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プロローグ

 この小説は主人公最強・蹂躙物です。


 既存の神話に関する独自解釈、歴史上の人物をモチーフとした改変・創作がてんこ盛りです。


 この小説には残酷及びグロテスクな描写が含まれます。ご注意下さい。


 著者はいかなる人物、団体、民族、宗教を貶める意図を持ちませんが、そう見える表現がありましたらご容赦下さい。


 週一程度の更新を予定しております。


 何分、実験的な試みが多いものですから、文体・表現・語彙などに関してご意見を頂けましたら幸いです。

 ゴルディアスの洞窟


 若きアレクサンドロス三世は、暗鬱たる骨を刺す冷気に満ちた洞窟の最奥で、蹲った姿勢から蜷局を解いて鎌首をもたげ、翼を大きく開いてこちらを威嚇する姿勢を取った軍船ほどもある大きさの青黒い龍を睨みつけた。 

 何としても目の前の悪龍ゴルディアスを討ち取らねばならぬ。これは我ら半神族(ヘレネス)人族(バルバロイ)のためだけではなく、この地の虐げられた種族全ての為なのだ。

 我が身を護るは山妖精(スキティア)の武具、森妖精(アルサケス)の魔術、龍人族(フォエニケス)の英知──見るが良い、お主等龍族に連なる龍人族すら我らに力を貸しているではないか。お主の氷結の吐息も我が身に宿る彼らの願いの炎を消し去ることなどできはせぬ。

 そして何より──王は常に後を護る最愛の存在を感じていた──愛するロクサネが汝の動きを伝えてくれる限り我らに敗北などあるものか!


 若き王は裂帛の気合いと共に頭をもたげた悪竜に斬りかかった。



 G型主系列星星系第三惑星地表 不毛の荒野



《ここが……?》


 阿座(あざ)(とおる)は声ならざる声で傍らに控える忠実な従者に尋ねた。まだこの方法での意思疎通に慣れたとは言い難いものがあるが、なんとか形を維持している今の「身体」を直接動かして「話す」ことに比べれば随分と楽なのは確かだった。


《はい、ここが阿座様の仰った条件を満たす土地だと思われます》


 黒で合わせたスラックスのスーツ姿、凜と伸びたその背筋、襟元で切りそろえた漆黒のボブヘアと、どこからどう見てもやり手のキャリアウーマンか美人講師に見える、亮があちらに置いてきた日常を思い出させるその後ろ姿。それに郷愁を感じつつ、亮は従者と自分の前に広がる灰褐色の荒野に視線──注意を向けた。確かに、辺り一面に荒涼とした岩石だけが広がる光景には動物──動くものどころか草木一本見当たらない。


《この惑星の生成期に中途半端にアストラル海に接続してたことによる空間の歪みがこの地に集約され、生物が存在できない領域を形成しております》


《成る程ねえ》


 半ば彼女の鈴の音のように澄んだ思念に気を取られながら、亮は頷こうとして”頭部”が傾ぐのを感じて慌てて止めた。


《じゃあ、ここにしようか。……でも、どうすればいい?》


 前科があるだけに、なるべく”身体”を動かさないようにしながら恐る恐る自分の要望を伝える。


《できるだけ周りに被害を出さないようにしたいんだけど。できる?》


《では、こう致しましょうか》


 彼女は首を僅かに傾げると、右手を宙に翳して虚空から先端にエジプト十字が付いた短い錫杖を取り出すと軽く一降りしてのけた。


 《おお?!》


 錫杖から涼やかな金属音がした刹那、(おそらく)元の身体で瞬きするより早く亮の前の荒野が緑なす広葉樹の森と灌木と丈の高い草が織りなす平原へと姿を変えた。これまでは何一つ生の気配が存在しなかった空間に一瞬で命の気配が満ちる。足下を慌てた様子でネズミかウサギに似た小動物が駆け抜け、深い緑なす森の上には鳥の群れが飛び交い、平原の遠くには草食獣だろうか、毛の長い馬のような大型の動物の群れの姿も遠望できる。その豊かな生命の眩しさに、亮は僅かに目を細めた気分で感嘆と共に飽きることなく久しぶりの”生命”に満ち溢れた空間を満喫していた。


