回想タクシー
頭上の街灯が瞬いた。
瞬いたといっても、星のように美しくはない。誰かが乱暴にスイッチをオンオフしたような激しい光が、夜の道にぶつかった。光がじめんにぶつかるたびに、自分の影が嫌に強調されて足元から伸びる。
時刻は深夜1時を回った頃だろうか。いつもの帰り道に人影は全くと言っていいほどない。ほんの数分前に、コンビニの袋を手に提げた若者が自転車でふらふらと横を通り過ぎて行って、それきりだった。軽い音楽を漏らしながら自転車にのる若者の後ろ姿は、なにも背負っているようには見えなかった。
不気味なほど、と言っても差し支えのないほどの静けさ。自分の足音が、左右の家の塀に反響してやけに大きく聞こえる。ずりずり、と靴底と地面が擦れる音。足元には古くなったパプリカのような細かい皺が入った革靴。錆びたオレンジの枠にはめられたカーブミラーを見上げると、随分とくたびれた男の顔が映っている。
―――お父さんなんて大嫌い!
何度脳内で反芻したかわからない言葉が、また頭の中で蘇った。不意に頭痛がして頭を抑える。カーブミラーには、頭を抱える情けない男の姿が映っているのだろう。その情けない姿を確認しようと顔を上げると、鏡の中の男もこちらを向いた。
濁った、底の見えない目でこちらをじっと見つめている。ぞっとする背筋を感じながら、その男から目を離すことができない。鏡の中の男もまた、私を見ることをやめない。鏡の中の男が言った。
―――全部お前が悪いんだ。
「お父さん、早く!」
「そんなに急ぐと転んで怪我するぞ」
「いいの。怪我しても、お父さんに抱っこしてもらって帰るから!」
夏の日曜日の昼過ぎ。娘の小さな手に引かれて、私は近所の公園に足を踏み入れた。
妻と同じ程であろう年齢の女性が日陰で円を作って談笑している。ああ、あれはお隣の、ああ、あれはお向かいの、と思うことはあっても、どれも話しかける程の仲の近所付き合いをしているわけではない。そもそも、私が優奈の父親だと知っているのだろうか。日曜日も仕事をしている私が、娘と一緒に公園へ来るのは初めてのことだった。
「ねぇお父さん、佳子ちゃんと遊んできていい?」
私が大人の世界に気を取られている間に、優奈は私の返事を待たずに子供の世界へと駆け出していた。
優奈が近付いた、短髪で日に良く焼けた少女がヨシコちゃんだろうか。アニメのキャラクターが印刷されたTシャツにジーパンがよく似合っている。優奈が何か一声かけると、ヨシコちゃんはパッと明るい顔を見せて、手で何か招き入れる仕草をした。それに誘われるように優奈がしゃがむ。すぐに立ったと思ったら、2人でせわしなく公園を駆けていった。
さっきまで優奈に引かれていた右手が気まずそうに宙に浮いていた。騒がしい公園に1人になった。公園にいる少女趣味の不審者だと間違われないように、近くにあったベンチに腰を下ろす。
遠目に優奈を確認してから、持ってきていた小説を開いた。どこから読んでいたかわからなくなって、ぱらぱらと小説をページを捲っていると、足元から声がする。
「おじさん、くさくないね」
声に呼ばれて小説から顔を上げると、優奈ほどの年頃の女の子が立っていた。こちらを見上げるようにしてじっとみつめている。肩を少し過ぎるほどの黒髪に、白いワンピースと水色のビーチサンダル。名前はわからないけれど、先ほどのヨシコちゃんではないことはすぐわかった。
「どうしたの?優奈のお友達?」
できるだけ優しい声で呼びかけに答える。
「ユウナってだーれ?」
細い、けれどはっきりした声で質問が帰ってきた。優奈のお友達でないとなると、私に話しかける理由がいよいよわからなくなる。私は小説をたたんで、もう一度女の子に目を合わせた。
「おじさんは、優奈のお父さん。どうしたの?おじさんに何か用かな?」
自分で自分をおじさんと言ったのもこれが初めてだった。年齢を認めたようで、すこし虚しい気持ちになる。私が話し終わっても、女の子は少しも表情を変えない。私の声が耳に届いているのかどうかもわからなかったので、私は困惑した。
「わたし、おじさんみたよ」
「どこで?」
「あっち」
舌ったらずの言葉で、必死に公園の入り口を小さな指が差した。伝えたいことはわかるが、意味がよくわからない。わたしをみた?どこで?あっちで?
「おじさんをみたってどういうことかな?」
「わたし、おじさんをみたの。あっちで」
また、小さな指が公園の入り口を指差した。これ以上の答えを求めるのは、この女の子には無理らしい。それを察したのか、こっち、と手招きしながら女の子が歩き始めたので、しぶしぶそれに従うように腰を上げた。
小さな背中に黒く細い髪が揺れる。その後ろをついて歩く中年。怪しまれはしないかとひやひやしながら公園の入り口に着くと、女の子が小走りに公園前の道にでた。
大通りから一本入った静かな道。一台のタクシーが止まっている以外は、車通りはほとんどない。そのタクシーの運転手も、雑誌を開いてくつろいでいる様子だから、きっとさぼっているのだろう。一家に一台乗用車がある今の時代では、日曜日の昼間にタクシーを使う人もいないようだ。
「いない」左右をきょろきょろと見回して、何度も私の顔を見る。「いない」女の子の声が震える。
「人違いとか見間違いじゃないのかな?」
私は膝を屈して、女の子と目線をあわせながら言った。言葉を選んだつもりではあったけれど、この歳の子に「人違い」や「見間違い」が分かるかはよくわからない。丸い目を一層まん丸にしてこちらを見つめ返てきたので、意味はわかっていないようだった。
「いたもん。おじさん、いたもん。ユキ、みたもん」
必死に人違いでないことを説明する女の子の口調に、涙が混じった。どうやら、この子はユキというらしい。白い肌と整った顔立ちにぴったりの名前だと思った。この夏の日差しに晒されて、今にも溶け出してしまいそうだ。
「おじさん、さっき公園に来たところだからその時にみたのかな?とにかく、ここにおじさんいないね」
またユキちゃんの目線に合わせて言った。
「それじゃあ、おじさんさっきのベンチに戻るから、またおじさん見つけたら教えてね」
精一杯の優しい笑顔と口調でユキちゃんに説明してから、もとのベンチに戻った。ベンチに戻る途中振り返ると、ユキちゃんはまだ道の真ん中で何かを探していた。
母親の円からの目線が、さっきより少し厳しい気がしたけれど見て見ぬふりをする。
ベンチから公園内に目をやると、さっきよりも優奈と一緒にいる子が増えている。髪の長い子、短い子。スカートを履く子、ズボンを履く子。ユキちゃんに似た雰囲気の子はいない。
見知らぬ女の子の相手をすることが非常に疲れることがわかったので、また小説を開くことにした。
ページを捲ると、さっきは見つけられなかった赤い紐が挟まっているのを見つけた。優奈の笑い声が聞こえた、気がした。
ポケットの震えで目が覚めた。読書もほどほどに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。公園内は以前騒がしいものの、さっきに比べると随分と人が減ったような気がした。日陰で作られた母親の円は、さっきよりも小さくなって、そこにあった。
慌てて優奈の姿を探す。半分がブルーシートに覆われた砂場で、優奈は遊んでいた。ヨシコちゃんは変わらず一緒にいた。2人の前に盛られた砂の山の大きさから、随分と時間が経っていることがわかった。日も傾きかけている。赤い陽が、遊具の中に差し込んだ。
