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4.冒険のはじまり


「しーっ、しーっ、いい子ね茶太郎、静かに」


 庭に放たれている番犬の茶太郎が袴にまとわりついてくる。暗くても私だと分かってくれたのは嬉しいとはいえ、荒い呼吸を繰り返し、どこか疑い深げな黒い目でこっちを見上げるこの子を引き離さないと外に出られない。

 裏門にたどり着いて、ちくちく短い毛の茶太郎の頭をひとしきり撫でてから、昨日夜食にと持ってきてもらっていたちくわを袂から取り出し、振りかぶって投げた。すぐに犬が走り去るときの軽い音が響き、辺りが静かに。今よ。


 くぐり戸を開いて急いで外に出る。


 通りは静かで誰もいない。当たり前だ、まだ陽も昇っていない。やればできるじゃない、私。

 申し分のないはじまりに頬が緩んだ。


「ふふ」


 みんな驚くだろうな。驚けばいいんだわ。風呂敷包みを胸に抱き顎を上げ、まだ暗い通りに向かい大きな一歩を踏み出した。


 屋敷のある宮坂から、市電の走る大通りまではしばらく徒歩が続く。名前の通り坂があるのを下ってゆくのだけどとても静か。

 この時間はこんななのね。時折、新聞屋や牛乳屋の気配を感じた。ばったり出くわしこそしなかったけれど、知らない間に見られていて家に言いつけられたりしませんように。顔を覗かせた不安を胸の奥に押し戻し、ぽつぽつ並ぶガス灯の明かりだけを頼りに足を早めた。


「わあ」


 緩やかに曲がりながら続いた坂を下りきる頃、陽がようやく昇りはじめた。どこかで鶏が鋭く鳴いている。元気ね。目覚めたばかりの街に満ちる、きりりとした清い空気が、しなびかけていた気持ちを勇気づけてくれた。さあ、大きな通りに着くまであと少し、歩こう。


 ◆◆◆


 市電の線路の走る通りには、通学のときほどではないけど人々がもう行き交っていた。馬車に人力車。ほんの時折自動車も。一番目立つのは自転車ね。こんな朝早くから働いているひとってたくさんいるのね。

 さすがに私みたいな学生風の子はまだいない。まあ、今日は土曜だもの、そのうち街に溢れるわ。

 市電が動くのを待っている間に追っ手がきたらいやだから、今のうちに少しでも距離を稼いでおかないと。せっかくだから、普段行かない道を歩いて。


 そう考え、大通りを渡って適当に目に付いた路地――もちろん人通りのある――に飛び込んだ。


「……」


 楽しい。


 間違いなく生まれてからはじめて歩く道。なんて自由なの。小さな商店が並んでいる。開いているのは豆腐屋だけだったけど、看板や店構えを眺めるだけで楽しくて気持ちが浮き立った。お出汁のいい香りもしていて……ここは蕎麦屋ね。空腹を刺激された。足が止まる。暖簾はなく、まだお店は開いていない。


 ……あとで戻ってきてお蕎麦を。


 だめだめ、今日は東彩楼に行くんだもの我慢しなくちゃ。頭を振って雑念を払い、数歩進んでまた立ち止まる。でも東彩楼はレストランじゃないわ。珈琲を飲むところだもの。朝ごはん、ちくわ。


 ちくわは茶太郎にあげたのよ!


 驚くわ。私って、一、二回まともな食事を抜いたくらいでこんなに食欲に振り回される人間だったのね。家出中だし、ここはまだ屋敷からそう離れていない。もっと遠くの蕎麦屋じゃなきゃ危な、いえ違うちがう、とにかくもっと遠くへ行くの。


 気を抜くと振り返ってしまいそうな自分がいたけれど、しばらく進んでお出汁が香らなくなったら平気になった。その頃には通りの先に小さな橋らしきものも現れていて、あそこを目指そうと決めたら空腹も気にならなくなった。そういえば、あのあたりには小川があったわね。

 日照りが続くと底の現れる浅い小さな川で、両脇に柳が植えられていて、家族で出掛けたときにたまに馬車で通る。ともすれば橋を渡ったと気づきもしないくらい小さな。ほら、あった。ここ、ここ。


 不思議なもので自分の足でそばを歩くと、川も橋もいつもより存在感を増して大きく感じた。きれいだわ、鳥もいるし、虫も鯉もいる。学校に行く前のひと遊び中なのか、各々手に持った棒で裏がえった亀をつついている子供たちまで。元気ね。


 ……。

 待って。

 裏がえった亀?


 足を止め、今の景色を頭の中で反芻した。


 可哀想じゃない。


「ちょっとあなたたち、おやめなさい」


 渡りかけた橋の上から子供たちに声をかけた。下にいる子供三人、みな男児だ。すねまで見える丈の短い着物を着ている。ひとり、奥にいた細い体躯の子供だけが顔をこちらに向けた。気弱そう。


「可哀想だわ、放しておあげなさいな」


 声を大きくして言うと、痩せた子は返事もせずに棒を投げ捨て走って行ってしまった。


「あ!」

「待てよ!」


 遠くなる背中に口々に呼びかけた子供ふたりは、次に私を狭い河原から振り仰いだ。不遜な顔つき。この子たちは気が強そう。一哉がふたりいるようなものね。一瞬挫けそうになったけど、相変わらず白い腹を晒したままな亀が可哀想だったから勇気を振り絞った。


「聞こえなかったの? その亀を川に戻しておあげなさい、今、すぐに」

「なんだよ、これはオレがみつけたんだ、オレのもんをどうしようとオレの勝手だろ?」

「そうだそうだ、ババアはスッ込んでろ!」

「はァァ? ばっ」


 婆あ?

