娘よ
夜。
眠れなかった。
昨日の夕暮れの静けさが——まだ、胸に残っていた。
(……外に目がある)
(中にも——入ってくるかもしれない)
(ガイウスがそう言っていた)
廊下に出る。
月の光が、差し込んでいた。
——
その時。
気配がした。
(……っ)
振り返る。
暗い廊下の奥に——人影があった。
「——!」
人影が——動く。
速い。
(逃げる間が——ない)
(ノイエ——!)
抜く間も——
「——セリスさん!」
声がした。
エルマの声だった。
エルマが——セリスの前に、出た。
「エルマさん——!」
「下がって——!」
エルマが——両手を広げる。
セリスを——庇うように。
暗殺者が——止まる。
一瞬。
(……おかしい)
(私を狙っているなら——エルマさんを避けて来るはずだ)
(なのに)
(あの目は——最初から)
「……邪魔をするな」
低い声。
「退け」
「嫌よ」
エルマが言う。
震えていない。
「この子には——手を出させない」
「……」
「エルマさん、だめ——! 退いて——!」
「退かない」
「でも——!」
「退かないわ」
エルマが——振り返らずに言う。
「この子は——私の娘だから」
「……っ」
暗殺者が——動いた。
迷わなかった。
(……やはり)
「——エルマさん——!!」
音がした。
鈍い、重い音が。
エルマの身体が——傾く。
「——!」
セリスが——駆け寄る。
暗殺者が——窓から、消えた。
「エルマさん——! エルマさん——!!」
抱き止める。
重い。
床に——ゆっくりと、座り込む。
「……セリスさん」
エルマが言う。
「……っ、エルマさん、しっかりして——!」
「……大丈夫よ」
(……大丈夫じゃない)
(全然——大丈夫じゃない)
「誰か——! 誰か来て——!!」
叫んだ。
廊下に——声が響く。
でも。
夜の屋敷は——静かだった。
「……セリスさん」
「……っ、はい」
「……顔を——見せて」
セリスが——エルマを見る。
エルマが——セリスを見る。
その目が——穏やかだった。
「……きれいな顔ね」
「そんなこと——今は——!」
「きれいよ」
エルマが言う。
「……最初に会った時から——そう思っていた」
「エルマさん——!」
「……娘に似ている、と」
「……っ」
「本物の娘に——似ている、と」
エルマの目が——細くなる。
「……よかった」
「何が——何がよかったんですか——!」
「……娘ができて」
「……っ、うっ」
「本当に——よかった」
セリスが——泣いていた。
涙が——止まらない。
「……エルマさん、だめ——! 行かないで——! 誰か——! 助けて——!!」
「……セリスさん」
「……っ、はい」
「一つだけ——聞いてくれる?」
「……っ、はい、はい——!」
エルマが——セリスの頬に、手を当てる。
冷たかった。
でも——温かかった。
「……あなたは」
「はい」
「……私の、娘よ」
「……っ」
「どこへ行っても——そこは変わらない」
「……エルマさん——!」
「戦いなさい」
エルマが言う。
「……復讐じゃなくて」
「……っ」
「守るために——戦いなさい」
「……はい」
「約束して」
「……約束します——!」
「……ありがとう」
エルマの目が——閉じかける。
「エルマさん——! 目を開けて——!!」
「……幸せに」
かすかな声で。
「……なりなさいね」
エルマの手が——セリスの頬から、落ちた。
「……エルマさん」
返事がなかった。
「……エルマさん——!」
返事がなかった。
「……エルマ、さん——」
セリスは——エルマを、抱きしめた。
動かなかった。
温かさが——少しずつ、消えていく。
「……っ、あ、ああ——」
声にならない声が——出た。
廊下に——一人だった。
月の光が、差し込んでいた。
静かだった。
さっきまで——エルマがいた場所に。
今は——セリスだけが、いた。
「……っ、うっ、うわあああああ——!!」
叫んだ。
誰も——来なかった。
誰も——いなかった。
ただ。
月だけが——静かに、照らしていた。
——
どれほど時間が経ったか。
セリスは——エルマを抱いたまま、床に座っていた。
涙は——もう、出なかった。
出し尽くした。
(……エルマさん)
(娘よ、と言ってくれた)
(帰る場所を——作ってくれた)
(なのに)
(私が——守れなかった)
(……あの時)
(暗殺者は——本当に、私を狙っていたのだろうか)
(エルマさんが出てきた時)
(迷わなかった)
(まるで——最初から、そこにいることが分かっていたように)
(……分からない)
(でも——何かが、引っかかっている)
ノイエが、鞘の中で——低く鳴った。
何も言わなかった。
ただ——鳴った。
(……戦いなさい)
(復讐じゃなくて)
(守るために)
(それが——エルマさんの最後の言葉だった)
セリスは——ゆっくりと、立ち上がった。
エルマを——床に、静かに横たえる。
「……行ってきます」
かすかな声で。
「……必ず——帰ってきます」
返事は——なかった。
でも。
月の光が——少し、揺れた気がした。
廊下に——一人で、立っていた。
夜が——まだ、続いていた。




