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16.素敵


 月曜。

 すっかり忘れていた刺繍の課題を、泣きそうになりながら明け方までかかってやっていたからすごく眠い。


「瑠璃さん! ちょっと、ちょっとこっちにいらして!」

「千代お姉さま?」


 佐吉の引く人力車から降り旭都女学館の校門をくぐるが早いか、横から飛び出してきた千代お姉さまに腕に飛びつかれ拉致された。道のわきの銀杏の木の下にだけれど。

 いつもおしとやかな千代お姉さまの奇行とも呼べる態度に、近くにいたひとたちが目を丸くしている。


「聞いてくださる? あの、昨日の話なの」


 気持ちは落ち着かないけれど、お姉さまが話しはじめたので黙って聞こうと頷いた。

 千代お姉さまの頬は桃色に上気して、瞳はきらきらと輝いている。先週末泣いていたひととは別人みたい。もしかして猪川の若旦那の話かな。


「昨日、巌さまが突然家にいらしてね」

「いわおさま?」

「あらごめんなさい、猪川巌さま。私の婚約者の名前よ」

「ああ」


 あの人巌というのね。ぴったりだわ。きっと、赤ん坊の頃からどっしりと貫禄があったんだろう。


「あのね、巌さまが昨日、大きな薔薇の花束を抱えて訪ねていらして、観劇に誘ってくださったの。花束にはお手紙も。そこに……」


 言葉に詰まったお姉さまが、頬を赤くしてふっと恥ずかしそうに目を伏せた。ああ、はい。わかった、どんなにお姉さまが好きか書いてあったんだ。さぞや詩的な言葉が並んでいたのだろう。


「わ、私が愛らしくて顔を見たり話したりできなかったって、書いてあったの」

「そうなんですね!」


 知ってたけど、精一杯知らない振りを装って声をあげる。


「ええ、真摯に謝罪まで。望まれぬ縁組みなのかと悩んだ時間は無駄だったわ。それでね、瑠璃さん」


 千代お姉さまはそこで一度口を閉じると、こっちに向き直った。気遣いのにじむ優しい目が私を映している。


「瑠璃さんのお相手も、人から聞く噂とは違う方かもしれないわ。そう思って。実は巌さまも、事前に無愛想で恐ろしいひとだっていう話を聞いていて。それで私からも話しかけられなかったの。でも、違った。不器用で無口な方なだけだったわ」


 一所懸命言葉を並べ、私の気持ちを軽くしようとしてくれているお姉さまの姿に胸が温かくなった。

 問題は、荒瀬の放蕩者は本当に放蕩者だったから的外れなのだけど、お姉さまはなにも知らないんだもの仕方がないわ。


「ありがとうございます。あの、荒瀬の長男との縁談は白紙になったんです」

「あら! そうなの? ど……いえ、なんでもない。そ、そうなのね」


 気になるだろうに、質問を止めたお姉さまは立派だ。私ならどうして? って絶対口にしてる。


「聞いてくれますか? 荒瀬の長男、女のひとと外国に逃げて勘当されたんです。家のお金を持って行ったって」

「……」


 お姉さまの目と口が、ぱかっと開いた。こんなお姉さまは初めて。ちょっと面白いから黙って見守ろう。


 しばらくそのまま固まっていたお姉さまは、まずまばたきをした。次に口が閉じて。最後に視線が外れた。地面に落ちている。


「そ、そうなの、噂通りの方だったのね」

「いえ、私も驚いて。よかったです、そんな人の妻にならずに済みました」

「そうね、本当にそう」

「そうなんです」


 顔を上げた千代お姉さまと、そう、そう、と言い合っているうち、また沈黙がおりた。お姉さまが困っているのがわかる。自分の縁談がうまく行った話をしたのが気まずいのかもしれない。


「荒瀬はご次男が継がれるそうで」


 だからかな、そんな話をぽろりとこぼしてしまった。


「あら! どんな方かしらね」

「海軍の少尉だったという方で、その、もうお会いしたんですけど……素敵な方でした」


 素敵な方。素敵な方?

 なにを言ってるのよ。でもそんな言葉がするっと出てきてしまった。

 頬がかあっと熱くなる。私、亀次郎を素敵だって思ってたんだって、突然わからされて。それも自分の発言で。


 お姉さまはと目を向けると、両手をぱちんと合わせて目を輝かせている。


「そうなのね!」

「は、はい」

「よかったわ、よかったわね!」

「いえ、て言っても、まだなにも決まっていなくて。秘密にしてくださいね。私も仲良しのふたりにだけ話すつもりです」

「和子さんと文枝さんね。ええ、わかったわ」


 そのとき、予鈴が鳴った。もうそんな時間?