ベンチから腰をあげて、優奈に近付く。
控えめな声で、優奈、と呼びかけると懐いた犬のようにこちらを向いて明るい表情を作った。
「もう遅いからそろそろ帰ろう。お母さんも心配するだろうし」
私の言葉を聞いて、優奈の顔が明らかに曇った。砂の山にまた一杯シャベルで砂をかけてから、こちらをむく。かけた砂のほとんどが、山の麓の部分にぱらぱらと落ちた。
「やだ。まだ遊びたい」
「わがままいうな。もう随分遊んだだろう」
「やだ。だって、まだ遊びたいんだもん」
優奈は理由になっていない、だって、を繰り返す。陽がさらに傾いてくる。夕焼けの赤い陽が、優奈の横顔を照らした。
「ほら、帰るぞ」優奈に手を伸ばす
「やだ!帰らない!」
優奈が高い声を上げた。声に涙が混じる。その声に不意にユキちゃんが思い出された。
「わがまま言ったら、お父さん困るだろ。ほら、帰るぞ」今度は無理矢理に手を掴む。小さな手を私の手が包んだ。
「やだ!」
私の手を振り払うようにしてから、優奈は砂場に座り込んだ。私はもうここから動かない、のアピールだろう。デパートに行った時に何度か見たことがあった。妻が「もう置いていくからね」と一言言ってから立ち去ろうとすると、ぐずりながら短い手足をばたつかせて妻の足にすがる様子を、私は微笑ましい気持ちで眺めていた。
実際にされると、ここまで煩わしいとは。
「もう置いていくからな。ずっとここに座ってなさい!」
そう言って、わたしはわざと優奈に背を向けた。優奈は、わたしの背中を見て、すぐ泣いてわたしの脚にすがりつく。足元に伸びる影は2本で、仲良く手をつないで帰る、と思っていた。
公園の入り口あたりに来ても、後ろをついてくる様子がない。足元に伸びる影も、私のもの一つだ。入り口から一歩出た頃、私は後ろを振り向いた。
優奈は変わらず砂場で山を作っていた。ヨシコちゃんと作ったのであろう大きな山の隣にもう一つ、小さな山を。
いよいよ公園は閑散とし、円を作っていた母親たちが、子供の手を引いてどこかへ行った。手を繋いで帰る姿の中にはヨシコちゃんも見える。公園には両手で数えられる程の人が残った。
そんな中で、優奈は自分を放って帰った父親のことを気にする様子もなくシャベルを握っている。小さな山が、だんだんと大きくなる。また一杯、また一杯と山に砂がかけられる。大きくなった山とは違って、小さな山には砂が積もる。
道に伸びる私の影を見て、私の中で、優奈が酷く遠いものに見えた。一緒に遊んであげることも滅多になかった。それでも優奈は、私に懐いて、私を父親だと認めてくれていると、私は思っていた。思いこんでいた。私は甘えていたのだ。父親という椅子に、ふんぞり返って座っていたのだ。
そう思うと、優奈が今度は酷く恐ろしく思えた。今すぐにでも、彼女から逃げたい気持ちに駆られた。だんだんと大きくなる山が、私をどこかへ追い詰めるように見えた。
私は果たして今後優奈の父親としての責務を果たすことができるのか。愛情をもって接することができるのか。そもそも、優奈は私の子なのだろうか、なんて根も葉もない疑心すら湧いた。
責務は、父親である以上果たすほかないし、今まで愛情をもって接していたのかも怪しいのだから今さらそんなことを考えても仕方ない。ましてや、優奈が私と妻が愛し合った結果生まれたのは疑いようのない事実だった。
事実と疑心がごちゃごちゃと混ざった汚い塊が、私の脳内を占領していくのを私は身をもって感じていた。脳の電気信号がせきとめられ、身体は呼吸の仕方すら忘れ、身体をめぐる血液は急速に黒みを増して、やがて、四方から押しつぶされるような、そんな気分。
私の心は悲鳴をあげた。空回りの愛情が、こんなにも苦しいとは。
また一杯。もう一杯。
山が大きくなるにつれて、麓に落ちる砂の数は増える。
一歩、また一歩。
私は足を動かした。
自販機が煌々と光を放っている。くたびれた、汚い光だ。小さな羽虫がぶんぶんと舞っている。
私は横断歩道で立ち止まっていた。車も人も通らないが、信号は決まり正しく赤と青の切り替えを続けている。青が何度か点滅してから白いラインが赤色で染まる。車は一台も通る様子がない。
もう渡ってしまおうと踏み出したところで、遠くから車の明かりが見えた。深夜にしては随分と遅い。車上に白い光が見えたことから、それがタクシーであることがわかった。道路上に踏み出した脚をまた歩道に引き戻す。
あのタクシーが行ったら、もう渡ってしまおう。
そう考えながらタクシーの走ってくる方向を見つめていると、タクシーは何度かオレンジの光を焚いた後に、私の目の前で止まった。くぐもった音をたてながらドアが開く。
タクシーと私の間に、妙な沈黙が訪れた。私の周りに人はいない。このタクシーが私のために停まったのは明らかだった。この道路を渡って、私の家までは5分ほどしかかからない。タクシーを使う必要はない。脚を折るとか、そんな大怪我をしていない限りは。
私は仕方なく腰を折って、タクシーの中を覗き込んだ。深めに帽子を被り、白い手袋をはめている運転手の後ろ姿が見える。ドアを引くと、芳香剤の香りが鼻をついた。客入りに影響を与えそうなくらいきつい匂いだ。
「あの」
運転手に反応はない。聞こえなかったのだろうか。オーディオも何もかけていないこの車内で、後部座席からの声が聞こえないということはないと思うが。
「あの、すいません」
今度は運転手がこちらを向いた。暖かみのない、でも人の良さそうな不気味な笑顔をしていた。歳は私と変わらないくらいだろうか。髭は綺麗に剃られ、綺麗な肌をしているのがわかる。
「お客さん、どちらまで?」
「いえ、私は乗りません。すぐそこが家ですので、タクシーは必要ないんです」
抑揚のない声で話す運転手相手に、私はできるだけ丁寧な対応をした。運転手の顔に、私の言葉に対する反応は見れない。相変わらず不気味な笑顔を顔に浮かべている。生まれた時からこの顔のような、張り付いた笑顔。
「お客さん、どちらまで?」
運転手は、またさっきと同じ抑揚のない声で繰り返した。不気味な笑顔は一寸も揺れない。
「だからさっきも言ったでしょう。私の家はすぐそこ」さっきより少し語気を強める。
運転手は前を向いてバックミラーを少し動かした。それからもう一度、ゆっくりとした動きでこちらを向く。関節の一つ一つの動きを確かめるような、緩慢な動きだった。運転手の口も同様に、ゆっくりと開かれる。
「お客さん、いつまで?」
「いつ?」
いつ。物分りの悪い老人に教え諭すような、ハッキリとした発音だった。
「ええ、いつまで」
「いつまでってどういうことですか」
私はドアに寄りかかって車内に頭だけを突っ込んで質問した。やはり、芳香剤の香りが鼻につく。できるだけ呼吸を浅くすることを心がけた。「どこ」ではなく「いつ」とはどういうことか。
「お客さん、回想タクシーのご利用は初めてですか」
「カイソウタクシー?」
私の脳内に幾つかの「カイソウ」が思い浮かんだ。海藻、改装、快走、回送。しかしどれもしっくりくるものはない。芳香剤から逃げて、一旦深く呼吸しようと車内から顔を出すと、深夜のひんやりした空気とともに車上に着いた電灯に書かれた「回想」の文字が飛び込んできた。
ああ、なるほど、この「回想」か。となることはない。私にとってはますます疑問が深まったばかりだった。もう一度、深夜の空気を深く吸い込んでから車内に顔を入れる。
