願い
遠く泥餓鬼と静穂のやりとりを見ていた詩織は空を見あげた。まわりをとりかこむ炎からたちのぼる黒煙が、葵の起こした風壁によって行き場を失い夜空をふさいでいる。だがやがてそれはこの荒れ狂う炎を消す雨雲となるだろう。
ー炎。
いまだ衰えを知らぬかのように大地を焦がし水を蒸発させ生けるものすべての命を焼き尽くす、
ー炎。
その圧倒的な存在感のまえに少女は悠然とたたずんでいた。彼女をとりかこむ炎は、その麗しき肌を自らが起こすあかりによって紅く染め上げながらも、長い髪の毛先ひとつでさえ傷つけることはなかった。
(・・・静穂)
深い哀しみが彼女の心を満たす。その心から解放をもとめる『想い』があった。
「・・・行くの?」
いつのまにか少女の手のひらには、淡く輝く球体が現れていた。球体は少女の手のひらからふわりと浮かび上がる。優しい光。遠い過去に少女が失ったもの。
「がんばってね」
哀しい瞳で、それでも艶やかに笑う少女に『想い』は、背をむけた。礼は言わない。言えなかった。『宇奈月』を裏切ったあの日からずっと思い出すことさえ禁じていた一族。
ー裏切り者には制裁を。当然な事態に救いを求めた、求めてしまった自分。うけいれた少女。苛酷な運命を背負う者。
ーああ、神よ。どうかお願いします。いつの日にかあの少女の哀しみが癒される日がくるように。
燃えさかる炎の中を駆け抜けながら『想い』は願っていた。
ー願わずにはいられなかった。
不意に佳隆は胸騒ぎを覚えた。なにか大切なものが失われたような・・・。
ーふかい喪失感。
こんな感覚ははじめてだ。
(誰が・・・)
詩織や『鏡塚』とは考えられない。だとしたら・・・まさか・・・。
「ー痛っ!」
見えない刃が佳隆の腕を切りつけた。
「なにボーッとしてるの?兄さん。そんな余裕がどこにあるんだい?」
「隆生・・・」
そうだ。いまはこの勝負に集中しなくてはー。(俺が殺されたら静穂どころじゃなくなるもんな)
気合をいれなおして再度とんできた刃を光の剣ではじき返す。
「へぇー兄さんその剣を扱えるようになったんだね。でもそれだけだ」
ー兄さんに僕は殺せない。
勝ち誇った笑顔のうちで隆生はそう思う。甘すぎるのだ佳隆は。一度信頼するとどんなに裏切られても相手を許してしまう。そしていつのまにか仲良くなっているのだ。そんな兄が昔は大好きだったけど、結局
「弱いんだ兄さんは。きっと僕のことだって許してしまうんだ」
ー人を許すこと。
それはとても尊く難しいものだといつも小夜子は子供たちに説いて聞かせていた。
ー人を許せる人間になりなさい。
それが母の口癖だった。それを実行した兄。実行できた。兄。だけど、
次々に刃が佳隆を襲う。佳隆はただ受け止めるだけで精一杯だった。
(くっそーこのまままじゃ・・・このまままじゃだめだっ)
頭ではわかっているのに、足が前にでない。ここまできて迷っている自分がいる。なにも迷うことはないはずなのにー。佳隆は歯軋りをした。
(なんで俺はこんなに甘いんだっ)
どうして隆生にむかえない。どうしてー。
「そんなことくらいっ!」
ーわかってる。
刃を渾身の力で跳ね返す。
(わかっているんだ。いくら隆生が俺を憎んでも、化け物になっても、隆生を愛してる。静穂がもしも殺されたのだとしても、心の底から憎めるはずがないんだ。たったひとりの弟なんだから)
悔しさに涙がでそうだ。詩織が心から『宇奈月』を憎めないように血のつながりというものはなんて罪深いのだろう。何億人という人達の中で限られた『血』。
佳隆もまた『血』の契約によって隆生を憎めずにいる。憎しみからはなにも生まれないのに、隆生には佳隆への憎しみしかない。それでも、それでもー。
「目を覚ませ!隆生。これがほんとうにおまえの望んだことなのか?」
開け放たれたままのドアの向こう。この世のものとは思えない地獄絵巻。あたり一面に漂う死臭。もう動くものさえいない。
ただ、炎が大地をおおう。ほんとうにこれが?
