3. 家出の決意
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
背筋を伸ばし椅子に腰掛け、真面目な顔で英語の書かれた黒板と向き合いながらも、頭の中は後悔でいっぱいだった。
『できないのはお姉さまが一番ご存知でしょう?』
なんて。
物わかりのいい態度をしてみせず、素直にどうしたら縁談を向こうから断らせることができるか相談すれば良かった。
憧れの千代お姉さまの前だからって、つい格好つけてしまったわ。
縁談を断らせるのは可能なの?
放蕩者。沙織さまの発した言葉が耳に、頭に、脳にこびりついて離れない。あの声の大きな男の家というだけで我慢ならないのに、放蕩者ですって?
放蕩者、ってでも、具体的になにをするどういった人なのかしら。
「それはあれではない? 芸者遊びとか」
昼休みにさりげなさを装い学友たちに話題を振ると、視線を空に向けた和子さんが一番に言った。中庭の長椅子に三人並んで腰掛けている。抜けるような澄んだ秋の空にトンボがつい、と飛んでいた。
芸者遊びね、料亭三昧とかもかしら。そのくらいなら、と思いかけた瞬間を見計らったみたいに、
「賭場に酒場、色街通い!」
力強く続けたのは文枝さん。
横を通りかかった下級生の子が、ぎょっとした顔をした。聞かれちゃったじゃない。
なんとなく三人揃って咳払いして居住まいを正す。
「でもどうかしたの、突然殿方の話なんて」
「え? いえあの、今朝千代お姉さまに会って……」
千代お姉さまごめんなさい。
「お元気がなかったから、お相手がまさかそんな方だったらって心配になったの」
「下品な成金の放蕩息子なんて最悪じゃない」
文枝さんが、知らずとはいえ私の心をえぐる一言を投げてきた。下品な、成金の、放蕩息子との縁談が来ているのは私。
「縁談を向こうから断らせるってできないものかしら」
ぽつ、とつぶやくと、和子さんと文枝さんが真ん中の私越しに顔を見合わせた。
「成金に断られるなんてそれはそれで腹立たしいわ」
「そうね、千代お姉さまの評判に関わるもの」
千代お姉さまはね。千代お姉さまの評判は大切。だけど私の評判なんてどうでもいいわ。だって最悪の下品成金放蕩息子だもの。
「可能性としてはどう思って? ふたりとも」
お願いだからできると言って。最初に口を開いたのは文枝さん。
「可能性はあるでしょうよ、可能性はね。いついかなるときもどんな可能性もあるわ」
「具体的には?」
「それはね」
胸を高鳴らせながら尋ねると、文枝さんは周囲に鋭い視線を走らせてから声量を落として話しはじめた。
「妊娠よ。他の殿方の子を身ごもれば一発」
息を詰めて聞いていた私と和子さんが同時に天を仰いだ。そりゃあそうでしょうよ。
「そんなことになったらお姉さまの人生が終わってしまうわ」
「瑠璃さんが可能性だとか具体的だとか言うから言ったのに」
そんなに困難な道なの。空に向けていた顔を今度は地面に向ける。あ、蟻。小さな白いものを運んでる。いいわね、蟻に生まれていたらこんな悩みもなく……。
いえ、ダメダメ。私は藤乃宮伯爵家の瑠璃なのよ。最後まで諦めない。
「和子さんはなにか思いついて?」
「そういえばずっと以前に、士官学校に行きたくないと出奔した方が近所にいらしたの」
まあ、進学もある種の縁談とは言えるかもしれない。出奔、家出か……、いいわね。
「その方はどうなったの?」
文枝さんが私越しに和子さんに話の続きを迫った。そうね、そのあとのことも知っておきたい。
「どうって、知らないわ、そのままだもの」
「そのまま?」
私と文枝さんの声がきれいに重なった。
「出て行って行方知れずよ」
「ああ」
今度は私と文枝さんが、ふたり揃って天を見上げた。ひとりで生きていくなんて無理よ。
でも。
分からず屋のお父さまに、身売り同然の縁談がどれだけいやか理解させる助けにはなるかもしれない。そうよ、見合いの当日に家を出て、一日か二日行方をくらませれば、きっとわかってくださるはず。