《え、何、何?!》


 と、視線の先でいきなり動物の群れらしきものが慌てて駆け出した。森の方でも鳥の群れが必死の勢いで羽ばたいて遠ざかろうし、其処此処で小動物が巣穴に身を沈める。


《どうも「これ」から逃げ出したようですね》


 言葉と同時に自分と従者が何かの大きな影に包まれたことに亮は気付いた。慌てて身体を崩すことのないよう、注意しながらゆっくりと振り返る。

 そこには何かの建造物があった。暗褐色の細かい鱗状の浮き彫りがされた巨大な柱と重量感のある台座が視界の上まで続いている──そこまで確認して亮は気付いた。目の前にあるのは鱗状の浮き彫りがされた柱などではなく、そう感じられるほど巨大な、金属と見紛うほど重厚な鱗そのものに覆われた脚と身体、つまり巨大な何かの下半身なのだと。

 次の瞬間、割れ鐘のような轟音が響き渡った。


 龍の中の龍、アヴェラストゥナルは微睡みから醒めて瞼を開いた。塒と定めたこの孤峰の頂からでも彼の鋭い感覚は彼の領土の南端付近の狩り場に突然現れた侵入者に気付いたのである。

 自らの翼で一日で到達できる範囲──同族の龍達はもとより、彼の母親である偉大なる龍の女神を除いて神々すら敢えて侵すことを憚る、この大陸で最も肥沃で最も霊的に恵まれた土地──は全て彼の領土であり、そこに侵入した全ての者の生殺与奪は彼の意のままである。それが神々すらも認めた絶対の掟。

 数は二つ、直立して衣服をまとった彼の膝下にも届かぬ程度の大きさ、取るに足らない存在としか思えない、だが、何か自らを不安にさせる存在に、アヴェラストゥナルは丸めていた身体を伸ばして翼を広げると、軽い唸り声と共に転位呪文を発動させ、次の瞬間、棒立ちの侵入者達の背後へとその巨体を鎮座させた。

 自らの存在に気付いて恐る恐る振り返った矮小な存在に問いかける。


「我は龍の中の龍、竜王アヴェラストゥナル也。我が領土に入り来るは何者か?」


 視界の遥か上から降り注ぐ、もはや物理的な衝撃を伴う吠え声に、亮は吹き飛ばされそうになった身体を必死で制御した。慌てて彼女が身体を横から支える。


《「我は龍の中の龍、竜王アヴェラストゥナル也。我が領土に入り来るは何者か?」と尋ねています》


《へ、ここって無人というか、「生物が存在できない領域」じゃなかったの?》


 何とか身体を安定させて亮は僅かな安堵と共に湧き上がった疑問を投げかけた。


《ええ、確かに阿座様の御要望通り、「生物が存在できない領域」を選んだ上で、「できるだけ周りに被害を出さないように」、この惑星が誕生する以前に時間を遡って空間の歪みを修復しました》


「速やかに返答せぬか、愚か者共」


 それと同時に再びの轟音と衝撃。


 亮は被っていたフードを吹き剥がされながらも必死で傍らの黒いスーツに身体を寄せ、彼女の口元が満足げに半月を描くのを感じた。


《これが最も周囲に被害を出さずに行える方法だと愚考しましたが、それによって生物の可住地域になったために色々と住み着いたようで、この「アヴェラストゥナル」とやらがこの土地への無断侵入を咎めているようです》


《あー、うん、これは完全に僕の想定ミスだ。できるだけ丁寧に侵入を詫びて、すぐに立ち去ると伝えて欲しい》


 アヴェラストゥナルは不快感を隠しきれなかった。吐息に僅かに炎が混じり、踏みしめた大地が巻き込んだ灌木の茂みと共に陥没する。自分の問いかけに対する吐息にすら吹き飛ばされそうになる脆弱な存在が二つ──片方は見慣れぬ素材で出来た黒い身体の線に沿って造られた衣服をまとった人間の雌らしき者、もう片方は灰色のフード付きの外套らしき物をまとった者──おまけに剥がれたフードから覗いた顔は稚拙な土塊をこねた彫像のような、辛うじて目鼻らしき物が見て取れる灰色の仮面であった。