「回想って……」
「まぁ、お客さん。とりあえず、お乗りになってはいかがですか?この時期とは言っても、深夜にもなるとお寒いでしょう」
相変わらず抑揚はないが、心なしか言葉遣いの丁寧になった運転手が、後部座席を手で示しながら言った。たしかに、晩夏とはいえども深夜にもなると半袖一枚ではウロウロできない程度に寒くなっている。さっき自転車で私を追い抜いた若者も、薄いパーカーのようなものを羽織っていたのを思い出した。
「まだ乗るとは決めてませんからね」
話を聞くだけです、と一言付け加えてから、車内に乗り込んだ。芳香剤の香りが一層強くする。スーツに匂いがつきはしないかと心配になったので、背もたれからすこし身体を浮かした。バン、と空気を震わせてドアが閉まる。外の空気と芳香剤の匂いが絡まって、酷く不愉快だ。
「で、回想ってなんですか」
「お客さんは、今までで後悔したこと、ありますか」
運転手はしげしげとバックミラーを手で直しながら言った。顔をこちらに向ける様子はない。こちらを向いてくれなくて好都合だったかもしれない。運転手の咄嗟の言葉に、私の眉間が大きく歪むのを感じていた。運転手に何かを悟られないように、かるくうつむく。
「後悔していることなんて山ほどあります。きっと人生なんてそんなもんでしょう」
「そうですねぇ。私も、長いことこの仕事してますけど後悔ばっかりです」
そこで会話が途切れた。気まずい沈黙が流れる。この沈黙を、天使が通っただなんて表現する国があるというけれど、それは可愛い女の子との会話の時限定だろう。同じ年くらいの男との沈黙にはきっと、太った醜い男の天使が通っているに違いない。
「お客さん、あの時に戻れたら、って思うことありませんか」
運転手の語調は、最初の質問と全く同じものだった。抑揚のない、けれど核心を突いてくる痛い質問。
「ええ、まあ、ないこともありませんが、戻れないのが人生ですから諦めています」
「戻れないのが人生、ですか」
「ええ、戻れないから人生です」
運転手と鸚鵡返しを何度か繰り返してから、また沈黙が流れた。先ほどよりは短い、とらえようによっては会話の間程度の沈黙だ。
「じゃあ、もし私が、過去に戻れるといったら信じますか?」
私は耳を疑った。過去に?戻れる?そんな漫画みたいなことがあっていいのだろうか。不意に、大学時代、車で未来へ行く映画をサークルの女の子と二人きりで見に行ったことがあったのを思い出した。結局その子とは親密になることもなく、なあなあの関係でしばらくすると、映画を見に行ったのも自分の勘違いだったのではないかと思う程度の仲になった。あまりいい思い出ではない。
「過去に、ですか」
運転手の顔は、深くかぶった帽子のせいでよく見えないけれど、ふざけた表情をしていないことは後ろ姿からでもわかる。この運転手は嘘をついていない。にわかには信じ難いけれど、回想タクシーは過去に戻ることができるのだ。
「ええ、過去に、です。といっても、戻った地点から全部をやり直すなんてことはできません。過去の世界に自分が飛び入り参加するだけです。未来に大きな影響を与えるほどの干渉はできません」
突然のことに困惑する私をおいて、運転手は流暢に話した。
「未来に大きな影響を与えるほどの干渉、というと?」
「たとえば、お客さんは『バタフライエフェクト』というのをご存知ですか」
知らない、と正直に答えた。知ったかぶりをしてもいいことがなさそうだと判断したからだった。
「蝶々の羽ばたき程度の些細なことが、今後に大きな影響を与える。というお話です。だから、『バタフライエフェクト』」
運転手は白い手袋をしたまま、手で蝶々を作って二、三度羽ばたかせる真似をして見せた。
「でも、私はそうは思いません。蝶が一度羽ばたいたって世界は戦争をやめないだろうし、私が小石を一つ蹴っ飛ばしたからと言って隣の国の大統領が死んだりすることはない」
でしょう?と一度こちらに同意を求めて来たけれど、それは極端すぎる例なのではないかと思いながら、何も言わなかった。相変わらず、運転手の手は蝶々のままだ。
「だから、私はよっぽどの干渉をしない限りはお客さんを止めないことにしています。同業者の中には木の枝一本踏むのを許さないやつもいますが、そんなのどうかしてる」
そう思いませんか?と、また私に同意を求めた。木の枝だとかそんなことより、同業者がいるというのが驚きだった。過去に戻ることができるタクシーはそんなにたくさん存在しているのか。運転手がぶつぶついいながら手の蝶々をほどいた。
「もし私が、未来に大きな影響を与えるほどの干渉をしようとしたら、運転手さんはどうするんですか?」
「そりゃあ、止めますよ。殴ってでも、なにをしてでもね」
そう言いながら、今度はシャドウボクシングのマネをした。武闘派でないことは見た目からわかっていたけれど、これなら私を止めることはできないな、と確信できる程度のボクシングだった。
「ついつい話が長くなってしまった。で、お客さん、いつに戻りたいんですか?」
―――お父さんなんて、大嫌い!
―――もう置いていくからな。ずっとここに座ってなさい!
私が戻りたい過去なんて一つしかないに決まっていた。さっきは「人生後悔ばっかりだ」といったけれど、私が後悔していることは、あの日、以外特にない。運転手は軽い調子で私の返答を待っている。
きっと知っているのだ。私の過去を。何があったかを。
私は緊張で粘ついた唾液のせいで動きずらい口を、何とか動かした。いつの間にか芳香剤の香りが気にならなくなっている。背もたれにもぴったりと体がついて、少し汗までかいていた。
「五年前……、五年前の八月十九日に……戻れますか」
運転手がハンドルに手をかけた。ぶるん、と車が一度身震いしたかと思うと、ゆっくりと動き始めた。どこへ向かうのだろう。相変わらず街には大した明かりもない。
さっき私を追い抜いた自転車の若者が、コンビニの袋を片手にさげて目の前を横切った。こんな時間の車にぎょっとしたのか、少しよろけた。記憶にあった通り、薄手のパーカーを羽織っている。
見慣れた風景を車の窓から眺めていると、突然急激な眠気に襲われた。眠い理由を考える間もなく、私は半ば本能に従う気持ちで瞼を下ろした。この眠気の原因が芳香剤の香りにあったのではないかと気付くのは、意識が完全に落ちるほんの数秒前のことだった。
あの時の私は、優奈の父親としての自分を見失って、大いに困惑していた。
私は優奈を公園に置き去りにしたまま、公園前の大通りを少し歩いた。足元に伸びる一本の影。周囲はだんだんと暗さを増した。薄くなる影を見つめながらの、私の体感としては五分も歩いていないほどの短い時間。あの時の私はどうかしていたから、「あの時お前は二時間頭を抱えて道でうずくまっていたんだ」といわれたら、頭ごなしにそれはないと否定することができない。
私は迷っていた。公園に戻るべきか否か。自分の中の醜い私が、優奈が泣きながら私を探していてはくれないかと叫んでいた。泣きながら探していたなら優しくしてやるのにと、汚い笑みを浮かべてもいた。
様々な思いに駆られて、息絶え絶えになりながらも辿り着いた公園に、優奈の姿はなかった。代わりに、優奈がつくっていたのだろう二つの山が踏み荒らされたようにして亡くなっている。
「優奈……?」
自分以外には聞こえないような、弱々しい声が出た。息がいっそう荒れる。心臓が痛いほどに鳴り始める。
