硝煙の王子と棘城の赤ずきん
貴族の令嬢アネット・ホルトレイスは屋敷の一室で父と向かい合い、優雅に紅茶を飲みつつ嫌な予感をヒシヒシと感じていた。
窓から入り込む風は心地よく、サァと吹き抜けて彼女の美しい深紅の髪を揺らす。その心地よさに瞳を細めれば、向かいに座る父が愛おしむように「美しくなったなアネット」と微笑んだ。
二人の間にはメイドが淹れてくれる香りよい紅茶に焼きたての美味しいスコーンがおかれており、窓からは鳥のさえずりが聞こえ、なんとも心地よい父娘の一時ではないか。貴族界の頂点に君臨するホルトレイス家に相応しい優雅さである。
……だというのに、この胸に引っかかる嫌な予感は何なのだろうか。
目前に迫った十七の誕生日に、ここ最近よく耳にする噂。そして父の改まったこの態度……と、様々な要素を組み合わせればアネットにとって最悪な『もしかして』が浮かび上がってくるのだ。
もしかしてお父様……と内心で訝しがりつつ平静を取り繕って紅茶に口をつけ父に視線を向ければ、彼は蓄えた髭を指で撫でながら小さくアネットの名を呼んだ。
「アネット、お前の結婚が決まった」
と。この言葉にアネットは胸を高鳴らせ……はせず、キャー! と豪快に甲高い悲鳴をあげた。
それはもう、窓辺でウトウトと微睡んでいた猫のロッテが飛び上がる程である。栗色の毛が一瞬にして逆立ち、人間であったならば「何事か!」と叫びそうなほど盛大に「ニャン!」と鳴き声まであげている。
通常時でさえふかふかの尻尾が二倍に膨れているのだからよっぽどだ。
「結婚! 嫌に決まってるじゃない!」
「アネット、お前もいい年なんだ。さっさと落ち着くところに落ち着きなさい」
「お父様ひどい! 私はまだやりたいことも見たいものもあるの! 親の決めた政略結婚なんて絶対に嫌!」
そうアネットが喚けば喚くほど父親の溜息が深まっていく。だがそれでも「いいかアネット」と諭そうとするあたり、溜息をつけども引く気はないのだろう。
愛しい娘であるアネットは少々お転婆――という言葉で済まされるか定かではないが――な性格をしており大人しく従うわけがなく、拒否と暴言と逃走は予め予想できていた。それでも父親としてここは譲るわけにはいかないのだ。
もっとも、アネットもお転婆な娘として素直に頷けるわけがない。
ゆえに「おまえも少しは落ち着きを」「絶対に嫌!」という二人の口論はいつまでたっても平行線で、メイドが三杯目の紅茶をとティーポットにお湯を注いでも決着をつく様子はなかった。
だがそんな二人の言い争いがピタリと止まったのは、ゆっくりと優雅に、それでいて冷ややかな空気を纏わせる女性が現れたからだ。
アンナ・ホルトレイス、貴族の頂点に君臨するホルトレイス家の婦人にして、社交界の主とまで言われる人物。その才知と揺るがぬ気品を前に、いったい何人の令嬢が白旗をあげ彼女に憧れを抱き、何人の子息がプライドを砕かれ崩れ落ちていったことか。
言わずもがな、アネットの母である。だが今はそんな気軽な呼び方を口にするのも躊躇われるほど、彼女の纏う空気は重苦しく絶対的な威圧感を放っていた。といっても優雅な微笑みを崩すことなく、冷気の届かぬ距離から見れば子を持つ母とは思えぬ美貌である。
「二人とも、あまり大きな声を出さないでちょうだい。はしたないわよ」
「そ、そうだな……」
「そうね、ごめんなさいお母様」
つい数分前まで互いに譲らず喚いていた二人がアンナのたった一言で大人しくなる。その変わりように、ティーカップに紅茶を注いでいたメイドがクスと笑みをこぼした。
窓際では昼寝を妨害されたロッテが毛繕いをしている。ふかふかの毛を舐めるためにピンクの舌をチロと出すその表情は、まるで「ざまぁみろ」とでも言っているようではないか。
「それで、いったい何を言い争っていたの?」
「そうよ! 聞いてよお母様!」
「聞いてくれアンナ、アネットがやはり私の話を聞かずに!」
「落ち着いて、順に、優雅に、ホルトレイス家らしく話してくれるかしら?」
ニッコリと微笑んでアンナが喚きだそうとする二人を咎める。思わずアネットが父親と共に背筋を正し「はい!」と声を揃えて返したのは、それ程までに母の纏うオーラが重苦しく冷ややかで、そしてホルトレイス家において彼女が絶対的な存在だからである。
そんな情けない父娘の姿に、窓辺のロッテがクァ……と欠伸をした。
そうして落ち着いて、順に、優雅に、ホルトレイス家らしく説明をしたのだが、流石に問題が結婚なだけあって喧嘩両成敗ともいかず、相手がいる問題なだけに保留にするわけにもいかない。といってもアネットにもましてや彼女の父にも譲る気はなく、采配はそのままそっくりアンナに託された。
片や、これからの人生を左右する問題として。片や、今後の家の繁栄を左右する問題として。二人から期待を込められた視線を向けられ、アンナが小さく溜息をつく。
「アネット、もちろん私達は貴女の幸せを第一に考えてるわ。でも貴女も貴族の娘なら、結婚がどれほど大事なことか分かるでしょう?」
「お母様は私の幸せを望んでくださらないの!?」
酷い! とアネットが声を荒らげるのは、先程の母の言葉で彼女も敵だと判明したからだ。落ち着いた声はこちらの言い分を理解してると言いたげだが、胸の内ではこのまま時間をかけて諭そうとしているに違いない。
過去何度こうやって母に言いくるめられたことか。家庭教師をつけられた時も、ダンスのレッスンをさせられた時も、いつだってアネットは最初に猛反対をするのだが、母と話しているうちに「それもありかな」と思い気付けば承諾して話し合いが終わってしまう。
落ち着いた声色と佇まいで相手の懐に入り込み、言葉巧みに誘導する。けしてアネットが単純で煽てられると意のままに返してしまうからではない。……けして。
だが流石に今回はアネットの人生が掛かっている。折れたりなどするものですか! と決意を新たに母を睨みつけ……は流石に怖くて出来ず視線を向ければ、アンナが肩を竦めて、
「貴女がそれほど嫌なら……」
と話しだした。
硝煙の王子という盗賊がいる。最近国中で噂される注目の的。もっぱら貴族を、それも領地に重税を強いたり不正に私腹を肥やしている貴族のみを標的に盗みを働き、盗品を貧しい者に分け与える、いわゆる義賊というものである。
盗人であることに違いはないのだが、その明確なターゲットとなにより悪事の証拠も現場に残していくことから国民や善良な貴族の間では英雄とさえ言われていた。彼の名を聞かぬ日は無いほどである。
ちなみにホルトレイス家は清廉潔白で、硝煙の王子に狙われるような後ろ暗いことは何一つ無い。ゆえに彼を悪しきものとは思わず、それどころかアネットに至ってはあと二・三人同じような義賊が出てきても良いのに……と、そんなことすら思っていたほどだ。それほどまでに、一部の者達は地位を利用し好き放題に生きて私服を肥やしていた。
そんな硝煙の王子を捕まえることこそ、母アンナから課された婚約破棄の条件であった。それも一年以内という期限付き。
出来なければ即座に結婚、縛ってでも嫁がせる……と、そう告げる母の瞳は笑っていなかった。あれは本気である。
「お母様のあの目、確実にやる気だわ」
ポテポテと隣を歩くロッテに話しかけながら、アネットが眉をしかめて中庭を歩く。
しかし、いったいどうしたものか。
国内の警備隊や騎士達が硝煙の王子を捕まえようと日々奮闘しているのに捕まえるどころか情報一つ得られずに今に至るのだから、貴族の娘であるアネットがやる気になったところで太刀打ちできるわけがない。
彼はどんなに頑丈な警備でも臆することなく現れ、目当てのものを盗むやお供の猫と共瞬く間に消えてしまうのだ。
まるで魔法のようだ、とは、彼を追う者達が揃って口にする言葉である。皆一様に化かされたと言いたげな表情をしているが、硝煙の王子はそれ程までに神出鬼没で、追いつめたと思ってもまるで煙のように消えてしまうのだ。
仮面を被っており顔すらも分からない、何もかもが謎に隠されたまま……。
そんな男を捕まえられるわけがない。だが無理だと決めて諦めれば婚約を承諾したのと同じ、明日にでも縛り付けられて結婚式をあげさせられかねない。
猿ぐつわをかまされ、ウエディングドレスの上に荒縄で縛り上げられ、台車でバージンロードを運ばれる……そんな悲惨極まりない自分の姿を想像し、アネットがブルリと体を振るわせた。だめだ、それだけは避けなくては。
「絶対に結婚なんてしない! 見てなさい、硝煙の王子! 私がとっつかまえてあげる!」
「……そのやる気を別の方向に向けてれば、今頃引く手数多だったろうにな」
「……むっ」
割って入ってきた失礼な物言いに、アネットが表情をしかめると共に振り返った。
この声は、と苦々しく視線を巡らせば、木にもたれかかりクツクツと笑みを噛み殺す青年が一人。濃紺の髪に整った顔つき、筋肉質でありながら男臭くない鍛えられた体つき。まさに完璧な王子様と言える外観の彼は、年頃の令嬢達が恋い慕う憧れの的……そしてアネットの天敵である。
「ヴィクトール・デルギッド」
忌々しげに名を呼べば応えるようにヴィクトールが笑う。
挑発するようなその不敵な笑みは他の令嬢が見れば頬を染めそうなものだが、あいにくとアネットには眉間の皺を深めさせるだけだ。胸の高鳴りなどまったく無い。
世の女性には魅力的な王子様らしいが、アネットにとっては嫌みったらしくキザで意地悪な幼馴染みでしかないのだ。
だがここで文句を言っても彼を楽しませるだけなのは、今まで幾度となく挑み敗戦に終わった口喧嘩で嫌と言うほど思い知った。今年こそヴィクトールの挑発に乗るまいと心に決めたのだ。
だからこそ、アネットは彼の挑発に乗らずにツンとすましてやり過ごすことにした。優雅に、ホルトレイス家の令嬢らしく。
「ごきげんよう、ヴィクトール」
という一言も忘れない。
そんなアネットの態度にヴィクトールはニヤと笑い、涼やかな声で「ごきげんよう、アネット嬢」と応えて返した。
「硝煙の王子を捕まえるとは、大変なことになったな」
「自由を得るためには試練は付き物よ。そもそも、貴方には関係のないことじゃなくって?」
「いいや、俺にも関係ある」
「……あら、なんでかしら」
「そりゃ、俺が婚約相手だからな」
そうニヤリと笑って答えるヴィクトールに、アネットが甲高い悲鳴をあげた。
ヴィクトールが迷惑そうな表情でロッテの耳を塞いでやっている。あぁ、その行動すらも嫌みったらしい……!
