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12.亀のいる庭


 来て良かったのかな。


 薄黄色の友禅の振袖を着、軽く化粧も施され、伯爵令嬢然とした姿で荒瀬の家の玄関前に立ちながら、そんな思いにとらわれた。隣には自慢げに顎を反らせた和装のお父さま。


「少々お待ちくださいませ……!」


 居心地が悪いのは、馬車を降り来訪を告げた途端、顔色を変え焦った様子で奥に引っ込んだ使用人を目の当たりにしたからかも。


 でも、誰も居ないとは言われなくてよかった。

 荒瀬の親子がお父さまに怒鳴られ帰ってからまだ数時間しか経っていない。気晴らしにどこかへ行っていたっておかしくないんだから。


 それにしても、なんて立派なお屋敷だろう。

 うちみたいに土塀の中に洋館が、みたいな中途半端さは微塵もない。


 手入れの行き届いた、立派な海鼠(なまこ)塀にぐるりと囲まれた敷地の中に、完全なる伝統家屋が建っている。深い庇のある玄関。黒く艶やかな瓦屋根。振り返れば、前庭に植えられた、馬車回しのところの松の木の枝ぶりも素晴らしい。

 ここにあの下品な男が住んでいると思うと腹立たしいけれど、亀次郎が住んでいるなら似合うわ。きっと庭には立派な池もあるだろうし。


「遅い、いつまで待たせる気だ」

「突然訪ねたのですから仕方な……あら?」


 ふと視線を感じて振り返ると、門扉と玄関の間の石畳の上に、小さなまっ白い犬がいた。犬でいいのよね? いつの間にいたんだろう。ふわふわの綿毛みたいな子で、頭に赤いリボンを付けている。黒い目がこっちを見ていて人懐っこさを表すように舌が覗いていた。


「お父さま、みて、可愛い!」

「ん? ああ、そうだな」


 犬の愛らしさに、考えるより先に体が動いた。つぶらな瞳に吸い寄せられる。


「瑠璃、ふらふらするな」

「きっとここの子よ」


 近づくと、犬もそばにやってきた。こっちを見上げる顔も可愛い。


「こんにちは」


 手を出しても逃げない。袂を押さえそっと丸い頭を撫でても大人しくしてくれている。とってもかわいいわ。外国の犬よね、耳はどこ? あ、あった、横に垂れてるのね。茶太郎とは毛並みからしてぜんぜん違う。私以上のふわふわだ。


「はは、どこかお前に似ておるな、その犬」


 と、お父さまに楽しげに言われ、犬の頭を撫でる手が止まった。


「……私……?」


 さ、と手を挙げて自分の頭に触れる。大丈夫、今日は髪は落ち着いてる。頭にリボンは、今日はしてないけれど普段はしてるわ。荒瀬が訪ねてきたときも当然してた。


「あ! 待って!」


 撫でる手を止めたからか、犬がくるっと背を向け、道を逸れて行ってしまった。つい反射的に、前庭から続く踏み石の上を進む綿毛を追った。


「待って、まって」


 呼びかけたいのに名前がわからない。呼んだからって止まってくれるわけじゃないんだけれど。


「あ」


 かわいい犬をもう一度触りたくて夢中で追っていたら、いつの間にか庭園に入り込んでいた。犬は少し先で立ち止まりこっちを振り返って私を待っている。あの子は追いかけっこをしているつもりだったのね。

 初めて訪ねたお屋敷で、勝手にこんなところまで入り込んでいるのを見咎められたらきまりが悪い。そうなる前に戻らなくちゃ、と引き返そうとしたときだった。


 耳が音を捉えた。

 音楽。生の音じゃないわ、蓄音機越しのこもった音だ。なんだろう初めて聞く、三味線みたいな楽器の音、それにゆったりした男性の歌声。日本語じゃないわね。なんだか不思議な音楽だ。でも何故だか、言葉はわからないのに、知っている感情を歌っているのはわかるの。


 この音を辿ったらもしかして。


 予感に従い先に進むと、可愛い綿毛も歩き出した。秋の色に染まりはじめた楓の木の横の、大きな庭石を過ぎると急に目の前が開けて、見事な庭園があらわれた。草木の濃いにおいが心地いい。