優奈はどこだ。
陽も沈みかけ、閑散とした公園に子供の姿はなかった。入り口から公園の端が見通せない程度には暗くなっている。眼球が、ぐるりと公園を見回した。ブランコは風に揺れることもなく、砂場はブルーシートが半分めくられたまま放置されている。
一歩、また一歩と公園に足を踏み入れた。昼間は気にならなかった砂を踏みしめる音も、今はうるさいほどに耳に届いた。スニーカーの底が地面と擦れる音。その全てが、公園の周りに佇む名前も知らない木に吸い込まれているようだった。
「優奈!」
さっきよりは大きな声が出た。声に自然と震えが混じる。もっと大きな声を出そうと息を吸い込むと、ひゅっと空気の音がして、息が詰まった。
昼間私が座っていたベンチにはホームレスが座っていた。座っている、というより寝転がっているのだろうか。ダンボールを引いたベンチの上で、なにも入っていないのであろう口をもごもごと動かしている。
「すいません。つかぬ事をお伺いしますが」
「おん?」
ホームレスの近くに寄ると、酷い臭いがした。あのタクシーの芳香剤の方が幾分かマシだろう。服の所々は破け、土か垢か、おそらく垢だろう、で茶色く煤けている。私の言葉に、ホームレスは仰向けのまま、口をもごもごと動かしながら目だけで返事をした。
「そこの砂場で、女の子を見ませんでしたか。水色のTシャツに、白いスカートを履いた、これくらいの」
優奈の身長を手で表す。ホームレスは地面から手までをジロジロ見てから、深く落ち窪んだ眼をぎょろりとこちらへ向けた。
「ああ、みたなぁ。そこの砂場で、1人で砂遊びしてたぁ。ちょいと悪戯でもしてやろうかと思って、声をかけてみたんじゃけどぉ、こっちにこないでって言われたけぇ」
そこまでいって、ホームレスは、げひひ、と下品な笑いを漏らした。不潔な口元だ。酷い口臭とホームレスの下卑た思いつきに思わず顔が歪んだ。「ありゃぁ、将来美人になるぞぉ。間違いねぇ」と言って、また、げひひと笑った。
「それで、その、女の子はどこに?探してるんです」
「どうだったかなぁ。ずーっと、だまーって、一人で砂遊びしてたかと思うと、急にすくっと立ち上がってなぁ」ホームレスは口元の髭を撫でながら続ける。白髪の混ざった髭には、土がこびりついている。触って気持ちの良さそうなものでは、決してなかった。
「泣いとったんかなぁ。公園の入り口に向かって歩いていって、車に乗っとったぞぉ」ありゃぁ、父ちゃんかなぁ、と言いながら、仰向けに寝ていたホームレスはこっち向きに寝返りをうった。寝返りを打つだけで、嫌な臭いがこちらに漂う。私は咄嗟に鼻を押さえた。
「車、ですか?」
ホームレスは「父ちゃん」と言ったけれど、父親である私には当然身に覚えがない。
「ああ、車じゃ。黒い車だったかなぁ」
「黒い、車。ナンバーとかはみてませんか」
「俺もそこまではみとらんよ。なんせ、その女の子にどうやって悪戯するかで頭がいっぱいだったからなぁ」げひひ、と笑ってから地面に唾を吐いた。粘り気のある汚い唾だった。かかるはずもないのに、私は無意識に半歩あとずさった。
「その車に誰か乗っていたとか、覚えていませんか」
「女の子は抱きかかえられて車に乗ってたぞぉ。男だったかなぁ。スーツを着た、あんたくらいの……」
ホームレスはそこまで言ってから、私の顔をジロリと見た。何か言いたげにしてから、それをやめた。また口をもごもごとうごかして、唾を吐く。
私は何も言わずホームレスから離れた。できるだけ足早に、つきまとう臭いからも逃げるように。ざくざくと土を踏みしめて歩く。途中、子供が書いたのであろう絵が土の上に残っていたので、そこだけ大股にして避けて歩いた。
「おい、人にものを訪ねたらお礼っちゅうのをせんといかんとお母ちゃんからならわんかったかぁ!」
私の背中に向かってホームレスが吠えた。呂律が回っていない。ホームレスは私に向かって文句を垂れ続けていた。もしホームレスが私の背中にとびかかって財布でも奪い取ろうとしたなら、渾身の力で殴りつけてやろうと思って拳を固めていたが、ついにそんなことはなかった。
私はそのまま公園から出た。完全に陽の落ちたその道には、街灯が煌々と光っていた。ここ一帯の電灯が、最近取り替えられたらしい。防犯のためと説明があったけれど、本当に意味があるのかとおもって、私は街灯を睨みつけた。
「ありゃぁ、俺は惜しいことをした。他のやつに、あの女の子をとられちまった」と大声で言って、今度は、ぎゃはは、と笑っているのが後ろから聞こえた。
―――お客さん、着きましたよ。
運転手の声に目が覚めた。瞼が重い。妙な姿勢で眠っていたらしく、身体を起こすと節々がミシミシと痛ましい悲鳴をあげた。肩を抑えて、首をぐるりと回す。
「お客さんの言った、五年前の八月十九日です。場所は、公園の前に止めておきました」
窓の外に目をやると、真昼間の明るさが広がっていた。私がこのタクシーに乗ったのが深夜二時過ぎごろだったので、単純に計算すれば半日近く乗っていたことになるが、そんなことはあるはずもない。
「本当に五年前なのか?その証拠はどこにある」
お客さんも疑り深いですねぇ、とでも言いたげに大きくため息をついた。
「そうですねぇ……、ほら、公園の入り口、みていてください」
「公園の入り口?」
入り口からは若干遠い位置に停車していたので、私は後部座席から身を乗り出して前を見た。通りの向こうのほうから手を繋いで歩いてくる親子がいる。いや、手を繋いでいるというよりも、娘……だろうか、に引っ張られるようにして男が歩いていた。女の子は今にも走り出しそうなくらいに軽快な足取りだ。
「まさか」
「ええ、その、まさかです」
通りの向こう側から歩いてくる親子は、私とその娘、優奈だった。あの日とおなじ水色のTシャツに白いスカート。髪型も身長も歩き方も、すべて全く同じだった。
「あれは……私と優奈か?」
「ええ、でしょうね。とてもそっくりですよ」
「いったい、どうやったんだ」運転手の座席をわしづかんだ。
「それは教えられない決まりになっているんです」
運転手は目をつむって軽く首を振ってから、バックミラー越しに私の目を見た。
「さて、この度は回想タクシーをご利用いただきまして誠にありがとうございます。お客様にご注意が何点かございますので、お気を付けください」
突然声色を変えて滞りなく話し始める運転手は酷く不気味だった。思わず、座席を掴んでいた手を放して、乗り出していた身体を後部座席に戻す。
「他人に回想タクシーのこと、または未来から来た、という旨を伝えないでください。未来に大きく影響するような干渉はお控えになられますようよろしくお願いします。帰りたくなったら、運転手にその旨をお伝えください。すぐに発車いたします」
一息に言うと、運転手は大きく息を吐いた。
「以上、三点をご留意いただきますようよろしくお願いいたします。何か、ご質問があれば承ります」
そういって、運転手は静かになった。まるで自動再生のテープが巻き戻されているようだった。肩が上下に揺れているので、この運転手がロボットだなんてSFチックなことはなさそうだ。
「……質問、ありますか?」
今まで通りの落ち着いた語調と滑舌で、運転手は改めて私に聞いた。バックミラー越しにみる顔は薄く汗ばんでいる。怒涛の連絡に気圧された私と、一仕事終えたという達成感に浸る運転手との間に妙な間が生まれる。黙っている私を、運転手が目だけでちらちらとみた。