「なんでっ! どうしてあんたが!」
「そりゃ互いに気兼ねしないし家柄も釣り合うし、嫁ぎ損ね間違いなしの幼馴染みを貰ってやろうと思ってな」
「冗談じゃないわ!」
アネットが喚くように「誰があんたと!」と声をあげてヴィクトールを睨みつければ、彼はさらに笑みを強めて「一年後が楽しみだ」とまで言ってきた。
一年後、その単語に思わず脳裏で描いた結婚生活のなんと悲惨なことか……一日の六割を口喧嘩に費やし、家中の皿を投げ合う光景しか見えてこないのだ。
ヴィクトールのデルギッド家もホルトレイス家程ではないが上流の家柄だし、彼自身も騎士として名をあげている。皿で破産なんてことにはならないが、それにしたってあんまりな結婚生活だ。
「嫌よ! 私はお皿なんて投げたくない!」
「そうだな、皿は投げない方がいいな」
「そもそも、あんた他の令嬢から好かれてるじゃない! どうして私なのよ!」
そうアネットが喚くのは、もちろんパーティー会場で女性達に囲まれるヴィクトールを見ているからだ。
彼は名家デルギッド家の嫡男であり、容姿端麗・文武両道、跡継ぎとしても騎士としても文句の付け所がないと言われるほど完璧な男である。年も十九と程よく、ゆえに令嬢達が惚れないわけがなく彼を狙う女性は山のようにいる。
アネットだって彼の美点は認めている。令嬢達に囲まれ微笑んで応える様はテーブル二つ三つ挟んだ距離で眺めるには申し分なく、幼馴染みながらよくぞここまで良い男に育ったものだと感心してしまう程だ。
だからこそ「その外面の良さで良いとこの令嬢を釣り上げなさいよ」と暴言混じりに告げるも、ヴィクトールが何をバカなと言いたげに鼻で笑った。
どういうわけか、彼の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らしているロッテまで自分をバカにしているように見え、思わずアネットが低く唸り声をもらした。
「釣っただのなんだの人聞きの悪い。誰か聞いてたらどうするんだ、世間じゃ爽やかな騎士で通ってるんだぞ」
「それを釣るって言うのよ! 毎回毎回、数えられない程の女の子に囲まれてるくせに!」
「なんだ、妬いてるのか」
ニヤリと笑ってヴィクトールが近付いてくる。
思わずアネットが後ずさるが、すぐさまドンと背が何かにぶつかった。
慌てて振り返れば、背後には木。
しまった追いつめられた、と、そう自分の迂闊さを悔やみつつ退路を探すが、それよりも先に目前に迫ったヴィクトールの手がアネットの髪を掬った。
真っ赤な髪が彼の指先に絡められる。愛でるように、擽るように。そうしてヴィクトールが指先に絡めた髪をゆっくりと口元に持っていき、まるで見せつけるようにアネットの瞳を見つめたまま軽くキスをした。
「そう妬くな。いつだって最初のダンスはお前を誘ってやってるだろ」
そう意地悪げに瞳を細めて告げるヴィクトールは、悔しいかなアネットの目にもかっこよく蠱惑的な色気を放っているように見えた。
幼い頃は付かず離れずだった身長も今となっては背伸びしても適わないほど離され、体つきもいつのまにか男らしくなっている。まさに逞しい騎士。強引で、それでいて最後までは近付かず、寸でのところで止まってこちらを誘ってくる。
彼にエスコートされたいと、ダンスをしたいと願う令嬢は山のようにいるだろう。それでもヴィクトールは一番にアネットを誘うのだ。それどころかエスコートが必要な時は必ず名乗り出て、嫌がるアネットを無理矢理に連れ出してしまう。
そっと手を差し出して優しく微笑んで、愛しそうに名前を呼んでくれる。時にはこうやって髪を弄んで、「相変わらず綺麗な髪だ」と愛でてくる。……そんなヴィクトールに対してアネットはと言えば、
「いつも一番に私を誘ってくるけど、私いつも逃げてるじゃない。いいかげん止めてよ、他の子達に恨まれてなかなか会場に戻れないから料理食いっぱぐれるのよ」
「俺のせいじゃない。あとさすがに前回みたいに窓から飛び降りて逃げるのはやめろ。あのあと会場がもの凄く冷え切ったんだからな」
「そうね、さすがにあれはもうやらないわ。あのあとお母様にしこたま怒られたのよ」
二度目はないわね、と当時を思い出しながらアネットが語れば、ヴィクトールが溜息をついた。
そうして興が冷めたと言いたげに指で掬っていた髪を逃がせば、深紅の髪がはらりと揺れる。
「まぁ、そういうわけだ。俺と政略結婚したくなけりゃ頑張って硝煙の王子を捕まえるんだな」
「勿論よ、あんたと政略結婚なんか絶対に嫌なんだから! 硝煙の王子だろうが直ぐにとっ捕まえてみせるわ!」
「その熱意を花嫁修業に回してほしいもんだ。ほら行くぞロッテ」
おいで、とヴィクトールが声をかければ、ロッテが愛らしく「ニャン」と鳴いて彼を追う。
「ロッテ、戻ってきなさい! ホルトレイス家はデルギッド家に尻尾を振らせるために餌をあげてるわけじゃないのよ!」
「猫相手に何を言ってるんだか……いくぞロッテ、魚を焼いておくよう厨房に言ってある。ご馳走してやろう」
「なに買収してるのよ!」
この猫泥棒! とアネットが喚けば、ヴィクトールが小さく肩を揺らしながらヒラヒラと片手を振って去っていった。……もちろん、魚と聞いて普段より足取りの軽くなったロッテを連れて。
その背中に、残されたアネットはよりいっそう闘志を燃やし、なんとしても硝煙の王子を捕まえてやると決意を新たにするのだった。
硝煙の王子と言えば、巷を賑わせる義賊であり、悪を裁き弱気を助けるその姿勢から国内では英雄扱いされている。市街地では彼のトレードマークである仮面を真似て顔を覆った子供達が走り回り、玩具の銃を片手に架空の悪を倒すために奮闘しているのだ。
それ程までに彼の活躍は華々しく、最近だと、寄付金を賭博に使い込んでいた司祭と、それを知っていて司祭が勝つようにイカサマを企てていた貴族の屋敷に忍び込んでいる。そうして盗んだ金や金品を貧しいものに分け与え、賭博の証拠や彼等の癒着の証拠をバラマいて正体をくらましたのだ。その手腕はまさに見事の一言。
また、硝煙の王子は悪事を働く者のところにしか現れないため、心当たりのある者達もそう大っぴらに警備を増やすわけにもいかずにいた。狙われる可能性があると対策するのは、逆に言えば悪事を働いていると自白しているのと同じことなのだ。
そしてどんなに裕福だろうと、領民から慕われ清廉潔白な貴族や自らの力で稼いだ金持ちのところには決して忍び込むことはしない。だからこそ疚しいことのない者は晴れ晴れとした気分で、硝煙の王子の影に怯え対策に倦ね果てる者達を眺めていた。言ってしまえば、後ろ暗いことさえなければ他人事なのだ。
それどころか、最近では硝煙の王子に感化されて自ら孤児院に寄付や支援する者達まで居るという。端から見ればなんとも良い話ではないか。
ホルトレイス家も勿論善良な貴族であるからして、硝煙の王子を快く思っていた。「なんて良い男なのかしら」とは、彼の出没により配られた号外を眺めるアンナの言葉である。
ホルトレイス家は貴族の中で頂点に君臨するが、私財を増やそうと悪事に手を染めることも裕福さにあぐらをかいて豪遊することもなく、金や家柄で他者を見下すこともない。貴族の頂点にして貴族の価値観から僅かに外れた家系である。
ペットでさえ自分達の家柄と裕福さを誇示する道具の一つである貴族界において、名家ホルトレイス家の猫でありながら野良出身のロッテが良い例である。
今から数年前、「猫を飼いたい」とアネットが言い出したところ、まるでどこかから見ていたように颯爽と姿を現しニャーンと猫撫で声ですり寄ってきたのだ。
本来であれば貴族の令嬢として血統書だの何だのと拘るべきなのだろうが、その愛らしさ――今では随分と不貞不貞しいが――の前ではそんなもの何の価値もなく、アネットはすぐさま抱き上げて首輪を確認し「うちの子にならない?」と鼻先を突っついた。それを見ていたアンナもまた猫の出自に拘ることなく「良いふかふか具合ね」と背を撫でたのだ。
やれ、わざわざ国外に使いを出して買い付けただのコンテストで優勝している血筋だの、そういった貴族らしい拘りはホルトレイス家において無価値。それよりもふかふかの毛なのだ。
「もっとも、そのロッテも今やヴィクトールの手先……そう考えると、あの思い出にもあいつの高笑いが聞こえてきそうだわ」
思い浮かぶ最悪な新婚生活に、さらに不敵な態度の猫が加わる。
飛び交う皿、耐えぬ口喧嘩、おまけに不本意な夫は猫を溺愛……。これではヴィクトール&ロッテvsアネットではないか。新婚生活とはほど遠い、どころではない。
「とにかく、硝煙の王子を捕まえなきゃ。本当はうちに忍び込ませるのが一番なんだけど、うちって真っ白なのよね……悪事と言えば、私がヴィクトールに対して仕掛ける悪戯ぐらいかしら」
と、そう呟きつつ策を練る。
まずは硝煙の王子に合わなくては何も始まらないのだ。
「なにか悪事を働いてる人に近付く必要があるわね。これは情報屋が必要だわ!」
そうアネットが声をあげて瞳を輝かせるのは、探偵の真似事に興奮しているからである。
ここにヴィクトールが居れば「本来の目的を見失うなよ」と軽口を叩き、ロッテが居れば呆れたとふかふかの尻尾をブンと一度振り払いそうなものだ。
□■□■□■□■
そうして訪れたのは、市街地にある少し柄の悪い酒場。
レストランともバーとも言えぬそこは昼間から酔っ払いが声を荒らげ品のない賑やかさが響いており、とうてい貴族の令嬢が足を運ぶ店とは言い難い雰囲気である。店の隅には埃がたまり、慌ただしく店内を駆け回る店員は威勢のいい返事のわりに二度三度呼ばないと来てくれない。出される料理もホルトレイス家で出される料理とは格段に劣る。
といっても本当に柄の悪い所謂裏社会的な店というわけではない。見れば旅行客や年若く平凡な者もおり、安さが売りの路地裏の店と言うレベルである。
そんな店の一角、「それっぽいから」という理由で灯りの消えかかった暗い隅の席を陣取り、アネットは用意された酒……ではなくオレンジジュースに口をつけた。あえて選んだ質朴な服と少し雑に編んだ三つ編みがいかにも町娘といった風貌で、誰も貴族の令嬢とは思いもしないだろう。
向かいに座るのはヴィクトール。彼もまたこの場に合わせるよう質朴な服に着替え、デルギッド家の子息ならば生涯食べることのないであろう大味の料理を平然と口に運んでいる。
「……なんであんたがいるの」
「アンナ婦人に頼まれたからだ。娘がこれ以上破天荒なことをしないように見張ってくれって」
淡々と告げ、それどころか「子守は大変だ」とまで言って寄越すヴィクトールに、アネットが睨みつけることで応戦した。
前科――もちろん窓からの脱出である。それ以前にも色々とやらかしているが、まぁ他は時効としよう――があるだけに反論できないのが辛いところだ。
だが逆に考えれば、ヴィクトールがいることで周囲に舐められずに済むかもしれない。それに彼は騎士だ、それも騎士としてかなり優秀な部類にはいる。何かあったら守ってもらえるだろう。……もしくは、ヴィクトールを囮にして逃げるかだ。
そう前向きに考え、アネットはヴィクトールの同行を「仕方ないわね」と許すことにした。用心棒だと考えればいいのだ。口が悪くて態度も悪くて、恩着せがましいがタダで雇える用心棒。
……正規の料金にプラスしてでもまともな用心棒を雇いたいところではあるが。
「まぁ良いわ、情報収集はお荷物がいても出来るもの」
「ほぉ、情報か。それでどうするんだ?」
ニヤニヤと笑いながら嫌みったらしく聞いてくるヴィクトールに、アネットがふんとそっぽを向いて周囲に視線を巡らせた。
