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01:朱く染まった、ありふれた午後

「湊!早くしないと置いていくよ!」

 

 柏木湊がカーテンを引いた瞬間に溢れ出した陽光は、部屋の隅々を容赦なく照らし出す。

 

 隣の家の二階――湊の部屋から数メートルしか離れていない向かいの窓では、幼馴染の結城陽葵ユウキヒマリが身を乗り出してこちらを急かしていた。まだ制服のリボンすら結んでおらず、寝癖のついた髪をポニーテールにまとめようと格闘している。


「わかったから、窓から落ちるなよ。……今行く」

 

 十年近く繰り返してきた、台本があるかのようなやり取り。湊は生返事をしながら、急いで制服に袖を通した。

 

 玄関を出ると、初夏の匂いが鼻をくすぐる。


 家の前で、陽葵はトーストを口に咥えながら器用にスマホを操作していた。湊の姿を見つけると彼女は、


「三分の遅刻。罰として購買のメロンパンね!」


と、根拠のない罰を押し付けて笑う。

 

 陽葵の歩くペースは、いつも少しだけ湊より速い。弾むような足取りで、彼女は道端の野良猫に挨拶をし、街路樹の葉の揺れに目を向ける。

 

 その背中は、湊にとって何気ない風景の一部だった。


 


 ――そんな平穏な時間は、五時間目のひどく退屈な数学の授業中に終わりを告げた。


 

 

 窓の外では朝、見上げていた太陽が校庭を白く焼き付けている。視線を校庭から校舎の際へ移せば、植え込みのツツジが毒々しいほど鮮やかなピンク色を溢れさせ、その蜜を求めて迷い込んだ一匹のモンシロチョウが窓ガラスの向こう側で羽を動かす。

 

 チョークが黒板を叩く音を聴きながら、湊はノートの端に意味のない落書きをしていた。

 

 そんな平穏な日に、異変は前触れもなく訪れる。


「……あ、つっ」


 左手首の内側に、熱した鉄を押し当てられたような鋭い痛みが走った。


 咄嗟に右手で押さえたが、熱は引くどころか、骨を焼くような激痛へと膨れ上がっていく。心臓の鼓動が耳元でうるさく打ち鳴らされ、視界がぼやける。


「柏木? どうした、顔色が悪いぞ」


 教壇の教師が怪訝そうにこちらを見る。隣の席の陽葵が、


「湊、大丈夫?」

 

と心配そうに身を乗り出してきた。返事をしようとしたが、声が出ない。湊は耐えきれず、机の上に左手を突っ張った。

 

 その拍子に、制服の袖が捲れ上がった。


「……っ、なに、それ……」


 陽葵の声が、ひどく掠れていた。


 湊の左手首。そこには、何もなかったはずの皮膚が焼けたように赤黒く腫れ上がり、くっきりと『7』という数字の形を成していた。まるで内側から焼きごてを押し当てられたかのように、痣は脈動に合わせて禍々しい熱を放っている。


「気持ち悪い……」

「何あれ、初めて見た……」

 

 ざわめきが波のように教室を支配していく。好奇、困惑、そして生理的な嫌悪を含んだ無数の視線。教師までもが、授業を止めて湊の手首を凝視している。


「湊、とりあえず保健室行こう。先生、柏木くん連れて行きます!」

 

 陽葵が弾かれたように立ち上がり、湊の腕を支えた。彼女の体温だけが、異常な熱を帯びた彼の身体に唯一、現実の感覚を繋ぎ止めていた。

 

 

 保健室の先生は、彼の腕の痣を「ただの内出血」だと言った。


 湊は顔色が悪かったので保健室の先生は彼に早退を促し、そして心配そうに様子を窺っていた陽葵に言った。


「結城さん、ごめんなさいね。柏木くん、顔色が悪いみたいだから……。先生は他の子の対応があるから、校門まで彼に付き添ってあげてくれる?」

 

 本来なら、一人の生徒の早退に別の生徒を付き合わせることはない。だが、湊のあまりの顔色の悪さと、痣の痛みに震える姿を見て、教諭も一人で帰すのは危険だと判断したのだ。


「先生、私、家まで送っていきます。家も隣同士だし、柏木くんのお母さんにも伝えないといけないので」

 

 陽葵は迷いのない口調で言い切った。

 授業を抜けることへの躊躇いよりも、目の前の湊の異常事態を放っておけないという意志が勝っていた。

 先生もその剣幕に押されるように、特例として彼女の早退を許可した。

 

