2.荒瀬商会の放蕩息子
「姉さま見合い話聞いて卒倒したんだって? 笑える」
夕食のとき、弟がの椅子を引き座りながら耳元で囁いた。すぐに睨んだけどどこ吹く風。小さな時は可愛かったのに、十三になったばかりの弟は最近いやに生意気だ。
「井上先生のレッスンどうだった?」
「いつもと同じ」
意地悪を聞き流し尋ねると、白布巾を広げ、襟元にねじ込みながらぶっきらぼうに答えた一哉は気怠げに後ろに顔を向けた。弟の、背中の真ん中あたりで切りそろえられた長髪が嫌みったらしくさらりと揺れる。
「もうパン出して。出掛けたから空腹だよ」
なんで弟がこんなにきれいな直毛で私が癖毛なの。
少し離れた席に座るお父さまとお母さままでが恨めしい。両親揃って一哉と同じ髪質で、弟がどちら似なのかもわからない。私の癖毛は父方の祖母から受け継いだものらしいけど、そんなのはいらなかった。
「大先生にも、うちまで来てもらえないの? 月に一度でも面倒くさい」
「あなたの年で帝国音楽院に堂々と入っていけるなんて名誉なのよ、我慢なさいな」
「出た、お母さまの見栄っ張り」
パンを千切らずかぶりついた一哉が生意気を言ったのに、お母さまは気にした風もなく、スープを掬ったスプーンを口に運んでいる。私だったら叱られるところだけど、跡取り息子だからと甘やかされている弟はお咎めなし。
「そういや、市電から姉さまの学友たちを見たよ。桔梗通りを楽しげに歩いてた。誘われなかったの?」
「誘われたわよ。桔梗通りには行けないから断ったの……ってあなた市電に乗ったの? いいのお父さま?」
問いかけに、お父さまはこっちを見もせず、ただ両方の眉をヒョイと上げた。いいってことだ。
「帝国男子として逞しく成長して貰わねば困るからな。どこへ行くにも馬車では足が萎えてしまう」
「私は駄目なのに。市電も駄目、華やかな繁華街への寄り道も駄目。それなのに下品な成金との縁談だけは許可されるのね!」
「お前は真実金のない苦労を知らんだろう。荒瀬へ嫁げばその心配はなくなるんだぞ」
「真実お金のない苦労なんてお父さまだってご存知ないでしょ?」
「瑠璃。食事中よ、落ち着きなさいな」
お母さまが白布巾で口元を押さえ気取って言った。いいわよね、お母さまは。男爵家から伯爵家に嫁いできたし、髪もまっすぐ。私の気持ちなんてわかるはずがない。
「成金のところなんて行きたくない! あんな声の大きな男が舅なんてイヤ!」
「荒瀬? 荒瀬ってあの荒瀬? 飛ぶ鳥を落とす勢いの荒瀬商会? 姉さま凄いじゃないか、すごい金持ちだ。はは、これで我が家も安泰だね」
一哉の言葉を聞いた瞬間、「身売り」の文字が頭に鮮やかに浮かんで、前振れもなく涙が溢れ出した。
「え」
一哉が引いている。自分でも驚いた。膝の上の白布巾を苛立ちの任せるまま強く握り持ち上げ、でもそっと食卓に置いた。そうしたら気持ちが落ち着くかと思ったの。駄目だった。
「気分が悪いので部屋に戻ります」
「わかった」
「失礼します」
お父さまの返事を聞いてから立ち上がり、食堂をあとにした。
私は売られるんだわ。
◆◆◆
「お早う。どうかした? なんだか元気がないじゃない、あなたらしくない」
翌日、いつもより早く登校して教室にいたら、文枝さんがやってきて前の席に座って言った。いつも通りのきっちり編まれたおさげ姿にほっとする。そこ、別の子の席よ。とは思ったけど言わずにおいた。
この時間の教室は薄暗く、登校してきた子もまだ少ない。教卓の上の橙色の千寿菊だけが救いみたいにぼんやり明るかった。
「昨日、桔梗通りにいるのを一哉が見たって言っていたわよ」
「一哉さまが? いやだあ、私たち馬鹿みたいにはしゃいでしまってたのよ」
文枝さんの問いに答えずはぐらかしたのだけど、不審がられず話題が変わってくれた。
「楽しかった?」
「そうね、いつも通りよ。でも、次はミルクホールにしましょって話してたの。だって東彩楼にはね」
ここで文枝さんが体を寄せてきたので私も耳を傾けた。
「バナナミルクがないのよ」
「ふふ」
こそ、と囁かれた打ち明け話に笑うと、彼女も笑った。
「あら、笑わないで。背伸びした珈琲も良いけれど苦くって。あればかり飲んでたら顔がしわくちゃになっちゃう。だから次は一緒に寄り道しましょう?」
優しいのね、私も行けるように話し合ってくれたに決まっている。
「約束ね?」
「ええ、約束」
顔を見合わせて微笑んだとき、女学生の一団が登校してきて教室が俄かに騒がしくなった。前の席の子も来て、文枝さんも立ち上がって自分の席に戻ってしまった。
そういえば、花のお水をまだ誰も取り替えていないわ。たまには私が行こうか。ふと思いついて立ち上がり、花瓶を抱えて教室を出た。
「お早う藤乃宮さん」
「瑠璃お姉さま、お早うございます。お花、綺麗ですね」
「お早う」