「くだらないことを気にするんだね兄さん」そうやって同情をひくのか?
「くだらない?」
いまだに怒りよりも戸惑いが大きい漆黒の瞳。母譲りのー。
「僕はただ兄さんを苦しめられたらそれでいいんだ」
ー憎め。
「・・・・・・」
「兄さんは僕からなにもかもを奪ったんだ。父さんの期待も母さんの信頼も・・・健康な身体も!なにもかもを僕から奪ったんだ」
「・・・それは俺のせいなのか?」
ー怒りに我を忘れろ。
「そうさ僕の逆恨みだよ。わかってるさ。でも兄さんが憎くてたまらないんだ」
そうでもしなければ気が狂ってしまいそうだ。いや、もう狂ってしまったのかもしれない。広いサッカー場を息もきらさずに走り抜ける佳隆がうらやましくて・・・。あの空の下どこまでもずっと走っていきたくてー。そうしたら父さんはもっと僕を見ていてくれたのかな?母さんも父さんと離れずにすんだんだ。
ーごめんね。丈夫な身体に生んであげられなくて。
悲しい目で、
ーごめんね隆生。
あやまってほしくなんかないのに。
ーごめんね佳隆はあんなに丈夫なのに。
どうしてこのままの僕を見てくれないの?
ーごめんね。
そんなの母さんの自己満足だ。
ーごめんね。
うんざりだ!
ーごめんね。
僕だって精一杯生きているのに!
ーごめんね。
決して兄には言わない言葉。僕は、僕はー。
「僕は哀れんでなんかほしくない!」
許せなかった。母を愛していたから。許せなかった。あの日、あの時、母は確かに自分を哀れんでいたのだ。どうして母が佳隆や父とはなれて生活しなくてはならないのかと。
すべてを隆生を丈夫に生んでやれなかった自分のせいにして。そんな・・・そんな勝手なこと許せなくて。『影』の誘いにのったのは隆生の意志だ。
「僕は僕なのに・・・どうして、どうして認めてくれないんだ。僕は僕でしかないのに!」ー認めてほしかった。
自分なりに精一杯生きていることを。
ーただ、認めてほしかった。
身体が弱いからなんて特別扱いしないで。走れないからと哀れまないで。僕は僕として生きているのに。
「そうさ。誰も僕を認めてくれなかった。認めてくれたのは『影』だけだ。みんなみんな嫌いだよ。兄さんも父さんも母さんもこの村の人間もみんなみんなーっ!」
ー僕をゆるすな!
佳隆の右手から剣が消えた。
「・・・わかったよ。隆生・・・おまえの好きなようにしたらいい」
両手を脇にたらし、無防備な姿で隆生を見つめる。
「な・・・んのつもり?」
目を閉じる。
「僕を馬鹿にしてるの?」
そこまで無邪気だった弟を追い詰めたのが自分たち家族ならー。佳隆は目を開けた。
「馬鹿になんかしてないさ。俺は最初からおまえが泥餓鬼を呼び出したんだとしてもおまえにつくはずだった。でも・・・」
かけがえのない仲間にあってしまった。いまは隆生の、『影』の思い通りにさせるわけにはいかない。だから・・・。
哀れみだと罵られても、甘いと笑われても、いまの佳隆にできることはひとつ。
「ーおまえとともに死ぬ」
ーマタ、アニハユルス。
隆生の中でなにかが弾けた。笑いが込み上げてくる。なんだか泣きたいような笑いが。
「僕と一緒に・・・?アハハ・・・アハハ!とんだヒーローぶりだね兄さん。僕がここで思い直すとでも思ってるの?あいにくだけどそんな良心なんか僕にはもう残ってないから。望み通り殺してあげる」
無数の刃が佳隆目がけて飛んで来る。
(これまでか・・・)
来るべき痛みにそなえてこぶしを握りしめたその時、
ー佳隆!
