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9. ここまで


 猪川の若旦那と別れたあと、私たちは海沿いの道を歩き、みつけた防波堤に寄った。海にせり出した長い防波堤の先までたどり着いたところで、亀次郎が当たり前のように腰を降ろし、ごろんと横になった。


「帽子をかぶってくるべきだったな」


 なんて言って、見えない帽子を顔に乗せる振りをする亀次郎の隣に私も座った。目を閉じて、気持ちよさそう。あんなやって横になったら空はどんな風に見えるんだろう。

 家を出たときは雨になるかもって思うくらいの曇り空だったのに、今では雲より青空が覗く量の方が多いくらいだ。わからないものね。


 私も寝転がってみたい。

 ここにはうるさいお母さまや一哉はいないし、亀次郎は私が彼の真似をしたくらいで、からかったりはしないだろう。


 えい。


 意を決して上半身を倒すと、視界いっぱいが空になった。雲の隙間から覗くのは薄青く澄んだ秋の空。


「わあ」


 不思議。空との距離は横になった分離れたのに、より近づいたみたい。空に溶けていくみたいな気分になる。

 顔を横に向けると、さっき歩いてきた道が別人のような顔をして横たわっていて、一枚の絵画みたい。頭の下の地面が堅くてざらざらしてて、波の音が体を通して伝わってきて心地いい。

 目を閉じたら亀次郎みたいに寝ちゃうかもしれないわ。


 寝ている亀次郎が気になって顔を逆に倒すと、


「……」


 同じように顔を横に向け、こっちを見ている亀次郎と視線がぶつかった。ずっと高いところにあった彼の顔が今は真横に。時間が止まったかと錯覚しそうになる数秒、私たちは互いを目に映したまま見つめ合った。


 朝、一度軽く洗ったきりの私の顔。たくさん歩いて山盛りのご飯を食べて、どんな顔になってるのか。

 さっと顔を天に向け、お腹の上に乗せていた風呂敷包みを亀次郎との間に置くと、包みの向こうから短い笑い声が聞こえた。


「笑わないで」

「いや、悪い。あんたじゃない、さっきの猪川を思い出したんだよ。あの朴念仁」

「ああ、そうね、でもよかった。お姉さま、もう泣かなくてもいいんだもの」


 私が来たことは言わないでって若旦那にお願いしたけど、あのひとなら守ってくれそうだ。今なら、千代お姉さまの隣にさっきの彼が、かちこちに固まって立っている姿が想像できる。


「ふふ」


 頭に浮かべた二人の姿があまりに微笑ましくて思わず笑う。と、風呂敷包みの向こうで亀次郎が身じろぎした。じゃり、と地面と体の擦れる音。体ごとこっちを向く気配。


「あんたは?」

「えっ?」

「あんたはまだ泣くのか?」


 あまりに突然、それまで触れられずにいた場所に切り込まれ言葉に詰まった。


「家に戻って泣くのか」

「な、泣かないし帰らないわ! 家になんて。出てきたんだもの」

「こんな荷物ひとつで。本気じゃないんだろう? 一晩かそこらの、ままごとじみた出奔で家同士の話が動くと本気で思ってるのか? 伯爵家なんだろう?」

「なんなの? 突然。なんなの? 意地悪。なんの話よ?」


 気持ちよく空を眺めていたのに。

 苛立ちを抱えたまま横になっていられなくなって上体を起こした。伯爵家だなんて思い出させられたら、防波堤で寝転がったりしていられない。亀次郎は寝たまま。顔を見なくて済むからちょうどいいわ。


 空に溶けていた体が元に戻ってしまった。千代お姉さまと違って、まだなにひとつ解決していない藤乃宮瑠璃の体に。

 いつの間にか船は水平線の向こうに消えていた。なにもない、海だけが目の前に広がっている。


「縁談だろ? あんたも」

「……」


 そうださっき、余計なことを口にしてしまったんだった。弟の嫌みな台詞を彼に教えてしまった。あんなの聞いたら誰だって感づくわ。

 背中にかけられた声に答えるのが嫌で黙っていると、小さなため息がひとつ聞こえた。


「その、相手なんだが」

「知りたいの? いいわ、教えてあげる。荒瀬商会の放蕩息子ですって。私の前に越田沙織さまにも打診があったそうよ。荒瀬の人間には会ったことがあるの。葡萄酒をこぼして騒いで帰って行った下品な男。あんな人間が舅だなんて死んだ方がまし。私を犬みたいだと言って」


 話していたら怒りが蘇ってきた。


「犬? まさか、聞き間違いじゃ」

「いいえ!」


 亀次郎が荒瀬の味方をするから余計腹が立つ。振り返り、体を起こしかけていた亀次郎を睨むと、熱い物に触れたみたいに彼の動きが止まった。


「聞き間違いなものですか! 私を見て、家の犬と似てると言って笑ったのよ!」

「……」


 屈辱的すぎて誰にも話せずにいた秘密を話したのに、信じられないことが起こった。亀次郎もしまった、と思ったんだろう、手で口を隠し目を見開いて固まっている。


「……あなた」


 声が震える。


「今、笑った?」


 ゆっくり尋ねると、亀次郎は首を横に振った。もう遅いわ、見たもの。彼の唇がうっすら笑った形になったのを。

 地面に手をついて、ゆらりと立ち上がる。


「ここまでね、亀次郎」

「ちょ、どこに行こうって」

「あなたには関係ない。海にお帰りなさいよ。さようなら」


 亀次郎をそこに残して足を進める。さっきまであんなに心地よかった潮風が、今は頬をべたつかせる不快なものに変わっていた。


「待てって」

「ついてこないで!」

「ひとりで帰れるのか?」


 帰れるか? わからない。でもここで、わからないからやっぱりついて来てなんて言うわけにはいかない。私は藤乃宮瑠璃なのよ。

 だから、勢いよく体ごと振り返って叫んだ。


「馬鹿にしないでよ! そのくらい……ぁ」


 勢いが良すぎて体がぐらつく。踏ん張ろうと置いた足の下に丸い小石。倒れる。みっともなく尻餅をついた姿を笑われるのはいやだ、という見栄は、近づく海面に困惑に変わった。

