7.港
降り立った停留所から、たくさんのひとたちが同じ海を目指して歩いていく。背後では出発を知らせる市電の鐘が鳴っていた。潮の香りがする。潮と魚の、不思議な重さを感じさせるにおい。
「はじめての市電の感想は?」
向こうの大きな建物、あそこになにかの工場があるんだろう。一本道に吸い込まれるように歩いていく人の波に目を奪われていたら、亀次郎が聞いてきた。
「感想って、そうねえ、ひとがたくさんで潰されるかと思った」
亀次郎が庇ってくれていたから乗っていられたけれど。そう続けて顎をつんと上げると、亀次郎が小首を傾げ苦笑いした。
「そうか。目は楽しそうにきらきらしてたがな、そんなにいい経験じゃなかったか」
「べ、別に楽しくなくはなかったわ。嫌なことはそんなになかったし」
いろんなひとが乗ったり降りたりして、みんなで同じ方向に行くのはとても新鮮で楽しかった。ただ、いろんな違った人たちがたくさん集まっているせいで、独特なにおいがしていたのだけは嫌だったけど、これも、一番近くにいた亀次郎が変なにおいじゃなかったから助けられた。風も通っていたしね。
まあ、それは胸に秘めておこう。さすがに失礼な話だってわかる。
「通勤時間だからな。さ、俺たちも行こうぜ」
「ねえ、今から行くところは間違いなく、もう開いているの?」
迷いなく人の波から外れた方へ歩き出した亀次郎を追いながら聞くと、顔だけこっちを振り返った彼が雑に何度か頷いた。
「してる。急ごう、旨い刺身がなくなっちまう」
「まだ朝よ?」
「漁師向けの飯屋だ。お天道さんより早起きして、普通の店より早く閉まる」
「めし……」
めしや。
「ちょっと、定食屋って言ったじゃない、なあにその“めしや”って。私が行ってもいいお店?」
尋ねると亀次郎がぴたっと足を止めたので、前に回り込んで顔を覗き込んだ。眉根を寄せ考えている様子だ。
「ねえ?」
彼の目が道の先から私に向けられる。なんて険しい表情なの。私の顔から下がった視線は、ゆっくりつま先まで降りて、それからまた顔まで戻ってきた。
目の前の殿方に、こんなにじっくり時間をかけて観察されるのははじめてで頬が熱くなる。そうよ、落ち着いて考えたら亀次郎は亀の癖に、男らしいきりっとした顔をしてて……。
「あの、私、そこに、行けて?」
恥ずかしさから若干しおらしい声が出た。手も風呂敷包みを揉んだりして。と、亀次郎が、夢から覚めたみたいにはっと息をのんだ音がした。顔から険しさが消えて、かわりに何故か照れた、ちょっと不機嫌そうな表情があらわれた。
「誰でも行ける。ただし藤乃宮の名前は出すなよ」
「どうして?」
再び歩きはじめた亀次郎に並んで尋ねると、
「藤乃宮の娘が男といたなんて噂になったら困るだろ」
妙に足早な亀次郎からそんな答えが返ってきた。気まずそうな顔の彼が、ふ、と海の方を向く。その視線を追って私も彼の横顔の先に広がる水平線を眺めた。朝の陽に照らされて、水面がダイヤモンドみたいに輝いている。遠くの方に大きな白い船舶が何艘か浮かんでいた。