右手に・・・体中に不思議な『力』がみなぎる。この声は・・・この声はー。
ー母さん?
圧倒的なパワーにおされて光の剣が形を成し、身体ごと突っ込んできた隆生を貫いた。
「カハッ・・・」
口からあふれる黒い血。
「に・・・兄さん?」
かすれた声。佳隆は起こったことが信じられずにがっくりと膝をつく。たしかな手ごたえ。光の剣は、たしかに隆生の身体を貫いたまま。ーつらぬいたまま。
「あ・・・あ・・・」
ーふわーり。
優しい空気がふたりをつつんだ。遠い記憶。懐かしい温かさ。胎内で感じていたはずの、切なくなるほど満ち足りた心。
「・・・か・・・母さん?」
カハッ。血がまた口からあふれる。床にしたたり落ちた血とともに隆生の身体から逃げ出した黒いモノを追う気力すら佳隆はなく、ただ茫然と隆生を光の剣ごと抱きしめていた。あふれ出る血が、これは自分がしたことなのだと。
「母さん?どうして・・・」
目に見えない母を探す。母はいた。そとの炎にてらされた半透明の姿で。変わらぬ美しさのまま。
ーあなたは生きなさい佳隆。
「母さん?」
ーそして戦いなさい。自分の宿命と。
「か・・・母さん・・・」
ー隆生・・・。
さしのばされた手を、小夜子は優しく握った。自分が殺した。そうこの手で殺したのに。
ーどうしてこんなにも優しく自分を抱きしめる。
涙があふれた。
ー泣き虫ねほんとうに。男の子なのにどうするの?
「ごめんなさい・・・僕・・・僕・・・」
後悔してたのだ本当は。いままで築きあげてきたものが音をたててくずれていく。『影』が去ったいま、母の優しさが凍てついた心を溶かしてゆく。
ー隆生。佳隆に謝りなさい。
「うん・・・」
ずるずると鼻水なのか涙なのか、それとも血なのわからないものをすすりあげながら、隆生は最後の力をふり絞って兄を見上げた。
言葉もなく、ただ、佳隆は隆生を見つめ返す。
「・・・ごめんね」
泣きながら隆生は言った。それは佳隆のよく知っている気弱で、それでも心優しい幼さの残る弟の顔だった。
「ごめんね・・・兄さん。僕・・・僕・・・」
「隆生・・・死ぬな、死ぬなよ!」
たえきれずに弟の華奢な身体を抱きしめた。次第に失われていく力。腕の中で重くなってゆく。
「ごめん・・・ね兄さん。大好きだったんだ本当は」
母の優しさに消えた憎しみ。幼いころからずっと佳隆は憧れだった。
「・・・かっこよくて、勇気があって優しくてー。兄さんはいつも僕の憧れだった。だから、兄さんが村をでたときなんだか裏切られた気がしたんだ。本当は心の中ではいつも兄さんを思ってた。だから、本当はさっき兄さんが僕に殺されるって言ってくれた時すごく嬉しかったんだ」
ー愛してたからこそ憎んだ。
「もういいよ。しゃべるな」
何度ぬぐっても血がとまらない。この剣は人間を殺せないはずなのに。どうして・・・。
「無駄だよ兄さん。僕は『影』と契約を交わしたんだ。あいつは逃げちゃったけど村の人達を泥餓鬼に変えてしまった罪はつぐわなくちゃいけないよね」
佳隆はかぶりをふった。
「おまえをここまで追いつめたのは俺だ。俺も一緒にー」
「だめだよ兄さんにはまだやることが残ってる。それに父さんひとりだとかわいそうだから」
「・・・隆生?」
剣の光が隆生の身体をつつみこんだ。不思議な青い光。傷ついた魂を癒すかのようにつつみこむ。
ーいきなさい佳隆。お父さんが・・・仲間がまっているわ。
「母さん・・・」
ーそうして戦いなさい自分の宿命と。
「母さん?」
どんどん薄くなっていく母の身体。信じられずに母を見る目の前で、隆生の身体も光に見えなくなる。
ーさようなら兄さん。・・・ごめんね。
最後の言葉。それっきり、母と弟はー。
ー永遠にいなくなった。