 で、あるのに──何故自分はこれほどに不快感を感じているのか──。焼き尽くせ、これらはこの世に在ってはならぬ物だ、と龍王の脳裏で何かが警告している。

 アヴェラストゥナルは森の最も高い木々すら覆う羽根を広げながら自らの鱗に埋め込まれた宝石に封じられた魔術を解放していく。最も苦手とする極寒への防御を始めとした四大元素への防御、オリハルコンにも勝る鱗をさらに強化する不可視の力場の鎧、敵対する魔術を打ち消し、軽減する対魔術の衣……神々にすら匹敵する守りで身を固めて侵入者達の動きを油断無く伺った。


「偉大なる竜王、アヴェラストゥナル様に申し上げます」


 流暢な彼ら龍族の話す言葉と共に黒服の雌の顔が上がった。しかし、人間の雌にしては奇妙なことに、沖天に近い太陽からの光をほぼ正面から受けてすら、その顔の上部は影に覆われてアヴェラストゥナルの地底の闇すら見通す眼を持ってしても口元より上を見通すことはできなかった。


(わたくし)Nyarlathotepと我が主人Azathothは、決して貴方様の土地を侵そうと思ったり、貴方様に敵意があるわけではありません」


 ──何かがおかしい。首筋の鱗が逆立つ感覚。


(わたくし)共が空間が歪んだこの無主の土地をこの惑星の生成期に遡って作り直したところ」


 ──この雌は一体何を言っているのか。


「居住可能になって結果として貴方の土地になってしまったのです。ですが、」


 アヴェラストゥナルはそれ以上言葉を続けさせなかった。地上の如何なる金属も溶かし尽くす龍炎の吐息を渾身の力でこの得体の知れぬ二柱の何かに吐きかける。


《帰》


 亮は炎に包まれる最後の瞬間、それだけを念じ、そして次の瞬間、アヴェラストゥナルは絶叫しながら大地を掻き毟った。龍王の絶望と狂気に満ちた苦鳴が辺りに轟き渡り、近くの森林の耳在る生物は元より、遥かに離れた南の山塊ですら音に敏感なが恐慌状態をなして逃げ惑った。まして、彼の周囲数リーグに渡る範囲の哀れな動物たちは、獣は地に伏せ、鳥は天から雨のように地に降り注ぐ。

 あの炎に包まれた影が消え去る最後の瞬間、表面の草木どころかその下の地面すら焼き溶かす龍の炎によって辛うじて保っていた人型をした”何か”の向こう側に刹那垣間見えた”もの”──触れること能わざるもの、死を免れ得ぬ者が決して感知してはならぬもの、宇宙の究極の彼方にあるもの、沸騰する混沌の中心核──、歳月を閲し、幾多の戦いで練り上げられた龍王の強靱な精神が、大地を掻き毟り石を砕き岩を穿って自らの実在を体感することでようやく”それ”を知覚したこの世の存在の精神が否応もなく行き着く永劫の狂気に到達することを食い止めていた。



 究極の中心にて



《ま、間に合った……》


 時間と空間の尽きる果て、究極の虚空、暗澹たる渦の中心の不定形の玉座に揺らめいて解け崩れかけた人型が現れた刹那、爆発するように人型ははじけ飛び、その中からねじくれ、歪み、膨れ上がる、一時も形を留めることの無い沸騰する”混沌”が溢れ出た。