お父さまがわかってくださらなくても、荒瀬の放蕩息子には伝わるわ。見合いをすっぽかされるなんて屈辱、まともな殿方なら腹を立てるに決まっている。
家出。これよ、これしかない。
静かな絶望に染まっていた心に希望が広がる。今日から家出の準備をはじめよう。へそくりを取り出して、小旅行の準備をしてもいいわね。上條の駅で指定の切符を買って。買い方は知らないけど駅に行けばなんとかなるでしょ。三日もあれば事足りる。
◆◆◆
「え? お母さま今なんておっしゃったの?」
意気揚々と帰宅した私を待ち受けていたのは、珍しく玄関先まで出てきたお母さまで、開口一番報告をしてきた。
驚きのあまり聞き返したけど、本当は一言一句漏らさず聞き取れている。お母さまは、お帰りなさいもなしに言った。
“明日の昼は荒瀬のご家族と月鱗荘で会食をしますからね”
これはつまり、明日の昼に見合いをするという意味だ。お母さまが言葉を繰り返し終わるのを待って反撃に出る。
「明日の学校は? 土曜なのに」
「半日授業でしょう休みなさい。知らせを送りますから心配いらないわ。着物は去年仕立てた友禅の振袖を着なさい。ほら、薄黄色の菊の」
「お母さま! あんまり急よ。私、承知していませんから!」
これ以上は話すのも嫌で、正面に立つお母さまを押しのけ通り越し足を進める。
「瑠璃さん、我がままを言ってお母さまを困らせないでちょうだい」
階段の下からお母さまが呼びかける声だけが追ってきた。我がまま? 我を押し通そうというのはお母さまたちじゃない。
我慢ならない。明日の朝驚くといいのよ。絶対に家出を成功させてみせる。
自室に入って扉の鍵を閉め、鼻から熱い息を吹き出しながら部屋をぐるりと見渡した。トミがいつ来るかわからない、気づかれないよう用意しなくちゃ。
へそくり、着替え、櫛。待って、足袋も替えたい。本も持って行こうかしら、課題の刺繍も必要よね。
「多すぎる」
用意をしていたら広げた風呂敷の上に山ができ、途方に暮れた。しかもちょうどそんなときに、誰かが扉を開こうとして鍵に阻まれた音がした。ノックもなしに入ってくるのは我が家では弟だけ。
「姉さーん、開けて」
コココココ、と小刻みに扉を叩く音に苛立ちが募る。なによこの音。餌をつつく鶏さながら。
「着替え中なの! あとにして」
そう言うとやっとノック音が止んだ。でもまだいる。
「明日の予定聞いた?」
「聞きました。月鱗荘でしょう」
「楽しみだ」
「あなたも来るの?! 学校は?!」
「半日だから休んでいいって。噂の荒瀬の長男、僕も会いたいんだよね。噂通りの馬鹿息子ならどんな……」
好奇心を隠そうともしない一哉の態度に我慢の限界が来た。纏めた荷物の一番上にあった本を一冊持ち上げ扉に向かって投げつける。
「うわ! びっくりした」
角を当てたわけじゃないからそんなに大きな音はしなかったのに、一哉は妙に大袈裟に驚いた声をあげたあと、二、三、私の悪口を並べ、それからやっと立ち去った。
なにしに来たのよ。あの子も来るなんて最悪。投げた本を拾いに向かいながら、家出への決意が固まるのを感じた。そうよ、弟が来たからなんだっていうの。そこに私はいないのよ。
「投げてごめんなさいね」
拾った本をそっと撫でながら呟いて、本棚に戻した。荷物を減らさなくちゃ。一日くらい本がなくても平気。他にも必要のないものはあるはずだわ。
「もう、着替えもいらない」
襦袢を荷物の山から外し横に置いた。鏡と櫛と手ぬぐいは持って。課題の刺繍も置いていけない。次の月曜日が提出期限なんだもの。
「これでよし」
小振りになった風呂敷包みを寝台の下に押し込んでほっと息をついた。次の夜明け、まだ皆寝静まっている間にここを出て行く。
朝ご飯は我慢しなくちゃいけないから今日のうちに沢山食べておこう。それで明日お腹が空いたら、東彩楼に行けばいいんだわ!
「楽しみ」
なんだか遠足の前の晩みたいな気持ちになってきた。