「ないみたいですね。大変なんですこの連絡。しないと上がうるさいもんで」
回想タクシーの会社にも一応「上」がいるらしい。何を取り仕切っているのかはさっぱりわからないけれど、私の会社の「上」と大して変わらないのだろう。成功は自分の手柄にして、失敗は部下のせいにする。無理矢理酒に誘って、断れば嫌な顔をする。「上」はどこの世界でも「上」だ。
「外に出ていただいても結構ですよ。先ほどお伝えしたとおり、帰りたくなったら私に言ってください。何時間でも結構です」
そういって、運転手はダッシュボードから雑誌を取り出した。「クロスワードパズル」とかかれた表紙のその雑誌には、何枚も付箋が挟まっている。もう私に話すことはないらしい。
私はドアをあけて外に出た。五年前を思い出すように、たった数十メートルの、公園の入り口までの道を歩く。入り口が近くなるたびに、心臓が跳ねるのを感じた。背中に嫌な汗が流れる。呼吸の仕方を忘れたように、肺が酸素を欲しがった。それでも、私は歩くことをやめられなかった。もう一歩、また一歩と入り口に近づいていく。
深夜から来た私にとっては、耳が痛くなるほどの喧騒がそこにはあった。子供たちのかん高い声に、主婦たちの低い声。どこからかは笑い声が聞こえて、どこからかは泣き声が聞こえる。もういろいろと、ごちゃまぜだ。
入り口から中の様子を伺った。あの日と同じく、目で公園全体を見渡す。
ブルーシートが半分だけ剥がされた砂場に、優奈の姿はあった。隣にしゃがみこむ女の子の名前が思い出せない。短髪で浅黒い肌が似合う、あの子の名前。
優奈を今すぐにでも抱きしめたくなる衝動に駆られた。胸から熱いものがこみ上げてくるのがわかる。ぐっとこらえて、その衝動が収まるまで私は公園には入らないことを決めた。
「くさい」
足元からした声に、私の視線が下がる。見ると、優奈より三つか四つは下だろうかというほどの女の子が立っていた。公園の名前が書かれた看板を背もたれにするようにして立っている。
「おじさん、くさいね」
女の子はそういいながら、私のスーツを鼻をこすりつけるようにして嗅いだ。しきりに、臭い臭いと繰り返している。いくら小さな子供の言うこととはいえ、臭いと何度も言われてはたまらないので、彼女から離れるようにして数歩退いた。
「おじさん、公園に入らないの?どうして?だいじょうぶ?」
「公園に入りたいんだけど、入れない理由があるんだ。心配してくれてありがとう」
目線を女の子に合わせて、私は返事をした。
「あたしね、おじさんみたいなひと、さっき公園でみたよ」
女の子の言葉に私の心臓がまた跳ねた。これくらいの女の子は、時に鋭いことを言うからびっくりさせられることがある。「女の勘」とやらは、もうこれくらいのうちから育っているのだろうか。
「おじさんみたいな人、ってどれかな?」
「あれ!」
女の子の小さな手は、ベンチに座って小説を読む五年前の私に向けられた。五年前の私を目の当たりにして、私も随分老けたな、と実感させられた。最近、髪の毛には白髪が混ざってきたし、身体も少し細ってきている。あの事件があってからは、なおさらだ。
人違いじゃないかなあ、としらを切ると、女の子の小さい手が私の手を掴んだ。こっちこっち、といいながら私を公園の中へ連れて行こうとする。私の前に連れていかれてはたまったものではない。大人げないけれど、私はその場にぐっと踏ん張った。私が動かないことが分かると、女の子は不思議そうな顔をこちらに向けた。
「見に行かないの?」
「ごめんね。でも、同じおじさんが二人もいるとおもう?」
「思わない」
女の子の手が、私からパッと離れた。
「でしょ?だから、きっと見間違いだよ。ほら、おじさんのこと忘れて遊んでおいで」
「うん、わかった」
女の子はあっさりと私に背を向けて、短い手足をバタバタさせながら公園の中に紛れていった。不安定なその走り方、肩まで伸びた黒くてきれいな髪に、透き通るような白い肌がよく似合う可愛らしい女の子だった。昔、あんな女の子に会ったような気がするけれど、名前を思い出すことができなかった。
女の子がまた戻ってくるような気がしたので、一度タクシーに戻ることにした。運転手は相変わらずクロスワードパズルに熱中している。乗り込んできた私を、例のごとくミラー越しに見て、驚いた顔をした。
「もう帰るんですか?」
「いや、まだ帰りません。小さな女の子に、あそこにもおじさんがいる。って絡まれて逃げて来たんです」
「まあ、仕方ありませんよ。そっくりどころか、同一人物なんですから。子供が不思議がるのも当然です」
「ところで、公園の中には入っていいんですか?」
「そうですねぇ。姿を見られる、ということ自体は避けてほしいので、私の希望としては入ってもらいたくないところです」
もちろんお客さんの気持ちも分からなくはないですが、といってから小声で「上がねぇ」と付け足した。随分と厳しい上司らしい。当然、ペナルティか何かがあるのだろうけれど、あえて聞かなかった。
「あ、お客さんお客さん、ここ、この問題が分からないんですが、なんですかね」
そう言って、運転手が私に雑誌とシャープペンシルを渡した。分からない問題、とやらに丸がついている。パズル自体はほとんど埋まっていて、その分からない問題も三分の一程度は答えが出ていた。
『同じ人物が同時に同じ場所に現れる現象』
「わざとやってませんか」
私が不機嫌そうに雑誌とペンを突き返すと、運転手は、いえいえそんな、といいながらにやにや笑ってから、その問題をすらすらと埋めた。
「同じ人物が同時に同じ場所に現れる……。見たら死ぬ、なんて言われてますがどうなんですかね」相変わらずにやにやしている。
「私が死んでないから、五年前の私も私をみなかったんでしょう」
そういってから何気なく前を見ると、さっきの女の子が、五年前の私を公園の外に連れて出てきているところだった。私を探しているのだろう、女の子はしきりにきょろきょろしている。一方の私は、めんどくさそうにしているのが周囲から見てもわかるくらい、めんどくさそうな顔をしている。
「うわ、めんどくさそうな顔してますね。冷たい人だ」
私がちょうど考えていたことを、運転手は躊躇いなく口にした。心なしか、だんだん馴れ馴れしくなっている気がする。
「余計な事いわないでください」
女の子に導かれるようにして、私がこちらを向いた。慌てて運転手の座席裏に隠れる。おそらく向こうからは、公園横で仕事をさぼるタクシー運転手程度にしか見えていないだろう。いや、これは私のことだから、「見えていなかったんだろう」だ。このタクシーに印象があるわけではない。
私は、しゃがみこんで女の子に何か言ってから公園の中へ戻っていった。取り残された女の子は、唇をかみながらまだきょろきょろしていた。
「かわいそうですねぇ。お客さん、でていってあげたらどうです」
「今出て行ったら、」めんどくさい、と口から出そうになる。
「……厄介なことになるのはわかりきっているじゃないですか」
しばらくしてから、女の子は公園の中に戻らずに通りを向こう側に歩いて行った。帰ったのだろうか。小さな後ろ姿はどんどん小さくなって、しまいに見えなくなった。
「しばらくは車内にいます」
「娘さんの様子、みとかなくていいんですか?」
「入り口から中を覗いてたら、それこそ不審者だと思われます。それに、声もかけられずに歯がゆい思いをするくらいなら、車内で大人しくしているほうがいい」