 そうよここは防波堤の上、下は海。落ちちゃう。


 泳げないのに。


「瑠璃!」


 水に落ちる寸前、遠くで亀次郎が呼ぶ声が聞こえた。そのあと体に衝撃を感じて世界がぜんぶ変わる。冷たい! 水、水、水、冷たい。変な音。どっちが上かもわからない、明るい方が上? 岸辺は近いんだから足が底に着くかも、下はどっち? 着物が張り付いて体が自由に動かせない。苦しい、息が。死んじゃう。


 死ぬ?


 死、と思った途端、頭の中に嵐が吹き荒れたみたいに恐怖で一杯になった。いやだ死にたくない。いや。

 嫌なのに気が遠くなってきた。死ぬの、こんなところで。


 黄色。


 と、意識を手放したくなくて開き続けていた目に、ぽつ、と黄色い色が映った。花? ゴミ? 違う、あれは亀次郎の派手なシャツ。ちっとも似合ってない変なシャツ。泳ぐのが巧いのね、やっぱり亀だっていうのは本当だったの? 亀次郎、水の底の宮殿に連れてって。でも、


 ……結局桔梗通りには行けなかった……。


 言葉と一緒に胸に悲しい気持ちが広がって、そこですべてが途切れた。



 ◆◆◆



 いつから目が覚めていたのか。

 知らない天井を見つめ続けて、まあまあの時間が流れていた気がする。


 突然、はっ、とした。

 ここどこ?

 

 私のじゃない、白い綿の浴衣に着替えさせられている。白いパイプ式の寝台、使われている形跡のない同じ寝台が両隣にもある。病院。気づいたとたん、消毒薬のにおいがつんと鼻についた。


 そうだ、海に落ちて……亀次郎は?


 重い体を起こして窓の外を見たけど、遠くに海の見える知らない場所にいるのがわかっただけだった。


「瑠璃!」

「え?」


 お母さまの声に振り向けば、すり硝子のはまった薄い扉を開いて目を見開いているお母さまがいた。濃い紫の縮緬の訪問着と手に持った白い琺瑯の水差しがちぐはぐだ。


「瑠璃あなた目が覚めたのね! 良かった!」

「え? え?」


 一直線に近づいてきたお母さまが涙ぐんでいる。水差しを乱暴に横の台に置いて、寝台横に崩れ落ちるみたいに膝をついて。


「瑠璃、身投げなんてあなた!」

「え?」


 身投げ?


「死を選ぶほどいやな縁談だったならそうお言いなさい!」


 頭が話についてきていないのに、手を強く握ったお母さまがわっと泣き出したので、更に置いて行かれる気持ちになる。

 ええと、つまりお母さまは、私が縁談が嫌で身投げをしたと思っている、の……ね。


「丁度通りかかった方が助けてくださったらしくて病院に……良かった、よかったわ」

「通りかかった?」


 近づいてきた黄色。

 亀次郎が助けてくれたんだ。


「その方は、ど、どちらに?」

「あなたをここへ届けてすぐ去られたそうよ」


 どこかへ行っちゃったんだ。


「誰がお母さまたちに連絡を?」

「あなたの待ち物から名前がわかったと」


 名前を書いた物なんてあったかしら。刺繍枠にあったかもしれない。


「警察にはあなたがいなくなったのを知らせていましたから。ほら、誘拐の可能性もあったのですからね。病院が通報してくれたので家に連絡が来て」

「誘拐」


 そうか、そんなのを疑われる可能性もあるのね、それで亀次郎、行ってしまったのかな。

 涙に濡らした頬をそのままに、私の手の甲と頬を優しく撫で続けるお母さまの向こうの海に目をやった。


 海に帰ったのかしら。


 そんな筈はないのに、そう考えると笑みがこぼれた。違う、帰るなら川ね。亀次郎は川で助けたんだから。それにしちゃ海の好きな亀だった。


「瑠璃?」

「お父さまは? 怒ってますか?」

「お父さまなら荒瀬に会いに行かれたわ。とりあえず食事会の延期をと……いえ、私は縁談に反対するわ瑠璃、大丈夫よ、お母さまはあなたの味方になります。だからもう金輪際こんな馬鹿は止めてちょうだい、いいわね?」


 お母さまに、こんなに熱を持った眼差しで見つめられるのは初めて。嬉しいより戸惑う。お母さまはまだ私の手を撫でている。大粒の真珠の指輪。よそ行きの。お母さまは食事会の準備を済ませて私を待っていたのね。


「は……はい。お母さま、ごめんなさい」

「いいのよ。帰りましょう。ね、瑠璃」


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