03:温もりのままに、途切れた拍動
「柏木? どうした、顔色が悪いぞ」
三度目。また、あの数学教師の乾いた声だ。
湊は顔を上げると同時に、隣の席を、吸い寄せられるように凝視した。
そこには、ついさっきコンクリートの塊に押し潰され、肉の飛沫となって四散したはずの陽葵が、驚いたように大きな瞳を瞬かせている。
「湊……? 大丈夫? なんだか、すごく怖い顔してるよ」
生きている。温かい。
湊は、自分の制服を確認した。血も、肉片も、何一つついていない。
だが、左手首だけが狂ったように熱い。捲り上げたそこには、鮮血のような赤色で『5』という数字が脈打っていた。
(……場所を変えてもダメなんだ。あそこがダメならここ、ここがダメならあそこって……世界が、どうしても陽葵を殺そうとしてくる)
湊はガタガタと震える歯を、無理やり噛み合わせて止めた。
もう、どこに逃げればいいのかは分からない。ただ、一つだけ確かなことがある。
一回目も、二回目も、彼女が死ぬ瞬間に、俺は彼女に触れていなかった。彼女を救おうとして間に合わなかった。
(今度は、絶対に離さない。俺が繋ぎ止めてやる。死神だろうが何だろうが、俺の隣からこいつを奪わせるもんか)
湊は、次に来るであろう教師の言葉を待たず、横に並んだ陽葵の椅子へと自分の椅子を近付けた。ガリガリと床を削る嫌な音が響く。
「……湊?」
困惑する陽葵の右手を、湊は両手で包み込むようにして、壊れるほど強く握りしめた。
「湊、痛いよ……っ! ちょっと、みんな見てるってば!」
陽葵が赤くなって手を引こうとするが、湊は決して離さない。
周囲のクラスメイトたちが、「何だあいつら」「付き合ってるのか?」とニヤニヤしながら冷やかし、教師は呆気にとられて注意するが、湊には一切聞こえない。
湊は、ただひたすらに、陽葵の手から伝わる「生」の感触にしがみついた。
指先の熱、皮膚の柔らかさ。それだけが、彼女が今ここに存在している唯一の証拠だった。
これを離せば、彼女はまた、あの冷たい姿に戻ってしまう。その恐怖だけが湊を突き動かし、彼は周囲を威嚇するように睨みつけながら、彼女の手を自身の胸へと強く押し当てた。
湊は、天井を見上げ、次に窓の外、そして教室の入り口を鋭く睨んだ。
何が来てもいい。
車が突っ込んでくるなら、このまま彼女を連れて跳ぶ。
天井が落ちてくるなら、この手を引いて彼女を庇う。
時計の針が、13時59分を刻んだ。
湊は息を止め、彼女の手をさらに強く握りしめた。
「ねえ湊……本当にどうしちゃったの……?」
不安げな陽葵の声。指先はまだ、熱いくらいに温かい。
湊は何も答えず、ただ歯を食いしばって「その時」を待った。
天井、窓、教室のドア。どこから「死」が襲いかかってきてもいいように、肺が潰れるほど息を詰め、意識を全方位に張り巡らせる。
――14時ちょうど。
教室に、のどかな昼下がりのチャイムが鳴り響いた。
湊は身構えた。筋肉を鉄のように硬直させ、何が起きても即座に陽葵を庇えるように構える。
――だが、何も起きない。
天井は崩れず、窓も割れない。ただ、陽葵の細い指先を握りしめている湊の、自分の鼓動だけが耳元でうるさく跳ねていた。
「……え?」
拍子抜けしたような、間抜けな声が漏れる。
(何も……来ない? 俺がこうして離さないから、世界が諦めたのか――?)
張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩んだ。
救えた。今度こそ、俺はあいつを救ったんだ。
熱い安堵が胸を込み上げ、湊がようやく肺の空気を吐き出そうとした、その時だった。
握りしめていた陽葵の手から、ふっと、力が抜けた。
「……陽葵?」
湊は、彼女の顔を覗き込んだ。 陽葵は、湊に向けて困ったような笑いかけようとした、その形のまま、首をカクンと横に倒していた。
「おい、陽葵。……おい。冗談はやめろよ。もう14時だぞ。チャイム、鳴っただろ……?」
湊は必死に彼女の手を揺さぶった。
まだ温かい。指先は、確かに生きている人間の熱を持っている……
なのに。さっきまで湊の掌に伝わっていた力強い脈動が、砂が水に溶けるように、静かに消えていた。
「……先生。……陽葵が、息をしてない」
湊の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。
外傷はない。天井も落ちてこなかった。車にも撥ねられていない。
なのに、陽葵の心臓は、14時になったときに、理由も原因もなく、ただ静かに――機能を停止した。
まるで、最初から「この瞬間に死ぬ」という設定が組み込まれていたプログラムのように。
「うそだろ……。なあ、なんでだよ! どこも怪我してないだろ!! 温かいじゃないか! 目を開けろよ陽葵!!!」
湊の絶叫が、静まり返った教室に空虚に響く。
防ごうとしても、無駄だった。
世界は、物理現象という「手段」すら必要とせず、ただ彼女の死という「結果」だけを得たのだ。
視界が真っ赤に染まっていく。
湊は、意識が遠のく中で、左手首に焼けるような激痛を感じた。
浮かび上がった数字は、――『4』。
絶望とともに、世界が再び崩れ去った。