 そして、二人は授業中の静かな校舎を後にした。


 校門を抜けると、まだ高い位置にある太陽が、誰もいないアスファルトを白く焼き付けていた。


「……ごめん。陽葵まで早退させることになって」


「いいって。私がいなかったら、湊、道端で倒れてそうだし。昔からそういうところあるんだから、あんたは」

 

 陽葵はわざと明るい声を出して、湊の少し前を歩く。

 

 いつもなら「授業をサボれてラッキー」くらいに笑い合うところだが、腕の痣の不気味さと、得体の知れない胸騒ぎが湊の口を重くさせていた。

 

 家へと続く、見慣れた並木道。人通りはほとんどない。遠くで踏切の警報機が鳴り始め、それからゆっくりと電車の走り去る音が響いた。


「湊、アイス買って帰らない? 冷たいの食べれば、少しは良くなるかも」

 

 陽葵が振り返り、いつもの無邪気な笑顔で僕を見た。


 その瞬間だった。

 

 背後。誰もいないはずの道で、激しいエンジンの空吹かし音が轟いた。

 住宅街の狭い路地から、猛スピードで飛び出してきた一台の乗用車があった。蛇行しながら、まるで磁石に吸い寄せられるように、道端に立つ陽葵へと一直線に向かってくる。


「陽葵、危ない!」

 

 湊が叫び、手を伸ばした。指先が、彼女の制服の袖に触れる。しかし、次の瞬間。  


 ――乾いた衝撃音とともに、湊の手が虚空を掴んだ。

 

 陽葵の身体が、紙屑のように宙を舞った。

 

 視界がスローモーションになる。

 アスファルトに広がる鮮やかな赤。

 転がった陽葵は、一度だけ、痙攣するように指を動かした。

 そして、その瞳から光が消える。


「ひま、り……?」

 

 膝の力が抜け、這いつくばるようにして彼女へ手を伸ばす。

 視界の端では、彼女を撥ね飛ばした車が一度もブレーキを踏むことなく、曲がり角の向こうへと消えていくのが見えた。


 陽葵の指先は、さっき湊の鞄をひったくった時とは似ても似つかないほど、無機質に冷え切ろうとしていた。

 アスファルトに広がる鮮やかな赤が、湊の靴を汚していく。


 (ああ、僕が。僕が保健室になんて行かなければ。僕が一人で大丈夫だからと言っていれば。僕のせいで僕のせいで僕のせいで僕のせいで…………)


 目の前の光景が、まるで出来の悪い映画のワンシーンのように現実味を失っていく。

 泣くことも、助けを呼ぶことも忘れて、湊はただ、急速に熱を失っていく彼女の亡骸を見ていることしかできなかった。


 

 ――嫌だ。こんなこと、あっていいはずがない。

 

 

 思考を拒絶したその瞬間、左手首が内側から爆発したような激痛に見舞われた。  

 

 手首を焼くような熱。鼓膜の奥で、何かがパチンと弾けるような乾いた音が響く。    

 

 突如として、視界から色が抜け落ちた。夕暮れのオレンジも、目の前に広がる赤も、すべてが真っ白な光に塗りつぶされていく。  


 ――カチッ。


 頭の中で、何かのネジが巻き戻るような音が響いた。

 

 重力も、温度も、陽葵の血の臭いさえもが薄れ、意識が真空に放り出されたような感覚に襲われ――








「柏木? どうした、顔色が悪いぞ」


 ――次に鼓膜を震わせたのは、あまりにも平穏な「音」だった。


 真っ白だった視界に、整然と並んだ机、使い古された黒板、そしてチョークを握る教師の姿が、暴力的なまでの色彩を持って飛び込んでくる。

 

 脳が状況を理解できない。

 脳内には、先ほどの鉄錆のような血の臭いがこびりついているのに、肺に流れ込んでくるのは、どこまでも退屈で、埃っぽい教室の空気だった。


 「湊、大丈夫?」

 

 隣の席から、死を塗り替えるような声が届く。湊は、引き攣った動きで隣を見た。  

 

 そこには、さっきまで確かに冷たくなっていたはずの陽葵が、瑞々しい肌を午後の光に透かして座っていた。

 

 そのあまりのギャップに、湊は胃の底からせり上がるような吐き気を覚えた。

 震える手で、左手首を覆っていた袖を剥ぎ取るように捲り上げる。

 

 そこには、えぐり取られたような生々しい痕跡を残して、明らかな意図を持って刻まれた数字があった。    

 

 ――『6』。

 

 

 それが何を意味するのかは分からない。

 ただ、網膜に焼き付いた陽葵の鮮血と、腕に刻まれた新たな印が、湊の全身を凍りつかせるには十分だった。

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