距離
翌日。
朝食が、終わった後。
エルマが言う。
「今日——暇かしら?」
「……特に予定はありません」
「じゃあ、一緒に来て」
どこへ、とは言わない。
ただ立ち上がって——歩き出す。
セリスが、後をついていく。
——
連れて行かれたのは——屋敷の奥の部屋だった。
日当たりのいい、小さな部屋。
窓際に、椅子が二脚。
小さなテーブル。
「ここ、好きなの」
エルマが言う。
「朝はここでお茶を飲むの。一人で」
「……邪魔ではありませんか?」
「邪魔なら呼ばないわよ」
エルマが、セリスを見る。
「座って」
セリスが、向かいの椅子に座る。
使用人がお茶を持ってくる。
二人で——お茶を飲む。
しばらく、何も言わない。
窓の外。
山の稜線が見える。
空が青い。
「……きれいですね」
セリスが言う。
「そうでしょう」
エルマが、窓を見る。
「最初にここに来た時——この景色を見て、ここに住もうと思ったの」
「それだけで?」
「それだけで」
「……思い切りがよろしいのですね」
「そうかしら」
エルマが、カップを持つ。
「あなたも——思い切りのいい方だと思うけれど」
「私は——追い詰められて動いているだけです」
「それでも——動いているでしょう」
「……そうですね」
「同じことよ」
エルマが言う。
「理由なんて——後からついてくるものだから」
セリスが、エルマを見る。
「……エルマさんは、どうして公爵と結婚されたのですか?」
「あの人と?」
「昨日——廊下で、緊張とは違ったとおっしゃっていたので」
エルマが——少し、笑う。
「聞いてたのね」
「……聞いていました」
「正直ね」
「……あなたが正直な方が好きだと思いましたので」
エルマが、声を出して笑う。
「まあ」
「違いましたか?」
「違わないわ」
エルマが、カップを置く。
窓の外を見る。
「最初に見た時——もうこの人と結婚すると思ったの」
「……一目惚れ、でしょうか」
「そうよ」
「……おかしくはないですか?」
「変かしら」
「変ではないと思います」
セリスが言う。
「……一目惚れとは、どういう感じなのですか?」
「あなたはないの?」
「……ありません」
「そう」
エルマが、少し考える。
「うまく言えないけれど——」
「はい」
「世界が、急に静かになる感じかしら」
「静かに?」
「ええ。周りの音が全部消えて——その人だけが、見えるの」
セリスが、その言葉を聞く。
(……そういうもの、か)
「公爵は——エルマさんに気づいていらしたのですか?」
「最初は全然」
エルマが笑う。
「だから——私から声をかけたの」
「エルマさんから?」
「ええ」
「……押し切られたのですか?」
「押し切ったわ」
「……大胆ですね」
「あの人は——正面から来ないと動かないから」
エルマが言う。
「今でもそう。いつも言葉が足りない」
「……昨日も」
「昨日も」
エルマが、少し苦笑いする。
「でも——」
少し、間があった。
「……言葉が少ない分、言う時は本当のことしか言わないの」
「……だから信用できる、と」
「だから——好きなのよ」
静かに言う。
その言葉が。
どこか——遠くから来た言葉のように聞こえた。
——
しばらく、二人で窓の外を見た。
「……セリスさん」
「はい」
「ご家族は——いらっしゃるの?」
「いません」
「……そう」
「父は——死にました。母は、幼い頃に」
「……そうなの」
「兄弟もいません。一人っ子でしたので」
「……寂しかった?」
セリスが、少し考える。
「……慣れていましたので」
「慣れていた、と寂しくない、は——違うわよ」
「……そうですね」
「正直に言って」
「……寂しかったと思います。今になって、やっと分かります」
エルマが、セリスを見る。
「今になって?」
「……仲間ができてから」
「そう」
エルマが、頷く。
「比べるものができると——やっと分かることがあるのよね」
「……エルマさんは?」
「私は——賑やかな家だったわ」
「ご兄弟が多いのですか?」
「ええ。一番上の兄と——ケルドリック兄様と。私は末っ子で」
「……賑やかだったのですか?」
「賑やかだったわよ」
エルマが、窓を見る。
「一番上の兄は——もういないけれど」
「……亡くなられたのですか?」
「ええ」
エルマが、カップを置く。
「ケルドリック兄様が即位される少し前に——亡くなってしまってね」
「……それで、ケルドリック陛下が即位されたのですか」
「そうなの」
エルマが、カップを置く。
「突然のことで——みんな、驚いたわ」