 その、溢れ出しあらゆる物を蹂躙せんと吠え猛けり荒ぶる混沌の中心で阿座亮は安堵の吐息をついた。


《前回の時は転位が間に合わなくて弾けた衝撃で第五惑星を壊しちゃったからなあ》


 今では砕かれた無数の小惑星とデブリの溜まり場と化したかつての顕現場所が脳裏に浮かぶ。


《さらにその前は意識を失ってたお陰で渦巻銀河一つ潰すほど膨張してたらしいし》


 最初にこの玉座を離れた時の大失敗まで連想的に思い出してしまう。


《これしか僕の存在に耐えられないとは言え、もう少し何とかならないのかなあ。危なくて仕方がない。”混沌”だから制御しにくいし……》


 自らをすっぽりと包み隠して世界を亮の存在から保護する”混沌”を内側から弄りながら亮は独りごちた。


《御具合は如何ですか、阿座様?》


 過去の失敗に思いを馳せていた亮の意識を引き戻したのは、感じ慣れた思念だった。


《有り難う、ナイアさん。お陰で今回は帰還が間に合ったよ》


 亮の前には、余所行きの姿からこの場所での姿──黒一色のメイド服・ヴィクトリアン・スタイル+目元まで覆う前髪──に切り替えた彼の忠実なる使者たるナイアルラトホテップの姿があった。


「お帰りなさいませ、阿座様」「阿座様、肝心な時に私のヴェールが破れてしまい、申し訳ありません」


 ナイアルラトホテップに続いて姿を現したのは、虹色の球体をいくつも周囲に漂わせ、襟元、袖口、ベルトのバックル、ブーツの飾りに同じく虹色の球体をあしらった、白い長袖のブラウスの上に緋色の袖無しのベストを羽織った、宇宙そのものを宿すロングスカートと髪を持つ十六、七歳に見える痩身の少女──”門にして鍵”として亮の転位全てを司る偉大なるヨグ=ソトース──、そして、プリーツごとに色が異なる七色のプリーツスカートに白く輝くブラウス、刻一刻と髪型と色を変える髪を持つ十二、三歳に見える少女──亮の纏う混沌の衣を覆い隠す(ヴェール)を管理する”ヴェールを剥ぎ取るもの”ダオロス──の、亮の外出に欠かすことのできない二柱の存在であった。


 ヨグ=ソトースはいつも通り微笑を亮に向け、それに対してダオロスは恐縮しきった様子で頭を下げる。  


《ヨグさんもいつも有り難う。本当に感謝してます。ダオロスさんも頭下げないで。元々が無茶なお願いなので、謝られるとむしろこっちが困ります》


 ナイアルラトホテップを通じて帰還をねぎらう、二柱に亮は感謝の意を表した。この二柱の力が無ければ亮はあの惑星を訪れることなど不可能なのだから。


《これは僕の我が儘だから。むしろ我が儘に付き合ってくれて有り難うございます》


 そう、”世界”が”宇宙”が亮の存在に耐えられないのであれば、この時と空間が果てる場所でじっとしていれば良い。何も苦労して”混沌”を身に纏い、死を免れ得ぬ者達の認識を遮るヴェールを被ってまであの惑星で知的生命体の営みを実感したいというのは、亮の我が儘でしか無いことは、亮自身がよくわかっていた。

 しかし、だからといってこの殺風景というかそもそも風景すら存在しない世界の果てで、冒涜的な戯言を喚きながら世界が終わるまでのたうっているというのもおよそ亮に耐えられる話でもない。


《下らぬ事でお悩みになる必要などありませんのに》


 亮の思念を受け止めることができるただ二柱の存在の片割れ──情動と欲求に応える忠実にして強壮なるナイアルラトホテップが亮の迷いに水を差した。


《阿座様はご自分の望むがままに振るわれませ》


《ヨグーソトース様も、ダオロスも》


 ナイアルラトホテップは亮の懸念を両者に伝えながら思念を続ける。


《阿座様の要求に応えることを喜びこそすれ、厭いなどしませぬよ》


「左様です、この身は全て阿座様のもの」「お役に立てることこそ私の喜びです!」


 打てば響くようにヨグーソトースとダオロスの応えが重なる。


《それに、あまりご自身を押さえられると、弾けた時にこの宇宙を破壊してしまいますよ?》


 ナイアルラトホテップは口元に笑みを浮かべた。


《ノーデンスはまた色々と申し上げるでしょうが、私は阿座様はもう少し我が儘に振る舞われるべきだと思っております》



 深淵にて



「やれやれ、これだからナイアルラトホテップなどに任せてはおけぬのだ」


 四肢の爪を大地に突き立てて、自らが抉り抜いた大地を穿つ深い穴の中で精神を灼く苦悶に身悶えるアヴェラストゥナルの姿を、アストラルの海と夢の狭間、現実の彼方の大いなる深淵から見下ろして厳正なる深淵の主が呟いた。


