17.突然の来客
女学館から逃げ帰ってお気に入りの白いワンピースに着替えると、やっとひと心地ついた気持ちになれた。離れから遠く一哉のバイオリンの音が響いてきている。今日は週に一度、バイオリンの先生が来てくださる日だ。つまり、お母さまと一哉はしばらく離れにいる。
お父さまは出掛けられているようだし、今なら応接室の蓄音機を好きに使えるわ。
亀次郎に贈られた二枚のレコードを胸に抱えて部屋を出た。
みんな置いて来ちゃった。びっくりしただろうな。和子さんたち、明日謝ったら許してくれるかしら。
「あっねえ、応接室にお茶となにか甘いもの持ってきて?」
「かしこまりました」
途中にいた女中にお願いをした。なにを持ってきてくれるだろう。本当なら今頃ミルクホールでバナナミルクを飲んでいたはずなのに、あんなところに亀次郎がいたから。
さっきの騒動を思い出しながら階段を降りていると、降りた先の玄関扉が叩かれた。真鍮製のドアノッカーを使っているひとがいる。横に呼び鈴があるのに。
ここらにいた女中に用をいいつけてしまったから、これじゃ誰も来客に気がつかないわ。呼び鈴なら、もう少し離れたところまで音が届くのに。扉の横の呼び鈴をみつけてくれますように。
願いながら階段を降りきったとき、来客はまたドアノッカーを使った。なにかの配達ならお勝手の方へ回るはずだもの、お客さまよね。
平日のこんな時間にうちを訪ねてくるひとに心当たりは……。
「どちらさま?」
来客の対応をした経験はない。それなのに扉に近づいて声を掛けたのは、本当は、予感があったから。もしかして、って。
「荒瀬誠士郎です。突然の訪問、礼を欠きお詫びいたします。瑠璃さんにお会いしたく参りました」
やっぱり。扉の向こうから響いた元軍人らしい凛々しい声に胸が高鳴った。あんな変な態度を取ったのに追って来てくれた。嬉しいけど会えない。
「瑠璃です、お会いできません」
彼の口調がいつもと違うからか、私まで丁寧な話し方になってしまった。
「瑠璃、どうして」
「どうしてって、は、恥ずかしいからよ」
「なにがだよ、女学校の校門前に立ってた俺の方が恥ずかしいだろ」
確かに。
「確かにそうね」
「だろ?」
くすくす笑うと、得意げな亀次郎の声が返ってきた。そうしたら、無性に得意げな彼の顔も見たくなった。
レコードを抱き直し、両開きの玄関扉の片方だけを引いて開けると、午後の日差しと一緒に亀次郎が入ってきた。
「お邪魔いたします」
誰かいると思っているのか、礼儀正しい態度で屋敷に入ってきた彼は、扉を閉じる私を振り返ってまで見てくる。
「な、なにかしら」
「洋装ははじめてだ」
はじめてもなにも、そもそも私たちは二日前に出会ったばかりなのよね。というのに、彼には袴姿に振袖姿、洋装、みんな見られてしまった。
「お父さまは和装がお好きなの。だから一緒に出かけるときはいつも着物。家は洋風なのに。来て、こっち。ちょうど応接室にこれを聴きにいくところだったのよ」
「そうか。伯爵ご夫妻はご在宅か?」
「お父さまはいない。お母さまは、離れで一哉のレッスン……バイオリンのレッスンに付き添ってる。ああなると終わるまで絶対に離れから出てこないから、挨拶ならあとで平気よ」
そう言うと、亀次郎がほっと体から力を抜いたのがわかった。あっち、と言いながら応接室のある方を指差して、ふたり並んで薄暗い廊下を進んだ。