少し、間があった。
「ケルドリック兄様も——随分、悲しんでいらしたから」
「……エルマさんも」
「ええ」
エルマが、窓の外を見る。
「今でも——時々、思い出すわ」
少し、間があった。
「あの人なら——どんな皇帝になっていたかしら、って」
その言葉が。
静かに——落ちた。
(……長兄が皇帝になっていたら)
セリスは、その言葉の重さを感じた。
(……今の帝国は、違っていたかもしれない)
(ノイエ)
(……何も言えません)
(そう)
ノイエが——黙っている。
その沈黙が。
何より、雄弁だった。
「……エルマさん」
「なに?」
「会いに行けないのですか? ケルドリック陛下に」
エルマが——少し、間を置く。
「……会えるわよ」
「では」
「でも——」
エルマが、カップを持つ。
「最近の兄様は——少し、変わってしまったから」
「変わった?」
「……うまく言えないけれど」
エルマが、窓を見る。
「昔の兄様は——もっと、目が温かかったの」
その言葉が。
(……目)
セリスの胸に——引っかかった。
(ノイエ)
(……記憶しておきます)
(ええ)
「……弟さんのことが、心配なのですね」
「そうね」
エルマが、少し笑う。
「妹というのは——そういうものよ」
「……私には分からないですが」
「いつか分かるわよ」
「……どうやって?」
「誰かを——大切に思えば」
静かに言う。
その言葉が。
どこか——今のセリスには、遠かった。
——
「……エルマさん」
「なに?」
「一つ、聞いてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「公爵の本当の目的——ご存じですか?」
エルマが——少し、間を置く。
「……少しは」
「全部は?」
「……全部は、知らないわ」
「怖くないのですか?」
「何が?」
「知らないのに——一緒にいることが」
エルマが、セリスを見る。
その目が——真剣だった。
「……あなたは」
「はい」
「好きな人の全部を知らないと——一緒にいられないの?」
「……」
「全部知っても——怖いことはあるわ。全部知らなくても——信じられることもある」
「どうやって判断されるのですか?」
「……その人が、何を大切にしているかを見るの」
「何を大切に?」
「あの人は——」
エルマが、窓の外を見る。
「……人が死ぬことを、一番嫌う」
「……そうですか」
「それだけで——私には十分よ」
セリスが、その言葉を聞く。
(……人が死ぬことを、一番嫌う)
(公爵が)
(ノイエ)
(……事実です。公爵の言葉に嘘はありません。今のところ)
(今のところ、ね)
(……はい)
「……エルマさん」
「なに?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「……話してくださって」
エルマが、少し首を傾げる。
「こちらこそよ」
「私は——あまり話せませんでしたのに」
「十分よ」
「……そうでしょうか」
「聞いてくれる人って——いそうで、いないのよ」
エルマが笑う。
「あなたは——ちゃんと聞いてくれるから」
「……そんなことは」
「そんなことあるわ」
「……」
「正直ね、本当に」
エルマが立ち上がる。
「お昼はここで食べましょう。もう少し、話しましょうよ」
「……よろしいのですか?」
「だから——暇なの?って聞いたでしょう」
「……そうでしたね」
セリスが、少し笑う。
エルマが——その笑顔を見て。
「まあ」
「何でしょう」
「笑うのね、あなたも」
「……笑いますよ」
「そうね」
エルマが、窓の外を見る。
「よかった」
「何が?」
「……笑えるうちは、大丈夫だから」
その言葉が。
胸の奥に——静かに、落ちた。
——
昼過ぎまで。
二人で、話した。
大した話ではない。
好きな食べ物。
昔見た景色。
子供の頃に怖かったこと。
他愛のない話ばかり。
それでも——
(……温かい)
セリスは思った。
(こういう時間が——あるのか)
(戦いの外に)
(まだ)
夕方。
部屋を出る時。
「またね」
エルマが言う。
「……また来てもよろしいですか?」
「来ていいわよ」
「……では」
「では?」
「……また、参ります」
エルマが、嬉しそうに笑う。
「待ってるわ」
廊下を歩く。
(……エルマさん)
セリスは思う。
(この人は——信用できる)
公爵への判断は——まだ保留だ。
でも。
(この人だけは)
(最初から——信用できる)
それが。
なぜかは——分からなかった。
でも。
確かだった。




