11. 荒瀬の息子
「お父さま、瑠璃が参りました」
「座りなさい」
二日前にも同じやりとりをしたわね、と思いながら書斎に入った。あのときの私は和装で、お父さまは煙草を吸ってはいなかった。
今日の私はお父さまの嫌う洋装で、お父さまの部屋には煙草の臭いが満ちていた。窓が開いているからさほどでもないけれど、青い灰皿の中にはもう何本もの吸い殻が重なっている。灰皿の横の、見慣れない白い布の袋が目を引いた。なにかしらあれ。大きい。なにか入っているにしちゃ平たいけど。
「先ほど荒瀬が次男とともに謝罪に訪れた」
灰皿ののった机を挟んだ向こう側のソファに腰掛けたお父さまは、そこで言葉を切ると指に挟んでいた煙草を咥え、すぅっと深く息を吸った。眉間に皺を寄せ、開いた窓の方に目をやり黙っている。
ふー、と煙とため息を混ぜた息を吐いたお父さまは、こちらを見ずに口を開いた。
「荒瀬の長男は二週間ほど前には既に行方知れずだったらしい。家の金を持って上華港へ女と逃げたと白状しに来た」
上華港。海を渡った先の街だ。外国へ行ってしまったの。じゃあこの縁談は白紙ね。心の奥にあった重荷がふっと消える。
「女って、芸者には逃げられたって一哉が」
気持ちが軽くなったせいもあり口を挟むと、お父さまに険しい視線を向けられてしまった。
「まったくどこでそんな話をあいつは……」
苛立ちをぶつけるように灰皿の底に煙草の先を押し付け乱暴に火を消したお父さまは、すぐに煙草入れの蓋を持ち上げ新しい一本を手に取った。また吸うなら消さなきゃいいのに。
「別の女だ」
当たり前みたいに言われ怒りが生まれる。
「よくそんな人との縁談を娘に」
「妾のひとりふたり、珍しくもない」
煙草入れの側面でマッチを擦って、咥えた煙草に火をつけたお父さまがまた煙を吐いた。灰皿に投げ入れられたマッチが頼りない軽い音を立てる。
「この話は無しだ。忘れなさい。まったく、縁談の相手が勘当とは。頭を地面にこすりつける勢いで謝罪はされたが破談の事実は消えん」
「ご次男も謝罪にいらしたと聞きました」
ぽつりとこぼすと、お父さまの目がきらっと光った。
「気になるか。正直あそこは次男坊の方が出来がいい。そちらが家督を継ぐのならそちらでどうかと持ちかけたが」
「え? そんなことをさっき聞いたんですか?」
「当たり前だ。話は早い方がいいだろう。家が繋がるなら相手には拘らん――だが断られた」
「ことわ……そうですか」
なんだろう、ちょっと傷つく。
「出来損ないの息子の嫁になら貰ってやらんでもないがという程度の話だったのか、と怒鳴りつけてやったわ」
ふん、と偉そうに顔を反らしたお父さまだったけど、残念ながらそういう話よね。長男になら私でよいけれど、次男相手となると私では及ばない、という。
「向こうはなんて?」
尋ねると、指先で煙草を軽く叩いて灰を落としたお父さまが、眉間に深いふかい皺を寄せた。険しい山脈みたい。
「当の次男が膝をついて頭を下げてな。この話はここまでに、と。軍人あがりの男にそこまでされるとさすがに」
なにも言えなくなったんだ。
「そうですか」
「なんだ、惜しいか? まあ、気にするな。もっといい話をまとめてきてやろう。向こうが歯噛みするほどいい縁談をな」
ここでお父さまはまた煙草を消した。ほとんど吸ってない。そのくせ手は次の煙草を求めて机の上をさまよい……灰皿の横の謎の布の袋にぶつけた。
それで袋の存在を思い出したみたいだ。怪訝そうな顔をそっちに向けている。話題にするなら今だ。
「それ、なんですか?」
「ああ、次男からうちに、と。最初に渡された。レコードだそうだ。大方一哉の話を聞きつけて機嫌取りに持ってきたんだろう」
レコード。それであの平たさ。きっとバイオリンの曲のね。つまんないの。興味を失った私とは逆に、お父さまは好奇心が疼いたのか袋を引き寄せている。
これは。早く部屋を出ないと一緒に音楽鑑賞をと誘われる羽目になる。
「お話は終わりでよいですか?」
「ああ、行っていい」
「失礼します」
よかった。立ち上がり、袋からレコードを取り出すお父さまを後目にくるりと戸口を向いた。
「なんだこれは」
と、耳が小さな独り言を拾う。なんだこれは、ってなにがかしら。気になる。そっと頭を巡らせお父さまを視界に入れる。難しい顔で、手にしたレコードの薄茶の紙スリーブに視線を落としている。
「ジャズに」
ここで、重ねられていた下のレコードを引き出したお父さまはそっちのスリーブの文字にも目をやっていた。
「タンゴ?」
ジャズにタンゴ。
聞き覚えのある並び。ジャズにブルース、タンゴ。そう言ったひとが昨日いたのではなかった?
