6-(8)職人の腕
「もう……いいから。……鴻へ戻ったら、なるべく早く、比奈へ行ける様にしてやるから。多少、仕事をやりくりするのに、時間が掛かるが、きっとそうするから」
最初は涼璃の為に、美玻を都へ連れて行こうと考えた。だが、美玻はこれまでそうして、散々役割を押し付けられ、利用されるばかりの人生だったのだ。そして、身も心もぼろぼろに傷ついて一度は死にかけた。そんな娘に、自分はこれ以上の重荷を負わせるべきではない。そう思った。しかし、鴒帆の言葉に美玻は首を振った。
「遠見の郷はもう……無いんです。だから、比奈に帰っても、あたしには行く所がありません」
「……じゃあ、どうする」
鴒帆が訊くと、美玻は何かを決心したように顔を上げて言った。
「もしご迷惑でなければ……あなたの仕事のお手伝いをさせて頂く訳にはいかないでしょうか……旅の間、見ていて、面白そうだなって思ったんです。読み書きなら、出来ます。算術は出来ませんが、きっと覚えます。ですから……」
「……何つうか……お前さんは、性格が素直すぎて、商いなんて、あんまり向いてるとも思えないんだが……それに、商人なんて、あまり人に自慢できるような仕事じゃないんだぞ」
「そんなことないですっ。鴒帆さんは、皆さんから信用を寄せられている立派な方じゃないですか」
「りっ……ぱ……何か、背筋が痒くなってきやがったぞ、畜生」
鴒帆が身ぶるいをした。
「まあ何だ、鴻へ行って、もっと色々なものを見聞きしたら、他にやりたいことが見付かるかも知れないしな。それまで、店の手伝いも悪くないか」
「ありがとうございます」
情が移ったと言えばいいのだろうか。
共に旅をするうちに、どこか危なっかしいこの娘のことが、彼には本当の娘のように思えてきていた。そして、これまで決して幸せとは言い難い人生を生きて来た娘が、この先は、間違いなく幸せに生きられるように、自分は見守ってやりたい――鴒帆はその時、そんなことを考えていた。
翌日は千陶との約束の期日だった。
二人は朝食を済ませてすぐ、待ちかねたように連れ立って玻璃工房へ向かった。
工房へ着くと、仕事の首尾が上々だったのが一目で分かるような千陶が二人を迎え、早速、柔らかい絹布に包まれた依頼品を持って来た。
美玻が興味深げに見詰める前で、千陶は手の上に載せた絹布を丁寧な手つきで開いて行く。中から現れたのは、目よりもふたまわり程の大きな円形に薄く削り出された玻璃の板が二枚。円の対になる場所には、それぞれ二つ穴が穿ってあり、短い革紐で、二枚の玻璃が繋ぎ合わされ、両端に当たる穴には、長い革紐が左右に一本ずつ、輪の状態に結ばれていた。
千陶が両手で輪の部分を持ち、美玻の顔に玻璃を近づける。すると丸い玻璃の向こうに、輪郭のはっきりした世界が出現し、美玻は息を飲んだ。
「ちょっと失礼するよ」
そう言って千陶が、美玻の耳に輪の部分を掛ける。かつて当たり前の様に見ていた世界が、そこにあった。
「……すごい」
「どうかね?」
千陶の確信に満ちた声が訊く。
「はい、見えます。ちゃんと、はっきりと……千陶さんのお顔も、はっきり見えます」
声の感じから想像していたよりもずっと、千陶は若く気さくな感じがした。
「ご感想は?」
「千陶さんて……もっと、気難しくて、親方―って感じの方なんだと思ってました」
「ははは、俺は、声が年寄りくさいからなぁ……」
「千陶は、玻璃の粉を吸いすぎて、こんな声になっちまったんだと」
「粉?」
「削る時にな、どうしても削りカスが細かい粉になって舞うから、玻璃細工師は喉をやられる。ま、声で仕事が来る訳じゃないから、支障はないんだが……どれ、紐の長さを調節してやろうか」
千陶が紐を引っ張りながら、美玻に見え具合を確認し始める。成程少しの差異で、モノの輪郭の見え方が違うのだ。
「それにしても、こんなものまで作ってしまうなんて、やっぱり千陶さんって、凄い人です」
「いやぁ……何て言うか、何故だか俺の所には、鴒帆みたいに、無茶な仕事を持ってくるお人が多くてね。そんなの玻璃職人の仕事じゃないだろうって、いつも思う訳なんだが……」
「と、文句を言いつつ、ついやってみたくなって受けてしまうんだよな、千陶は」
「いやだってさ、流石にこんなものは削れないだろうと言われると、どうにも闘志が湧くだろう?」
「それはまた、挑戦者なんですねぇ……」
「そうこうしている内に、あいつなら、何でも削れるみたいな話になってしまってね、気付けば、いつしかそんな依頼ばっか来るように……」
千陶が苦笑しながら言う。
それでもその顔は、どこか楽しそうだ。
「そう言えば、つい先だっても、珍しいものを削ったよ」
「珍しいもの?玻璃ではなくて?」
「ああ。それが何と、龍の鱗で」
「え……」
――龍の鱗……それって……。
美玻の顔色が変わったことに気付かずに、千陶は手を動かしながら話を続ける。