母の話
翌日。
約束通り——
セリスは、あの部屋に来た。
エルマが、すでに椅子に座っている。
お茶が、二つ。
「来てくれたわね」
「……参りました」
「座って」
セリスが、向かいに座る。
窓の外。
今日は——曇っている。
山の稜線が、霞んでいる。
「……曇ってますね」
「そうね」
エルマが、窓を見る。
「曇りの日も——嫌いじゃないのよ」
「どうしてですか?」
「静かだから」
「晴れの日は静かではないのですか?」
「晴れの日は——なんだか、動かなきゃいけない気がするでしょう」
「……そうかもしれません」
「曇りの日は——じっとしていていい気がするの」
セリスが、窓を見る。
(……そういう考え方も、あるのか)
「……セリスさんは、曇りと晴れ、どちらが好き?」
「……晴れの方が好きです」
「どうして?」
「……見通しが良くなるので」
エルマが——少し、笑う。
「あなたらしいわ」
「そうですか?」
「ええ」
「……エルマさんらしい、とはどういうことですか?」
「正直で——実用的」
「……褒めているのですか?」
「褒めてるわよ」
「……ありがとうございます」
——
しばらく、お茶を飲んだ。
「……セリスさん」
「はい」
「お母様のことを——聞いてもいい?」
セリスが——少し、止まる。
「……幼い頃に亡くなりましたので、あまり覚えていません」
「そう」
「……エルマさんは、お母様のことを覚えていらっしゃいますか?」
「ええ」
エルマが、カップを持つ。
「厳しい方だったわ」
「厳しい?」
「皇族の女として——あるべき姿を、徹底的に叩き込まれたの」
「……辛かったのですか?」
「辛かったわよ」
エルマが、少し笑う。
「でも——今は、感謝してるの」
「どうしてですか?」
「あの頃に叩き込まれたものが——今の私を作っているから」
「……」
「厳しかったけれど——愛されていたのは、分かっていたから」
セリスが、その言葉を聞く。
(……愛されていた)
(幼い頃から——分かっていた)
「……いいですね」
「え?」
「……分かっていたというのが」
エルマが、セリスを見る。
「お母様のこと——覚えていないの?」
「ほとんど」
「……どんな方だったか、聞いたことはないの?」
「……父は——あまり話したがりませんでした」
「そう」
「……悲しかったのだと思います。だから」
「そうね」
エルマが、カップを置く。
「……私が話しましょうか」
「え?」
「あなたのお母様のことを——私は、少し知っているから」
セリスが——止まる。
「……知っているのですか?」
「ええ。皇族同士の交流があったから——何度か、お会いしたことがあるの」
「……どんな方でしたか?」
エルマが、少し考える。
「……静かな方だったわ」
「静かな?」
「ええ。あまり多くを語らない。でも——いる場所が、温かくなる方」
「……」
「あなたに——少し、似ているかもしれないわね」
「私がですか?」
「ええ」
エルマが、セリスを見る。
「あなたも——いる場所が、温かくなるから」
セリスが——何も言えなかった。
(……母が)
(私に、似ている)
「……笑顔が、素敵な方だったわ」
エルマが続ける。
「めったに笑わないのだけれど——笑った時に、周りが明るくなるような」
「……そうですか」
「あなたも——そうよ」
「私は——あまり笑いませんので」
「だから——笑った時が、より一層ね」
セリスが、カップを持つ。
(……母は)
(笑顔が素敵だった)
(父が——話したくなかった理由が)
(少し、分かる気がした)
「……ありがとうございます」
「何が?」
「……話してくださって」
「こちらこそ」
エルマが言う。
「あなたのお母様のことを——誰かに話せたのは、久しぶりだから」
「……エルマさんも、覚えていてくださっているのですね」
「もちろんよ」
エルマが、窓を見る。
「素敵な方だったから——忘れられないわ」
その言葉が。
胸の奥に——静かに、落ちた。
——
しばらく、沈黙が続いた。
悪い沈黙ではなかった。
「……セリスさん」