酒場で騒ぐような酔っ払いの話を鵜呑みにするほどアネットは愚かではない。とはいっても火のないところになんとやら、それに情報は多いに越したことはないし、こういった酒の出る場所でこそひとは日頃口に出せずにいることをポロっと漏らしてしまうのだ。
たとえば誰が不正を働いているかとか、誰が怪しいかとか……。
「硝煙の王子は悪事を働く貴族や金持ちを狙うのよ。こういった場所での愚痴や陰口を集めれば良い情報が手に入るかもしれないじゃない」
「なるほどな」
「あんた達みたいに畏まった騎士の制服着て『国からの調査でぇーす、次に硝煙の王子が狙うのは誰だと思いますかぁー?』なんて聞いて回っても誰も本音なんて漏らすわけ無いわ」
「そりゃ足取り一つ掴めてないが、俺達騎士もそこまでバカじゃないからな。でもまぁ、案外にちゃんと考えて行動してるんだな」
「当然よ、私頭脳派だから!」
「で、実際に硝煙の王子と出会したらどうやって捕まえるんだ?」
「ガッ! って殴って、怯んだところを縄で捕まえるの!」
「肉体派」
「あとは落とし穴!」
「原始的」
完璧だわ! となぜが得意げにアネットが語る。
もっとも、これが穴だらけな考えであることは言うまでもなく、聞くだけ無駄だったか……とヴィクトールが溜息をついて文句を言い掛け、ふとアネットが一点を見つめていることに気付いてその視線を追った。
彼女の視線の先には、一卓を囲む三人の男。豪華とは言えない身形と卓上のメニュー。一人は椅子に背を預け、二人は机にもたれ……と、お世辞にも品の良くない飲み方ではあるが、逆に言えばこの店の雰囲気にはよく似合っている。
その光景がいったい何なのか、そんなヴィクトールの視線を受けつつ、アネットが聞き耳を立てるように僅かに男達の方へと椅子を寄せた。
「くそ、税関だのなんだのポンポンと建てやがって、これじゃ仕送りしようにも取られるだけだ。意味がねぇ!」
「なんのために家族と離れて働いてるのか……」
「だけど戻ったら戻ったでタダ働き同然の仕事しか無いしなぁ……」
男三人が酒を酌み交わすにはあまりにも空気が悪く湿っぽい。
なんとも陰鬱としたその空気と聞こえてくる話の内容に、アネットとヴィクトールが顔を見合わせた。
男達がどれほど稼いでいるかは分からないが、それでもこちらでは質素な生活をしているのが服装と卓上の皿から分かる。だというのに仕送りの殆どが取られてしまうとは随分な話ではないか。
「右端の男の鞄を見てみろ、ここいらじゃ見かけない作りだ」
「喋り方にも少しだけ訛があるわね」
顔を寄せ合い、小声で話し合う。
三人の身形はどれも綺麗とは言い難く、センスもあってないようなものだ。安いものを見繕い際限まで着こなそうとしているのが見て分かり、洒落っ気や統一感などあってないようなもの。
それでも飾り紐や布の使い方に共通点が見られるあたり同郷なのだろう。見た感じの年齢も近く、もしかしたら三人で出稼ぎに来たのかもしれない。昔馴染みで苦労すらも共にする仲、そこに酒が入れば愚痴が漏れるのも仕方あるまい。
「税関も国で管理してるはずよね」
「あぁ、だが首都から離れれば離れるほど管理の手が届きにくくなる。地方になると駐在の騎士や監視官を抱き込めればやりたい放題なのが現状だ」
「ふぅん、地方ねぇ……ちょっと聞いてくるわ」
「えっ、おい待て!」
慌てるヴィクトールの制止も聞かず、アネットがおもむろに立ち上がり男達の卓へと向かう。
そして比較的酔いの浅めな一人に目をつけ、その手元に置いてあった帽子をヒョイと持ち上げた。
「あら可愛い!」と、勿論この乱入者に男達は目を丸くさせ、今までの愚痴を聞かれていたのではと表情を強張らせる。だがすぐさま緊張と警戒を解くのは、今のアネットがいかにも無邪気な町娘といった様子だからだ。気っ風がよく人懐こい、酒の席でも臆さず酔っ払いに話しかける、いかにも城下育ちの勝ち気な娘である。
そんな空気の読めない乱入者に、陰鬱としていた男達の表情に僅かに苦笑の色が見え始めた。
「どうした嬢ちゃん、そいつが気に入ったのか?」
「この可愛い帽子あんたの?」
「おうそうだ、珍しいだろ」
「この飾り紐が良いわね。すっごくお洒落だわ。でもこの飾り紐、どっかで見たことがあるのよね……」
空色の飾り紐をいじりながら「どこだったかしら……」と記憶を巡らすように眉間に皺を寄せるアネットに、男達が顔を見合わせる。
そうして一人が「そんなまさか」と首を横に振った。
「こいつは俺達の村にしかない組み方の飾り紐だ」
「そうなの? それなら父さんが買ってきてくれたのかしら」
「いやいや、それも無いな。寂れた村だ、観光地でも無ければ名産物もない。年に数回行商人が立ち寄って飯を食うだけの……あぁ、そうか」
言い掛け、一人の男がニヤと口角をあげた。
「嬢ちゃん、こいつは俺達の村じゃ子供でも組める飾り紐だ。何の価値も無い。親父さんはタダ同然でこれを仕入れて、あんたに土産としてあげたんだろ」
「やだ! 父さんってばいつもお土産をくれるときに『これは高価なものだ』とか『手に入れるのに苦労した』だの言ってるのよ! 私騙されてたの!?」
友達に自慢しちゃったわ! と父親に――もちろん架空の父親である――怒りを募らせるアネットに、男達が上機嫌に笑い出した。
そうして酒の入った上機嫌からか男の一人が冷やかすように「でも確かに高価と言えば高価だぞ」と続ける。
「今それを手に入れるには、何カ所も税関を通って何十倍……いや、何百倍もの金を払わなきゃいけないんだからな」
なぁ、と男が仲間の二人に声をかければ、それぞれが苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。その表情を見るに、完璧に笑い話には済ませられないほど酷いらしい。
もっとも、それに対してアネットは深く追求することはせず、
「父さんも金をとられたって怒ってたわ。確か二年前だったかしら」
と便乗するように不満を訴えた。架空の父親が払った架空の金だが、ちゃんと悔しそうに眉間に皺を寄せる。
だがそれを聞いた男の一人がおやと首を傾げた。
「領主が変わったのは一年半前だ。二年前ならまだまっとうな金額だったはずだぞ」
アネットの発言に矛盾を見つけ、どういうことだ、と男達が顔を見合わせ次第にその表情を怪訝そうに歪めていく。
しまった、とヴィクトールが立ち上がったのは、言わずもがなアネットの話が全て出鱈目だからである。彼女の父親は貴族の頂点に君臨するホルトレイス家の当主、当然だが廃れた村に立ち寄ったことも、タダ同然の組み紐を娘の土産にしたこともないだろう。件の税関を通ったこともないはずだ。
ここは更なるボロが出ないうちに話を中断させて無理矢理連れ出すか、それとも酔っ払いの戯言にして誤魔化すか……せめて身分がばれないように店を出なくてはと考えるヴィクトールに対して、なおもアネットは平然とした態度で、それどころか「えぇ!?」と大げさに声をあげた。
「あの時よりも更に取るっていうの!?」
「更にって、二年前なんて良心的な方だ」
「冗談じゃない! 道を通るだけでお金を払わされるのよ、良心的なんて言ってられないわ! 高い金払わせるなら、道の一部を寄越しなさいってもんよ。財布の紐を緩めるのは、払った分以上の利益を得られる時だけよ!」
そう豪語するアネットに、怪訝そうだった男達が唖然とする。店内もシンとした妙な静けさが漂い、ヴィクトールだけが心の中で舌打ちをして退路を探すように店内を見回した。
だがそんなヴィクトールの心配をよそに、男の一人が堪えきれないと吹き出すと、他の二人も、それどころか周囲で話を聞いていた男達も盛大に笑い出した。水を打ったような静けさだった店内が、一瞬にして笑い声に包まれる。
「そりゃ確かにそうだ。嬢ちゃん、あんた立派な商人になるよ」
クツクツと笑う男に太鼓判を押され、アネットが胸を張る。
もっとも、この場において唯一冷や汗をかかされたヴィクトールはもう限界だと彼女の背後に回り、まるで「もう終わりだ」と言いたげに肩を叩いた。
「飲んでるとこ悪いな。俺の連れが邪魔をした」
「兄ちゃん覚悟しておけよ、この嬢ちゃんとじゃ将来尻に敷かれるぜ」
「覚悟のうちさ」
酔っ払いの上機嫌な冷やかしをサラリと交わし、ヴィクトールがアネットを連れ出して店の出口へと向かう。そうして店の扉をくぐろうとした瞬間、最初に話しかけた男が「ちょっと待った嬢ちゃん!」とアネットを呼び止めた。
帽子から手早く飾り紐を取ると、それを投げて寄越す。慌ててアネットが手を伸ばせば、空色の鮮やかな飾り紐がパサと音をたてて手の中に落ちてきた。
くれるのだろうか。手の中の飾り紐と男に交互に視線をやれば、その視線の意味を察して男が笑った。酔いの回った紳士的とは言い難い笑顔だが、それでも最初に酒を飲んでいた時より晴れ晴れとしている。
「やっぱり酒は楽しく飲まなきゃな。その礼だよ」
「あら、ありがとう」
受け取った飾り紐を軽く揺らして礼を告げ、アネットがヴィクトールに促されるように店を出た。
「貰っちゃった」
と飾り紐を手の中で弄くるアネットの声は楽しげで、対してヴィクトールの溜息は深い。
「気前の良い男だったわね」
「そりゃ良かったな。それで、あんな話を聞いてどうするんだ?」
「税関なんて随分と酷い話じゃない。硝煙の王子はきっと次にその領主を狙うわ!」
「なんでそう断言できる」
「私の勘よ!」
得意げになんの根拠もないことを言い切るアネットに、ヴィクトールがよりいっそう深い溜息をつき「分かったよ」と小さく呟いた。
「それに、もし硝煙の王子が現れなくても私とあんたで何とかするのよ」
「俺とお前で?」
なんでまた、と言いたげに目を丸くさせるヴィクトールに、アネットがキリと表情を引き締めると共に飾り紐を絡めた指を突きつけた。
「良いこと!」と、その改まった口上にヴィクトールを気圧されたように僅かに身を引く。
「私は貴族の娘、あんたは騎士よ」
「あぁ、そうだな」
「硝煙の王子が悪い奴らばかり狙ってるから私達は胡座かいていられるけど、本来なら胡座をかいていることを恥ずべきなのよ!」
苦しんでいる者がいることを知って、悪事に手を染めて利益を得ている者がいることを知って、それでも自分達の生活が脅かされないのならと見て見ぬ振りをしているのが現状の裕福層である。
硝煙の王子が現れた今だって、寄付や支援をする者が多少は出てきたとはいえ殆どが「自分は大丈夫だ」と傍観に徹しているのだ。まさに対岸の火事という状態で、本来であれば硝煙の王子などと言う正体不明の義賊に国内の不正を明るみに晒されたことを恥じ、彼よりも先に悪事を裁いて弱き者達を救わなければならない。
それこそが、国に身を置き貴族の恩恵を受ける者のあるべき姿、国と国民の狭間に立つものの役割ではないか。そう早口で捲し立てるアネットに、聞いていたヴィクトールが数度その碧眼を瞬かせた。
その間の抜けた反応に、更にアネットが「騎士のくせに」と追撃をかける。だがヴィクトールは呆然としたまま一言も返してこず、アネットが拍子抜けしたと彼の顔を覗き込んだ。
「……なによ、どうしたのよ」
呆然としたまま動かなくなったヴィクトールを見上げる。だが次いで彼の瞳がニンマリと細まり、楽しげに笑うのだ。
さらには「オツムが空っぽだと思ってたが、色々と考えていたんだな」という皮肉まで言われる始末。これには思わずアネットも抗議の声よりも先に彼の足を踏んづけて返した。
なんて失礼な奴だろうか。そう怒りを足取りに変えて歩き出せば、自然と歩く速度も速まっていく。幸い今はホルトレイス家の令嬢ではなく町娘の格好だ、多少はしたなく足早に進んでも誰に咎められるわけでもない。