「主殿の優しさに危うくあの惑星どころかあの星系まで危険に晒しおって。ヨグ=ソトース奴も”あの方”の行動を巻き戻すことは能わぬのだぞ」


 亮の理性より生まれた”裁断者”は冷徹にそう評した。


「主殿の意向に追従するしか能のない戯けが」


 次いで何から何まで正反対の自らの双子の姉妹について吐き捨てると、そのままアストラルの海の澱みの底へ意識を伸ばす。


「ハイドラよ、お主に頼みがある」


「これは珍しい。ノーデンス殿が私ごときに御用とは」


 呼びかけに答えた”声”には軽い疑問と状況を楽しむような響きが籠もっていた。


「ナイアルラトホテップの奴が”あの方”を定命の者の攻撃に晒しおった」


「……それで、どこかの恒星系でも無くなりましたか? それとも今回は銀河かな?」


 呆れたような気配。


「辛うじて”帳”が消える前に玉座への帰還が間に合うたよ」


 ノーデンスは苦々しげに告げた。


「それは重畳」


「よく言うわ、死を免れざる者がどうなろうと気にも止めぬくせに」


「これは心外な仰せ」


 ”声”は響きを僅かに変えた。


「私とて”あの方”がこの宇宙を維持しようとなされていることに感謝しておりますよ。それに」


 ──そこに込められたのは畏怖と敬意、そして──


「何より、首を狩るのは私の生き甲斐ですから。獲物が減るのはいささか耐えがたいものがある」


 大いなる愉悦。


「困ったものよ。しかし、今はそれが役に立つという訳じゃな」


「では?」


 あからさまに喜びを表した気配にノーデンスは厳かに告げた。


「あの世界に住む者達にも判断の材料が必要であろう。儂が道を拓く故、速やかに至りて汝の為すべき事を為せ」


「確かに承りました」


「これで一つは片付いた、が」


 ノーデンスは銀の右手で顎を押さえた。


「もう片方は僕に任せてもらえないかな?」


「お主か、クァチル・ウタウス」


 愛用の銀に青い宝石をあしらった三叉戟を片手に視線を向けたノーデンスの前に、腐敗と老化の支配者、クァチル・ウタウスの姿があった。ノーデンスの眼には、艶の失われた無造作に伸ばした白い髪に骨と皮ばかりのその身体を白い貫頭衣に包んだ少女に映る”それ”が、顕現した際にはどれほど危険な存在か、外なる神々の監察官としてノーデンスは熟知していた。


 だが、


「よかろう、お主に任せるとしよう」


 ノーデンスはあっさりと頷いた。


「いいのかい? 僕が力を振るっても。いつもは君が邪魔するのにさ」


 逆にクァチル・ウタウスの方が怪訝そうに問いかける。


「ヨグ=ソトース辺りに出張られて存在を遡って抹消されては教訓にならんからの」


 それにあっさりと答えたノーデンスは付け加えた。


「その代わり、一匹は残しておけ」



 龍王の狩り場



 アヴェラストゥナルは自らが掘り返した穴から這い出て未だ煮えたぎり、燻り続ける大地の上に身体を投げ出した。巨岩を砕き、苦も無く山脈を削る彼にとって、たかが己の身体を僅かに持ち上げること、それが今では途方もない労苦に変じていた。


 ──寒い。


 未だに燻る余燼の中で一息つこうとして、アヴェラストゥナルは奇妙な冷気を感じた。龍である彼を、この未だ熱気に覆われた大地の上で震えさせる冷気を。

  そして、何かが自らの上に影を落としていることに気付いて見上げ──再び絶叫した。

 ”それ”はまるで地上に現れた月のように見えた。青白い輝きを放つ、太陽を覆い隠す巨大な球体。だが、月の強固な大地と異なり、その表面は青白い燐光を放つ波打つ原形質に覆われており、何よりもおぞましいことに原形質の大地からは無数の生物の首が生えていた。人間らしき首があった、昆虫らしき複眼の首があった、溶け崩れた異形の首が、骨と皮だけの首が、光を放つ高次の存在の首が、およそ龍族の誰もが夢に見たことすらない無数の種族の首が数えることを諦めるほど無秩序に”月”の表面から付き出している。

 そして、全ての首が永劫に続く苦悶と怨嗟の表情を浮かべてアヴェラストゥナルを見下ろし、彼のこれから辿るべき運命を無言のままに告げていた。


 ──嫌だ!


