エルマ
馬車の扉が開いた瞬間——
冷たい空気が、入ってきた。
山の空気だった。
澄んでいて。
少しだけ——痛い。
セリスが降りる。
広大な中庭。
石畳が、整然と続いている。
使用人たちが、両側に整列している。
誰も、声を出さない。
ただ——頭を下げる。
(……大きい)
セリスが、屋敷を見上げる。
石造りの壁が、高い。
蔦が、絡まっている。
塔が、空に向かって伸びている。
「……思ったより、ずっと大きいわね」
「公爵家だから」
ライラが隣で言う。
「帝国三公爵家の一つよ。これくらいは普通」
「……普通じゃないわよ」
「——お待ちしておりました」
声がした。
さっきの女性が、前に出る。
四十代後半。
黒髪。
温かな目。
だが——どこか、凛とした佇まい。
「エルマ・フォン・ヴェストファーレンと申します」
「……公爵夫人?」
「そうです」
エルマが、セリスを見る。
じっと——見る。
「……思っていたより、若い」
「……よく言われる」
「そうでしょうね」
エルマが、少し笑う。
作った笑いではなかった。
「疲れたでしょう。中へどうぞ」
「……公爵は?」
セリスが問う。
「主人は後ほど。まず——休んでください」
「話があるんだけど」
「話は、食事の後で」
「でも——」
「食事の後で」
有無を言わせない口調だった。
でも——怖くはなかった。
「……分かった」
セリスが言う。
部屋に案内される。
広い部屋だった。
暖炉に火が入っている。
ベッドが、大きい。
窓から——山が見える。
「……久しぶりね」
メイラが言う。
「何が?」
「ちゃんとした部屋」
「……そうね」
「ベッドが……ふかふかです」
メイラが、少しだけ頬を緩める。
ガイウスが「油断するな」と言う。
「分かってる」
「罠かもしれない」
「ガイウス」
「なんだ」
「少しだけ——休んでいいわよ」
ガイウスが「休まない」と言う。
「頑固ね」
「……俺は見張りをする」
「一人で?」
「ヴォルフに頼む」
セリスが「ありがとう」と言う。
ガイウスが何も言わない。
ただ——耳が、わずかに赤かった。
夕方。
食堂に案内される。
長いテーブル。
燭台の光。
温かい料理が並んでいる。
「……座ってください」
エルマが言う。
全員が席につく。
料理が——温かかった。
スープ。
パン。
肉。
野菜。
「……いつぶりだろう」
リオが言っただろう。
セリスは、その空白を感じながら——
スープを飲む。
(……美味しい)
(リオに、食べさせたかった)
「……セリスさん」
メイラが小声で言う。
「うん」
「……大丈夫ですか」
「大丈夫よ」
「……目が」
「大丈夫」
メイラが、それ以上言わない。
ただ——セリスのスープ皿に、パンをそっと置く。
「……食べてください」
セリスが「ありがとう」と言う。
食事の途中。
エルマが言う。
「……仲間を失ったと聞きました」
全員が、止まる。
「……そうです」
セリスが答える。
「若い方だったと」
「……18歳でした」
エルマが、少し間を置く。
「……名前を、聞いてもいいですか」
「リオ・ハルトといいます」
「リオ」
エルマが、その名前を繰り返す。
「……どんな人でしたか」
セリスが、少し考えて——
「……うるさい人でした」
「うるさい?」
「よく叫んで。よく怒って。でも——」
セリスが、少し止まる。
「最後は——守ってくれた」
「……そうですか」
「守るより倒す方が早いって、最初は言ってた人が」
「変わったのですね」
「……変わりました。確かに」
エルマが「そうですか」と言う。
「……良かった」
「何が?」
「変われたということが」
セリスが、エルマを見る。
「……変わる前に死んだのに?」
「変わって——死んだのでしょう」
セリスが、少し止まる。
「……変わって、守って、死んだ」
「それは——その方が、自分で選んだことだと思います」
「……そうかもしれない」
「自分が選んだことで逝けたなら——」
エルマが、窓の外を見る。
「……悪くないと、私は思います」
セリスが、何も言わない。
でも——胸の中の何かが。
少しだけ、緩んだ気がした。
食事が終わる。
「……公爵は、いつ来るの?」
セリスが問う。
「明日の朝に。今夜は——休んでください」
「話があるんだけど」
「明日でも遅くはない」
「急いだ方が——」
「セリスさん」
エルマが、セリスをまっすぐ見る。
「……急いで、どこへ行くのですか」
「……それは」
「今夜、ここは安全です。敵は来ない。主人が保証している」
「公爵を信用できない」
「私を——信用してくれますか」
セリスが、エルマを見る。
(……この人は)
(嘘をついていない)
(少なくとも——今は)
「……一晩だけ」
セリスが言う。
「一晩だけ、休む」
「それで十分です」
エルマが、立ち上がる。
「もう一つだけ——いいですか」
「何?」
エルマが、セリスの顔を見る。
「……泣いていいんですよ」
セリスが、少し固まる。
「……泣いてない」
「今夜は、誰も見ていない」
「……泣いてない」
「そうですか」
エルマが「おやすみなさい」と言う。
部屋を出る。
扉が、静かに閉まった。
夜。
暖炉の前に、セリスは座っていた。
火が、揺れている。
(ノイエ)
宝石が、静かに光る。
(……はい)
(あの人——どんな人だと思う?)
(……公爵夫人エルマの評価ですか)
(うん)
(……現時点で敵対の意図は検知していません)
(そういうことじゃなくて)
(……どういうことですか)
(……あなたは、あの人をどう思う?)
長い沈黙。
(……温かい人だと、思います)
セリスが、少し目を丸くする。
(……あなたがそういうこと言うの、珍しいわね)
(……そうですか)
(うん)
宝石が——ゆっくりと、左右に動く。
(……私も、よく分かりません)
(何が?)
(……なぜそう感じたのか)
(……そういうことって、説明できないのよ)
(……そうなのですか)
(そういうもの)
火が、揺れる。
「……泣いていいんですよ」
エルマの言葉が、頭に残っていた。
(……リオ)
(私、まだ泣けてないのよ)
(本当の意味では)
(翠毒蛇大隊を灰にした後——泣く暇も、なかったから)
火が、また揺れる。
(……いつか、ちゃんと泣く)
(今じゃないけど)
(いつか——ちゃんと)
暖炉の火が、静かに燃えていた。
山の夜が、深まっていく。
この屋敷が——安全かどうか。
まだ、分からない。
でも——
今夜だけは。
少しだけ——休んでいい。
そう思えた。
「泣いていいんですよ」
エルマはそう言った。
でも——セリスは、まだ泣けなかった。
泣ける時が来るまで——
歩き続けるしかない。
それが、セリスという人間だから。
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あとがき
ここまでお読みいただきありがとうございます!
ヴェストファーレン公爵邸。
温かい食事。温かい部屋。
そして——エルマ。
「変わって、守って、死んだ。それは——その方が、自分で選んだことだと思います」
リオのことを、こんな風に言ってくれた人がいました。
「泣いていいんですよ」
セリスは、まだ泣けていない。
次回——公爵と、初めて向き合います。
次回も続きをぜひ見届けてください!
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