背後からはヴィクトールが追いかけてくるが、顔も見たくないとアネットは手近に停まっていた馬車に乗り込むと、さっさとホルトレイス家へと走らせた。もちろん、ヴィクトールを置いて。
その日の夕食をすませてしばらく、自室にいたアネットはカリカリと窓を引っかく音に気付いて読んでいた本から顔を上げた。
大きな屋敷の二階の一角、そこがアネットの部屋である。さすがホルトレイス家というだけあり、広く、そして細部にまで手が込んでいる部屋のちょうど中庭を覗ける大きめの窓。今はカーテンが覆っていて見えないが、そこから音がする。
仮に一階ならば窓の外に誰か立っているのかと思うだろう、だがここは二階の高さだ。それもホルトレイス家の屋敷だけあり一般家屋であれば三階に匹敵する高さである。窓の外に人が立つなど不可能。
だからといって幽霊というわけでもなく。警備も頑丈なホルトレイス家だ、強盗の可能性も無いに等しい。
むしろ音の犯人をアネットは知っており、ベッドから起きあがると椅子にかけてあった上着を羽織って窓辺へと近づいた。カリカリと音が速まるのは急かしているのだろう、挙げ句に「ニャン!」と甲高い声がした。
「貴族の猫として、夜遊びはどうかと思うわよ」
ガチャンと鍵を開けて窓を開ければ、ロッテがスルリと隙間から室内に入り込んでくる。
僅かに触れた尻尾がヒンヤリと冷たいあたり、随分と長い時間夜遊びをしていたようだ。
「不良猫」と一言いってやれば、振り返りざまにニャンと再び鳴かれてしまった。反論か、それとも自由な身を自慢しているのか……どちらにせよ生意気な猫だと横目で睨みつつ窓を閉めようとし、スルと伸びてきた腕に手を掴まれてアネットが悲鳴をあげた。
「なっ、な……ヴィクトール!?」
腕を掴まれた驚愕で硬直状態になりつつそれでも誰かと視線を向ければ、日中嫌というほど顔をつきあわせた幼馴染みの姿。
バルコニーと言うほどでもない申し訳程度の窓辺の縁に器用に足をかけ、グイと強引に窓を開けると身を乗り出してきた。夜風に揺れて彼の濃紺の髪がサラと揺れるが、今のアネットはそれに見掘れるどころか窓を閉めてやりたいくらいである。
「夜中に騒ぐな、迷惑だぞ」
「迷惑なのはこっちよ! なんなのよ!」
驚かされた腹いせに乱暴に腕を振り払い、改めてヴィクトールに視線を向ける。
ろくな足場もなく随分とバランスが悪そうだが、よろけることもなく平然としているあたり流石の一言である。
そんなヴィクトールの姿に「昔のようだ」とボンヤリとアネットが思ったのは、幼い頃はよくこうやって彼が遊びに来たからだ。そうしてレッスンだマナー演習だと堅苦しい日々から連れ出してくれた。二階の窓から外に出るなど恐怖でしかないはずなのに、ヴィクトールがいてくれれば大丈夫だと根拠のない安堵感で彼の手を取った。
二人で窓の外へと、自由な時間へと飛び出した。もうずっと昔のことだ。男と女でもなく、ましてや子息と令嬢なんて言葉すら理解していなかった頃のこと。
そんな昔のことを思いだし、アネットがはたと我に返った。
思い出に耽っている場合ではない。
「なによ、用があるならちゃんと扉をノックしなさいよ」
「そうだな、俺もそうしようと思った。ところが玄関でアンナ婦人にあってな……」
ふいと視線を逸らして言葉を呑み込むヴィクトールに、アネットがどうしたのかと顔を覗き込み……眉間に皺を寄せる彼の渋い表情に「追い出されたのね!」と晴れやかな声をあげた。
いかに婚約者――アネットはまだ認めていないが――といえど、こんな時間に嫁入り前の娘の部屋に押し掛けるのはルール違反だ。厳しいアンナに見つかり、不届き者と追い返されたのだろう。
これはなんとも気分がいい。
あのヴィクトール・デルギッドが、社交界で常に女性に囲まれ熱い視線を向けられていたヴィクトール・デルギッドが、女の家で門前払いをくらったのだ。
さすがお母様! と思わずアネットが表情を綻ばせれば、対してヴィクトールがげんなりとした表情で、
「引きずり込まれそうになった」
と呟いた。
「……は?」
「この時間だろ、流石に俺もお前の部屋に行くのは気が引けて、手近にいたメイドに呼び出しを頼んだんだ。渡すものがあるからって……そうしたら偶々婦人が来て……
『あらヴィクトール、貴方以外と積極的なのね! いいわよ、あの子にはそれぐらいでいかなくちゃ! 今ならまだ起きてるはずよ、行きなさい! 人払いもしてあげるわ!なんだったら外鍵をかけてアネットが逃げられないようにしてあげる!』
……って、優雅に微笑みながら物凄い力で俺を屋敷に引きずり込もうとしてきた」
「お母様……! 待って、外鍵!? この部屋外鍵ついてるの!?」
どういうことなの……! と思わずアネットが膝から崩れ落ちる。
嫁入り前の娘を持つ母としてそれはどうなのか、何か問題が起こったらどうするつもりなのか。……いや、どうせ喜ぶのだろうけれど。これ幸いとことを進めるのだろうけれど。そのうえ自室に外鍵が設置されていると知ったのだ、これを嘆かずに何を嘆けと言うのか。
自分の母親のあまりの強引さに思わず溜息をつけば、ヴィクトールが「それで」と話を改めた。どうやら彼もこの話題について言及したくないらしい、アネットが顔を上げれば茶色い封筒を差し出してきた。
「……なにこれ」
「写し」
「なんの」
「資料の」
「だから……!」
いったい何なのよ! と喚こうとしたアネットが慌てて茶封筒を受け取って中身を取り出した。
入っていたのは十枚の資料。それらにサッと目を通し、次いでヴィクトールに視線を向けた。
幼い頃のように窓辺に座る彼は、ロッテを呼び寄せるとそのフカフカの毛を撫でつつ「読み終わったら燃やしとけよ」と告げてきた。つまり、手元に残しておけない代物ということだ。
それもそのはず、なにせこの十枚の資料に書かれているのは、ここ一年半以内に領主が変わった地域のピックアップと、それにその地域の染め物や織物、それに飾り紐といった伝統品について。そしてなにより、この資料を見たら燃やす必要のあるものとしているのが、各領主の資産や収入とここ数年の彼等の出費……。
「なんであんたがここまで調べられるの?」
いかにヴィクトールがデルギッド家出身の優れた騎士と言えど、情報管理はまた別の部署の仕事。言ってしまえば畑違いである。
公的に報告されている資産や特産品についてならばまだしも、出費までは調べられるわけがない。そのうえ、この資料に書かれている情報は公的の域を越えているのだ。
だからこそアネットが資料を流し読みしつつ入手経路を尋ねれば、胸ポケットから猫用のクッキーを取り出してロッテをじゃらしていたヴィクトールが「ちょっとツテがある」とだけ答えた。
「ツテ?」
「あぁ、ちょっとな」
「紹介してよ」
「嫌だ」
アネットは資料を読み込みながら、ヴィクトールはニャゴニャゴと鳴くロッテをクッキーで踊らせながら、互いに視線を向けることなく会話を交わす。
それでも途中でチラとアネットがヴィクトールを一瞥したのは、もちろん教えてくれないことを非難するためである。もっとも、それが分かっていてもヴィクトールは澄ました顔でロッテを操り、ヒョイと伸ばされたフカフカの手にクッキーを奪われていた。
「教えてくれないなら、あんたを情報参謀にするしかないわね」
「なに勝手に任命してくれてるんだ、俺を巻き込むな」
「ひとの部屋の窓辺で言う台詞じゃないわね。あと、ロッテは今ダイエット中だから、クッキーは一枚だけよ」
胸ポケットから二枚目のクッキーを取り出そうとしているヴィクトールを制止し、アネットが資料を封筒にしまい直す。「読み終わったらちゃんと燃やしておけよ」という念押しは、それほどまでに重要な資料ということだ。
分かったと頷いて返せば、ヴィクトールが「それじゃまたな」と器用に窓辺で体勢を変えた。昔と変わらない、帰るときの台詞と動き。家族や友人のように「おやすみ」だのと言った挨拶もなく、他の男性のような長ったらしい言葉もない。
デルギッド家の子息としてホルトレイス家の令嬢に贈る挨拶とは思えないそのなんとも品のない言葉に、対してアネットも普段通り返そうと口を開き……ふと、思いたって彼の名を呼んだ。
「ねぇヴィクトール、あなた私と結婚したくないの?」
「うん?」
「だって、資料持ってきてくれたじゃない」
だから、とアネットが告げれば、器用に木や階下の手摺りを伝って地面に降りたヴィクトールがこちらを見上げてきた。
彼の髪が月の光を受けて輝く。燃えさかる炎を彷彿とされるアネットの真っ赤な髪と対照的な、深い海のように濃い青。同色の瞳は楽しげに細まり、その表情は子供の頃と何一つ変わらない。背が高くなったのに、騎士として鍛えられた体つきになったのに、社交界では誰もが見惚れる男なのに、アネットの目には昔から何一つ変わることなく映るのだ。
「だから、あなた私と……」
「見直しただけだ」
アネットの言葉に被さるようにヴィクトールが告げて、踵を返して歩き出す。
外灯も等間隔にしか存在しない中庭では彼の後ろ姿はすぐに夜闇に消え、アネットはそれが消えた先をしばらく眺めてそっと窓を閉めた。
□■□■□■□■
バットソン家という一族がいる。
北にある幾許の土地を納める領主の家系であり、先代当主を亡くし、嫡男がそのまま後を継いだのが今から一年半前。飛躍的に名をあげて首都に本邸を構えたのもちょうどその頃からである。
高くも低くもないその身分とさして名産品があるわけでもない土地柄からか、現当主は歪んだ野心とコンプレックスを持ち合わせ、目上の者には媚び諂い目下の者には横暴に出るといういかにもな性格らしい。
領民からの支持は既に無いに等しく、穏やかで何より土地と領民を大事にしていた先代の領主とは大違いだと嘆く者が多いと聞く。
資料の記述を見てアネットがバットソン家に的を絞ったのはそんな理由と、なにより公的な収入と出費が釣り合っていないからだ。不当に私腹を肥やしている可能性は高く、それが一年以上続いているのだから領地一帯の騎士や監視官も抱き込んだのだろう。
「不要に税関を作って巻き上げてるんでしょうね。それを隠す為に更に賄賂でお金を使って……悪循環だわ」
先日ヴィクトールから渡された資料を読みつつ、アネットが溜息をつく。だがその瞳をキラキラと輝いているのは、これはきっと硝煙の王子の次のターゲットに間違いないと踏んだからだ。
ちなみに足下ではロッテがゴロゴロと転がってネズミの玩具を相手に奮闘を見せている。こちらもやる気満々だが、ピクと耳を揺らして動きを止めた。まん丸の瞳が部屋の扉へと向かえば、誰か来たのかとアネットが慌てて資料を机の中に押し込んだ。
そうして待つこと数秒、バタバタと数人の足音が聞こえ、
「アネット、服を脱ぎなさい! ドレスを作るわよ!」
と、勢いよくアンナが部屋に飛び込んできた。
そこから先はまさに『あれよという間に』である。
アネットが「お母様!?」と驚愕の声をあげると同時に部屋に何人ものメイドや仕立屋が押し掛け、「いったいどうして」と尋ねる間に仕立て屋が採寸の用意を始め、「なんでドレスを」と尋ねる間にメイドが服を脱がしにかかる。
そうしてクシュンと一つくしゃみをすれば、いつの間にやら下着だけに剥かれた体に採寸道具が巻き付いてきた。
寒がっているアネットのためかロッテが足下にすり寄ってくる。だがこの慌ただしさでは尻尾を踏まれかねず「毛皮の手袋にされちゃうわよ」とひょいと抱き上げた。
「ねぇお母様、どうして急にドレスを作るの?」
