02:瓦礫に消えた、かりそめの勝利
「柏木? どうした、顔色が悪いぞ」
その声に、湊は弾かれたように顔を上げた。
視界が激しく揺れる。脳裏には、数秒前まで見ていたはず――いや、確かに見ていた朱に染まったアスファルトと、陽葵の動かなくなった指先がこびりついている。
だが、いま視界に飛び込んできたのは、窓から差し込む穏やかな午後の光と、チョークで白く汚れた黒板だった。そして、すぐ隣の席。
「湊、大丈夫? お腹でも痛い?」
陽葵が、生きている。
不思議そうに自分を覗き込む彼女の頬には、返り血一滴すらついていない。
湊は震える手で、自分の左手首の袖を捲り上げる。
そこには、ついさっきまであった『7』の数字ではなく、肉を焼いて刻印されたかのような『6』という数字があった。
「……っ、なに、それ……」
陽葵の声が、ひどく掠れていた。
さっき、見たものと全く同じ反応。
クラス中が、その禍々しい痣に視線を注ぎ、ざわめきが波のように広がっていく。
(夢だった、のか……?)
もし夢であったならどれほど良かっただろうか。
しかし、目の前に広がるのはついさっき見たのと全く同じ光景。
痣はドクドクと脈動している。熱い。
目の前の現実は、夢を見ていたのではなく何らかの理由で自分が陽葵の死の前へと「巻き戻された」のだという事実を、湊の脳に直接突きつけていた。
(理由はわからない。でも、戻ったのなら……やり直せる。あいつを助けられる!)
恐怖を塗りつぶすような猛烈な使命感が、湊の全身を支配した。
一回目はこの後、痣の激痛に耐えられずに保健室へ行った。陽葵が付き添ってくれて、二人で校門を出て……帰り道のあの並木道で車に撥ねられた。
湊の記憶では、あれは放課後、いつも通りの帰り道の出来事だったはずだ。
(しばらく外に出ないようにすればいい。あの場所、あの時間にあそこにいなければあの暴走車が突っ込んでくるはずがないんだ。絶対に、陽葵を外には出さない)
「湊、とりあえず保健室行こう。」
「柏木、とりあえず保健室へ行け。結城、お前が付き添って――」
「いいえ! 保健室には行きません。陽葵も、ここにいます」
湊は教師の言葉を遮り、勢いよく立ち上がった。一回目と同じレールを走ることへの、本能的な拒絶だった。
「少し気分が悪いだけです。……陽葵も座ってろ。どこにも行かなくていい」
湊は、陽葵の肩を掴んで無理やり椅子に座らせた。
彼女をこの席に繋ぎ止めることが、死の運命から逃れさせるための「鍵」であると信じて。
「……湊? どうしたの、そんなに必死な顔して」
陽葵が不安げに湊の顔を見上げる。
湊は彼女の制服の袖を、まるで離せば消えてしまう幻を繋ぎ止めるように、ぎゅっと握りしめた。
「いいから、陽葵。絶対にここから動くな。俺が、ずっと隣にいるから」
「え……? うん、わかった。湊がそんなに言うなら、付き合うけど……。でも、そんな握られると手、ちょっと痛いかも」
そう言って陽葵は困ったように微笑んだ。
授業は進んでいく。湊の痣の騒ぎ以外は何の変哲もない、ごく普通の数学の授業だった。
一回目にはなかったはずの、五時間目の平穏な風景。
陽葵は隣で欠伸を噛み殺し、ノートの端に猫の落書きをしている。
湊は、握りしめた拳の震えが収まっていくのを感じた。
(大丈夫だ。保健室にも外にも行っていない。俺は、陽葵を救ったんだ……!)
胸を支配していた恐怖が、安心感と達成感に塗り替えられていく。
――そして14時、五時間目の終わりを告げるチャイムが、教室に鳴り響いた。
湊は思わず小さく拳を握り、隣の陽葵に顔を向けた。
チャイムが鳴った。14時だ。保健室に行くことも早退することもなく、今ここにいる。
そこから生まれた勝利の確信から、湊が安堵の息を吐き出そうとした。その瞬間だった。
ズズ、と床を擦るような鈍い振動と音が頭上から響いた。
「何の音だろ――」
陽葵が顔を上げた、その瞬間。
「ドォォォォォォォン!!」
凄まじい破壊音とともに、天井が「抜けた」。
陽葵の座る席の真上――天井を支えていた巨大なコンクリートの梁が、上の階の床板を巻き込みながら、彼女を狙い澄ましたように直撃したのだ。
「え――」
湊が反射的に手を伸ばそうとしたときには、すべてが終わっていた。
自由落下した凄まじい質量は、彼女の華奢な身体を逃がす間もなく机ごと床に押し潰した。
凄まじい衝撃とともに、瓦礫の隙間から、赤い飛沫が四方八方へと弾け飛ぶ。
湊の頬に、制服に、そして隣の席の教科書に、生温かい陽葵の血液がべっとりとこびりついた。
「あ、あぁ……あぁぁああああああ!!!」
「いやぁぁぁあ! 結城さんが! 誰か、誰か呼んで!!」
「うわあああああ!!」
一拍遅れて、教室内が阿鼻叫喚の渦に包まれた。
女子生徒の裂かれたような悲鳴、椅子をなぎ倒して逃げ惑う足音、腰を抜かして嗚咽する声。
だが、湊の耳にはそれらの絶叫は届かなかった。すぐ隣には、積み上がった無機質なコンクリートの山があるだけだ。
少し前まで握っていたはずの彼女の手は、瓦礫の底で原型を留めぬほど押し潰され、そこから溢れ出した鮮血が、川のように湊の足元へ広がっていく。
「あ……ぁ……」
勝ち取ったはずの「安全」が、あまりにも不自然な、狙い澄まされたような死によって粉砕されたことに、湊の精神は限界を迎え、思考は真っ白になった。
視界から急速に色が抜け落ち、意識が反転する。
湊は、遠のく意識の中で自分の左手首を見た。
赤く沈んだ数字が、静かに、残酷に――『5』へと書き換わった。
――カチッ。
絶望と共に、世界が再び崩れ去った。