「立派な屋敷だな」
「ありがとう。あなたのお家ほどじゃないわ。お庭も素敵よね」
「いや、あんた、この家、ずっと住んでるからわからなくなってるんだろうなあ」
しきりに感心しながら屋敷を見回す彼に嬉しくなってきた。よくわからないけど、誉めてもらえているならいいわ。
「……」
途中、廊下のぶつかるところでお茶を頼んだ女中と出会った。お茶の用意を載せたお盆を抱えた彼女は、亀次郎に目を丸くしてる。
「お客さまがいらしたの、お茶の用意をもうひとりぶんお願い」
「は、はい。すぐに」
「お母さまに一応知らせておいて。荒瀬の誠士郎さまがいらしたって」
「かしこまりました」
来たばかりの道を引き返す女中を見送っていたら、視線を感じた。亀次郎だ。
「なんか悪いな、突然」
「どうして? 私が走って帰ったから来てくれたんでしょ?」
そう口にしたら可笑しくなってきた。佐吉もびっくりしてた。
「俺が、からかったからだろ」
「そうよ。もう、あの時の話はおしまい。蒸し返したら帰ってもらうから」
「ええ? わざわざ詳しく聞きに来たってのにか?」
「詳しく聞きに来たんだったの?!」
屋敷に入れなきゃよかった。驚いて声をあげると、亀次郎が隣で楽しそうに笑いはじめた。
「あんたといると笑える」
「私がいないときは笑えないの?」
ふと思いついて聞いたら、亀次郎の顔から笑みがふっと消え、疲れた表情になった。
「兄貴の尻拭いに奔走してるからな」
「そうなの。もしかして今日も?」
「まあ、そうだ。あんたの顔を見たら気分が晴れるかと思ったんだが」
彼の言葉に、嬉しさと照れくささが混じった感情が生まれる。
「あんたはすぐ消えちまって、なんだか不機嫌な女学生に詰め寄られ」
「文枝さん?」
「お下げの気の強そうな」
「文枝さんだわ。東彩楼の話でしょ?」
応接室の扉は開いていた。明かりはまだいらなそうだ。蓄音機に直行して、レコードを紙スリーブから取り出す。
「座って楽にしてて」
そう言ったのに、彼の影で手元が暗くなる。彼の体温を感じる気がするくらい近くに立たれて。
「いい蓄音機だ、海外製か」
「お母さまが見栄張りなの。一哉の才能が自慢だから」
「バイオリン、聞こえてきてたな」
「あと一時間は続くわ。大丈夫、ここでレコードをかけても向こうには届かないから」
そっとレコードを置いてハンドルを回そうとしたら、亀次郎の手が伸びてきた。
「俺がやる。好きなんだ」
「そうなの? 助かる」
それ回すの、少し力がいるのよね。
「座っててくれ」
「これじゃどっちの家かわからない」
ふふふ、と笑いつつ、なんとなく離れがたくて、彼から一番近いソファに腰掛けた。振り返れば彼の顔。うちに亀次郎がいるの、どうしてかあまり違和感がない。彼はいつも洋装だからかしら。
数回ハンドルを回した彼は、慣れた手つきで針をレコードに下ろした。我が家には珍しい、モダンな、ジャズが部屋を満たしていく。
丁度そのとき、さっきより大きな銀製のお盆を抱えたトミさんが入ってきた。紅茶の用意と、やったわ、お皿にパイが乗ってる。林檎のパイよ、あれは。
「失礼いたします」
「お母さまにお客さまがいらしたのを伝えてくれて?」
「はい。一哉さまのレッスンが終わり次第こちらへ来られるとおっしゃっておられました」
「そんなに長居はしません」
私の座るソファを回り込んでこっちに来た亀次郎が、隣に座った。向かいじゃなくて隣?