ホルトレイス家は貴族の中でも最上位に君臨する家柄である。ドレスを作ること自体はさして珍しいことではなく、衣装ダンスには何十着と豪華なドレスがしまわれている。
どれも全てオートクチュール。専属のデザイナーがアネットのために作ったものであり、それに合わせた靴や髪飾りといった装飾品も用意されている。
もちろんドレスの数だけパーティーに呼ばわれるわけで、見たことも話したこともなければ名前を聞いたこともない家からの招待状だって山のように届いている。記憶している限りでもパーティーの予定がいくつか入ってはいるのだが、ドレスは既に出来上がっているはずだ。
そもそも、こんな突然、それも部屋に押し掛けてまでドレスを作る理由が分からない。アネットも年頃の少女らしく着飾るのが好きで、許されるのであれば一着でも多くドレスを作りたいと思っている。こんな逃げる隙を与えぬ強制的な採寸などしなくても、喜んで仕立屋にこの身を預けるというのに。
そうアネットが問えばアンナはコロコロと上品に笑い、仕立屋の一人が持つ小さな箱から対の手袋を取りだした。
アネットの髪のように真っ赤な手袋。白いレースがよりその色味を引き立て、金ボタンがアクセントとして輝いている。品の良さと愛らしさが両立する、一目で上質だと分かる代物。
「先に少し布を貰っていたから作らせてみたの。どうかしら?」
「どうかしらって……話がよく分からないけど、素敵な手袋だと思うわ」
「そうでしょ。布も良い色だし、肌触りもとても良いのよ」
触るように促され、アネットの手に手袋が渡される。
羽のように軽く、それでいてしっかりとした存在感を感じさせる不思議な魅力の手袋だ。布もただの赤ではなくキラキラと輝いているように見える。
試しにとアネットが手袋の表面を撫でて思わず頷いた。なるほど確かに、これは他人に触らせたくなるほどの心地よさだ。
「そうね、ロッテの次に肌触りが良いわ」
悪戯気に微笑んで答えれば、母が咎めるように「アネットったら」と溜息をついた。腕の中ではロッテが「ニャン!」と鳴いて訴えてくる。
もっとも、そんな軽口を叩いてみせるもアネットの心は手元の手袋に釘付けだった。見栄えも肌触りも一級品、眺めれば眺めるほど深い色合いを見せる赤に、あしらわれたレースが華美すぎない華やかさを演出している。
ショーウィンドウで見かけたら即座に購入していただろう。
だがこの手袋がいったい何なのか、まさかこの状況で母親の買い物自慢ではあるまい……とアネットが採寸用具に巻き付けられながら首を傾げた。
「ねぇお母様、これは何のためのドレスなの?」
「今週末の夜会よ」
「あれは行かないっていったじゃない。知り合いじゃないし、お母様達が行けば充分でしょ」
赤子のようにロッテを揺らしながら答えれば、アンナがクスと笑った。
「夫が出席するんだもの、妻も顔を出すのが礼儀よ」
「夫!? 誰よ!」
「ヴィクトールよ」
「認めない!」
「素敵な布よね。さっき彼が持ってきてくれたのよ『この布で作ったドレスをアネットに着てほしい』って。こんなに質の良い布をドレス一着分、凄いじゃない」
「ロッテ、逃げるわよ!」
腕の中のロッテを抱き直しアネットが脱出すべく扉へと向かい……腰元のヒモを締め上げれ、思わずグェッと令嬢らしからぬ声をあげた。
だが犯人である老年のメイドはしれっとしたもので、それどころか「もう少し締めた方がよろしいですか?」と恐ろしいことを聞いてくる。
長く、それこそアネットが生まれる前よりホルトレイス家に仕えてきたメイドだ、容赦がない。そのうえほかにもベテランのメイドが控えており、よくよく周囲を見回せばホルトレイス家の精鋭メイド部隊とも言える顔触れではないか。
これは逃げられないとアネットが早々に心の中で白旗をあげた。母の専属部隊である彼女達には幼い頃からどうにも逆らえず、ここで逃げれば数日食事抜きなのは目に見えて明らか。それどころかダンスに刺繍に外国語……と地獄のスパルタスケジュールを組まされるかもしれない。
一分一秒単位で管理される生活を想像しフルリと体を震わせれば、寒いと勘違いしたのかアンナがそっと肩にストールをかけてくれた。そのうえ冷えないようにと優しく腕をさすってくれる。
基本的には優しい母親なのだ。行動力と発言力が尋常ではなく、そのうえ嫁入り前の娘の部屋に婚約者を引きずり込もうとするほどには豪快な性格をしているが、どれもひとえに娘のため。……だと思わなければやってられない、とアネットが降伏だとロッテごと両手をあげて腰に食い込むヒモを緩めて貰う。
「ところでお母様、どうして断ったはずのパーティーのドレスをヴィクトールが作れなんて言ってくるの?」
「あら、ヴィクトールが『アネットがパーティーに行く気になった』って言ってたわよ」
「ヴィクトールが! またあいつ勝手に!」
キィ! とアネットが怒りをあらわにする。だが次の瞬間、腕の中でロッテがあげた「ニャーン」という甲高い鳴き声にはたと我に返った。
ヴィクトールは勝手な男だ。基本、アネットの事情を無視して行動する。
――ここにヴィクトールがいれば「お互い様だ!」と過去の話を掘り返してきそうなものだが、あいにく彼は不在なのでアネットの言いたい放題である――
だが彼はアネットが本気で嫌がるようなことはしない。
あれは六つか七つのころだったか。幼いヴィクトールが池でカエルを捕まえ、悪戯心からカエルを怖がり逃げるアネットを追いかけ回したことがある。そのあげく横腹に鋭い一撃をくらい、以降彼はアネットの本気を恐れて一線を越えることをしなくなったのだ。
――この件に関しても、ヴィクトールがいれば「別にあれが原因じゃない!」とでも言っただろう――
ゆえに今回の件も彼の強引さには理由があるはず…そう察してアネットが今回のパーティーの内容を思い出した。
たいして縁のない家の結婚パーティーだ。アネットに至っては新郎新婦どちらとも話したことすらなく、両親が顔を出せば義理立ては出来ると踏んで適当な理由を付けて断った。必要であれば後日花でも贈ればいいだろう……と、その程度である。確かデルギッド家も同様で、ヴィクトールもさして仲の良い相手ではないと言っていた記憶がある。
だというのにどうして……。そこまで考え、ふとアネットが両家の名前を思い出して呟くように口にした。
「コルベート家と……バットソン家」
そう、今回のパーティーはコルベート家の子息であるロード・コルベートと、バットソン家の令嬢コーレル・バットソンの結婚パーティーなのだ。それも式はバットソン家の敷地で行われる。
祝いの場では誰もが警戒心と緩め、夜通し行われるパーティーは人の出入りも激しく、警備も増やすだろうがそのぶん騒動が起これば混乱しやすくなるだろう。硝煙の王子が狙うならばこれほどの好機はない。
そうか、だからヴィクトール……!と、興奮から思わずギュっとロッテを抱きしめれば、ようやく意図を察したのかと言いたげな表情を浮かべていたロッテが「ニャ!」と抗議の声をあげた。
だが今のアネットはそれに対して謝るどころではない。なにせこんなに早くチャンスが舞い込んできたのだ。うまくいけばパーティー会場で硝煙の王子を捕まえてそのまま両親の前に突き出し、その場で婚約の撤回をしてもらえるかもしれない。
「いえ、かもしれない、じゃないわ。やるのよ!」
そう意気込むアネットの声は、無情にも強く引き締められたコルセットにより甲高い悲鳴へと変わった。
□■□■□■□■
そんな悲鳴混じりの仕立てから数日後、アネットはバットソン家を訪れていた。
言わずもがな硝煙の王子対策なのだが、もちろんそれを馬鹿正直に言えるわけが無く、ひとまずバットソン家のコーレルにお祝いを……という名目である。
一度は行かないと告げたのに撤回したのだ、それを詫びることも兼ねれば怪しまれずバットソン家に足を踏み入れることができた。
「ごめんなさいね、忙しいのに急に声をかけてしまって」
「いいえ、そんな。アネット様とお話をしてみたかったので嬉しいです。パーティーにも来ていただけるんですよね」
楽しみです、と微笑みながら屋敷内を案内するコーレルはまさに良いところの令嬢といった様子である。愛らしく、そして淑やかで純粋。ホルトレイス家の令嬢を前に僅かに緊張しつつ、それでも同年代の令嬢の訪問を喜んでいる色もある。
素直な良い子、というのがアネットが彼女に抱いた第一印象である。
だがこの家は……とヴィクトールから渡され既に灰と化した資料を思い出せば、アネットの中で疑惑もあがる。彼女は家のことを知っているのだろうか、知っていてこの純粋さを演じているのだろうか。
……出来れば知っていて欲しい。
そうアネットが心の中で呟く。
彼女も家の不正に一枚噛んでいて、それでいて純粋な令嬢を演じていて欲しいのだ。もちろんそれが良いことだとは思えないが、もしも何も知らずに育っていたのではあんまりな話ではないか。
この家は硝煙の王子に狙われている可能性がある。彼が入り込めば不正を明るみに出され、コーレルも巻き添えを喰う可能性があるのだ。「何も知らなかった」等という言い訳は通用しない、それほどまでにバットソン家の不正は質が悪い。
だがそれをアネットに確認する術も、ましてや仮に彼女が真っ白でも救ってやる術もない。ここで彼女の両親の不正を説明するわけにもいかず、それならばとこの屋敷を訪れた目的を果たすべく思考を切り替えた。
「アネット様、私の部屋でお話ししましょう」
「え、えぇそうね……」
楽しげに語りかけてくるコーレルの笑顔に胸を痛めつつ、アネットが案内されるままに屋敷の中を進む。さすがにホルトレイス家ほどではないが、随分と広い屋敷だ。
彼女の部屋はそんな屋敷の三階の奥にあり、扉を開ければサァと心地よい風は吹き抜けてきた。
白を基調とした清潔感のある部屋。広めにとったバルコニーにはテーブルが置かれ、待っていたメイドが深々と頭を下げると共に紅茶とケーキの用意をしだした。今日は天気も良く暖かな日差しが降り注ぐ、バルコニーでお茶をするには最適な日だ。
だがそんな優雅な光景を前に、アネットは僅かに眉間に皺を寄せた。
屋敷内の隅々まで見て回れるとは思っていなかったが、これは案外に初手から当たりを引いたかもしれない。
「……アネット様、どうなさいました?」
「えっ、あ……なんでもないわ。素敵なバルコニーね、私の部屋には窓しかないから羨ましいわ」
そう話しながらアネットがコーレルの部屋を進み、バルコニーへと向かう。
促されるままに椅子に座れば、目の前に紅茶と美味しそうなケーキが置かれた。それと……フワリと舞う茶色の短い毛。
何かしら、と思わず首を傾げて払えば、メイドが慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません、先程まで猫が居て」
「あら、猫を飼ってるの?」
メイドの言葉にアネットの瞳が僅かに輝く。日頃ヴィクトールを「猫馬鹿」と罵っているが、アネットもまた猫好きなのだ。
だが周囲を見回してもその姿はなく、コーレルもまた同じように猫の姿を探しつつ「飼っているわけではないんです」と苦笑を浮かべた。
聞けば、ここ最近になって一匹の猫が屋敷を出入りするようになったという。人を恐れぬどころか呼べば近付いてくるほどの人懐こさで、どこかの家で飼われているのだろう首輪もしている。どこからともなく現れては屋敷の中をポテポテと歩き回り、時にはおやつを貰って気ままに去っていく……と。
それを聞いたアネットが「猫はその気紛れが可愛いのよね」と頷いて返した。ポテポテと歩くとは、まるでロッテのようではないか。
「最近はお父様の書斎と、私の部屋によく来るんです」