大勢とすれ違いながら水道を目指したのだけど、目的地の前で何人もの子が固まってお喋りしているのが目に入ったから、直前で角を曲がった。目が赤いのに気づかれたくない。
外のポンプ式井戸を使おう。
ちょっと遠いけど静かだし、今の気持ちには丁度いい。
秋の葉が色づく頃の独特の匂いがする、学舎脇の小路を進む。進むほどに金木犀が強く香った。夏の虫はいなくなったけれど、トンボや蝶が飛んでいる。
「っしょ……ごめんなさいね」
ポンプの下の水溜まりに蝶がやってきていた。そっと指でどかしてから、花瓶の水をかえる。水が冷たくて心地いいわ。編み上げ靴の先が濡れても気にしない。
「お水美味しいでしょう。まだしばらく咲いていてくれて?」
水替えを終え千寿菊に話しかけると、どこかから潜めた笑い声が聞こえてきた。誰かいたんだわ、聞かれてしまった。頬が熱くなる。
花瓶を抱えてあたりを見回すと、金木犀の木の大きな茂みの影から、千代お姉さまが姿をみせた。
「可愛らしいお友だちね。ご挨拶させていただける?」
「はい」
真っ直ぐな黒髪を肩から垂らした千代お姉さまは、お人形みたいに綺麗だった。でも目が赤い。
「きれい。この花、私たちみたい」
隣に並んだお姉さまが指先で花びらを優しくつついた。艶やかにに磨かれた爪が桜貝みたい。猪川鉄鋼……鉄工所なんてやっぱり千代お姉さまには不似合いだ。
「目が赤いわ」
顔をのぞき込まれ心臓が跳ねる。お姉さまも赤いのに。
「眠れなくて」
「そうなのね。私も」
笑ったお姉さまの顔が寂しげで、花瓶で揺れる丸い花に重なった。
「瑠璃さんも、もうご存知なんでしょう? 私の縁談話」
視線を千寿菊に落としたまま、千代お姉さまがぽつりと言った。
「は、い」
知らないというのも難しく正直に答える。お姉さまの唇が小さな微笑みを形作ったけれど、とても笑っているようには思えなかった。
「昨日聞きました」
「仕方がないのよ」
「でも」
まるで自分に言われているみたいに感じて否定の言葉を舌に乗せたものの続かない。断れないんですか? なんて聞いたところで、親が乗り気なら断れるわけがないんだから。
薄く開いた唇を持て余して……閉じた。
「お金持ちなんですって。我がままを言って歌劇場を買っていただこうかしら」
す、と息を吸ったお姉さまが、表情をよそ行きのものに変えて話しはじめた。気持ちを切りかえたというには、どこか投げやりな声音。
「お姉さまは観劇がお好きですものね」
「ええ。『天駆ける戦乙女』ご覧になった?」
「いえ」
「とても素敵よ!」
胸の前で両手を叩き、ぱちんと音をたて笑った千代お姉さまは、でも、そのあと花が萎れるみたいに急に元気をなくした。
「観劇を許してくださるかしら」
「まさか、そんな自由くらい」
そこまで言って言葉に詰まる。もし厳しいお宅だったらわからない。そんな細かな事柄についてなんて、私たちにはわからないのだ。それこそ祝言をあげて相手の家に入るまで。
「もう、お会いになられた、んですよね? 観劇のお話は出来なかったんですか?」
馬鹿な質問。できていたらこんな顔してるわけがない。それでもそれしか言葉がみつからなくて怖々聞くと、お姉さまは小さく頷いた。
「一言も、口を、きいて、くださらなかったから……それどころか私を見てすら……だからなにも……」
「え」
秘密を打ち明けるささやき声は震え、お姉さまの目からは涙がこぼれ落ちてきていた。無視されたっていうの?
沈黙。
風が木々の葉を揺らす乾いた音に混じって、みんなの楽しげな声が遠く届いている。もうすぐ予鈴が鳴る。
「……だったのよ……冗談じゃない。荒瀬の息子は放蕩者だっていうじゃない」
と、すぐ横の校舎から声が響いてきた。こっちに歩いてくる誰かが話している。今、荒瀬って言った? 放蕩者?
「おじさま、断ってくださって?」
「当たり前だわ。そもそもなぜわたくしが新興成金に嫁がねばならないの、うちは子爵家なのよ」
子爵。ならこの声は越田家の沙織さまだ。馬鹿ね、荒瀬。先に越田さまに話を持ちかけたの。越田家はお金に困ってない。そんなに華族の家から嫁が欲しい?
「だけれど、もう一年も前のお話なのでしょう? なぜ今になって教えてくださるの?」
「恥ずかしかったのよ、縁談を持ちかけられただけで。うちでは今でも荒瀬の名前は禁句よ。でもね、藤乃宮さまが荒瀬と柳沢橋の料亭にいるのを見たってお兄さまが言うものだから」
「藤乃宮って瑠璃さんの?」
「そうなのよ、おかわいそうだわ瑠璃さ……」
予鈴。
はっ、と夢から覚めた心地になって、隣の千代お姉さまと目を合わせた。沙織さまたちも行ってしまったみたい。
「瑠璃さん」
「行きましょう、授業に遅れてしまう」
「お、お断りできないの? 瑠璃さん」
気遣わしげなお姉さまの声に、吹き出して笑ってしまった。
「できないのはお姉さまが一番ご存知でしょう?」
そう言うと、まだ頬に涙の跡の残るお姉さまは、彼女には珍しい、苦笑いを顔に浮かべ首を傾げた。