「……」
私の向かいに彼のぶんのカップを置いていたトミさんは、黙って場所を直した。ちょっと恥ずかしい。
「藤乃宮伯爵はどちらに?」
「さあ。帰ってきたらいなかったの。トミさん、お父さまがどちらにお出かけか知っていて?」
尋ねると、林檎のパイの乗ったお皿を置きながら、トミさんが静かに口を開いた。
「洲崎侯爵邸へ向かわれました」
「洲崎さまなんて珍しい」
「洲崎……」
隣から妙に低い声が響いてきた。トミさんがちら、と亀次郎を見て、すぐ視線をそらしていた。どんな顔をしていたのか。
「もしかして、雅臣お兄さまのご婚約が決まった知らせかもしれない!」
思いついて、弾かれたように亀次郎の方へ顔を向けると彼は怯んだ様子を見せた。
「あなた言ってたじゃない。越田さまと。ね?」
トミさんが部屋を出て行くのを待って言う。そうよ、きっとそう。お目出たいわ。
「いいのか?」
くふくふと笑って紅茶にお砂糖を落としていたら、亀次郎がおずおずと話しかけてきた。
「なにが」
「憧れの君が婚約しちまうんだぜ」
「いいわよ。いつかはどなたかとなさるんだし、それがうちの学校のひとだなんてとても誇らしいわ。お祝いをしなくちゃ。あ、あなたもどうぞ、召し上がって」
「あ、ああ」
紅茶をかき混ぜながら彼にもお茶を勧めると、彼はお砂糖もミルクも入れない紅茶にそのまま口を付けた。唇をじっと見ていたら、小さく笑んだ。
「そうか、いいのか」
お兄さまの婚約の話、まだしてる。
「じゃあ、さ。仮の話だぜ? もし藤乃宮伯爵がご帰宅されて、あんたと洲崎雅臣との縁談話が持ち上がったと言われたら、どうする?」
「そんな有り得ない話」
「有り得なくはないだろ、藤乃宮は伯爵家だ」
奇妙に意気込んで聞いてくる亀次郎に不思議な気持ちになる。有り得ないのが彼にはわからないのね。お祖父さまとお父さまが続けて投資で失敗して、うちはもう、そりゃあ、大変なんだから。そんな家の娘に、洲崎侯爵が指を伸ばすはずがない。
「考えてみてくれ、洲崎と荒瀬、洲崎雅臣と俺、あんたはどっちを選ぶ?」
「えっなに、そういう質問なの?」
「そうだ」
「そんな、そんなの」
考えるまでもない。亀次郎よ。彼といると楽しいもの。大砲も撃てるし、ご自宅のお庭はきれいで可愛らしい犬もいる。お父さまだって体面が保てる。雅臣お兄さまのところは、なにもかもご立派だけれど、私程度が嫁げば確実に針の筵で、お父さまは米搗きバッタみたいにペコペコしてなきゃいけないわ。
でもすぐに返事をするのははしたない気がして、首を傾げ悩むふりをした。
「うーん、そうねえ、難しいわ」
っていうか、こんな質問をするって、亀次郎は私にお嫁に来て欲しいのかしら。なんだかそんな風に聞こえる。だけど、膝をついてこの話はここまで、て言ったのは彼なのよね。
ちら、と隣に目をやれば、亀次郎が固唾を飲んでこっちを見ていた。どうしよう。かわいい。
「やっぱり望まれて嫁ぐのが、憧れだし」
「そうだろう」
「でもあなたは、うちで膝をついて止めてって言ったのよね」
「あれは!」
カップを皿に戻すのに大きな音を立てた亀次郎が、焦った様子で陶器が無事か確かめている。大丈夫だったみたい。
「あれはあんたが、ほら、泣いて嫌がってたからだ、うちに来るのを」
「そうなの。あなたは、いやじゃ、ない?」
ちょっとの勇気を出して聞いてみた。亀次郎はなんでもない顔で口を開いて、
「俺か? 俺は別に、誰でも……いや違う、ちがう今のは忘れてくれ、いやじゃない」
こう言った。
「誰でもなんて言われて忘れられるわけない」
「瑠璃、誰でもってのはあれだ、あんたに会う前の俺で」
きっと今度は私が固唾を飲んだ顔をしているんだろう。じっと押し黙って、彼の唇が次の言葉を紡ぐのを待った。