18.タンゴ
「今はその、できれば、もちろん無理にとは言わないが、瑠璃、あんたに」
「この人、なんの権利があって僕の姉さまを呼び捨てにしてるの」
亀次郎の次の言葉を待っていた耳に、なぜか一哉の声が混じって聞こえた。幻聴? でも亀次郎も変な顔をしてる。
「瑠璃、瑠璃って婚約者でもないのにさ」
幻聴じゃなかった。
ずかずかと入りこんできた一哉が、向かいのソファに腰掛け私の林檎のパイのお皿に手を伸ばし持って行って膝に乗せた。
「一哉! レッスンは?」
「厠に行くってでてきた」
「離れにもあるでしょ!」
「こっちの方が綺麗じゃないか。僕は離れに拘束の身だっていうのに、姉さまは男とお茶。いいね気楽で」
フォークを取り上げパイを器用に切り、口に入れている。ああ、私のなのに。亀次郎はいいな、丸ごとあって。と、亀次郎の前のお皿に目をやって亀次郎がいるのを思い出した。そうよ、お客さまなのに。
「一哉、お客さまにご挨拶。かめ……誠士郎さんごめんなさい。弟の一哉よ、生意気でどうしようもないの」
隣の彼に体を向ける。この態度だもの、てっきり気分を害したと思ったのに、
「誠士郎さん?」
「ん?」
彼は楽しそうな顔でお茶を飲んでいた。腹を立てた様子がないのはいいけれど。
「笑ってるの?」
「この年頃はこんなもんだ。姉さんが好きなんだな、悪かったよ。急に男が訪ねてきたって聞いて心配になったんだろ?」
「んなっ……そんなじゃない!」
一哉がお皿を机に乱暴に置いて立ち上がった。
「わざわざ姉さんの無事を確かめに来た、いい弟だよ瑠璃。うちに来る前にたくさん可愛がってやれよ」
亀次郎が話すごとに一哉の頬が赤くなっていく。
「お父さまに言うからね、荒瀬の息子が姉さまとふたりきりになりに家に来てたって」
「一哉、お父さまは飛び上がって喜ぶわよ」
「っ! もう戻る、なんだよこのパイ、シナモンが入ってる。嫌いなんだよ! 選曲も俗だし、こんな空間繊細な僕には耐えられない」
ふん! と踵を返した一哉の背で、ひとつに結ばれた髪が揺れる。そのまま振り返りもせず弟が部屋を出て行ったのと同じにレコードの曲も終わりを迎え、部屋が急にしん、と静まり返った。
「きっちり食って行ったな。俺の食えよ」
亀次郎が彼の林檎のパイのお皿をこっちに押してきた。
「それとても美味しいのよ?」
「じゃあ一口もらう」
フォークを取り上げた亀次郎が、手早くパイを一口ぶん切り取って口に入れ、頷きながら食べている。よかった、美味しいみたい。
「ね? 美味しいでしょう?」
彼の手は止まらず、もう一口ぶんフォークに刺している。食べたくなったのかな。
「食べていいのよ、また持ってきてもらえば――」
「ん、ほら」
パイか刺さったフォークがこっちに向けられた。
「ほら早く、崩れちまう」
確かに、フォークに刺さったパイはぐらぐらしていて今にも分解して落ちてしまいそうだ。首を伸ばして、ぱく、とそこに食いつくと、亀次郎が私の口からそっとフォークを抜いた。抜いたそれを私の右手に握らせる。
「皿、ここに置くぜ」
お皿は私の前に。舌に乗ったおいしい林檎を味わいつつ、彼の使ったフォークを使っちゃった、って気持ちで頭の中はいっぱいだった。前は私の使ったカップを彼が使って、今日は。
「レコードかけていいか?」
だけど彼にはそんなの、なんでもないみたい。大人ね。色んな経験があるんだわ。胸がちくっと痛む。苦い気持ちとともに甘酸っぱい林檎を飲み込んだ。
「ええ。タンゴのをまだ聴けていないの」
「そうか。だがタンゴって雰囲気でもないんだよな」
雰囲気。そんなの気にするひとなんだ。立ちあがって蓄音機の前に立った亀次郎が、レコードをしまった棚を物色している。
「古典ばかりだな」
「そうなの」
「お、ラウンダートの曲。これは軽やかで品がある」
「タンゴは駄目なの? それ聴いてみたい」
「タンゴか」
「いいじゃない、ね」
急いでパイをもう一口食べてから立ち上がり、棚からレコードを引き出している彼の手を押さえ、もらったタンゴのレコードを差し出した。
「そこまで言うなら」
「どんななの? 大人はこれで踊るのでしょ? 文枝さんが言ってた。あなたは踊れて?」
「ああ。上官が洒落た男で散々仕込まれた」
「教えてくれない?」
渋々、といった調子でレコードを取り出す亀治郎を見上げ頼むと、レコードから私に視線を移した彼がふっと表情を和らげた。
指が伸びてきて私の唇の端をこする。
「やだ、ついてた?」
「ついてた。こんなお嬢ちゃんに踊れるかな」