「大変!」


 視線を合わせふたりで微笑み合い、どちらからともなく学舎に向かって駆け出したのだった。


 と、その話も加えて、週末の家出の顛末を――亀次郎が亀と名乗った話は避け――昼休みに和子さんと文枝さんにしたところ。


「いけ好かないわ」


 一番に文枝さんがそう言った。亀次郎みたいなことを言うひとだ。


「な、なにがかしら。行方を眩ませた長男?」

「そんなゴミどうでもいい。次男よ。なあに、あなた、私たちを差し置いてそんな、そんないきなりひょっこり現れた男と東彩楼へ行ってしまうなんて裏切りだわ」


 気になったのはそこなのね。


「まあ、いいじゃないの文枝さん。どのみち私たちだけでは藤乃宮のおじさまは許してくださらないんだから」


 ぷりぷり怒る文枝さんをとりなしてくれたのは和子さんだ。でも和子さんもちょっと不満げ。


「雅臣さまとお話ししたなんて羨ましい。もう何度か行っているのに、雅臣さまにお会いできたことなんてないのよ」

「週末だったからかもしれない。今週末行きましょうよ。そうよ、その誠士郎という男について来てもらえばいい。それなら藤乃宮のおじさまも許可してくださるはずよ」


 文枝さんが眉根を寄せた真剣な表情でそう言いはじめたから焦る。話が大きくなってきた。


「ええ? そんな」

「そうよ、そうしたら直接言ってやれるわ、私たちが瑠璃さんを東彩楼へ連れて行くはずだったのによくも、って」


 おさげを揺らした文枝さんが、亀次郎に背伸びして食ってかかる様子がありありと想像できて血の気が引いた。


「やめなさいよ、向こうが返す言葉が想像できる。喧嘩になるわ」

「なんて言うのよ、言い返す言葉を考えておくから先に教えて」

「そんなの……“俺の知ったことか”よ」

「まあ! 憎らしいっ」

「それか“先を越されて残念だったな”よ」

「まあああっ! なんて口の悪い男なの」


 幻想の亀次郎に文枝さんが腹を立てるのが可笑しくて、吹き出して笑っちゃった。和子さんも笑って、結局最後には文枝さんも。

 笑って笑って、そこでなんとなく亀次郎……荒瀬誠士郎の話題は終わったはずだった。


 ◆◆◆


「あら?」

「なにか様子が変ね」

「本当」


 その日の放課後、いつもの三人でミルクホールへ寄ろうと決めて校舎を出たのだけれど、校門へ向かう道の先に異変があった。

 校門をくぐるとき、みんな判で押したように足が遅くなり、校門を出てから振り返っている。つまり校門を出たところになにかがあるのよ。


「なにかしら」


 呟くと、文枝さんが人差し指をぴんとたて言った。


「もしかしたら、昼に瑠璃さんが話してくださった、千代お姉さまのご婚約者が迎えにいらしてるんじゃない?」


 それはとてもあり得る仮定だ。


「花束を持って? 素敵!」


 夢みる声を出したのは和子さんだけれど、多分和子さんが思い描いているより、さらに巌さんは岩だから驚くだろう。


「千代お姉さまの姿はまだないわね」


 文枝さんが完全に体ごと後ろを向いて歩きながら、校舎から出てくるひとたちを眺め言った。


「そんな歩き方してると危ないわよ、文枝さん」

「大丈夫よ。あなたもしてみたら? 後ろ歩きには、脳を活動的にさせる働きがあるそうなの」

「ほんとうに?」

「賢くなれるらしいわ」


 それならしてみよう。

 私もくるっと後ろ向きになって歩いてみた。校舎が見えていて足を動かしているのに、遠ざかっていく。なるほどこれは、なかなか楽しい。


「確かに脳がいつもより働いてる気がするわ」

「でしょう?」

「あっ、なんで普通歩きに戻ってるの? 狡いわよ」

「だってそんな馬鹿げた姿で校門から出たくないじゃない」

「ちょっと! いいわ、私が旭都女学館はじまって以来、はじめて後ろ向きに下校した生徒になっ――」


 なんて馬鹿な台詞を吐きながら校門を出たところに亀次郎がいて目が合った。巌さんじゃなくて亀次郎だった。岩じゃなくて亀。

 彼は今日も洋装だ。出会ったときの派手な装いでもなく、昨日みたいな洒落たのでもなく、はじめて荒瀬の屋敷を訪ねたとき身につけていたみたいなもっと気軽で、落ち着いた素敵な。


「あ」


 彼に気を取られたら足がもつれた。転んじゃう、今度こそ尻餅をつくところを見られてしまうんだ、そういう運命だったん――。

 ぎゅっと目を閉じて衝撃を待ったのに、それはやって来なかった。かわりに背中や腕に硬い誰かの体を感じる。


 目を開けば、亀次郎の顔。ふう、と安堵のため息をついている。転んでない。というより、屈んだ彼の腕の中に転がり込んだみたいになってる。み、耳が彼の胸にぴったり当たって。肩も腕もよ。


「あんたな、もっと足を鍛えた方がいい」


 話す彼の声が、バイオリンみたいに彼の体を震わせているのまで伝わってくる。


「簡単に転びすぎ……どうした、固まって。どっか痛めたか? 瑠璃」


 亀次郎が瑠璃、と言った瞬間、周りから悲鳴がいくつも上がった。その内のひとつは和子さんの声だった気がする。

 そうだここは校門、みんなに見られてるのよしっかりしなきゃ!