 紅梅に五葉松、紅葉に楓、五月の木、キャラボク。そんな木々の合間を細い人工の川が流れている。下草が途切れると白い玉砂利、それから柱の少ない縁側があって、音楽はそちらから流れてきていた。


 小型の蓄音機を縁側に置き、そのすぐ横に寝転んでいるひとがいる。白いシャツを着た洋装の男のひと。仰向けだ。裸足の足の裏がこっちを向いている。周りにレコードが散らばる中、顔の上に開いた本を置いて、眠っているのかしら、それとも音楽に聞き入っているのかしら。片腕は縁側からだらりと下がり、沓脱石の上に指が乗っていた。


 亀次郎? そうな気もするし、違う気もする。ドキドキしながらゆっくり近づく。歩くたびに玉砂利が小さな音をたてているのに身動きをしないから、眠っているのかしら。

 ある程度近づくと、私より先にたどり着いた犬が、沓脱石に前脚を乗せ、男のひとの手を舐めはじめた。


 ぴく、とその腕が反応して震える。


「……こら、フー」


 聞き覚えのあるくぐもった声が本の下で響き、心臓がどくんとひと跳ねした。本を外してこっちを見る? と思ったのに、男は犬から手を離そうというのか寝返りを打ち、こっちに背中を向けてしまった。

 バサッと本の落ちる音がしたけど、私には気づかなかったみたい。ちらっと見えている顔は……亀次郎に似てる。多分、きっとそうよ。うなじにも見覚えがある。


 犬は踏脱石にすっかり乗って、お座りをして亀次郎が振り返るのを待っている。お利口だ。あの不思議な音楽は終わっていたけれど、レコードは回り続けていて、プツプツと音がしていた。そのうち止まるだろう。


「……」


 一向にこちらを向かない背中に、声を掛ける決意を固める。乾いた唇を舐め口を開いた。


「縁側で、甲羅干し?」

「?!」


 さすが元海軍少尉。振り返るのは早かった。まあ、それなら私が近づいたのにも気づいて欲しかったけれど。


 軽く上体を起こした男が、驚きに目を見開き体を強ばらせ固まっている。ああ、やっぱり。真正面からの顔に、ようやく確信を持てた。思った通り、亀次郎が荒瀬誠士郎だった。


 それにしても亀次郎、なにも言わなさすぎじゃない? こっちをじっと見て黙ってる。それに、白い清潔なシャツに身を包んだ亀次郎は、あの派手な黄色のシャツを着ていたときとは違ってなんだか……。


「と、東彩楼にまだ行ってない」


 頬が熱くなるのが気恥ずかしく、ぶっきらぼうな口調になった。


「は?」

「東彩楼! 行くって、言ったでしょ、亀次郎」


 照れ隠しに揺れながら言うと、亀次郎はやっと体から力を抜いて、しっかり身を起こした。縁側で片膝を立て座り、頬を緩め笑っている。


「ああ、そうだったな」


 沓脱石から縁側に登ろうとしている犬を抱き上げた亀次郎が、頭を傾げ自分の隣を示す。


「座れよ」

「……」


 犬の次、今度は私が沓脱石に乗り、彼の横に腰を降ろした。犬が首を伸ばして、腕のあたりのにおいをふんふんと嗅いでくる。


「こら、駄目だ」

「その子、可愛いわね。名前はなに?」

「フウカ」

「ふかふかしてるから?」


 ふーっ、と息を吹いてフウカの頭の毛を揺らすと、亀次郎が低く笑った。


「そう。親父がつけた。外国の取引先がくれた犬らしいんだが親父、こいつを溺愛してて」

「へえ」


 親父。亀次郎の親父って、あの荒瀬よね。笑われたときの記憶が蘇って、声と顔が硬くなった。


「すまない」


 亀次郎にも伝わって、謝られてしまった。気まずい空気が流れる。沈黙が重い。なにか言わないと……。


「誠士郎! 誠士郎!」


 と、遠くから男性の声と足音が騒がしく近づいてきた。まるで音の塊が動いてるみたいだ。


「誠士郎! 藤乃宮伯爵があの可愛らしいお嬢さんを連れていらしたぞ。お前もとにかくひと目――あ?」


 縁側の先の角を曲がって現れたのは、久しぶりの荒瀬の顔だった。そう、この顔よ。口髭に太い眉。こうしてあらためて見ると、亀次郎にはあまり似てないわね。でも酔っ払っていないからか、前ほど嫌な感じはしない。素面の荒瀬からは貫禄すら感じる。うっすらとよ。


