19.最終話 藤乃宮瑠璃
「ありがとう」
お蕎麦屋の暖簾をくぐって表に出ながら、先に立っている誠士郎の背にお礼を言った。うしろからお出汁の香りが追いかけてくる。
「久しぶりの逢瀬だってのにこんな路地の蕎麦屋でよかったのか?」
そう言って振り返った彼は、どこか満足げだ。
逢瀬って。確かにまだ正式な婚約発表はしていないけれど、お互いの家に意志は伝えたあとなのに。
「ここに来たかったの。いい匂いがしてたんだもの。思った通り美味しかった!」
宮坂の屋敷から、秋の色濃い草花に飾られた道々を二人でのんびり歩いてやって来ていたのは、家出の日に食べられなかったお蕎麦屋だ。
「ああ、そういやあ、あんたここで行きつ戻りつしてたな」
「そんなにはウロウロしてない」
「厠に行きてえのかなって心配した」
「無用の心配だわ!」
叫んでから、大きなため息をもらした。なんだかんだ、彼はあの荒瀬の息子なのよ。一緒に過ごす時間が増えてからわかってきた。まあ、だからといってもう彼と離れる気はない。乗りかかった船よ。
「あ、ねえ、せっかくここまで来たんだから、あそこに行きましょうよ」
「ん?」
「はじめて出会った河原」
言うと、誠士郎がごほっと咳き込んだ。
「まだその話引っ張るのか」
「そりゃあそうよ、あなたがはじめたのよ。ふふ、亀だ、なんて言って」
あのときの彼の微妙な表情を思い出し、指先を唇に当て笑っていたら、ひょい、と誠士郎に顔を覗き込まれた。
「早急に忘れて欲しいが、ま、あんたのその笑い方が見れるなら我慢するか」
「え?」
「それ、好きだ」
「えっ」
ぱっ、と手を下げて笑みを消す。どうしよう頬が熱いわ。恥ずかしい、こんな往来で。
「なんでやめるんだよ」
「恥ずかしいからよ!」
彼を後ろに置いて大股で進む。今日も洋装だから――誠士郎さんに会う、と言えば、お父さまが洋装での外出を許してくれるようになった――動き易い。
「待てって」
でも誠士郎はすぐに追いついてくるのよね。彼から逃げるなんてきっともう無理なんだわ。そう思うと、なぜかじんわりと幸福感が胸に広がった。
「あの悪餓鬼ども今日はいないな」
ふたりで歩いていると、すぐにあの橋の上にまで来れた。今日の河原には誰もいない。トンボが何匹か水面をつい、と飛んでいるだけだ。
「曜日も時間も違うものね。いて亀を虐めていたら、今日はあなたがどやしつけてくれたの?」
「俺がやったら警官が飛んでくる。あれはあんたの仕事だ。ただし藤乃宮の名前は出すなよ」
「わかってるわよ」
「まったく、“私は藤乃宮瑠璃よ!”って言うあんたを何回見たか」
「大袈裟ね、せいぜい二回よ」
「二回なわけあるか。まったく、あっちで名乗りこっちで名乗り、これじゃあすぐ俺たちが恋仲だって噂んなっちまう」
「こっ」
恋仲って。そりゃ、こ、恋仲だけど……まだ、あの応接室で手を繋いだだけだわ。前に和子さんがこっそり学校に持ってきた小説に書いてあったあれこれは、なにひとつしてない。
「そこで黙り込まれると俺が恥ずかしいだろ」
「じゃあ言葉に詰まるようなこと言わないで!」
きっと顔が赤くなってるわ。
「はは。もういいだろ、まだ早い、どっか行こうぜ」
そこで黙った誠士郎は、しばらく宙を睨んで考える素振りをみせた。彼はいつもこうして、私が楽しめるように考えてくれる。
「よし、いい場所を思いついた」
「時間は大丈夫? 忙しいのでしょ?」
「今日はあんたのために一日空けてきた。気にすんな」
一日。ずっと、遅くまで一緒にいられるのね。嬉しい。
「来いよ」
◆◆◆
「ふふ、これじゃまったくあの日の再現じゃない!」
両腕を広げて、奥に続く防波堤を歩きながら後ろを振り返る。あの日より風が強い。前から潮風が吹きつけて、髪もワンピースの裾も浚っていく。ゴウゴウと風の音がうるさくて、自分の声もよく聞こえないくらいだ。誠士郎がなにか言ってる。
「なーにー?!」
彼は口の横に右手を添えて、左手は下を指差している。スカート?