指の腹についたパイの欠片を床に落とした亀次郎に言われむっとした。
「踊れるわ。ワルツもポルカも踊れるもの。先生にも飲み込みが早いと誉められたのよ。それより床に落とさないで。荒瀬のひとはうちにくるたび床を汚していくんだから」
「なんだよ食えばよかったか?」
ははは、と私の憎まれ口を笑ってかわした亀次郎が、タンゴのレコードを回転盤に置いた。ハンドルを握った彼が動きを止める。
「タンゴは、労働者たちの間で生まれた音楽だ。お上品なワルツとは勝手が違うからな、後になって文句を言うなよ」
「文句ってなによ……あ」
「ここじゃ狭い、こっちだ」
ハンドルを回しレコードに針を置いた亀次郎に手首を掴まれ、大窓のある方へ連れて行かれた。ワンピースに着替えていてよかった。
「左手を俺の肩に。右手はこっち」
プツプツ、と音楽のはじまる前のレコードの音を後ろに、手早くはじめの姿勢を指示される。言われた通り手を置くと、腰に降りてきた彼の手に力がこもり、ぐ、と体を密着させられた。彼の体の熱が伝わってくる。
「っこ、こんなに近いの?」
予想外の距離に頬が熱くなった。そりゃ、立ち位置が少しずれているからそこまでぴったり重なっているわけじゃないけれど、顔が近くて恥ずかしい。
「そうだ。膝を軽く曲げろ、そう。二拍子。リードするからついてこい、転ぶなよ」
口早に彼が言い終わったとき、はじめて聞く不思議な楽器の音が部屋に響いた。空気が抜けるような音と一緒に切なげな音楽が鳴る。
「これ……」
「バンドネオン。手で動かすふいごみたいな楽器だ、面白いぜ」
「演奏できるの?」
「触っただけだ。話より踊ろう」
腰を抱く手にも右の手を掴む指にも、強い力が入っている。曲に合わせて彼が体を揺らしはじめた。こう、かな。真似をすると、亀次郎が微笑んだ。彼の足が前に出て迫ってくる。はじまった。私たちが動くのに合わせたみたいに、バンドネオンにピアノの音が被さる。大丈夫、なんとなくわかるわ。
「きれいな曲」
「ああ」
応接室の光源は窓から差し込む光だけ。陽光が床に描きだした窓の形の影を踏みながら見よう見まねのステップを踏む。
「あ!」
曲の盛り上がりと同時に突然、彼が覆い被さるように動いてきたので驚いて背をそらした。
「なにするの」
「それでいい」
姿勢を戻して文句を言うと彼は笑い、今度は私を放り出すようにぽいと放した。手は繋いだまま、なに、急に。
「亀次郎!」
驚いた次には、もう手を引かれて腰を抱かれ、彼の腕の中にいた。お互いの心臓の音が伝わりそう。
「これがタンゴだ」
「あなたに振り回されてるだけよ、もう」
と文句を言ったけれど楽しかった。唇が勝手に笑みの形になる。続けているうちになんとなくどうすればいいのかわかってくる。彼のリードが、散々仕込まれたと言うだけあって上手だったのもある。
「飲み込みが早いな」
「でしょう? ふふ、楽しい」
「それより大切な話をしなけりゃならない」
「え?」
「嘘をついていた」
嘘って、なに。
急に怖くなった瞬間、また彼が覆い被さってきたので背を反らせた。そのまま動きが止まる。真上から覗き込んでくる彼から視線が離せない。彼の目は焦げ茶なんだ。亀次郎の唇が薄く開いてドキドキした。なにを言われるの。
「俺は亀じゃない」
「え」
強い力で体を引き寄せられ、またはじまりの密着した体勢になった。
「だから名前を読んでくれ」
耳元で囁かれ胸が高鳴る。なにも言えずにいる私の気持ちを歌うみたいに、バンドネオンがいろんなものをはぎ取った、生の心に迫る音を奏でていた。
情熱的な彼のリードに引かれて、くるりと回る。
「瑠璃」
彼の名を呼べとせがむみたいに、彼が脚を私の脚に近づける。これもタンゴ? こんな姿をみんなに見られたらなんて思われるだろう。お母さまなんて卒倒するかも。頭ではそんなことをぐるぐる考えていたけれど、心の中にはただひとつの思いが居座っていた。
誰に見られても構わない。
「せ……誠士郎さん」
顔は見られなかった。額を彼の肩に近づけ呼ぶと、腰を抱く彼の手により力がこもって……彼が動きを止めた。まだ音楽は続いているのに。
「誠士郎?」
見上げると、なぜか視線をふいと逸らされる。
「今日はここまでだ。はじめてにしちゃ上出来だ」
私から手を放した彼は、窓辺に近づき背を向けた。どうしたのよ、急に。疲れたのかしら。
「お庭に行く?」
窓の外は庭だ。洋式の庭で、秋の薔薇がぽつりぽつり咲きはじめたところ。彼に並んで立つと、誠士郎が半歩ほど横にずれた。離れなくてもよくない?