「あー……」


 突然やってきた男は、縁側で息子と並んで座る私の姿に言葉を失った。


「親父、フウカが彼女をここに連れて来てくれた。挨拶は済ませたよ」


 と、亀次郎がフウカを私の膝に乗せ立ち上がった。わ、軽い。あったかい、ふわふわ。


「ふふ」


 嫌がりもせず、背伸びして顎のにおいを嗅いでくるフウカの仕草に笑いを漏らすと、やっと荒瀬がはっと意識を取り戻した様子をみせた。


「あ、そ、そうか」

「客間にお連れすればいいか? 藤乃宮伯爵はどちらに」

「あ、ああ、既に客間にお通しして、今は晶子がお相手を。そうか、もう挨拶を。うむ、どうだ、以前話した通りのよいお嬢さんだろう」


 ふわふわのフウカの頭を撫でていたら、そんな会話が聞こえてきた。話した通りって、なにを話したんだろう。そんなの本人の前で口にするなんてやっぱり品のない男。


「そういう問題じゃないんだよ、親父」

「いやいや、そうか。そうだな。いや、それならよいのだ。私は藤乃宮伯爵に大切な内々の話がある。お前は瑠璃さんに庭を案内して差し上げなさい」


 なにこの、“あとは若いおふたりで”な雰囲気は。でもまあ、お父さまと荒瀬のいる客間に行くより、ここにいる方が楽しそうだ。向こうの大人は、どうせ煙草を吸うのに決まっている。


「荒瀬さま」


 フウカを胸に抱いたまま立ち上がり、沓脱石を降りて荒瀬に向かい合った。


「ん?」

「お久しぶりでございます」

「ああ、ああ。そうだね。どうだい、その犬は可愛いだろう? 大人しい犬だから、そうして抱いておいでなさい。じゃあ、誠士郎、瑠璃さんを頼むよ」

「親父!」


 せかせかと話した荒瀬は、同じくせかせかした足取りで来た廊下を戻っていった。挨拶したのになんていうか、あまり気にしてもらえなかったというか、気もそぞろな様子だ。


「亀次郎?」


 荒瀬が去ったあとも、男が立っていたところを半ば呆然とみつめている亀次郎に声をかけると、肩がびくっと揺れた。


「どうかした?」


 尋ねると、亀次郎は恨めしげな視線をこっちに送ってきた。なぜ。


「なによ」

「あんたな、わかってんのか。俺に嫁ぐ気がないならもっと嫌がってみせろよ」

「とつっ」


 嫁ぐ。亀次郎に。


 ……。


 どうしよう、あんまり嫌じゃない。


「っそ、そんな、だって、お断りされたってお父さまが言ってたわ」


 嫌じゃなかった自分に驚いて慌てて言い募ると、亀次郎が盛大なため息をついて頭を左右に振った。


「親父は乗り気なんだよ。わざわざ俺が膝をついてまで断ってやったってのにあんた、やっちまったな」

「やっちまったってなに」

「着飾って来ちまうんだから」

「なによ、私が悪いっていうの? あんなレコード置いてかれちゃ、まさか亀次郎なのって思うじゃない。あなたかどうか確かめにきただけよ! 振袖は無理矢理着せられたの! うちだってお父さまは乗り気なんだもの。なんだってあんなレコード持ってきたりしたのよ?!」


 私に釣られフウカも興奮したのか、わん! と一声吠えた。フウカの顔を顎の下に置いて亀次郎を睨むと、彼もむっとした顔で見返してきた。ほんの数秒だけ。


「……っぶはっ」


 すぐに耐えられない、といった感じで吹き出し笑い出した。そのあと慌てて口を押さえていたけど、今度は我慢しきれず肩が震えているし、目も笑ってる。


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