嬉しそうに話すコーレルに、アネットもまたその姿を想像して微笑んで返した。
そうして談笑を――殆ど猫についてである――楽しみ、日が暮れ始める頃。時間を忘れて話し込んでいたアネットがはたと我に返り「そろそろ……」と話の仕舞いをにおわせて立ち上がった。
コーレルの本棚から猫図鑑が出てきたあたりで時間の感覚を失っていたが、そろそろ屋敷に戻なければいけない時間である。ただでさえバットソン家は結婚パーティーを控えているのだ、長く時間を取らせるのは申し訳ない。
どうやらコーレルも時間を忘れていたようで「あら」と時計を見ると照れ臭そうに猫図鑑を本棚に戻した。その足取りが軽いのは、猫好きの同士を得て喜んでいるのか……。
その姿にアネットの胸が僅かに痛む。
話をしていて彼女の純粋さが嘘偽りないものだと確信できたのだ。コーレルは何も知らず、親が不正をしているとは微塵も思っていない。たった数時間でそれが分かるほど、彼女は素直で良い子なのだ。
だからこそ、硝煙の王子が来たら……と、そう思いつつもどうしようもない歯がゆさが胸に募る。
玄関に向かうまでの間も他愛もない会話をし、その間に何度全てを打ち明けようと言葉が喉まで出かかったことか。
「それではアネット様、パーティーでお待ちしております」
そうスカートの裾を摘んで頭を下げるコーレルに、結局なにも話せなかったアネットが小さく下唇を噛む。
それでも「えぇ、楽しみにしてるわ」と声が震えないように取り繕って告げれば、コーレルが嬉しそうに微笑む。そうして出発の準備が整うまでの僅かな間に「そういえば」と話し出した。
「ロード様と結婚したら猫を飼おうって話をしているんです。どんな猫にするか迷っていて、是非そのときは相談にのってくださいね」
その時の光景を思い描いているのか、楽しげに笑うコーレルにアネットが小さく息を呑んだ。
そうしてガタと揺れる馬車に抗うように窓から身を乗り出し、コーレルの手を両手で強く握りしめた。他愛もない話をしたつもりがアネットのこの反応に、彼女の瞳が驚いたと言いたげに丸くなる。
「いつだって相談にのるわ。困ったことがあったら言ってちょうだい!」
そう告げ、念を押すように握りしめた手に更に力を入れる。
そんなアネットに対してコーレルはいまだキョトンとしたまま、それでも「あ、ありがとうございまうす……」と呟くように返した。彼女の返事を聞きアネットがそっと手を離せば、ゆっくりと馬車が走り出す。
見送るコーレルはいまだ驚きを残したまま、それでもと手を振ってくれる。その姿はただ純粋にアネットを友人と慕い、そしてパーティーでの再会を心待ちにしている令嬢である。
それが分かっているからこそアネットは手を振って返し、彼女の姿が見えなくなると椅子にもたれ掛かって溜息をついた。
コーレルのことを想えば胸が痛む……。だが彼女の両親が不正を働いているのは明確で、まさかそれを隠すようなことは出来るわけがない。
だからこそ無力感を感じるのだが、それを振り払うようにパン! と一度強めに自分の頬を叩いた。
「いいことアネット、硝煙の王子を捕まえて、コーレルさんも助けるのよ。ホルトレイス家の女なら、それぐらいやり遂げなくちゃ!」
そう自分に言い聞かせ、決意を胸に小さくなっていくバットソン家の屋敷に視線を向けた。
――余談だが、その話をヴィクトールにしたところ、返ってきたのは「強気にも程がある」という呆れを含んだ一言である。だがそれに対してアネットがホルトレイス家の家訓である『二兎追って三兎得ろ』を教えてやれば、彼はもはや言い返すことも出来ないと言葉を失った――
□■□■□■□■
そうしてパーティー当日、華やかな会場をヴィクトールにエスコートされて足を踏み入れる。
仕立屋に作らせた――作らされた、とも言うが――真っ赤なドレスは美しく、銀の髪飾りを添えた赤髪によく映えている。描かれるシルエットは採寸道具をこれでもかと巻き付けられただけあり、アネットのバランスの良い体付きをより魅力的に演出し、丸みを帯びた胸元は出かけにヴィクトールに「ロッテの毛でも詰めてきたのか」と言われるくらいである。
――そっぽを向いて失礼なことを言って寄越すヴィクトールに、もちろんアネットは足を踏んづけて返した。もう少しヒールの尖った殺傷能力のある靴にすれば良かった……と、それだけが今日のコーディネートの失敗点である――
そんなアネットに会場内の男達から熱い視線が注がれる。もっとも、女性の視線は隣に立つヴィクトールに奪われているのだが、今にはじまったことではない。
デルギッド家の家紋が刺繍された正装を纏うヴィクトールはまさに王子様といった完璧な出で立ちで、彼が軽く手をふればキャーと黄色い声があがり聞こえてくる吐息がより熱を帯びる。
右目を覆う黒い眼帯がよりその魅力を演出しているらしく、「なんだか普段よりもワイルド……」と聞こえてきた熱っぽい女性の声に思わずアネットが肩を竦めた。聞けば訓練中に目を痛めたとか、聞いた直後こそ心配していたアネットだが、今の状況を見るにそれも無駄だったようだ。
思わず「次のパーティーでは男の眼帯がドレスコードになるわね」と呟けば、隣でそれを聞いていたヴィクトールが「お嬢さん方の趣味は理解しかねる」と楽しげに苦笑をもらした。
「眼帯がかっこいいんですって。見てよ、みんなウットリしてるわ」
「不便なだけなんだがな」
「……そうか、右目が死角になってるのよね」
「アネット、何を考えてる」
馬鹿なことを考えるな、と窘めてくるヴィクトールに、アネットが微笑んで「そんな馬鹿なことなんて」と返した。馬鹿なことを考えるわけがない、いつだってアネットは本気で考えて最前の行動をとっているのだ……その結果、前回のパーティーでは窓から逃げ出したわけだが。
だからこそ「私はいつだって真面目に考えてるわ」と返し、呆れた様子のヴィクトールを横目に会場内を見回した。
当然だが硝煙の王子はいない。代わりにヴィクトールが眼帯の王子と言ったところか、それ程までに令嬢達が熱っぽい視線を彼に向けているのだ。
思わずアネットが溜息をつくのは、この王子様の正体を知っているからである。
誰もが焦がれる優しく素敵な王子様も、将来有望で紳士な騎士様も実際にはいないのよ……と、そんな忠告を頬を染める令嬢達にしたくなる。
思わず「張りぼて王子」と皮肉を言ってやれば、楽しげに笑うこのなんと悪どいことか。今この瞬間にでも正体をばらしてやりたいくらいである。……信じてもらえる可能性はだいぶ低いが。
「なに不貞腐れてるんだ」
「あんたの猫かぶりに寒気がしてるのよ」
「猫は被るより撫でて抱き上げる方が良い」
「この猫ばか」
小声で罵倒しつつ、それでも優雅さを取り繕って会場内を歩く。端から見れば美男美女の美しい談笑に映ることだろう。
そうして会場内をまわり一通りの挨拶を終え、談笑と食事を楽しみつつアネットが自分のドレスを見下ろした。
綺麗なドレスだ。会う人全員が一様に「美しい」「似合っている」と誉めてくれた。アネット自信、自分の赤い髪とよく合っていると思える。初めて着た時には興奮のあまりデザイナーに抱きついた程だ。
なにより、この布……。裾を軽く摘んで揺らせば赤い布が海のように波打つ。時折キラキラと光るのはこの布になにか織り込まれているからだろうか。
とりわけ月の光を受けると星のように細かく瞬き、その輝きは華美になりすぎずそれでも見惚れてしまうほどに美しい。一歩あるくたびに布が揺れて輝きを変えるその幻想的な光景に、身に纏っているアネットでさえ言葉を失ってしまうほどだ。
「ねぇ、これなんの布なの?」
「うん?」
「なんかキラキラしてるじゃない。見たことない布だわ」
「だろ。手に入れるのに苦労したんだ」
「……ふぅん」
どこか誇らしげに話すヴィクトールに、アネットが嬉しそうにドレスの裾をゆらゆらと揺らす。
そうしてその美しさをじゅうぶんに堪能すると、愛でるような笑みを浮かべたまま彼を見上げた。
「ヴィクトール、ありがとう。このドレス凄く素敵だわ」
「……そうか」
「こんな綺麗なドレス、持ってるのは私くらいよね」
「あぁ、そうだな」
「ふふ、やっぱりあんたが一番私の趣味を分かってるわ」
嬉しそうに笑いながら話すアネットに、ヴィクトールが「長いからな」とそっぽを向いた。眼帯をいじっているのは落ち着かないからだろうか。
そうしてしばらくは他愛もない会話を、アネットは時折楽しげにドレスを揺らしながら続けていると、ふいに会場内に流れていた音楽が曲調を変えた。
それを感じ取り周囲がやにわに沸き立つのは、もちろんダンスの時間だからである。
「窓の近くを陣取れば良かったわ」
「せめてほかの手段をとってくれ。二度も窓から逃げられたら流石の俺も泣くぞ」
「そうね。でも今夜はこのドレスのお礼に付き合ってあげる」
ニンマリとアネットが笑みを浮かべれば、ヴィクトールが意外だと言いたげに片目を丸くさせ、それでも彼女の前に立った。そうして恭しく身を屈めて片手を差し出せば、その完璧とさえ言えるお誘いにアネットが小さく笑って片手を添える。
ゆっくりと握りかえされ、促されるままに会場の中央へと歩んでいく。もちろん主役二人を差し置いてど真ん中を陣取るような真似はしないが、それでも寄り添うアネットとヴィクトールの姿に周囲から羨むような吐息があがった。
それほどまでに二人は美しく、寄り添えば互いの魅力を更に引き立たせるのだ。ヴィクトールに熱い視線を送っていた令嬢達でさえ、アネットへの嫉妬を忘れて見惚れてしまうほどである。
――もっとも、ヴィクトールだけが小さく「いつもこうして大人しくしてくれてたら」と溜息をついたのだが、あいにくと軽やかな音楽にかき消されてしまった。……ムギュと足を踏みつけて「あら失礼」と微笑むアネットの耳にはしっかりと届いたのだが――
「ダンスに応じるなんて珍しいな」
「それほどこのドレスが嬉しかったのよ。それに痛めた目のお見舞いと……あと、お母様が凄い眼光で私を見てた」
「あぁ、俺も気付いた」
思い出したのかクツクツとヴィクトールが笑う。そうして彼の瞳がアネットをとらえてやんわりと補まった。
片目だけでも綺麗だと思える、青い瞳。
「これなら、もう少し時間を遅くすればよかったな」
「……え?」
何のこと? と問おうとアネットがヴィクトールの名を呼ぼうとした。が、その視界は一瞬にして真っ暗になり、目の前にあった彼の顔も闇に消えてしまった。
「な、なに!?」
突然のことに、暗闇で見えやしないと分かっていてもアネットが周囲を窺う。あちこちで悲鳴や食器の割れる音があがり、落ち着くようにとメイドや使い達が声を荒らげる。
いかにも非常事態といったその対応を見るに、この暗転がサプライズの演出とは考えにくい。
つまりこれは……! とアネットが暗闇の中でも瞳を輝かせた。
「ヴィクトール! これは硝煙の王子の仕業に違いないわ!」
「あぁ、きっとそうだな。そこで大人しく待ってろよ」
「……ヴィクトール?」
アネットが暗闇の中で彼を見るも、当然だがそこにいるかどうかは分からない。
先程まで繋いでいた手もこの騒ぎに離してしまい、微かに人の動く気配を感じて周囲を探るように手を伸ばすも指先すら何も触れず宙を掻く。
「ねぇ、ヴィクトール?」と声をかけても彼からの返事はない。騎士として異変を感じ取ってどこかへ向かったのか、思わずアネットが「一緒に連れていってくれてもいいのに」と暗闇に向かって頬を膨らませた。
「なにが大人しく待ってろよ、格好つけちゃって。そもそも、あんた何も分かってないわ」