「あっ、ありがとう。ひとりで立てるわ」


 亀次郎を押しのけよろりと立ち上がると、たくさんの顔がこっちを向いていた。一番険しいのは文枝さんで、表情が「この男があの男なのか」と聞いてきている。視線でそうだ、と答えておいた。伝わったかはわからない。


「そ、それよりどうしたのこんな所で、急用?」


 亀次郎から半歩ほど離れて聞くと、彼は決まりが悪そうに首を傾げた。


「今日はこっち方面に用があったんだ、済んだから寄ってみた。迎えの車が多いから目立たないだろうと思ったんだが」


 彼の視線を追えば、下校時間の校門らしく、人力車や自家用車、迎えの女中なんかが集まってきている。まあ、そうね。向こうに佐吉もいるし。でも亀次郎みたいなのは亀次郎ひとりだから、しっかり目立っている。


「そう……え? じゃ、特に用はないの?」

「ん、まあ、そうなるか」


 腕組みをしてふむ、と考え込んだ亀次郎が返してきた答えに胸が高鳴る。それって、ただ会いに来てくれただけ? 私に会うのが目的?


「瑠璃さん、こちらはどなたなの? 紹介してくださらない?」


 これが誰かなんて分かり切っているはずの和子さんが、目をキラキラさせて話しかけてきた。文枝さんはそのうしろから、じっとりした視線を亀次郎に向けている。


「あ、え、ええ。あの、こちらは、誠士郎さん。荒瀬誠士郎さんよ」

「まあ! 瑠璃さんが週末にお会いしたって言ってらした方ね。はじめまして。飯塚和子です」

「はじめまして」


 亀次郎は元軍人らしく、すっと背筋を伸ばした凛々しい姿勢で和子さんの挨拶を受けた。和子さんが、ほんの少し照れた様子で目を細めたのがわかって誇らしくなる。問題は文枝さんだわ。


「文枝さん、彼がさっき話した誠士郎さんよ。誠士郎さん、彼女は坂本文枝さん」

「はじめまして」


 亀次郎は和子さんにしたのと同じに礼儀正しく文枝さんに挨拶をした。それなのに文枝さんは、ちょっとつんとした態度で頷いただけだった。


「……」


 なにも言わない文枝さんに、亀次郎がほんの少し眉を寄せる。空想の言い合いが現実になったら、と、ほんのり不安になったときだった。


「あら、どうなさったの?」


 混雑した校門付近に、千代お姉さまのおっとりした声が響いた。鈴の音さながらの涼やかな声に、若干悪くなりかけていた場の雰囲気が変わった。天の助けだわ。


「千代お姉さま!」

「瑠璃さん、あなたなの? ……こちらは? お知り合い?」


 お人形のようなお姉さまが近づいてくるので、文枝さんがさっとうしろに下がった。亀次郎の体も千代お姉さまの方に向く。


「はい。荒瀬誠士郎さんです。誠士郎さん、こちらが、千代お姉さま」


 千代お姉さまを紹介すると、亀治郎はふっと頬を緩め笑った。猪川の若旦那との出来事を思い出したんだろう。


「ああ。瑠璃の憧れの上級生の」

「憧れだなんて嬉しいわ。そう、一目見てそうかなと思ったのだけれど、やっぱりこちらが誠士郎さまでしたのね」


 私を介して挨拶を交わすふたりは絵になっていて、ぽーっと見つめてしまった。こっそり確認したら文枝さんすら、目が離せなくなっているみたいだった。


「やっぱり、ですか?」

「はい。今朝瑠璃さんにお話を伺って――瑠璃さんの言っていた通りの素敵な方がいらしたから」


 あ。


 お姉さま! 言っちゃった!

 お願い亀次郎聞き流して!


 と強く強く願ったのに、彼の口角が、くっと持ち上がったので駄目だとわかった。亀次郎の目が私を映す。


「へえ、俺を、素敵?」

「そそそれは言葉のあやというか選択の妙というか、そ、そういうので」

「いやだ、駄目だったかしら瑠璃さんごめんなさい」


 お姉さまが焦っているけれど、もうすべてが遅い。


「わ、私、帰る! 佐吉! 佐吉!」


 それだけ叫んで、いつも佐吉がいるあたり目指して駆け出した。


「瑠璃!」

「瑠璃さん!」

「ミルクホールは?!」


 みんながわあわあ言うのが聞こえたけど全部無視して駆け抜けた。恥ずかしい。亀次郎を素敵だなんて思ってたのがみんなにばれてしまった。


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