「あ!」
捲れてる! 膝が丸見え。
慌てて手で押さえると、ようやく誠士郎はほっとした顔をして腕を降ろした。
「まさかこんなに風があるとはな」
はは、と笑いながらやってきた誠士郎が私の前に立ってくれて、それでやっと髪も服も暴れるのをやめた。
「ごめんなさい、洋装で海に来たのは初めてだったから。はしたないところをお見せしてしまった」
「なあに、役得だ」
「なに言ってるのよ」
くすくす笑いながら彼の背にぴったりくっついて先に進む。あー、髪がすごい状態になってるわ、きっと。誠士郎が向こうを向いている隙に、と手で髪を撫でつける。また風に吹かれたらすぐ膨らみそうだけど。
「あー……海はいいな」
堤防の端まできたとき、誠士郎が独り言みたいに呟いた。彼の後ろから顔を覗かせると、先に、この間より波の高い海が横たわっていた。白波があちこちにたっている。今日は遠くに船の姿もない。
「怖かったことはないの?」
ふと思いついて彼に聞くと、誠士郎はしばらく黙ったあとに答えてくれた。
「ある。嵐の日や、正体のわからない船と対峙したときは震えたね」
「それでも海は好き?」
「ああ」
短く答えた彼が、また黙り込んで海を見つめはじめる。
「軍に、戻りたい?」
「え?」
なんとなく気になっていたことをやっと口にできた。海の上の話をするときの彼はいつも楽しそうだったから。
「ずっといたかった?」
「そうだな。士官学校を出て、我慢して努力して、絶対に少将にはなってやるって、やってきてたってのに」
「荒瀬少将?」
彼の横から顔を出して見上げて聞くと、誠士郎がにや、と笑って、私の額をとん、と親指でつついた。
「冷えてるな、寒いか?」
「ちょっとだけ」
「着ろよ」
脱いだ上着を渡されて、こっそり、これもあの日の再現だなって思ったけど黙ってた。荷物を盗まれた間抜けな私をわざわざ話題にしたくないもの。
「ありがとう」
大きな上着に袖を通すと、彼の体温と匂いが残っていてとても暖かかった。彼に守られているみたい。
「暖かい。誠士郎は大丈夫?」
シャツにベストの姿になった彼に尋ねると、肩を抱かれた。
「少し寒い。暖を取らせてくれ」
「ちょ」
こんな所で。
焦ったけど、周囲に人影はなかった。私たちがちょっとだけくっついていたって、誰にもわからなそうだ。
「ほら、座ろうぜ。まだここにいたいんだ、付き合ってくれ」
「わかったわ」
肩を抱かれ、彼の胸の中に収まりながら答える。波の音と、風の音と、あと微かに彼の心音が聞こえていた。邪魔な音がなにひとつない、ここはなんていいところなんだろう。
「腹をたててる?」
「え?」
「船を降りなきゃいけなくなったの」
水平線を見つめ聞いた。あの水平線の向こうにいたんだ、この人は。何ヶ月も、もしかしたら何年も。この、今立っている地続きのところに彼がいなかったなんて信じられない。
「最初はムカついてたさ。ま、兄貴にだ。昔から問題ばかり。いなくなるならもっと早くいなくなっとけ、あの屑」
「戻れるなら、戻りたい?」
「え?」
「お兄さんが反省して戻ってきたりしたら、軍に戻る?」
もしもの話だっていうのに、口にしているだけで怖くてどきどきする。もしそれが本当になったら、この縁組みはどうなるんだろう。
「軽い決意で辞めた訳じゃない。荒瀬の跡取りとしての立場は二度とあいつに戻す気はない」
「ほんと?」
「ああ」
力強い返事にほっとする。よかった。嬉しくて、つい彼の胸に額を押し付けた。
「おっと、なんだよ」
力が強かったのか彼の体が揺れる。
「ごめんなさい。あなたが陸に帰ってきてくれて嬉しい。軍人さんは、そりゃ立派な仕事だし素敵だけど、いやだもの。危険だし。何ヶ月も船に乗るのでしょ? 歩いてたどり着けないところになんていないで、誠士郎」
「瑠璃」
話しながら彼を見上げると、彼も私を見つめていた。彼の瞳が海の光を映して煌めいている。
「私泳げない、会いに行けないじゃない」
距離の近さもあって、恥ずかしくなって冗談めかしてそう言うと、誠士郎が破顔した。
「はは! 船で来いよ」
「乗るの怖いわ」
「次の夏は泳ぎの特訓だな。浜倉に別荘がある、そこで過ごそう」
次の夏って、まだ卒業もしていない。お父さま許してくださるかしら。
「浜倉の別荘なんて素敵ね、うちはないわ。お祖父さまの時代には持ってたらしいけど、浜倉にも」
「買い戻してやるよ。それで祝言をあげたらあんたにやる」
「ええ?! もう、またそんな成金仕草」
「いいだろ。どうせなにしたって成金って言われるんだ。馬鹿みたいに働いて商会をでかくして、国一番の贅沢させてやるからな、瑠璃」
誠士郎はいつの間にか、私じゃなくて海を見つめて話していた。約束というより、夢を語ってくれているみたい。
「いいわね。上華港にも支店を構えるのでしょう? 行ってみたい」
「ああ、行こう。それまでに泳げるようにならなけりゃな」
「そうね、向こうの言葉も覚える。あなたの助けになりたいもの」