ブツブツと文句を言いながらアネットがドレスのスカートを捲り上げる。足を晒すなどはしたなく令嬢のすることではないと分かっているが、どうせ今は暗闇、誰も見えやしないだろう。仮に夜目の聞く者がアネットのこの姿を見たとして、スラリと伸びたしなやかな足よりもそこに括られたロープや手持ち用のランタンに目を丸くさせるだけだ。
「ヴィクトール、あなた私の趣味は分かってるのに、私のことは分かってないのね。大人しく待ってるわけがないじゃない!」
そう高らかに宣言し、手早くランタンに明かりを灯してアネットが会場を後にした。
廊下を走り抜け、目的の場所へと向かう。
じょじょに非常時用の明かりが灯り、それと共に警備がアネットの横を走り抜けていく。バットソン家も薄々この自体を予期していたのか、行き交う警備の量は尋常ではない。
そんななか煌びやかなドレスを翻して走るアネットの姿はまさに場違いである。だが誰もがそれを気にかけることも止めることもしないのは、この場において令嬢一人に構っていられないからだろう。
動きやすくて好都合だわ、とアネットが小さく笑みをこぼした瞬間、遠くから甲高い発砲音が聞こえてきた。銃声だろうか、思わずビクリと体を跳ね上がらせて足を止めれば、周囲で同じように音を聞きつけた警備員達がこぞって音の方へと走っていく。
噂によると、硝煙の王子は常に二丁の銃を携帯しているという。先程の発砲音がその銃によるものだとすれば、音を辿れば彼の姿があるはず……。
だがアネットだけはその考えを振り払い、真逆へと駆けだした。
そうして辿り着いたのは三階の一室。バットソン家の令嬢であり本日の主役であるコーレルの部屋である。先日彼女とお茶をした時となんら代わりはない。
勝手にひとの部屋に入るのは気が引けるが、それでもと心の中でコーレルに謝罪して扉を押し開けた。
バタン! と大きな音が響く。部屋の主が会場にいる今、この部屋は誰もいないはず。だが大きく開かれたバルコニーでは純白のカーテンがはためき、そこにハッキリと人の影を映していた。
一陣の風が吹き抜け、カーテンがフワリと揺れて翻る。その瞬間月光が差し込み、そこに立つ人物を照らした。
スラリと伸びた手足、月の光を受けて輝く漆黒の髪。顔は銀色の仮面で覆われて見えないが、それでも佇まいから美丈夫の印象を与える。身長は高く、ヴィクトールと同じくらいか。背格好も似ており、着こなされた黒地のコートが風にはためき、その体つきから程良く鍛えられていることが分かる。
腰から下げているのは二丁の銃。彼の異名がその銃を放った瞬間に漂わせる硝煙からきているのは言うまでもない。
「……硝煙の王子」
ポツリと呟くようにアネットが彼を呼ぶ。
「驚いたな、どうしてここに」
「バットソン家の娘さんと仲良くなっておいたのよ。一度遊びに来させて貰って、その時に侵入出来そうな場所の目星をつけていたの」
「目星、か。なるほど頭脳派だ」
「真逆の場所から銃声が聞こえてきた時に間違いないと思ったわ」
あの銃声は囮なのだろう。いくら「硝煙の王子」と言われていても毎回侵入するたびに銃を放つ義理は彼にはない。だからこそ、アネットは銃声と真逆に走ったのだ。
もっとも「間違いないと思った」というアネットの言葉に裏付けはない。なんとしても捕まえてやる!というアネットの執念と勘である。だがその二つがこの部屋へ向かえと騒いだのだから、抗う理由もないだろう。
騎士達が日夜総出で、それこそ現場検証を繰り返し何人もが頭を悩ませながらも未だ彼を捕まえられずにいるのだ。それを只の令嬢であるアネットが出し抜くとなれば、最早理論なんてものに縋るのは愚作。
気合い・根性・本能・勘。
重要視すべきはここらへんである。
そうハッキリと話せば、硝煙の王子が小さく溜息をついた。マスクで顔の半分は覆われているが、露出された口元が呆れたと言わんばかりに小さく開かれたのが見える。
「そういうわけだから、観念なさい!」
「残念だが一歩遅かったな」
ふっ、と小さく笑う声が聞こえてくる。それと同時に風が大きく吹き抜け、カーテンがバサと大きな音をたてて翻った。
バルコニーから……いや、バルコニーから繋がる外から声がする。三階の高さがあり何を喋っているのかまでは聞き取れないが、この緊迫したムードにそぐわぬその騒ぎようは、まるで何かが現れて驚愕しているようではないか。
いったい何だと、アネットが硝煙の王子越しに闇夜に視線を向ける。その瞬間、まるで彼に引き寄せられるようにゆっくりと網梯子が降りてきた。硝煙の王子がそれを掴んだ瞬間、事態を察してしまったと駆け出す。
窓から飛び降るか屋根に登るなりして逃げるのだろうと考えていたが、まさか空へ逃げるとは……!
「ま、待ちなさい!」
「待つと思うか?」
どこか勝ち誇ったような声色で硝煙の王子がバルコニーの柵を蹴れば、フワリとまるで空に浮くように彼の体が浮かび、漆黒の髪が月の光に晒される。その姿は美しくありそしてどこか幻想的にも見えるが、アネットはそれに見惚れることなく駆け寄って柵に手をかけた。
下を覗けば、幾つかの木と植え込みがあるいかにも屋敷の庭といった光景が広がっている。駆けつけた警備員達が唖然とした表情で空を見上げ、一人また一人とどこかへと走っていく。
見上げれば夜空に浮かぶ小型の気球。ゆっくりとした動きではあるが風にのって徐々に屋敷から離れていこうとしている。もちろん気球から下がる網梯子には硝煙の王子が掴まっており、このまま飛んで逃げる算段なのは聞くまでもない。
庭で右往左往していた警備員達は全員いなくなった、屋敷内の警備に戻ったかそれとも風の流れを読んで先回りをしたか……。どちらにせよ、このままここで見送るわけにはいかない、とアネットがゴクリと生唾を飲み込んだ。
そうして数歩、柵から後ずさる。幸い風も弱く、まだ硝煙の王子との距離はさほどしか離れていない。
助走をつけて飛べば網梯子に手が届くかもしれない……。そう決意を瞳に宿し、アネットがさらに数歩下がった。
硝煙の王子もそれで何かを察したか「やめろ」だの「馬鹿なことを考えるな」だのと止めてくる。
顔を覆う仮面と月光で顔が見えないのが残念だ。見えてたら間抜け面と笑ってやったの……と、そんなことを考えながらアネットが駆け出し、ガッと蹴りつけるように柵に足をかけ、その勢いのまま外へと飛び出した。
フワリ、と真っ赤なドレスと真っ赤なアネットの髪が空に揺れる。
浮いているような不思議な感覚。目の前には縄梯子と、それを掴む硝煙の王子の姿が見える。銀の仮面に覆われて顔は見えないが、目元から覗く青い瞳が驚いたように見開かれてこちらを見ているのが分かった。
「くっ……!」
せめて梯子の一部でもと手を伸ばすも、掴むことが出来ず指先が掠めた。
まずい……と、そう頭の中で警報が鳴るのとほぼ同時に、浮遊感が落下の感覚へと切り替わる。
思わずアネットが落下の恐怖で目を瞑る。その直前、
「アネット!」
と、声が響き、梯子を手放し両手を広がる硝煙の王子の姿が見えた。
幸いなことに二人が落ちたのは中庭の草の茂みだった。といっても落下中に硝煙の王子が抱き寄せて体勢を整えてくれなければ、アネットは今頃……。考えるのも恐ろしい。
だが幸い酷い怪我も意識を失うこともなく、ドザァ! と派手な音をたてて落ちたアネットは、痛いくらいに鼓動を刻む心臓を押さえ詰まっていた息を一気に吐き出した。
ブワと一瞬にして汗が吹き出る。おさまらぬ鼓動と荒い息をつきつつ、自分を抱き抱える腕に視線を落とした。しっかりと守るように抱きしめてくれている、この腕……。
「硝煙の王子!」
とアネットが顔を上げれば白い手袋で覆われた指を目の前につきつけられる。それがパチンッと音を弾けさせた瞬間、まるで夢の中に突き落とされたかのようにアネットの意識が白んだ。
「……ん、んぅ」
ゆらゆらと揺れる感覚にアネットが意識を微睡みから取り戻す。
ボンヤリとした視界がそれでも動いているあたり移動しているのだろう。だが馬車というわけでもなく、力を抜いたこの体で馬に乗れるわけがない。なにより、背と足だけを支えられているこの体勢。
不安定ながらも暖かな感覚はまるで昔父に抱き抱えられた時のようで……と、そこまで考えアネットが顔をあげると、視界に濃紺の髪が映り込んだ。月光を受けて普段より色濃く見える髪、同色の瞳はまっすぐに前を向いている。
その顔つきはまるで絵画のように格好良く、その瞳がふいにこちらを向くのでアネットの心臓が僅かに跳ねた。
「アネット、気付いたか」
「……ヴィクトール」
聞こえてくる声は間違いなくヴィクトール。いや、声だけでなく顔も何もかもヴィクトールである。
それが分かると同時に彼に抱き抱えられているのだと察し、アネットが慌てて周囲を見回した。屋敷への帰り道だろうか、誰もいない……硝煙の王子もいない。
「ヴィクトール! あいつは!?」
「あいつって?」
「硝煙の王子よ! 居たでしょ!」
「いいや、俺が駆けつけた時はお前だけが草陰で寝てた」
「そう……あいつ、私に恐れをなして逃げたのね!」
ふふん! と抱き抱えられたまま得意げに笑うアネットに、ヴィクトールが溜息をついた。
あきれた、と言いたげなその表情は相変わらず腹立つ幼馴染みのもので、一瞬だが見惚れたのは落下の際に頭を打ったからだわ……とアネットが自分に言い聞かせる。
「で、なんでヴィクトールが私を運んでるの?」
「今更それを聞くか」
先程よりも深い溜息をつけども歩き続けるあたり、ヴィクトールにアネットを降ろす気はないのだろう。
さすがは騎士、そこに疲労の色はなく軽々と足を進めている。
だが抱き抱えられているアネットからしてみればどうして降ろしてくれないのか疑問でしかない。確かに楽だが、いくら布越しとはいえ彼に体を預けているのは気恥ずかしさが勝る。時折抱き直すようにギュウと腕が体を押さえれば、不覚にも心臓が一瞬跳ねてしまうのだ。とりわけ、今のヴィクトールは月光を浴びて普段より少し――本当に少しだけ!――格好良く見える。
……あと、パーティーで食べ過ぎたのも気になる。
だからこそ「降ろしてよ」と訴えるも、返ってきたのは「大人しくしてろ」の一言。
「人攫いって叫んでやる」
「まったくお前は……仕方ない」
小さく文句を言いつつヴィクトールが身を屈める。
それに対してアネットはようやく降りれると言いたげに息を吐き、そっと地面に足をおろし……右足が地面につくと同時に
「いったぁい!」
と悲鳴をあげて地面に座り込んだ。
右足に体重が乗った瞬間、足首に耐えようのない激痛が走ったのだ。
「いたい! いったぁい! なんで痛いのよ!」
「なんでって、そりゃ足を痛めてるからな。腫れてたから無理に動かすなよ」
「なんでそういうことを先に言わないのよ!」
「身を持って味わった方が良いと思って」
「酷い! 鬼、人でなし!」
ピィピィと喚きながらアネットが右足をさする。
スカーフで添え木されているが、確かに左足と比べると少し腫れてほんのりと熱も帯びている。それに気付けばジワジワとした痛みも沸き上がり、試しにと強めに揉めば言いようのない痛みが走った。
きっと硝煙の王子と落下したときに痛めてしまったのだろう。三階から落下したのだからこれぐらいで済めば良い方なのだが、それでも痛い。痛いものは痛い。
思わずグスンと洟をすすり、アネットが両手を広げた。
「ヴィクトールゥ……」
と、その声のなんと情けないことか。
本日一番深い溜息をついたヴィクトールがそれでも応じるように身を屈め、再びアネットを抱き抱えた。
「……ドレスが破けてるわ」
「そりゃあんなところから飛び降りればな」