「そうですか。私のお願いをきちんと守っていただいているようで助かります」
そういって、一度目を離していた雑誌にもう一度向き直った。ぶつぶついいながら新しいパズルに取り組んでいるようだった。
乗り出していた身体を後部座席に戻して、大きく息を吸う。昨晩のように眠たくなる様子がないから、この芳香剤は不思議だと思った。なんとなく窓から外を見やる。これ以上ないほどの、澄んだ青空が広がっていた。あの日は、こんなに晴れていたのか。
このタクシーに乗って五年前に戻ってきた以上、私がすることは決まっていた。
犯人を見つける。そして、できればその犯人を、私の考えうる最悪の手段で殺す。
あのホームレスが言っていたことが頭の中を回った。黒い車。スーツ。自分ほどの年齢の男。あの汚らしい男がいうことを鵜呑みにしたくはなかったけれど、今はそれどころではない。ついでに、げひひ、という汚らしい笑い声が五年ぶりに思い出された。笑い声や破れて土や垢にまみれた服、歯の抜け落ちた酷い臭いのする口は思い出せても、顔の全体像を思い出すことはできない。優奈が、あの男の視線を背中に受けながら、一人で砂遊びをしていたかと思うと身震いがした。
拳が自然と握り固められた。少し伸びた爪が、手のひらに食い込む感覚がある。
私がこの車から出るのは夕方。五年前の私が、優奈を恐れて、公園から逃げ出してからと決めている。逃げ出す私を見てから、公園の入り口に隠れ、優奈に近づく犯人を待つのだ。
運転手に「干渉は控えるように」と言われているけれど、仕方ない。私はこの場で死んでもいい。運命を一本の線だとするなら、優奈の線を数ミリ動かすだけでいい。決心を固めて、私はその時を待った。
腕時計に目をやると、秒針が止まってように見えた。もどかしい。この現象に、なにか格好つけた名前があったような気がしたけれど、思い出せなかった。
陽が傾いた。タクシーの中に赤い色が射す。
私は、例の如く運転手の座席を掴んで、今か今かと待っていた。頭を抱えた私が、公園から後ずさるようにして出てくるはずだ。公園前の通りに、人の姿はない。ずっと停まっていたこのタクシーが怪しまれて通報でもされるのではないかとおもっていたけれど、そんなことはなかった。なんだ、案外みんなの防犯意識もその程度かと思う。
「そろそろじゃないんですか?」
黙ってクロスワードと睨めっこしていた運転手が、久しぶりに口をきいた。寝ているものだとばかり思っていたから、少し驚いた。
「はい、そろそろです」
「犯人、見つけられるといいですね」
「運転手さんは、私の過去のこと知ってるんですか?」
私の質問に運転手はしばらくの間を置いた。質問に答えあぐねていたのかもしれないし、私に突然「運転手さん」だなんて呼ばれたから、ぎょっとしていたのかもしれない。
「ええ、まぁ。何があったかくらいは、調べますから」まぁ、正確には教えられるんですが……と、付け足す。
「教えられる?」
「上に、です」運転手は苦笑いした。
「あまり細かいことは教えてもらえませんが、乗せるお客さんの過去は多少聞くことになってます。なんの後悔もない、幸せなお客さんを乗せても仕方ないですから」
幸せなお客さん、という表現が私の胸につっかえた。
もちろん、私が幸せかと問われれば、逡巡の間もなく「不幸だ」と答えられるのだが。他人に「不幸な人」と言われるとなにかすっきりとしない。
「じゃあ、この事件の犯人も、ご存知なんですか?」
「いやいや、さすがにそれは」運転手は顔の前で手を振った。白い手袋の側面に鉛筆の粉がついて、少し黒ずんでいるのが見えた。
「先ほども言いましたが、上から聞かされるのはあくまで多少、です。上がどこまで知っているのかは知りませんが、私ども運転手には大したことは教えてもらえませんから」
「私、犯人を殺そうと思ってるんです」
「そうですか」運転手は驚くという様子も見せない。その反応は、私がこんなことを言い出すのを知っていたのか、それとも、突飛で無計画な考えに唖然としているか、どちらかだろうか。
「これは、未来への重大な干渉になりますか?」
「それは、わかりません。もしかすると、その犯人は娘さんを殺してすぐに自殺したかもしれない。もしかすると、事故にあって死んだかもしれない」
止められることを予想していた私は、運転手の言葉に少し驚いた。
「お客さんが、その犯人を殺した時にやっとわかることです。未来というのは、ある出来事が起こるまでは何十何百何千という通り道がある」
「じゃあ、殺してもいいんですね」
遮って発した私の言葉を聞いた運転手は、「まさに、バタフライエフェクトです」と苦い顔をしながら手で蝶々を作った。
「実は、私たちはお客さんの行動を止める権利は持ってません。上からの指示命令に従うだけです」伏し目がちに言う。
「電車とかで見かけるでしょう。優先席の前で携帯をいじる若者。放送や看板でいくら注意を促しても、誰もそれに目を向けることはありません。全て、その人がルールを守ってくれるかどうかにかかっています」
「つまり、ルールはあるけれど、それを破った時の罰は特にない、ということですね」
あえて口に出さなかったことを私が言うと、運転手は目を伏せて答えた。
その様子を見て、質問はあったがそれ以上はしなかった。運転手はクロスワードにわざとらしく唸った。よく見ると、雑誌に貼られた付箋の数が増えている。
それにしても、遅い。五年前、ましてや困惑していた時の記憶なのだから間違えているのは当然だと思うが、それにしても遅すぎる。窓の外は、夕焼けというには暗すぎる時間になっていた。
「ちょっと様子を見てきます」
嫌な予感がして、私は車から飛び出した。乱暴に車のドアを閉める。
もしかして、公園に潜んでいた人物が優奈を殺したのかもしれない。どうして、犯人は外からやってくるとばかり思っていたのだろう。甘い考えをしていた自分に腹が立った。爪が手のひらに食い込む。
昼間はとても長く感じた入り口までの距離は、ほんの一瞬だった。女の子がもたれかかっていた看板に身を隠しながら、公園の中を覗き込む。周囲には細心の注意を払った。もしかすると、今にも私が出てくるかもしれないのだ。
公園は閑散としている。あまり大きな公園でないからだろうか、昼間の賑わいが嘘のように静まりかえっていた。風が吹くと、木々がざわざわと鳴る。
目だけで公園を見回す。ホームレスはまだいない。段ボールも引かれていないから、あのホームレスは一日中、自分の寝床を片手にうろついているらしかった。
もっと中の様子を見ようと公園内に踏み出したところで、私はその一歩を躊躇った。
風にはためくブルーシートの向こうに人影が見える。優奈かと思ったけれど、違う。随分と大きな人影だ。大人が一人丸まるようにしている。座っているというよりも、膝立ちの姿勢に近い。後ろ姿の大きさや服装から、男だろうと思った。男は息を荒らげているのだろう。肩が上下に大きく揺れていた。
ブルーシートがはためく。シートの端が、砂場の砂を持ち上げて、男にかけた。
男の膝の隙間から、二本細い脚が伸びているのがみえた。だらしなく、砂が付くことも気にしていない様子で、地面に落ちている。男が覆いかぶさるようにしているため、そこに何があるのか、何が行われているのかはよく見ることができない。