 ”偉大なる龍王”、”並ぶ者の無き勇者”、”神々を怯えさせる者”は自らの上からのし掛かってくる”月”を前に生まれたての雛の様に泣き喚いた。あんな目に遭うのは嫌だ、いっそ殺してくれ、と。

 だが、彼が実際に言葉にできたのはたった一言だけだった。


「母上!」


 血を吐くような一言に尽きることのない絶望と苦悩を残してアヴェラストゥナルはおぞましい原形質の海に沈み──やがて無数の首の林の中に加わった新たな苦悶と絶望の表情を浮かべた新たな首と、大地に横たわるこの世の物ならざる原形質がこびりついた首を失った巨大な龍の屍体だけが残された。



 龍の庭園



 物質と精神を繋ぐアストラルの海に浮かぶ無数の小世界の一つ、龍の女王が統べる”龍の庭園”は多種多様な激しく、鮮やかな地形と自然によってアストラルの海の航海者達に知られている。

 その主の気性や、そこに棲む住人達──選ばれた強力な龍達──を写し取ったように、氷龍が群れる大氷河から、火龍が鎬を削る大火山群、焼け付き・凍てつく広大な砂丘に切り立った岩礁が龍達の牙のように突き立ち、そのまま深みへ誘う島嶼地域に至るまで、この地の自然は雄大かつ厳しい。

 その最も高き頂、深海よりそのまま天空に突き立つ最高峰に、龍の女王の白亜の居城があった。

 雲の上に聳える故に屋根を持たず、外敵を恐れぬ故に壁を持たぬ、ただ林立する白亜の巨柱と、その間に居並ぶそれぞれの龍の頂点に位置する者達、この星の神々全てが羨望して止まぬ無造作に積み上げられた”龍の財宝”の数々、そして、数多の龍を従え、自らの財宝の山を座所とする龍の女王こそがこの巨城の構成要素であった。 


「妾のアヴェラストゥナルが討たれた!」


 その列柱の間に、雷霆のような怒りが轟き渡り、若き龍エクスクロピオスは翼を畳んで頭を地面に擦りつけた。その聡明さを買われて女王付きの小姓に抜擢されたとはいえ、齢五百に足らぬエクスクロピオスにとって、初めて目の当たりにする女王の怒りはあまりにも苛烈だった。蹲ったまま、女王の怒りを何とか耐え凌ぐエクスクロピオスの頭上を、女王の言葉が雷鳴の如く轟き渡る。


「我が息子が! 妾にもっとも富と領土をもたらした愛し子が! 許さぬ、許さぬぞ! 我が子に手を出した者よ! それに相応しい報いを与えてやろう」

 

 城に居た全ての龍が女王の怒りに震え、滴り落ちる暗黒龍の毒液のような呪詛の言葉に、エクスクロピオスは心の底から震え上がり、その身を磨き抜かれた白亜の床にへばり付けた。


「何者かは知らぬが楽には殺さぬぞ、この世のありとあらゆる苦しみを味合わせて、殺してくれ、と哀願させてくれ」


 唐突に女王の言葉が止まり、エクスクロピオスは床にへばり付いたまま恐る恐る目を開いた。


 ”それ”は遥か天空より差し込む一筋の冷たい光に乗って現れた。どこか途方もない遠く、おそらく龍族の誰もが行き着くことのない彼方から、歳月と、腐敗と、滅びを携えて。

 その光は女王の七色の鱗を輝かせることなく、女王と財宝、そして両者を守るべく周囲を固めていた選り抜きの勇者達の上に降り注いだ。


 エクスクロピオスは呼気を止めた。冷たい光の中で、龍族選り抜きの偉大な龍達は、見る間に色艶を失い、衰え、老い、皺枯れ、朽ち、一握の灰色の塵となって磨き抜かれた床の上にこぼれ落ちた。

