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8.猪川鉄鋼の若旦那


「どうした?」


 立ち止まったから不審に思ったのか、亀次郎が軽く腰を屈め聞いてきた。工場の壁面に書かれた社名を指さす。


「あれ」

「猪川? 猪川がどうかしたのか?」

「知ってるの?」

「そりゃ。これだけの工場を持ってるんだ」


 ゴーン、ゴーンと、なにか大きな機械の動く音が工場の方から聞こえてきていた。お腹に響く低い音。こうして立っている間にも、工場へ続く道に何人ものひとが入っていく。従業員をたくさん抱えているのね。


「上級生のお姉さまと、猪川鉄鋼の若旦那が来年結婚するの」

「へえ、そりゃあ凄い。いい話だな」


 間髪を入れず返ってきた答えに悲しくなった。私の縁談の話をしても、亀次郎は同じに答えるんだろう。


「お姉さま、嫌がって泣いてたのよ」

「好いた男でもいるのか?」


 噛み合わない会話に苛立ちが募る。はあ、とため息をついた。


「あなたには話しても無駄ね。亀で、男のあなたになんて」

「悪かったな。だが女学校も卒業間近となれば縁談くらい舞い込むもんだろう?」

「そりゃあそうだけど、千代お姉さまとあの工場はちぐはぐだわ、似合わない」


 工場の外に置かれた、日に焼けた薄汚れた木箱。工場の中はきっと、さっきの市電みたいなにおいもするんだろう。私たちの知らない……。


「なになら似合うんだよ?」


 じっと工場を見つめていたら、亀次郎が不快そうに尋ねてきた。


「お姉さまに?」

「あんたたちみたいなお上品なお嬢さんたちにだよ。宮家に嫁げればご満足か?」

「そりゃあ、そんなお話がくれば鼻は高いわ、当たり前じゃない」


 すぐに答えると、亀次郎が肩をすくめた。また爪楊枝を咥えて、唇を使って揺らしてる。


「でも来ないわよ。少なくとも私や千代お姉さまには。あなたは亀だからさすがにご存知ないでしょうけれどね。ああいった方々は、もっと近いところでお相手を探されるものなのよ」

「じゃあ猪川でいいだろ。贅沢できる」

「お父さまも一哉もあなたも同じことを言うのね」

「一哉?」

「弟よ」


 じろ、と視線を投げてきた亀次郎に答えると、昨夜の夕食時の一哉の言動がありありと蘇ってきた。目と頬が熱くなる。小憎らしい直毛の弟。


「“姉さま凄いじゃないか、すごい金持ちだ。はは、これで我が家も安泰だね”」

「我が家?」


 しまった。私の話をしてたんじゃないのに。

 目の縁に溜まった涙を指で拭って顔を上げた。


「なんでもない。とにかく、あんな油くさい工場の成金なんて千代お姉さまには似合わない」

「ふぅん。で、あんたはあの油くさい工場がなにを作ってるかはもちろん知ってるんだろうな」

「え?」


 はっきりと非難の色の滲む声をあげた亀次郎は、爪楊枝を摘まんで外すと、その手で海の先を指差した。


「ずーっと向こうに造船所があるだろ……さすがにここからじゃ見えないか、ま、あるんだ」


 爪楊枝のさらに先を追っても、彼の言った通り造船所なんてなかった。ただ海岸線が遠く霞むまで国の形で伸びているだけ。浜や、緑、建物が続いていく。


「物凄くデカい。そこで船を造るのに必要な部品を、ここが何種類も作ってる。向こうに浮かぶ船、見えるか?」


 今度は水平線を示す彼の指を黙って追った。白い大きな船がまだいる。


「あんな船を動かす部品だ。いい加減な仕事はできない。戦艦にもここの部品が使われてる」

「戦艦?」


 そうなのね、すごいわ。

 教えられたとたん、目の前の工場が国を守る兵の詰め所みたいに思えてきた。


「猪川の仕事はいい。俺は――ほら、亀だろ、海の事情にはちょっとは詳しいからな」

「へえ」

「それに、ほら、ああ、来た」


 今度は亀次郎の目が陸に戻った。通りの向こうから近づいてくる一台の自動車に向けられている。


「猪川の旦那と若旦那が、毎朝欠かさずここに顔を見せに来てるってのは有名な話だ」


 車が横を通る。黒い背広姿の運転手。後ろの座席には紳士がふたり並んでいて、べっ甲の眼鏡をかけた、和装の年配の紳士が私たちを目に映したのがわかった。お父さまより年寄りだ。そのひとの口が動く。なにか話してる。なにを言ってるんだろう。奥にいるだろう若旦那は胸のあたりしか見えない。そっちも和装。


「っと……あー……」


 と、見送った車が、何故か速度を落とし少し先で停車して、亀次郎が変なうなり声をあげた。なんだろう、なにか怪しまれたのかしら。ここにいてはいけなかった?