綺麗だわ。
亀次郎と飯屋へ行って、それで縁談がきれいさっぱり、未来永劫なくなってくれるならそれもいいか、と思ったくらい、完璧に美しい風景だった。
ああ、でも。縁談。
いやなことを思い出しちゃった。ため息が出そう。お母さま、さすがにもう起きているわよね。私がいないのに気がついたかしら。返事がなくてもしばらくは私が拗ねてるって思って放っておいてくれるはず。
「どうした? 腹が空きすぎて声も出ないか?」
「え?」
話しかけられ――いつの間にか視線が地面に落ちていた――顔を上げたら、亀次郎が気遣わしげな表情をしていた。
「遠かったか? もうすぐだ」
亀次郎が顎をしゃくった先に、小さくて古くてちょっと……雑然としつつ殺風景な……食事どころが見えてきた。通りに出したテーブルで食事をしている男のひとがひとりいる。
「あのひと佐吉みたい」
「佐吉?」
「うちの車夫よ。ほら、額に鉢巻きを巻いて」
「だからそういう育ちの違う話をするんじゃない、ウマい以外なにも言うな」
「ええ?」
なによそれ。と思ったけれど、お醤油のいい匂いがしてきたから黙って口を閉じた。今は朝ご飯を食べたい。
店のそばまで行くと、外のテーブルに大きな魚の煮付けの乗った皿を運んでいた女性が、亀次郎を見つけて笑顔になった。
「アラア、あんた、また来たのかい。今日は可愛らしいお連れさんまで」
頭巾と前掛けをつけてるから、ここの女将さんだろう。あの大きな生姜の薄切りの乗った煮付け、随分黒くて味が濃そうだけど美味しそう。
「ああ、また寄らせてもらったよ。刺身、食わせてくれるか?」
「おう、あんたか。なんだあ? 随分めかし込んでんじゃねえか。朝っぱらから逢い引きたァ、カーッ、隅に置けねェなァ」
佐吉似のおじさんも話しかけてきた。亀次郎は前にもここに来たことがあるのね。それにしても佐吉似、あなたこそ朝っぱらから飲酒なんていいご身分じゃない。と言いたいのをぐっとこらえて、亀次郎のうしろでなるべく気配を殺して立っていた。カーッ、ってなによ。
「お入んなさいな、ほら、お嬢ちゃんも。あらいい着物。ハイ、ここ拭いたから並んでお座んなさい」
「ありがとうございます」
女将さんが私の手を引いて、店のカウンター席に連れて行ってくれた。店内は狭くて、カウンター席しかない。中の客は私たちだけ。四角い木の椅子に腰掛ける。座面に乗っている、紺色の小さな座布団はぺたんこだ。こんなところ初めて。今度みんなに自慢しなくちゃ。
色あせた暦と一緒に、手書きの品書きが壁に貼ってある。安い。
「刺身定食で良かったわね?」
「ああ、二人前頼む」
「ご飯は大盛?」
「ああ、両方」
店の奥は小さな廊下があって、その先はもう外だった。開け放たれた扉の向こうに裏道が。あ、猫。猫が通っていった。
「あんまキョロキョロすんな」
「だって面白いんだもの」
目の前の小さな器の蓋をこっそり開くと、辣韮が入っていた。お酢の香りがつんとする。なんでこんなところに辣韮が?