「あんたさ」
「なに?」
「他の男とは踊るなよ、タンゴ」
嫉妬の滲む発言にくすぐったい気持ちになった。そういうことでしょう、これって。
「あなたとだけにする」
「そうしてくれ」
「ねえそういえば、さっきの話が途中なんだけど、聞かせてくれる?」
「話?」
彼が聞き返したとき、曲が終わった。終わっちゃった。タンゴの曲、素敵だった。
「一哉が来たから。あの、あなたが縁組は誰でもいいって言ってそれから」
「ああ、そうだったな。確かに最初は誰でも、親父の指示する相手を嫁にもらうつもりでいた」
ふー、とため息をついた誠士郎が、今度は窓に背を向けた。私も真似をする。床に影がふたつ伸びている。私たちは離れているのに、影同士は触れそうなくらい近い。
「まさか兄貴の縁組相手をそのまま回されるとは思ってなかったが、あの日あんたと過ごした後で親父に提案されたときは正直、嬉しかった」
誠士郎が身じろぎをして、ふたつの影が軽く触れ合った。誠士郎、嬉しいって言った。嬉しいって思ってくれて嬉しい。もう少し私の影が下がったら、手を繋いでいるみたいにくっつくのにな。
「おい、聞いてるか? なにを――」
「え?」
床の影に目を落として手を動かしていたら彼に見咎められた。しかも、なにをしていたか気づかれたみたい。
「なにをやってんだよ、あんた」
「なんでもない」
「ここにいるんだ、俺は。こっちに触れよ」
彼の手が伸びてきて私の手を掴んだ。影でだけでもそうできたら、と望んだことが、本物の体で叶った。大きくて熱く力強い彼の手が私の手を握っているの。
「手を繋ぎたいって思って貰えてるなら望みはあるよな? 瑠璃、うちに来てくれないか。あんたが嫌だっていうなら諦める、断るなら今すぐに――」
「いいわ」
「え?」
誠士郎が気の抜けた声を出したので、可笑しくなって吹き出した。
「なあにその声。いいって言ったの。荒瀬の家に入る」
「ほ、本当か? いいのか? 舅は親父だし、兄貴も向こうでいつどんな問題を起こすかわからないんだぞ」
なんなの。せっかくいいと言ったのに、気持ちが揺らぐ言葉ばかり並べる彼が憎らしくなってきた。繋いでいた手を振り払う。
「じゃあ、やめる」
「あっ、瑠璃」
「やーめた」
ふふふ、と笑って、その場でくるっと一回転した。白いワンピースの裾が翻る。さっき踊ったタンゴの記憶が色濃く蘇った。
本当はやめたくなんてない。
「タンゴも色んなひとと踊るわ」
「瑠璃!」
むっとした誠士郎の声が嬉しい。
他の人と踊るのもいや。もう一度くるっと回り、少し離れたところから誠士郎に顔を向けた。
五つも年上の男のひとが途方に暮れている。大砲は撃てても、私にかける言葉は見つけられないみたい。
そろそろ言おうかな。
舅はあの可愛い犬を思い出しただけってわかったからもう腹はたてていないし、彼のお兄さんについては心配したってしょうがないでしょって。
でもなによりそれ以上に、誠士郎といたい。ほんの数日一緒にいただけで、知らない世界をたくさん教えてくれた彼と、もっとずーっと一緒に。
遠くから小さく、バイオリンの音が響いてくる。今、ここには私たちだけ。素直に話した気持ちを盗み聞いてからかってくる弟はいない。
伝えて、瑠璃。
大丈夫。彼は瑠璃色が好きって言っていたじゃない。頑張るの。
「ねえ、誠士郎、私ね、あなたと――」