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14.桔梗通りの東彩楼


「座れて良かったな」


 亀次郎と乗り込んだ市電は、昨日の朝に乗ったのよりは空いていた。日曜日の午後とはいえ、昼と夕刻の間の中途半端な時間だからかもしれない。今日の車内はお母さまの化粧台みたいなにおいがする。

 臙脂色の長い座席にまばらに乗客が座る中、私の連れは吊革に掴まって前に立っている。


「あなたは座らないの?」


 尋ねるついでに顔を上向け、こっそり亀次郎の姿を眺めた。吊革を持つ手から腕時計がちらりと覗いている。

 くすんだ白のスーツにベスト、白い襟の立ったシャツ。それに濃く暗い紺色のタイを巻いて、スーツと同じ白い帽子をかぶった亀次郎は、なんだか……。


「ああ。俺は立ってる方が落ち着く」


 亀次郎が市電の中にさっと視線を走らせた。彼を盗み見ていた女のひとたちが何人か視線をそらす。やっぱり。様になってるわよね。

 出かける前に着替えるって言って、この姿で戻ってきたときには驚いた。がっしりした体躯が洋装を引き立てていて、雅臣お兄さまより男らしくて格好い……。


 ちょっと!

 なに考えてるの、このひとは亀次郎なのよ!


「き、昨日みたいなシャツは今日は着なかったのね」


 照れ隠しに昨日の奇妙な服について話題にすると、亀次郎は苦いものを食べたみたいに顔をしかめた。


「あれは兄貴の服だ。物騒な地域にも行ったからな。あの方が目立たない」

「そ、そうだったの。てっきりあなたの趣味かと」

「まさか。ま、これも俺の趣味かと言われるとあれだが。振袖姿のお(ひい)さんを連れて歩くんだ、こっちもめかし込まないとな」


 私のため?


 そう聞こえた。そこでもう一度彼を見上げてみれば、亀次郎もなんだか収まりの悪い照れた顔をしていた。亀次郎なのに。


 連れ立って出てきたのに、急に照れくさくなって他人同士みたいに視線をそらしあってしまう。


 と、市電がどこかの停留所に止まった。降りるひとはおらず、代わりにかなり大勢が乗り込んできた。桔梗通りに向かう市電だもの、混んでもくるわね。

 窓の外に目を向ければ、知らない町の景色が広がっている。道路が広い。この景色は亀次郎には馴染みのものなんだろうな。


 体を斜めにして首を巡らせ外を見ていたら、近くで口笛が鳴った。さっき乗り込んできた乗客のひとりが吹いた口笛で、しかもその男は少し離れたところから私を見ていた。

 なに、あの人。袴姿に下駄を履いて。いやだこっちに来るんじゃないでしょうね。薄笑いを浮かべて、左手は懐手。


「こりゃ、掃き溜めにつ……」

「おい」


 男が一歩踏み出すより早く、亀次郎が顔だけをぐりんと男に向け低い声を出した。車内に緊張が走る。


「俺の連れだ」


 それだけ。

 亀次郎が言ったのはそれだけだったけど、それでぜんぶが終わった。


「あ、ああ、そうか」


 相手は引いて、こっちには来なかったし、向こう側に戻ってからは振り返ることすらしなかった。こんな狭いところで喧嘩がはじまらなくてよかった。

 ほっと胸をなで下ろしながらこっそり眺めた亀次郎の姿は、雅臣さまより格好よく思えた。大砲も撃てるしね。


 ◆◆◆


「あんたさ」


 桔梗通りの停留所で降りたあと、隣に並んだ亀次郎が唐突に話しはじめた。


「なに?」


 返事をしつつ、正直私は気もそぞろ。乗っていたほとんどの乗客がここで降りたくらいの場所だ。あたりは華やかで、立っているだけで楽しい。この大通り、いつもは馬車で通り過ぎるだけだもの。