「教えてやろうか」
「話せるの?」
「当たり前だろ、俺は優秀だったんだ」
知らなかった。まあ、今までそんな話にならなかったから知らなくて当然なんだけど。でもそんなの知らされたら。
「ほんとうに私でよかった? 商会を大きくするなら、もっと優秀なひとに嫁いできてもらった方がいいんじゃない?」
心配になっておずおず尋ねると、肩を抱く彼の手に力がこもる。
「あんたがいい。あんたに贅沢させてやるのが一番面白そうだ。働きがいがあるだろ、それに」
「それに?」
「名前もいい」
とってつけた理由に可笑しくなる。
「瑠璃色がどんな色が知ったのついこの間じゃない」
「だったらなんなんだ、とにかく気に入った」
そう言った誠士郎が、そっと手を持ち上げると、私の下唇を親指で撫ではじめた。
「俺の隣にいろよ」
「な、なにかついてる?」
飛んできた虫とか……。
「なにも。いやか?」
「いやじゃ、ないわ」
「そうか」
顔を見つめる彼に何度も撫でられ、どんな顔をしていればいいのかわからなくなってくる。いいのか駄目なのかもわからない。
「皮がむけちゃう」
「ささくれなんてひとつもない、きれいな唇だ」
きれい……。
胸が高鳴る。前に上級生のお姉さまが、蜂蜜を塗ってるって。真似しておいたのが良かったのかしら。すぐ舐めちゃうから意味はないなって思ってたけど。
「……」
まだ触ってる。
誠士郎だけ好きにしてずるい。私だって彼に触りたい。好奇心に動かされるままに、人差し指を彼の唇に押し当てた。誠士郎の体がびくっと揺れ、固まる。私の唇に触れていた彼の手が動きを止めた。
「柔らかいのね、男のひとの唇、も……」
と、口にしている途中で天啓を受けたみたいに気づいた。これって、口づけだ。私たち口づけをしてる。違うのに、そうだとはっきりわかる。
「あ、の、私」
熱い物に触れたみたいに彼の唇から手を離した。誠士郎が私に触れる指はそのままだ。どうしよう、少し怖いのに彼の顔が近づいてく……。
体に力を入れて、ぎゅっと目を閉じた。
一秒、二秒、なにも起こらない。
ふ! と額に息を吹き付けられ目を開くと、しょうがねえなあとでも言いたげな誠士郎の顔があった。眉尻が下がって苦笑いしているの。
「なにもしない。そろそろ帰るか」
嘘のない声にほっと力を抜いて、それからだ。残念だって気持ちがわいてきたのは。そんな自分に驚く。残念ってなに。
「遠いな」
先に立ち上がって、お尻を叩いて汚れを落としている誠士郎が呟いた。
「なにが遠いの?」
彼を見上げ尋ねると、優しい表情の誠士郎が見下ろしてきた。
「あんたの卒業」
「私の」
卒業。それは即ち、私たちの祝言を意味する。千代お姉さまや越田の沙織さまと同じ。ただ私は一年遅い。だから今から数えたら……。
「まだ一年半も先だものね」
「一年半。待つには長すぎる」
「卒業はしたいの。中退はいやよ」
彼の言葉に不安になって、急いで立ち上がって訴えた。というのに、誠士郎は眉根を寄せた妙な顔をしただけだった。
「誠士郎、お願い」
彼の腕に手で触れ頼むと、誠士郎が大きな大きなため息をついた。
「そういうことは言ってないんだ、これが。もちろん、きちんと学んで卒業してくれ」
「よかった!」
でもそれじゃあ、さっきのはどういう意味だったんだろう。卒業までが遠いっていう話じゃなかったの?
???
疑問符が頭にあふれたけど、誠士郎が手を握ってきたから考えるのをやめた。
「ま、考えていても仕方ないよな、行こう」
手を引かれ、防波堤を戻りはじめた。もう帰るのかしら。
「どこに? ダンスホール?」
まだ別れたくなくて、絶対駄目って言われるのはわかっていて提案すると、案の定、誠士郎がじろ、と強い視線を送ってきた。
「瑠ー璃」
「だあって、あなたにタンゴまた教えて欲しいんだもの」
楽しかった。
「じゃあ、うちに寄るか? フウカも喜ぶ」
「行く! 晶子おばさまに大福を買って帰りましょう?」
誠士郎のお母さまは大福が大好きで、買っていくとすごく喜んでくださるのよね。辰巳屋の豆大福にしようかな。私も食べたいし。
そう思ったのに、
「あー、両親、今夜は留守だ。親父の腰痛で、湯治に行ってて」
誠士郎からは歯切れの悪い答えが返ってきた。
「そうなの」
じゃあ、お屋敷には誰もいないんだ、使用人以外。あ、フウカはいるわね。
「それでもいいか?」
「それでも行っていいの?」
声が重なる。沈黙。黙ったまましばらく防波堤をそのまま進んだ。繋いでいた手から力が抜け、指が絡んだだけになる。それを、どちらからともなくまた繋ぎ直した。視線が絡む。
「来るだろ?」
「もちろん」
私たちを後押しするみたいに、海からの風がぐいぐい背中を押してくる。陸で生きろよ、って言われてるみたい。誠士郎の大きな手をぎゅっと力いっぱい握った。
もう海には帰さないわよ。
水の底の宮殿から迎えが来たって追い返してやる。
私は藤乃宮瑠璃なんだから。
―完―