 こんの悪餓鬼、私を婆あと呼びやがったわね! 怒りの炎が胸にともる。点って燃え広がって燃え盛った。


「恥を知りなさい! それが帝国男子の行いですか!」


 一喝すると、挑発するかのようにまた亀を棒でつつきはじめていた子供たちが、驚いた表情で動きを止めた。丸い石の転がる河原で、裏がえされた哀れな亀の手足だけがウゴウゴと動いている。


「……な」


 最初に反応をみせたのは体の大きな方の――といってもまだ十にもなっていなさそう――男の子。亀をつつくのに屈んでいた体を真っ直ぐ伸ばし、精一杯去勢を張った風な表情を浮かべた。鼻の穴がひろがっている。


「お前にかんけーないだろ!」


 それに勇気を得たのか、もうひとりも背を伸ばす。


「そ、そうだよかんけいないだろ!」

「あっちいけ!」


 なんて子たちなの。

 あっちいけ、あっちいけと口々にはやし立てる声を浴びても、亀を助けたい気持ちは少しも揺るがなかった。亀はまだ裏返しのまま。動かす足は空を掻いてなにもできないでいる、まるで私みたい。助けてあげなくては。

 ぐっとお腹に力を入れて口を開く。


「ここを立ち去るのはあなたたちの方よ! その棒を捨ててさっさと学校へお行きなさい!」


 風呂敷包みを脇に抱え直しながら右手を上げ、子供たちの後方を指差した。着物の袂が風に揺れる。


「偉そうに命令すんな誰だよ!」


 子供の片方が悔し紛れも露わに叫んだ。堤防の上を歩く人たちがぽつりぽつり足を止める気配を感じる。もうとっくに陽は昇り、帝国の首都、旭都の街は動きはじめていた。一刻も早くことを収めなければならない。誰か知人に目撃され、家に知らせを送られたらそれまでだ。


「そーだよ、誰だよ!」


 誰かと聞かれたって、おいそれと答えるわけにはいかな……。


「うちのばーちゃんみてーな話し方しやがって!」

「髪、ぐるんぐるん女!」

「……」


 ばーちゃん。

 髪。


「……瑠璃」


 なぜこんな、朝も早くから弱いものいじめを楽しむ子供に屈辱的な言葉を投げられないといけないのか。


「あ? なんだって聞こえねー!」


 気にしてる髪のことを言われひととき俯いてしまっていた心をぐいっと持ち上げ、橋の下に向かって声をあげる。


「瑠璃、藤乃宮伯爵家の瑠璃よ! いいから早くお行きったら! 家の者を呼ぶわよ!」

「はくしゃく?」

「バッ、華族だ! 逃げろ!」


 体の大きな方は伯爵が聞き取れたみたいで、顔色を変え棒を投げ捨て、もう一人の子の襟元を、着物が脱げそうになるくらい強く引っ張って川上の方に走って逃げて行った。脱兎のごとく、とはこのことね。勝ったわ。

 

 ふん!


 と息を吐いてからようやく周囲からの視線に気がついた。見られてる。亀を助けて早くここから離れなくっちゃ。


 草で滑りそうになりながら河原まで降りて、亀を助け起こしてあげた。ひんやりしていて、小さくて、かわいい。まだ子供なのかしら、それともこれで大人なのかしらね。


「もう捕まっちゃ駄目よ」


 水際にそっと置くと、亀はゆっくり手足を動かし歩きはじめた。怪我はしていないみたい、よかった。家出した身で家の名を出すなんて情けないけど、この子を助け出せたのだから良しとしよう。


「家にお帰り。私は家出中なのよ」


 最後に一度甲羅にそっと触れ、急いで上の通りに戻って朝の人の中に紛れた。

 悪餓鬼の暴言には腹が立ったけど、お陰で時間が潰せたわ。そろそろ市電が動いているはず。とはいえ。


 ぐるんぐるん。


 投げつけられた言葉が頭に蘇って、そっと手で髪に触れる。確かに今朝は膨らんでる。素早く家を出るのに集中したから、髪の手入れはちゃんとできなかった。おまけに今日は曇り空で大気も湿気ているし。雨になるのかもしれない。


 空を仰いで足を早めた。


「人が増えてきたわね」


 しっかりした目的地を目指すひとばかりの中で、ふわふわ動く私は我ながら異質だった。何度かすれ違うひとと肩がぶつかりそうになりながら市電の停留所を探す。


「あった!」


 あの路線よ、そうよね。そうそう。和子さんたちが言ってた。大きな通りの真ん中に鎮座する停留所が輝いて見える。心が浮き立った。もう何人も並んでる。


 ひとや車の往来に気を配って、よし、行こう! 勇ましく道路に踏み出したときだった。


「あ!」


 どん、と誰かにぶつかられ衝撃の強さに思わず目を閉じた。周りにはじゅうぶん気をつけたつもりだったのに、ひとりで歩くのは慣れないから……。


「あれ?」


 軽い。手の中の違和感に目を開ける。荷物がない。取られた!

 引ったくり! 叫びたいのに咄嗟の言葉が出てこない。


「あ、あ……!」


 書生風の男の背中が遠ざかっていく。きっとあの男だ。下駄を穿いてる。着物の袂と袴が風になびいて、男の足の速さを私に教えてきた。


「っだ、誰か」


 やっと声が出たときには男は人混みに紛れかけてしまっていて、もう、駄目かも。馬鹿みたいに荷物を奪われて、はじまってもいない家出がもう終わるんだわ。


「これ持ってろ!」


 と、突然、空になった手の中に今度は布が押し込まれた。上着だ。紳士ものの青みがかった灰色の上着。なんなの! 混乱する私の前で、まさにその上着を押し付けた男が駆け出して行った。目に鮮やかな、黄色い柄物のシャツの背中を風で膨らませて。

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