 交差点の時計塔、煉瓦造りの仕立屋に宝飾店。なにもかもがとても華やか。道行く大人たちもお洒落だわ。

 リンリン、と鐘を鳴らして市電が去る。あのまま乗っていたらどこまで行くのかし……。


「なあ、聞いてるか?」


 肩を叩かれはっとする。聞いていなかった。


「ごめんなさい、なあに?」


 見上げると呆れ顔があった。


「人ごみでぼおっとするな、渡るぞ。店はどっちだ?」

「あっ、ええと、時計塔が向こうだから、こっち」


 亀次郎の肘のあたりの服を摘まんで引くと、彼は素直について来てくれた。馬車や自動車、それに斜めに渡る自転車なんかを避けながら大きな通りを渡って石畳の歩道にたどり着き、息を吐く。ちょっと怖かった。


「それからね、あっち」


 記憶にある東彩楼の方角を指差したのに、亀次郎はそっちを見ないで私を見下ろしている。


「どうかした?」

「いや、あんたさ、これでひとりで市電に乗れるなんて考えるなよ。藤乃宮伯爵がお前に市電を禁じた理由がわかった」

「なんでよ? 乗り方はもう覚えたわ」


 亀次郎がするのを見ていたもの。お金を払って乗って、降りたいところで降りればいい。それだけ。簡単よ。


「それにひとりでは乗らないわ。和子さんや文枝さんが一緒だもの。そりゃ、帰りはひとりになるだろうけれど、もう十七よ? 平気よ」

「駄目だだめだ、あんたな、多分自分で思うよりずっと……」

「ずっと、なに? わあ、あの靴、踵がすごく高い、すてき」


 友人同士なのか、洋装の大人の女性がふたり並んで歩いてくる。ひざ下丈のスカートの裾が歩くたび揺れて綺麗。体に添った軽やかな服の胸元が大きく開いているのを、ふたり揃って同じ鳥の羽根を繋げたみたいな襟巻きで隠してる。髪も、短髪が雑誌のモデルみたいにきちんと形が整えられていて、あんな風にできたら、直毛じゃなくてもすてきになれるかな。


 そのふたりが、すれ違う前に亀次郎に視線を送ったのがはっきりわかった。あんな美人ふたりに秋波を送られて、亀はさぞかし首じゃなくて鼻の下を伸ばしてるんだろうな、と思ったんだけど。


「あんたな、自分で考えてるより目立つんだ、気をつけろ」


 彼は保護者みたいな顔をこっちに向けていた。今の美女、気にならなかったの?


「ほら、口をぽかんと開けてんじゃない、シャッキリしろ」

「そんな馬鹿みたいな顔してない」

「そうやって不機嫌な顔しててくれる方が安心だ。珈琲屋はまだなのか?」

「もうすぐよ、ほら、あのお店。二階の席に行きたいの!」


 小さな通りを渡った先、角の店を指差した。暗褐色の煉瓦を積んだモダンな店構え。ステンドグラスの入った扉。ちょっと気後れするくらい、なんていうか大人な感じだ。


「亀次郎、先に入ってね」

「なんでだよ、西洋風なら“婦人第一”だろ?」

「振袖だもの。殿方の後ろを歩くわ」

「ものは言いようか。俺だって初めての場所は緊張するってのに」


 ぶつくさ言いながらも肩をすくめた亀次郎が、諦めたのか先に立って歩いてくれた。緊張している様子はまるでない。


 道を渡ると、建物の陰に入ってふっと視界が暗くなった。亀次郎は止まらない。閉じた扉に真っ直ぐ向かい、物怖じせずそこを開いて中に入った。背中を追って私も店に入る。憧れの東彩楼。


 亀次郎が扉を押したときから、軽やかなジャズが耳に届いていた。トランペットじゃなくて、ピアノで演奏されている。入り口すぐに箱型の大きな蓄音機があって、それが音楽を奏でていた。珈琲のいい香りと煙草のにおいがする。