 いや、龍達だけでは無く、その床も、列柱も、そして財宝すら──贅を尽くした星の糸で織り上げられた龍の栄光を描いた褪せぬタペストリーも、星を鍛え上げて造られた龍殺しの魔剣も、いかなる刺突も食い止める女神の盾も、叡智を極めた星墜としの魔法書も、着用者をあらゆる不運から守る魔除けも、黄金も、白金も、ダイヤも、ルビーも、ミスリルも、アダマンティンも、魔法の防護も、神の加護も、材質も、保護も、秘められた力も問わず、悉くが一塊の塵と化し、そして風に掠われて消えた。

 全ての言葉と思考を凍り付かせたエクスクロピオスの前で、”光に乗って現れたもの”──出来損ないの木彫りのミイラ──両手を前に差し出し、両足を揃えて硬直させた、網目状の模様だけが存在する頭部を持った”何か”は微動だにしない女王にその硬直した手で触れ


 ……かつて女王であった一握の灰をその動くことのない脚で踏みしめていた。



ゴルディアスの洞窟



 アレクサンドロスは満身創痍になりながらも、自らの血に塗れた剣を握り直した。森妖精(アルサケス)の魔術が秘められた紫のマントは既に難破船の帆のようにはためく襤褸切れへと姿を変え、真銀造りの盾は割れ砕けた。身を守って致命傷を避けてきた山妖精(スキティア)自慢の堅固な鎧ももはや守りの用をなさぬ。

 しかし、そんな状況であってもまだ少年の域を脱していない若すぎる王の闘志は些かも減じていなかった。

 対するゴルディアスも、右の翼を半ばから断たれ、左の目は光を失い、後ろ脚は既に身体を支えることができぬ。

 先に動いたのはゴルディアス、放射状に放たれた氷結の吐息に間髪入れず下半身を捻っての尾の一撃。

 しかし、あまりにも大きな動きはその動きを読むロクサネと王にとっては苦も無く回避できると思われた。


『右に!』


 耳に付けた耳飾りから響くロクサネの声に、王は咄嗟にに身体を右に投げ出した。氷結した洞窟の床から生じた、無数の氷の刃を左足の足首を犠牲に何とか躱す。辛うじて転がった王の足首は凍り付き、もはや王の身体を支えることが能わぬのは鏡を通して王を見守るロクサネにも、下半身を捻ったことで仰向けに倒れ込んだゴルディアスのもたげた首からも見て取れた。


『龍が、魔道具を使うなんて……』


 呆然とロクサネは呟いた。視線の先、遠見の鏡に映るゴルディアスの巨大な右手には、その右手に不釣り合いな魔道具──冷気の魔術を込めた魔道杖が握られていた。その先端に填め込まれた蒼白の宝石はその輝きを失い、先程の一撃が最後の魔力を振り絞ったものであることを伝えていた。


 しかし──絶望的な思いでロクサネは愛しき王に視線を向けた。先程までロクサネの指示に従い、ゴルディアスの攻撃を避けていた王の姿はそこにはない。辛うじて右膝立ちで身体を支える重傷者の姿だけがあった。


 ──自分の所為だ。ロクサネはそれだけを思った。ゴルディアスの動きを読むのが役目の自分、その自分が”眼”を過信してゴルディアスの切り札を見過ごした。だから王が──


『ロクサネ、指示を頼む。この状態だと後一、二回しか動けん』


 ロクサネの意識を引き戻したのは、太々しいほど落ち着いた王の言葉だった。王はこの期に及んでも些かも勝利を疑っていなかった。


『わかりました』


 ロクサネは頷いた。勝利を確信したのか、それとも先程の動きに無理があったのか、ゴルディアスの動きも鈍い。食い入るようにロクサネは龍の動きを見つめた。上半身の力で身体を起こし、再び氷結の吐息のために息を吸い込もうとして、ゴルディアスは動きを止めた。