「うわ、靴もボロボロ。これはお母様に見つかったら怒られるだけじゃ済まないわね。ヴィクトール、さっさと屋敷に戻りましょ」
「お前なぁ……」
呆れたと言わんばかりのヴィクトールの声にアネットが小さく舌を出し、ふと彼の首にしがみつくようにして顔を覗きこんだ。
「ねぇ、私いつ三階から飛んだことをあんたに言ったっけ?」
「えっ……」
一瞬、ヴィクトールの言葉が詰まる。
彼の右目が驚いたように丸くなり、左目を覆う眼帯も僅かに揺れる。向けられる視線から逃げるように顔を背けるも、それでもとアネットは彼に詰め寄った。
「バ、バルコニーの手摺りに足跡があってだな……」
「うそ、私そんなに強く蹴ってたの!?」
「あぁ、それに庭で倒れてるお前の姿……となれば、どうせ硝煙の王子を追いかけて飛んだんだろうと思ってな」
「ふぅん」
そっか、と納得してアネットが締め付けるように抱きついていたヴィクトールの首から腕を解く。
確かにあの瞬間、硝煙の王子を捕らえるべく勢いよく柵を蹴って飛び出した。結局あと僅かというところで届かずに落ちたのだが、あの勢いを考えれば柵に足跡がついていても仕方ない。
他の人ならば柵の足跡と庭で倒れているアネットを見ても「まさかここから」と考えただろう。普通であれば飛ぶわけがない高さだ。だがそれをやってしまうのがアネットで、そしてヴィクトールはそんなアネットをよく知る男なのだ。
と、そんな二人に「ニャーン」と愛らしい声がかけられた。
見れば栗色の愛らしい猫が一匹「待って」と言いたげにトテトテと小走りで駆け寄ってくる。もちろん、ロッテである。
「あらロッテ、あなたこんなところまで出歩いてるの?」
隣に並ぶや歩調を合わせた足取りになるロッテにアネットが話しかければ、再び「ニャーン」と返事が返ってくる。
「ロッテ、家までだいぶあるわ。あなたも乗ったらどう?」
「おいアネット、なに勝手に……うぐっ」
ヴィクトールの文句が途中で呻きに変わったのは、もちろんロッテが飛び乗ってきたからである。アネットの腹の上にチョコンとおさまれば、当然だがすべての重さはヴィクトールの腕にかかるのだ。
対してアネットは腹部に愛らしい重さを感じこそするが自分で歩くわけではなく、のんきに「相乗りね」とロッテのフカフカの毛を撫でてやり、ふと首に巻かれた赤いスカーフに目をとめた。
普段の首輪の上に巻かれた、質の良いスカーフ。
月光を受けてキラキラと輝くそれは……。
「あら、お揃いなの?」
「あぁ、ロッテに洒落たスカーフをあげようと思って調達したら、思いのほか布が余ったからお前にやったんだ」
「同じものをプレゼントするなんて、気の利かない男ね」
ねぇ、とアネットがロッテの首元を掻くように撫でれば、ゴロゴロと心地良さそうな振動が指に伝わる。
クツクツと聞こえてくる声に顔を上げれば、ヴィクトールがそんなやりとりが楽しいと言いたげに笑みをこぼしていた。青い瞳が細まり口元が弧を描く、令嬢達が胸を高鳴らせる王子様ぜんとした笑みとは違うその笑みは、幼い頃にみた少年の笑顔を少しだけ大人びさせたような笑みだ。
こういうところは変わってないのね、とアネットが心の中で小さく呟き、応えるように笑みで返す。
そうして二人と一匹で歩き――実際に歩いているのはヴィクトールだけだが――アネットがポツリと彼の名前を呼んで、手を添えていた服を僅かに引っ張った。
「ヴィクトール、私あなたと政略結婚なんて絶対に嫌なんだからね」
「あぁ、そうだな。それなら早く硝煙の王子を捕まえることだ」
「えぇそうね。次は必ず捕まえるわ!」
決意を新たに、アネットが月を見上げる。
そうしてポツリと、
「ところで、屋敷に着く前に一度身嗜みを確認なさい」
と告げてやるのは、もちろん彼の眼帯について気付いてしまったからだ。言及しないのは幼馴染みのよしみというやつなのだが、ヴィクトールは未だ気付かずいったい何のことだと首を傾げている。
そんな彼の姿に、腹のうえでしきりに顔を洗って何かを訴えるロッテの頭を撫でつつ、アネットが小さく笑みをこぼした。
□■□■□■□■
アネットの右足は軽い捻挫で、数日安静にすれば治る程度のものだった。
もっとも、アネットからしてみれば数日の安静といえど退屈極まりなく脱出を計りそうなものなのだが、三階から飛んだことを黙っている代わりに大人しくしてろとヴィクトールに言われれば従うほかない。
なにせあれをバラされれば数日ベッドで療養どころではないのだ。見舞い客はすべて家庭教師、暇潰しに読む本も教養の本、松葉杖でダンスのレッスン……と、安静に療養から一転してスパルタコースなのは言うまでもない。
そういうわけでアネットにしては珍しく数日大人しく療養していたのだが、その間に硝煙の王子に動きがあった。
彼はバットソン家の違法税関の証拠を国中にばらまき、賄賂の証拠まで騎士や国の上層部に送りつけたのだ。証拠を得た国はバットソン家を取り締まり、号外が巻かれると共にこの事件は終止符を打たれた。
そんな騒動から数週間後、アネットはとあるパーティーに招かれていた。もちろんヴィクトールのエスコートであり最初こそ拒否して逃げようとしていたのだが、彼の「コーレル嬢も来るらしい」という一言で首を縦に振った。
幸い、コルベート家は嫁いできたコーレルを守り、何も知らない彼女は親の強欲に巻き込まれずに済んだのだ。今日のパーティーも、コルベート家として出席している。
「もしかしたら、それすらも硝煙の王子の考えのうちだったのかもしれないわね」
そう呟くアネットに、隣に立つヴィクトールが興味なさそうに「そうかもな」とだけ返した。
華やかなパーティーにおいて、それでもアネットの心はここにあらずなのだ。エスコート相手に失礼じゃないかとヴィクトールが文句を言っても「なら他の方を誘ったら?」と、これである。
もっとも、ヴィクトールも言うほどパーティーが好きなわけではなく、社交性から猫被りな対応こそしているが時には今のようにアネットと壁の花と化すこともある。むしろヴィクトールの場合、女性達の熱い視線に微笑んで手を振るだけでも充分とさえ言えるのかもしれないが。
「ねぇ、この会場に眼帯をつけた男性が何人いると思う?」
「……少なくとも、五人は確認できた」
「だから言ったじゃない。それで、次は何を流行らせるの?」
冗談混じりにコロコロと笑うアネットに、対してヴィクトールが理解できないと言いたげに肩を竦めた。そんな彼の前を一人の男が通り過ぎる、その片目は宝石が飾られた眼帯で覆われているのだから参ってしまう。
もちろん今のヴィクトールは眼帯をつけておらず、両目とも健在である。「治った」と説明すればアネットがニヤニヤと笑いながら「それは良かったわね」と返したのは言うまでもない。
そんな二人に声がかかり、揃えたように振り返ればコーレルの姿。彼女の隣にたつのはコルベート家の嫡男であり彼女の夫のロード。
「ごきげんよう、アネット様、ヴィクトール様」
「ごきげんよう、コーレルさん」
令嬢らしく互いにスカートを摘んで挨拶を交わす。
だが次いでコーレルが表情を曇らせるのは、コルベート家が庇ってくれたとはいえ先日のことを気に病んでいるからだ。彼女にとって今回の件は全て初耳、両親の不正を突きつけられるや事実を受け入れる間もなく取り締まられたのだから、その胸中は複雑どころではない。
「パーティーではご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした……」
バットソン家のことを思い出したのだろう、眉尻をさげて切なげな表情を浮かべるコーレルに、それを気遣ってロードが彼女の肩に手を置く。優しくさする彼の瞳には家のことを知ってもなお妻を守ろうとする意志が見える。
それを見上げるコーレルの瞳にも僅かに安堵の色が宿り、アネットが小さく微笑んだ。
硝煙の王子は二人の仲を知ってパーティーまで待っていたのかもしれない。なにがあってもロードはコーレルを守ると信じていたからこそ、二人の関係が明確になったあの夜にバットソン家の不正を暴いたのだろう。
捕まえてまずは誉めてやりたいわ。と、そう考えつつアネットが目の前の夫婦を見守れば、コーレルが「それで」と話し出した。
「先日のような規模ではありませんが、改めてパーティーを開こうと思ってるんです。もしよろしければ、お二人にももう一度来ていただきたいのですが……」
「もちろん、喜んで参加するわ」
是非呼んでちょうだい、とアネットが応えればコーレルの瞳が輝く。ロードもまたヴィクトールと握手を交わし微笑みあっているではないか。以前に彼との交友は無いと聞いていたが、どうやら仲が良いらしい。
そんな二人のやりとりを眺めつつ、アネットがコーレルの裾をチョイチョイと引っ張って顔を寄せた。まるで子供が内緒話をするかのような構えに、コーレルが僅かに小首を傾げる。
「ねぇ、私とても素敵なドレスを作りたいの。間に合えば、是非そのパーティーに着ていきたいわ」
「ドレス、ですか?」
「ちょっと特殊な場所に伝わる作りなの。それで、あなたに仲介して貰おうと思って」
「……私に?」
どういうことですか?と首を傾げるコーレルに、アネットがクスと笑って「飾りヒモが素敵なドレスを作りたいの」と応えた。
そうしてパーティーも順調に進み、明かりが消えることもなくダンスの時間が訪れる
「飾りヒモって、お前なぁ……」
「あら、あの土地はコルベート家の管理下に置かれるのよ。いずれはロードが統治するって考えれば、コーレルさんが今のうちに領民と親しくなっておいた方がいいじゃない。親の件もあるし、仕事を提供して復興させれば間違いなしよ」
「そう上手くいくかね」
「上手くいかせるのよ。私も今回はドレスで大人しくしてるから、あんたも私を誉めちぎりなさい。そうすればコーレルさんの元に飾りヒモのドレスの注文が殺到するわ」
そうコロコロと笑いながら赤い髪を優雅に揺らすアネットに、彼女の手を取るヴィクトールが小さく溜息をついた。絢爛豪華な会場に軽やかな音楽、周囲の視線が注がれる中ダンスをしつつもこの打算的な会話なのだから溜息も出ると言うもの。
「だからってなぁ……」
「酒場で飾りヒモを貰ったお礼よ。好意にはきちんと返すのがホルトレイス家の家訓なんだから」
「はいはい、立派なことで」
まったくこいつは……と、そう言いたげなヴィクトールの態度が気に入らないと、アネットが彼の足を踏んでやった。なに、ダンスの最中にうっかり相手の足を踏んでしまうことなど社交界ではよくあること。優雅に「あらごめんなさい」と笑えばそれで終わりだ。
たとえそこに悪意があろうとわざとだろうと咎めるのはマナー違反。とりわけ男が女に対して「足を踏んだな!」等と言い出せば、逆に男の評価を下げるだけだ。
それが分かっているからこそヴィクトールも何も言えず、口元をひきつらせながら「気になさらず」と皮肉をこめて微笑んで返した。
内情を知らず端から見ているだけならなんとも美しい光景である。
「次のパーティー、硝煙の王子はまた来るかしら?」
「いいや、今回は来ないだろ。コルベート家は真っ白だ」
「なら次のターゲット候補を探さなきゃいけないわね。明日からまたあの酒場で情報収集よ!」
「そうだな……おい、なんか俺も協力する流れになってないか?」
「頼りにしてるわ」
クスと笑ってアネットがクルリと回る。
真っ赤なドレスと、それに負けぬ赤い髪。それらがフワリと揺れて広がる美しさに誰もが目を奪われ、感嘆の声がどこからともなく聞こえてくる。
もっとも、当人はその声にも視線にも気付かず、まるで子供のように楽しそうに
「あんたと政略結婚なんて絶対に嫌なんだから!」
と笑った。
…end…