「いらっしゃいませ」


 柱時計を背に帳場に立つスーツ姿の店の男が落ち着いた声で声をかけてきた。


「二階、いいか」


 繊細な細工の手すりのついた螺旋階段を親指で示した亀次郎が尋ねると、男は笑みを浮かべ快く頷いた。


「はい。ご利用ください」

「いいってよ、行こう」


 先に立って階段を登っていく亀次郎に着いて行く。上に行くと一階が奥まで見通せた。洋装のひとがたくさんだ。さっきすれ違ったみたいなモダンな女性たちが亀次郎を目で追っている。それから、私の振袖も。おかしかったかな。でも客は半分以上が和装だわ。


 階段を登りきったところにも蓄音機があって、別のレコードがかかっていた。先に二階に着いた亀次郎は上にいた給仕にまた話しかけていて、追いつくと振り返った。


「窓辺でいいか?」

「そこに座りたかったの!」

「そりゃよかった」


 いつも空いてなくて座れないのって文枝さんが言ってた席かな。明日話せるわ。

 うきうきと腰掛けた席は、桔梗通りを一望できる大きな窓の横にあった。一望は言い過ぎかもだけれど、気持ちはそんな。外開きの窓は開いていて、外の音も聞こえてくる。ジャズと混じって不思議に心地いい。


「なに頼むんだ?」

「ええとね、珈琲」

「飲んだことはあるのか?」

「ないわ。両親は飲んでるのよ。だのに私と一哉は眠れなくなるから駄目だって」


 と言うと、メニュウ表をこっちに差し出していた亀次郎が吹き出して笑った。笑っちゃうわよね。


「一哉は十三だからわかるけど、私はもう十七よ。縁談を持ってきておいて珈琲は駄目だなんて、おかしいわよね?」


 首を傾げながら話す声には我ながら憤りが混じっていて、ちょっと子供っぽい話題だったなって思った。


「そうだな。だが初めてなら、このミルク珈琲にしておいた方がいい」

「いやよ」

「瑠璃」


 突然名前を呼ばれてどきんとする。


「な、なに」

「別に。なんでもない」


 給仕が注文を取りに来たのはそのときだった。


「珈琲とミルク珈琲、それとこれひとつ」

「かめ……」

「俺が飲むんだ」


 勝手に注文されたのかとむっとしたら、違った。そうなの。かわいい名前のを飲むのね。


「え、と、そういえば亀次郎は、いくつなの? 年」


 去っていく給仕の背中をなんとなく眺めながら聞いた。


「二十二」


 五つも年上。指折り数え、差を実感していたら、艶やかな木製の天板を挟んだ向かいから、もの言いたげな亀次郎の視線を感じた。


「なに?」

「俺はいつまで亀次郎なんだ?」

「え?」

「俺の名前をまだ知らないのか?」

「知ってるわ、せ」


 誠士郎。

 どんな文字で書くのかも、荒瀬を訪ねる前、お化粧を施しに来たお母さまが教えてくれた。お母さまは行かなくていいと言ったけど、わがままを言って家を出てきたの。お母さまが紙に書いてくれた彼の名を指差して、この人に会ってみたい、と言って。


 でも今、いざその名前を口にしようとしたら、のどが詰まったみたいに声を出せなくなった。呼んだら、目の前の彼は亀次郎じゃなくなってしまう。恥ずかしさと寂しさと、二つの感情が複雑に絡み合って舌を固まらせている。


「どうした? 知ってるんだろ?」


 私の気も知らないで、亀次郎が名前を呼べと迫ってくる。どうしよう、話を変えないと。話題、話題と頭の中を探っていたら、話題が向こうからやってきてくれた。近づく誰かの気配。きっと珈琲が来たんだわ、天の助けよ。

 そう思ったのだったのに違った。


「やっぱり、瑠璃ちゃんだ」


 聞き覚えのある穏やかな声に名前を呼ばれたから。


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