 運転手が降りてきて、年配の紳士の座っていたのとは逆の扉を開ける。


「お前さ、ちょっと先に」


 隣の亀次郎がごにょごにょ言っているけど、私の目は車を降りてくる紳士に釘付けだ。


「いや、やっぱりいい。ほら、あれが猪川の若旦那だ」

「あっ」


 亀次郎が私の背を前に強く押すものだから、私だけ一、二歩彼より飛び出してしまった。それでも亀次郎に文句を言うより、困惑した表情でこっちに向かってくる男性への好奇心の方が大きくて。


 その人の第一印象は、“岩”だった。

 日に焼けた大きな体の、四角い顔をした、がっしりした顎が印象的な男。短く刈り整えられた髪に太く濃い眉の下の目は鋭い。


 でも、ぴんと立てた人差し指を振りながら、


「確か今日は――」


 なんて言っている声は低く穏やかで、いやらしい性格の滲む一哉の声と全然違った。怖いひとなのか違うのかわからない。

 猪川の若旦那は、私――ではなく後ろ……亀次郎に奇妙な視線を向けていた。眉根に皺が寄って、見えづらいものを見ようとしている人の顔をしている。お父さまが眼鏡なしで新聞を読んでいる時の目みたい。

 振り返ると、亀次郎がさっと上げていた手を下ろした。うしろでなにかしていたみたい。変な顔でもしてみせていたの? 怒られるわよ。


「うちになにかご用でしょうか」


 若旦那が、私と亀次郎に交互に視線を向けながら尋ねてきた。どうしよう。別に用はないのよ、偶然出会っただけなんだし。


「いえ、別に」

「こちらは旭都女学館の方でね」

「ちょっと亀次郎!」


 そんなのわざわざ言わなくていいでしょ!

 振りかえって睨んだけど、亀次郎はにや、と笑っただけ。感じが悪い。


「亀次郎?」


 亀次郎の名にひっかかりを覚えたらしい若旦那が、首を傾げつぶやいた。確かに変な名前だものね。


「あの、なにもお気になさらないで。なんでもありませんから。朝の忙しい時間に」

「なに話を終わらそうとしてる、憧れの上級生のおねえさまとやらの、結婚相手の面を拝みに来たと素直に言えばいいだろ」

「亀次郎!」


 藪から棒になにを言い出すのよ!

 全部言っちゃうんだから!


 私まで変な人間だと思われてしまう。今だってどんな目を向けられているか、と怖々若旦那を見、驚いた。


「ああ、千代さんの」


 岩みたいな男が、お姉さまの名前を口にして、白い歯を覗かせ照れ笑いを浮かべていたから。あの顔。いくら私が世間知らずの箱入り娘だってわかるわ。愛しい人を想う顔だ。


 この人は千代お姉さまを大切に思ってる。不安が消え安堵するとともに、疑問と憤りも生まれた。


「あの」


 大股で一歩踏み出し、若旦那に近づいた。山が迫るみたいに大きな体がなお大きく迫っても、怖くはなかった。


「なにか」


 むしろ若旦那の方が、体を反らせておののいている。


「お姉さま、この間学校で泣いていたんですけど?」

「ええっ? ち、千代さんがかい?」


 言うと、若旦那があからさまに動揺した。手を無駄に動かして、あわあわしている。本当にこの人がお姉さまの言っていたのと同じひとなんだろうか、と思ったけど、もしこの人が、お姉さまの言っていた通りの態度を取ったんだったら泣きたくなるのもわかる。


「はい。縁談のお相手と会ったとき、その方が一言も口をきかなかった上、自分を見てすらくれなかったって」

「……!」


 岩みたいな男が岩みたいに固まった。私もその後の言葉が見つからず黙った。沈黙の続く通りで、機械の動く音だけが聞こえてくる。


「……は!」


 それを破ったのは亀次郎。振り返ると、お腹を押さえて笑いを堪えている。こらえ切れていないけれど。


「こんな岩石みたいな男にムスッと座っていられちゃあ、女学館のお嬢さんが泣きたくなって当然だ」


 言いたいことをぜんぶ言ってくれた。男の亀次郎に言われたからか、目の前の岩が身じろぎした。唇をぎゅっと引き結んで、ちょっと不満げだ。


「あ、あんな可憐な方を前にすれば、っだ、誰だって口をきけなくなる」


 喉の奥から絞り出すように発された言葉に嬉しくなった。


「千代お姉さまはお人形みたいですものね!」

「その通りだ、触れたら壊れる淡雪のようで、目に映すだけで傷つけてしまいそうで私は」


 なんて素敵な言葉なの。乙女倶楽部の連載小説の一節みたい。


「それをそのまま千代お姉さまに言って差し上げてくださいな!」


 また一歩、風呂敷包みを抱える手が若旦那の体に触れそうなくらい近づいて訴えると、若旦那の顔が溶岩岩石みたいに赤くなった。


「言えるはずがないあの雛菊のような可憐な姿を目に映すことすらできないというのに……」


 赤い顔を天に向け目を閉じてしまった若旦那を前に途方に暮れた。夫婦になろうというのに顔も見られないでどうするのよ。せっかく綺麗な千代お姉さまと暮らせるのに。私なんか凝視してる。おきれいだもの。髪もサラサラだし。


「恋文を書きゃいいだろ、花でも宝石でも付けて」


 と、隣に立った亀次郎がそういいながら私の肩をうしろに引いて下がらせた。


「あんたは近いんだよ」

「いい案だわ亀次郎、千代お姉さまはお花が好きなの。それに観劇! 歌劇がことのほかお好きで。是非お誘いして差し上げてください!」


 若旦那から引き剥がされながらも訴え続けると、若旦那が天を仰いだままうっすらと目を開けた。


「恋文……花、観劇……」


 そう、そうよ!

 岩に言葉が通じた! みたいな謎の満足感に包まれながら、私は何度もなんども力強く頷いたのだった。


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