「なぜこんな俗なものを……どこまで馬鹿にするつもりだ」
ぶつくさ言うお父さまをひとり残して、心が一瞬にして昨日の雑踏に飛んだ。
“ぽかんとしてないで聴いてみりゃいい。伯爵家なら蓄音機くらいあるだろ?”
記憶が弾け、亀次郎の声が頭の中に響いた。亀次郎。亀、次郎。そうよ、最初に思ったの、なんで亀太郎じゃないんだろうって。
「お、おと、お父さま?」
震え、喉につっかえる声を無理やり出して尋ねる。お父さまはつまらなそうに二枚のレコードを布の袋の上に放り投げ、また煙草入れの蓋を開いていた。
「なんだ」
答えてもこっちを見もしないで。
「荒瀬のご次男は軍人だったって、もしや、海軍におられたのですか?」
前置きもなにも関係ない、知りたいことを単刀直入に聞いた。煙草を探るお父さまの指が止まり、目だけが動いて私を映す。口元には打算的な笑みが浮かんでいた。
「珍しく執心だな。その通り、海軍少尉であったそうだ」
やっぱり。心臓の鼓動が早鐘さながら、どくどく鳴っている。亀次郎は荒瀬の次男坊なんじゃないの。それならうちの場所を知っていても不思議じゃない。
なんで河原にいて、亀だなんて嘘をついてまで家出に付き合ってくれたのかはわからないけど。
だけど机の上に投げ出されたレコード、あれはわかる。私にと用意してくれたんだ。
「そのレコード、くださいませんか」
「これか? こんな俗な……いや、待て。瑠璃、お前はこれが好きなのか。そうだな、お前のような娘たちは、ひとしなみにこういうものにかぶれるものだ」
煙草入れの蓋を閉めたお父さまは、空の手で二枚のレコードを持ち上げると、こちらに差し出した。
「受け取りなさい。新品の輸入盤。なかなかに高価なものなのだぞ。礼を言わねばなるまいな?」
「ありがとうございます、お父さま」
二枚のレコードは硬く大きく重かった。それなのに、変に力を入れたら割れてしまうんじゃないかって危うさもあって、手渡されすぐに胸に抱く。お父さまは、そんな私の姿を眺め満足げに深く頷いていた。
「礼は私にではない、誠士郎くんに直接伝えなさい」
「せいしろう」
亀次郎、せいしろうって言うのね。
待って、今お父さまなんて言った?
「直接?!」
素っ頓狂な声をあげてしまった。
直接って、直接?
「お礼状を書きます」
「なあに、それではやり取りに数日かかる。これから行けば今日中にすべてが終わるというのに。トミ! トミ! 瑠璃に振袖を着せなさい!」
話しながら立ち上がったお父さまが大声でトミさんを呼んでいるのを、夢の中にいるような心地で目に映していたけど、振袖の一言で現実に引き戻された。
「振袖なんてお父さま大袈裟よ」
今し方縁組みの申し出を断られたばかりな上、怒鳴って追い返した相手の家を着飾って訪ねるなんて恥ずかしすぎる。それも相手は亀次郎なのよ。
「なんだ。気になるのだろう? 荒瀬の次男が」
気になるかと聞かれれば、そりゃあ、気になる。想像した通りそのひとが亀次郎なのか確かめたいし、亀次郎なら、助けてもらったお礼も、レコードのお礼も伝えたいもの。
「年頃の男女がはじめて顔を合わせるのだ、着飾ってなにがおかしい。トミ! なにをしておる早く来んか!」
はじめてじゃないのよ。もう、子供を叱ってるところも、荷物を奪われ呆然としていたところも、飯やで山盛りのご飯を食べているところも、海に落ちて爆発した頭すらきっと見られてる。
荒瀬は嫌だと思ってるのも、みんなみんな知られてるのに。
「はい、はい、旦那さま、ただ今」
トミさんがやってくる足音を聞きながら、色んな気持ちの混じった複雑な気持ちを、レコードと一緒に抱えて立ち尽くしていた。
でもだってどうしよう、私、行きたい。