれたのかな。でも、いつの間に?
よく分からないけど、着替えがあるなら一安心できる。もう一回お湯に浸かり直した。
でも、明日からはこんなことはない。
あの家は、お風呂なんか沸かしてくれない。
私の親は、着替えなんか用意してくれない。
みんなは、リラックスなんかさせてくれない。
「……………」
せめてこの最初で最後のお風呂を、体の芯まで染み込ませよう。
お風呂を出ると、おじさんは部屋でテレビを観ていた。
「お風呂どうだった?気持ちよかった?」
「……はい」
実は今また少し泣きそうになっているとは言わない。笑うおじさんを見てるだけで、ズキッと心が痛む。
「それは良かった。なら布団敷いといたからさ、寝ときなよ」
おじさんが指差した先には、布団が敷いてあった。テーブルを退かして、部屋の真ん中に敷いてある。
「え、でもこれじゃおじさんが寝る場所が……」
布団は一人しか寝れなそうだし、もう一枚敷くスペースもない。
「それなら大丈夫。僕はこれからちょっとやることがあって起きてるから。どうしても寝たくなったらソファーで寝るよ」
「いや、でも……」
おじさんが使わないのに私が使うなんて、そんなことは出来ない。
「いーのいーの。実は僕も一回してみたかったんだよ、ソファーで寝るの」
口に人差し指が当てられて、それ以上の反論を封じられる。大人しく布団に潜ると、おじさんは微笑んだ。
「昨日もソファーで寝てたんだし、今日はちゃんとした布団で寝るのがいいよ。じゃ、電気消すよー」
パチン。電気が消える。
暗闇の中、黒い影が動いてキッチンに入る。キッチンの電気だけがついた。そこでなにやらし始める。
「あの……なにしてるんですか?」
「んー、ちょっと秘密のお仕事の準備を、ね」
秘密のお仕事。気になる響きだけど、秘密と言われたからにはこれ以上聞けない。明日に備えて早く寝よう。
シャーッ、シャーッ、シャーッ、シャーッ、シャーッ、シャーッ、シャーッ、シャーッ。
金属を擦るような音が、私が寝付くまで暗い部屋に響いていた。