しばらく、とはいってもほんの数十秒だろう、男の背中を睨み付けるようにして見ていると、男がふと身体を起こした。男は汗をかいているのだろう。着ているシャツが背中に張り付いている。男は大きく息をした後に、砂場に落ちていたシャベルを握って、底に横たわる「何か」に砂をかけた。一心不乱に、何度も何度も。
私の心臓は痛いほどに脈打ち始めた。手のひらがジワリと濡れる。背中には嫌な汗がつたる感触があって、口が渇いた。状況を理解しようとする脳が酸素不足に喘ぐ声が聞こえてくるようだった。
私はこの光景を知っていた。そこに横たわるものがなになのかも、男が何に砂をかけているのかも……あの男が誰なのかも。全部全部、知っていた。
あの日私は優奈を殺した。
今、五年前に戻ってきたのは、犯人を見つけるためではない。
どうして私が捕まらなかったのか。どうして神隠しに終わったのか。
どうして、遺体が見つからなかったのか。
その全てを知るためだった。
「優奈……」
声にならない叫びと共に、細く、白い首が手の中で跳ねた。
優奈が返事をすることはもう二度とないという確信が、細い首を覆うようにして掴む私手から伝わった。全身が、だらしなく砂の上に落ちている。横たわってすらいない。こうなっては、道端に落ちている軍手の片方と同じだ。
優奈は生前に似つかわしくない、酷い顔で死んでいった。その顔を見て、やはり妻似だと思った。性行為をしている時、妻がこんな顔をしているのを見たことがある。大きく見開かれた目が、私に何かを訴えかけているようだ。
――――全部お前が悪いんだ。
今の優奈に、意志を伝える能力があったら、私にこうでもいっただろうか。
私は、優奈の開いた瞼を閉じることもせずに、砂場に落ちていた赤いシャベルを手にとって無造作に砂をかけた。優奈が作った大きな山を切り崩すようにして、優奈の全身を砂で覆っていく。大きかった山も、すぐに小さくなった。代わりに、優奈がいる場所が野球のマウンドのようにこんもりと積もった。少しいきがった中学生が、小さな子供の作った山を疎ましがってわざと蹴り飛ばしてから踏み潰した跡、というところだろうか。その程度には見える。
ふと思いついて、私は砂場に膝立ちをしたまま、ポケットから財布を取り出した。財布から免許証を抜いて、優奈の胸あたりに一緒に埋めた。こうすれば、すぐに私のところに警察が来るだろう。そして私にこういうのだ。「娘さんの遺体と一緒に、免許証が埋められていました。この悪人面、父親の皮を被った鬼は、間違いなくあなたですね?」この免許証、いわば犯人の気遣いのおかげで、殺人犯である私はすぐに捕まって、この町に平和が訪れるのだ。平和は、所詮、脅威が去った後の数日間だけの幻想だ。
優奈の全身が埋まる前に、私は一度、優奈の指を握った。さすがにまだ温かい。
指先にまで砂をかけてから上体を起こすと、涼しい風が吹いた。汗をかいていたことに気付いた。シャツが背中に張り付いて、気分が悪い。
風と一緒に鳴る公園の木々は、まるで、噂話をしているようだった。
―――あの男、人を殺したぞ。
―――しかも、自分の娘だってさ。
―――かわいそうになぁ。もがいて、苦しかったろうに。
私は立ち上がって、両手で耳をふさぐ様にしてから、公園の入り口に向かって歩き始めた。
―――同機は?
―――え?単なる逆恨み?
―――まあ、すぐ捕まるさ。あいつ、自分で免許証埋めてたぜ。
―――捕まるつもりならはなから殺さなきゃいいのに。
うるさい、うるさい、うるさい。
木々の噂話は、風が吹くたびに声を増した。
公園を出ると、タクシーが止まっているのが見えた。運転手が雑誌片手に運転席に座っている。こんな時間に何をしているのだろう。駅のロータリーにでも行けば、少しは客が捕まえられるだろうに。乗って帰ってやろうかと思ったけれど、お金がもったいないからやめた。
取り換えられたばかりの外灯は酷くまぶしい。
頭を抱えた私が、看板に隠れた私の横を通って行った。何かぶつぶつ言っていたが、私があの時なんといっていたかは思い出せない。頭を抱えているというよりは、何かから逃げているようにも見えた。木がざわざわとゆれている。私が通りを歩いていくのを見届けてから、私は一度タクシーに戻った。
運転席側の窓を叩く。相変わらずクロスワードを解いていた運転手は少し驚いた様子で窓を開けた。
「なんです。犯人、みつかりましたか」
「公園の入り口にぴったりつけてくれ」
運転手は、少しの間私の顔を見てからハンドルを握った。車がゆっくりと進み始める。
私はもう一度公園に戻る。砂場に近づく。乱雑に踏み荒らされた、ようにみえる砂場に。
砂の隙間から、白い布地が見えていた。白いスカートの端だった。私はシャベルも使わずに、手で砂をどける。一度山がなくなった砂場に、もう一度山ができようとしていた。
長く伸びた爪の間に砂が詰まる。古びた革靴は、白く粉がかかったようになっている。
私は確信していた。
どうして優奈の遺体が見つからなかったのか。
どうして忍ばせた免許証すら見つからず、私が捕まることがなかったのか。
全て、私のしたことだったのだ。優奈を殺したのは私で、それを見つからないようにしたのも私だった。私は、未来の自分自身に救われて、あの日から今まで生きて来たのだった。
徐々に優奈の顔から砂が取り払われる。
瞼を閉じられることもなく砂の中に埋められていた優奈の顔は酷く汚れていた。瞳には砂が付着して、白く淀んだように見える。できるだけ丁寧に、顔についた砂を払いのけた。汚れた手で瞼を下ろす。私はこの顔にどこか見覚えがあったけれど、思い出すことができない。
公園の入り口に目をやると、タクシーの運転手がドアを開けて待っていた。あとは、優奈をタクシーの中に入れるだけだ。こんなに汚れていては運転手に嫌な顔をされるかもしれないけれど、仕方ない。
優奈の身体と砂の間に手を差し入れた。優奈は想像していたよりも重たく、それでいて冷たかった。ポケットに入れ忘れたままにした、使い捨てのカイロのような冷たさ。その冷たさが、人間の内側から湧いてくるものだと思うと恐ろしくなった。持ち上げようと、腰に力を入れる。
「おい」
背後から聞こえた声に、私は釘を刺されたように、中腰のまま動けなくなった。
誰の声だろう。運転手のものではなかった、しかしかといって、警察官のような正義感溢れた声をしてはいない。
いろいろな思いを巡らせながら振り向くと、そこには段ボール片手に立っているホームレスがいた。服は酷く汚れて、酷い臭いがする。何も入ってないだろうに、白髪交じりの髭を蓄えた口をもごもごと動かしていた。
「……なんでしょうか」
優奈の遺体を隠せるはずがないのに、私の手は何かをかばうような姿勢で止まった。ホームレスの、何かを詮索するような目つきが嫌に気になる。
「お前さん、その子ぉどうするつもりじゃぁ」
嫌に粘っこいしゃべり方をする。私はこの男と話したことがあった。優奈を殺して、しばらくたってから、遺体の様子を見に公園に戻ってきた時に、このベンチを寝床にしていた男だ。
「家に、連れて帰るんです」声が震えないように、腹に力を入れて話した。
「なんじゃぁ、お前さん、そんなちっさい子が趣味なんかぁ」
男は、げひひっ、と笑った。この笑い声にも、聞き覚えがある。
「趣味?」
「だってぇ、お前さん、その子をうちに連れて帰って、やるんじゃろぉ?」
やる、と曖昧な表現をされたその行為がなんなのか、私にはすぐ察しがついた。ホームレスは声を出さずににやにやしながら口元の髭を撫でた。黒と白が絡み合った髭は、随分と手触りの悪そうなものだった。