『何なの?』「何だ?」


 ロクサネとアレクサンドロスの視線の先で、ゴルディアスは頭をあらぬ方に向け、長々と咆哮を上げた。無限の喪失と哀しみと絶望を含んだ声がゴルディアスの洞窟に反響し、外で吉報を待つ人々の耳と心を揺さぶった。


『心臓を、王!』


 だが、ロクサネは心を動かさなかった。王の勝利のために、ただそれだけを見据えてロクサネは王に告げ、王はその言葉に従った。

 そして、自らの心臓を渾身の力を込めた名剣で貫かれ、朽ち木のように倒れるその時まで、ゴルディアスは石と化したように動かなかった。


『勝ちましたね! 王!』


「こやつ、死んでおったな」


 ゴルディアスの息が絶えたのを確かめて身体を起こし、傷消しの薬液を左足に振りかけ始めた王にロクサネは声をかけ、それに王は静かに応えた。


『え?』


「こやつの心は、余に討たれる前に既に死んでいた。……何があったのか」


 痛ましげに王は息絶えたゴルディアスを見下ろし、そして顔をしかめた。


「すまぬが、外の連中を呼んでくれ。できれば治療術の使い手をな」



龍の庭園



 深い沼の底から藻掻きながら浮き上がるようにエクスクロピオスは目覚めた。世界の全てを背負ったような重みと倦怠感の中、辛うじて首を伸ばして我が身を省みた。

 そこにあったのは、およそ年若い龍だったとは思えぬほどに変貌した自らの姿。鱗は色褪せて萎び、翼の皮膜はぼろぼろに破れて辛うじて残滓が枯れ枝のような骨にへばり付き、鋭かった爪は摩耗しきってひび割れた貝殻のように白く濁っていた。

 しかし、何よりも恐ろしかったのは、自らの背骨が拗くれ、歪み、もはや以前の俤すら残さぬほど身体全体が歪みきってしまったことであった。もはや以前の自分を知るものでも、今の自分を見て昔の自分と結びつけることはできぬだろう。途方も無く恐ろしい何かが、腐敗と歳月を持って年若い龍を老い朽ちた龍のカリカチュアに押し込めてしまったのだ。

 エクスクロピオスは意のままに動かぬ歪みねじれた右半身を引き摺りながら、彼らの女王が居た場所に近づいた。かつてこの世の富を全て集めたような玉座は、もはや辛うじて残る列柱の残骸が立ち並ぶ風化して朽ちかけた塵の溜まり場に過ぎず、かつて龍族の栄光全てを担った女王は揃えられた両足によって付けられた足跡──風によって輪郭を失った浅い窪みが残る一握りの灰が残るだけだった。

 エクスクロピオスは唐突に悟った。かつて神々すらも恐れ羨んだ龍族の栄光は終わったのだと。子の生まれにくい龍族を助けていた女王による繁栄の祝福は既に無く、女王の死と共に、龍族は緩やかに衰えて滅びていくのだろう。この生きた宝石のような箱庭──龍の庭園もやがて塵と死と空虚が支配する灰色の世界と化すのだろう、この白亜の巨城の成れの果てのように。

 底知れぬ喪失感と絶望にうちひしがれて、エクスクロピオスは四肢を畳んだ。唯一の生者が彫像のように動きを止めると、廃墟には風の音と塵が風に飛ばされていく微かな囁きだけが残された。




 ──かくて偉大なるアレクサンドロスはゴルディアスの悪龍を打ち倒し、その頸木から諸種族を解き放った。これはただ王の勝利のみに留まらず、龍の時代の終わりと人の時代の開幕を告げる勝利であった。

 愛し子ゴルディアスを失った龍の女王は悲嘆のあまりその命を失い、これにより龍の命運は尽き果てた。世界に残った龍族は、この日に失われた栄光を今も嘆くという。

 しかし、未だ王の遠征は緒に就いたばかりであった。未だ行く手のトラキア、バクトリアは復讐に燃える恐るべき暗黒龍アジ・ダハーカの化身たる蛇王ザッハークが支配してたからである。

 諸種族の融合を謳った王の遠征はこれよりさらなる苦難に晒されるのである。


  アリストブロスのアレクサンドロス大王伝より

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