「はい」
「一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「今——怖い?」
セリスが、少し考える。
「……何が、ですか?」
「全部」
「……」
「これから先のことが——怖くない?」
セリスが、窓を見る。
曇り空が——広がっている。
「……怖いです」
「そう」
「怖くない、とは言えません」
「そうね」
「……でも」
「でも?」
「止まれないので」
エルマが——セリスを見る。
「止まったら——どうなると思う?」
「……立てなくなる気がします」
「そう」
「動いていれば——まだ、前を向いていられるので」
エルマが、少し頷く。
「……強いわね」
「強くないです」
「強くない人は——そんな言葉、出てこないわよ」
「……」
「怖いって、ちゃんと言えるのも——強さよ」
セリスが、エルマを見る。
その目が——真剣だった。
「……エルマさんは、怖くないのですか?」
「怖いわよ」
「何が?」
エルマが——少し、間を置く。
「……大切なものを、失うことが」
「……」
「この屋敷も。あの人も。ここにいる人たちも」
エルマが、窓を見る。
「……全部、なくなってしまう日が来るかもしれないと思うと」
「エルマさん——」
「でも」
エルマが、セリスを見る。
「あるうちは——ちゃんと、大切にしようと思っているの」
「……今を、ということですか?」
「そう」
「……難しいですね」
「難しいわよ」
エルマが笑う。
「でも——あなたがいてくれると」
「私が?」
「……なんか、できそうな気がするのよ」
「……どうしてですか?」
「さあ」
エルマが、カップを持つ。
「あなたが——一生懸命だから、かしら」
「一生懸命なのは——追い詰められているだけです」
「だから、いいのよ」
「……?」
「一生懸命な人を見ると——こちらも、ちゃんとしなきゃと思うでしょう」
「……そういうものですか」
「そういうものよ」
エルマが、立ち上がる。
窓際に歩く。
曇り空を——見上げる。
「……セリスさん」
「はい」
「一つだけ、お願いがあるの」
「何でしょう」
エルマが——振り返る。
「……生きて」
「え?」
「何があっても——生きて帰ってきて」
セリスが、エルマを見る。
その目が——真剣だった。
笑顔の下に。
怖がっているものが——見えた。
(……エルマさんは)
(私が——死ぬことを、怖がっている)
「……なぜですか?」
「なぜって——」
エルマが、少し困った顔をする。
「あなたのことが——心配だから」
「まだ、会って数日ですよ」
「そうね」
エルマが、窓の外を見る。
「……でも」
少し、間があった。
「娘みたいだと——思ってしまったから」
その言葉が。
空気を——変えた。
セリスが。
何も言えなかった。
(……娘)
(この人が——そう言った)
「……おかしいかしら」
エルマが言う。
「……おかしくない、です」
「そう」
「……おかしくないです」
もう一度、言った。
今度は——少し、違う声で。
エルマが——セリスを見る。
その目が、細くなる。
「……泣きそうな顔をしてるわよ」
「泣いていません」
「そうね」
「……泣いていませんから」
「分かったわ」
エルマが——セリスの隣に来る。
そっと、頭に手を置く。
「……生きて帰ってきなさい」
「……はい」
「約束よ」
「……約束します」
エルマが、手を離す。
「お昼にしましょう」
「……はい」
「今日は——何が食べたい?」
「……なんでも」
「なんでも、は答えになってないわよ」
「……では」
「では?」
セリスが——少し、考える。
「……温かいもの、が——いいです」
エルマが、笑う。
「そうね」
「……曇りの日は」
「そうね」
二人で——廊下に出る。
曇り空が、窓の外にある。
(……娘みたいだと)
(思ってくれている)
(この人が)
胸の奥が——温かかった。
それが。
怖いような。
嬉しいような。
(……どちらでも)
セリスは思う。
(同じことだ)
廊下を——二人で歩いた。