「で、どうやったぁ?薬かぁ?」
一瞬、質問の意味が分からなかったけれど、ホームレスは、その小さな女の子をどうやって眠らせたのか、と聞いているらしかった。この女の子が死んでいるのには気づいていない。
「薬です、薬」私は曖昧に答えた。ホームレスから、ぎゃはは、と声が上がる。
「ほなぁ、はやいところ縛り上げてしまわないかんぞぉ。薬はいつ目をさますかわからんけんのぉ」
「あなたは、こういうことを昔したことがあるんですか」
正義感ぶるつもりは毛頭なかったけれど、単純な興味から聞いた。なにより、ここで妙な動きを見せて、これが遺体だということを悟られてはいけない。
「ああ、昔のぉ。でも、すぐぅやめたわぁ。ちっさすぎていかん。もうちっと歳取らな、色気もないけんのぉ」げひひ、と何かを思い出すようにホームレスが笑う。
「あぁ、でもな、狭さは抜群やぞぉ。あの感触は忘れられんわぁ」
ホームレスが股間に手をやって、気味の悪い意味の分からないジェスチャーをした。私は目を背けて、優奈を抱きかかえて立ち上がった。
「お、もういくんかぁ。じゃあ、ゆっくりたのしめよぉ。楽しんだ後は、惜しまず殺さないかんぞぉ」
冗談のようにいったけれど、ホームレスは本気なのだろうと思った。上機嫌で笑っている。
「大丈夫じゃ。俺ぁ、誰にも言わんて約束するけんのぉ。大丈夫じゃ」
私の蔑んだ目をどう勘違いしたのか、ホームレスは私に妙な約束をした。私はホームレスに礼も返事もするでもなく、砂場から入り口に向かって歩き始めた。
一歩、また一歩。タクシーの入り口が大きくなるたびに、私の脳内にかかっていた霧が晴れていくようだ。すべての真相。娘を殺した男の末路。
遺体を隠すこの行為が正しいのかは分からない。ただ、私が迎えた「捕まらない未来」を迎えるためには、この遺体隠しは欠かせない行動だったのだろう。「未来への干渉」。皮肉なことにも、過去の私がしたことの尻拭いを未来の私がすることは、未来への干渉にならないのだ。
すっかり冷たくなった優奈を抱えたまま、タクシーの入り口に腰をかがめた。大きな家具を買った時のような気分だ。タクシーの中に顔を入れると、運転手はハンドルを握ったまままっすぐ前を向いていた。雑誌とペンは助手席の上に置かれている。
「すいません。娘を乗せていいですか」
「ええ、どうぞ」運転手はこちらをみない。
優奈の身体を後部座席に寝かせた。座席に細かな砂の粒が付く。寝かせたまま靴を脱がせると、砂埃が舞う。相変わらず運転手は黙っているから、汚したと言って怒られることはなさそうだ。申し訳程度に座席を手で払った。手も汚れていたから、座席はますます汚れた。
「すいません、汚してしまって」
「いえいえ、構いません」
謝罪を口にしながら、優奈の横たわる座席に私も座った。背中に当たる優奈の身体からは何の温かみも感じられない。何も知らなければ、それが人間だということにも気づかないだろう。優奈は「人」から「物」になっていた。
私が乗ったことを確認してから、運転手は車のドアを閉めた。ゆっくりと動き始める。
「やりたかったことは、すべてお済みになりましたか?」
「ええ、まあ」
「それでは今から、元の時間に向けて運転しますね」
ゆっくりと動く景色を眺めていると、通りの向こうから小さな女の子が走ってくるのが分かった。白いワンピースに肩ほどまで伸びた黒い髪。運転手に言って、車を止めてもらってから、私は窓を開けた。
「ねえ」窓から顔だけを出して女の子に声をかける。
「あ、くさいおじさん」
「こんな時間にどうしたの?」くさいおじさん、に苦笑いする。
「公園にわすれものしたの」
「そっか。もう暗いからちゃんと家に帰りなよ。知らないおじさんに声をかけられてもついていっちゃだめだよ」
知らないおじさん、と口にしてからあの下品なホームレスの顔が浮かんだ。ついでに、げひひと笑い声がする。
「だいじょうぶ!ぱぱが迎えに来てくれるから」
小さな女の子は満面の笑みを浮かべた。私の顔が少しだけ引きつるのが分かった。
「そっか。じゃあ、大丈夫だね。きをつけてね」
「うん!」
私が小さく手を振りながら車の窓を閉めると、女の子は背を向けて公園に走って入っていった。小さな背中は、公園の入り口で曲がったあたりで見えなくなった。
車はしばらく走ると、大通りにでた。すっかり暗くなった路面を、規則正しく並んだ外灯が照らしている。その下を通るたびに、車の中には小さな影ができた。
「運転手さんは」私の発した言葉に、運転手が少し身構えるのが分かった。何と質問をされるか察しがついているのだろう。「私が犯人だということをしっていたんですか」
「ええ、まあ」しばらくの沈黙をおいてから、運転手が控えめに答えた。「バタフライエフェクトです」
「優奈の身体は、どこへ?」
「わかりません。事務所の、遺失物管理部がどうにか処理してくれるみたいですが、詳しいことは知らないんです」遺失物、という言葉が私の胸をついた。
「処理、ですか」
「安心してください。娘さんの遺体が見つかることは絶対にありません。それだけは保証します。そうですねぇ、世間でいうところの、神隠し、くらいなもんでしょうか」
自分のことを神と呼んでるみたいでおこがましいですが、と運転手は鼻で笑った。
「私の言葉おぼえてますか」
「犯人を殺そうと思っているんです、ですか」運転手は口を重そうに開いた。
「ええ、私、犯人を殺そうと思っています。この、自分の、手で」
「それは何とも難儀なことですね。とても難しそうだ」
運転手は会話を切り上げたいのだろう。曖昧であたりさわりのない返事をしたきりだった。
「お客さんもいろいろとお疲れでしょう。どうです、目をつむってお休みになられては」
運転手が言葉を発した瞬間に、その一言に抗うこともできないほどの強烈な眠気が私を襲った。瞼が重い。視界が、どんどんと暗くなる。
暗くなる視界の端に、優奈の顔が見えた。目を瞑った綺麗な顔。私の手はすべて覚えている。優奈の手の小ささも、温かさも、優奈の首の細さも、跳ねた瞬間のあの感触も。
「優奈、ごめんよ」
声になっているかは分からない。口が動いただけだったかもしれない。もう一度、優奈の頭を撫でようと、手を伸ばした。今にも落ちそうな紙飛行機のように、私の手がゆるゆると優奈に近づく。指先が、優奈の頬に触れる。
その瞬間だった。優奈が目を開いたのは。
「お父さんなんて、大嫌い」
私は横断歩道で立ち止まっていた。日中は多少の車どおりもあるこの道も、この時間になれば静かなものだ。歩行者用の信号が規則正しく赤青を切り替えている。自販機の光には、小さな羽虫がぶんぶんとたかっていた。
道の向こうから高いエンジン音が聞こえる。近づくにつれてその高さを増す音の正体は、そちらを見なくても分かった。心臓は嫌に静かだった。まるで、間もなく自分の仕事が終わることを察しているような、定年間際の静かさだった。脳が酸素を欲して喘ぐ声も聞こえない。私は、おもっていたより生に執着がなかったらしい。
エンジン音が大きくなる。その光が、私の足元に伸びる一本の長い影を作った。
―――犯人を、殺そうと思っているんです。
目の前で光が瞬いた。
瞬いたといっても、星のように美しくはない。乱暴な光が、私の身体にぶつかった。
久しぶりに書きました。
なんだか荒い出来になってしまった。