「今日は空いてるな」
「ちょうど一段落したとこよ」
辣韮入れのふたを閉じ、今度は別の器の蓋を持ち上げる。まあわかるわ、これはきっとお醤油。ほら、やっぱり。
「あれこれ触るな」
「だって」
面白いんだもの。とはいえ、ちょっと子供っぽい振る舞いだったかもしれない。一哉じゃあるまいし。こほん、と咳払いをひとつしたあとは、おとなしく膝に手を置いて食事が運ばれて来るのを待った。目の前のカウンターの内側にいる、厳めしい顔つきのあのひとがここのご主人か、料理人か、その両方かなのよね。
手を動かしているのはわかるけれど、手元は隠れている。じっと、なにも置かれていない卓上を見つめ、待った時間はどのくらいだったのか、とにかくそのときがやってきた。
「はい、どうぞ。刺身定食二人前」
「おー、旨そうだ」
「わ……え?」
目の前に置かれた刺身定食に圧倒され言葉を失った。多い。お刺身も、ご飯もこれでもかと器に盛られている。魚のヒレが汁から飛び出したアラのお味噌汁まで丼くらい大きな碗に入っていて。
「あのこれ、多い……」
「多いか? じゃあくれ。ん」
亀次郎がお茶碗を私の方に寄せてきた。ご飯を移せというんだろう。すでに山盛りの亀次郎のご飯茶碗に、私のお茶碗からご飯を半分移した。そうしても、まだたっぷりある。
「それで足りんのか」
「足りるわよ。あなたこそ、そんなに食べられるの?」
「ああ」
お刺身も亀次郎にわけて、なんとか食べきれそうな分量にしてから両手を合わせ食事をはじめた。
最初に口に運んだのはキラキラと綺麗な鯵のお刺身。
「おいしい!」
「だろ?」
感嘆の言葉を漏らす私に、なぜか亀次郎が自慢げに答えてきた。でもなにか言う気持ちにもなれない。とにかく次へ、次へと箸を伸ばして食事を続けた。
次はどれを食べようかな。
「ふぅ」
最後のご飯粒を箸で摘まんで口に運び、満腹からため息をつく。と、感じる視線。複数の。周りをみると、店にいる全員が私を見ていた。いつの間に来たのか、佐吉似と同じテーブルに座っていた別のお客さんまで。
「あ、あの……私なにか……?」
おかしな振る舞いをしたのかしらと不安になって隣の亀次郎に聞くと、彼はにや、と笑ってから口を開いた。
「あんたが旨そうに一所懸命食ってるのを皆で眺めてただけだ」
「なっ、そ、そそそそんな、人が食事をしてるのを眺めるなんて無作法だわ」
顔を熱くしながら言うと、店にいたひとたちがどっと笑った。
「ちげえねえ。すまねぇな」
これはお店のご主人。カウンターの内側で笑ってる。
「ごめんなさいねえ、小さな口で食べてるのが可愛らしくって!」
これは女将さん。
「残すだろうなと思ってたんだがきれいに食ったなあ、嬢ちゃん、偉い!」
これは佐吉似のおじさん。なんだろう、恥ずかしいけどなんでだか腹はまったく立たなかった。
「満腹か? じゃ、行くか」
「え、もう?」
「食ったらさっさと行くもんだ、ほら、立て」
「慌ただしいわね」
「ありがとよ、またな」
亀次郎は財布から札を出してカウンターに何枚か置くと、卓から爪楊枝を一本抜いて、さっと席を立って店を出て行ってしまった。
「あ、ま、待って!」
私は荷物があるのに。隣の椅子に置いていた風呂敷包みを掴んで椅子を降り、ご主人と女将さんにお辞儀をしてから亀次郎を追った。
「亀次郎!」
「来たか。どうだ旨かっただろ」
ぶらぶら前を歩いている亀次郎に追いつくと、彼が満足げに笑って聞いてきた。爪楊枝を咥えたまま器用に喋ってる。
「美味しかった。でもお腹がいっぱいで苦しい。こんなに食べたのははじめてよ」
「あのくらいでか」
「普段の二食分はあったわ。あなたにご飯を分けた後でよ」
そう言うと、亀次郎は驚いた様子で目を見開いた。
「二食? あれが? もっと食えよ」
爪楊枝を手に持って指揮棒みたいに揺らしてる。先をこっちに向けないでほしい。
「毎回あんなに食べてたら太っちゃうでしょ」
「結構なこった、食えるときに食っとけ。腹が出るのが嫌なら動きゃいい。腹ごなしにそのへん歩くか。海沿いをさ」
勝手に話して勝手に決めた亀次郎が、顎をしゃくって“そのへん”を示した。まあ、この道ならずっと海が見える。散歩にはうってつけの道だ。
市電を降りたときからある、あの大きな工場がなかったらもっと視界が開けていいだろうに。
そう考えながら、なんとなく工場へ目をやって、見つけてしまった。
「あっ」
壁に猪川鉄鋼の文字。
千代お姉さまの縁談のお相手の会社だ。