10.謝罪
その日の夕刻近くお母さまと屋敷に帰ると、私はものの見事に“腫れ物扱い”された。お父さまが荒瀬のところから戻られていないとはいえ、屋敷の皆がほんのり優しく、ほんのり距離を空けてくる。とても……、
過ごしやすい。
あれこれ尋ねられたり詮索されるんじゃないかという心配は消え失せ、しおらしい顔をして自室に引っ込んだ私だったのだけれど、忘れていた。
「姉さま、お帰り」
弟の存在を。
本棚の前に立っていた一哉は、私が部屋に入ると開いていた本を閉じ、棚に戻し、それからゆっくりとわざとらしい作り笑いを顔に浮かべた。
「勝手に部屋に入らないでって言っているでしょう?」
「書き置きとか遺書とかないかなって思ったんだ。なかった」
「あなた家捜ししたの? 最低!」
睨むのもいやで、弟からふいと視線を逸らせて机に向かう。引き出しを開けると、少し物が動いた形跡がある。見られて困るものはないれど気分が悪い。
「恋文の一通も出てこないからつまらなかったよ。時間の無駄だった。せめて下手な詩の何遍かくらい書いておいて欲しいものだね」
一哉の戯れ言を聞き流しながら、持ち帰った風呂敷包み――幸い海に落ちる時、防波堤に落とせていたから濡れていない――を机に置くと、一哉が興味深げに近づいてきた。
「何持って家出したの?」
言うが早いか、細い指で結び目を解いて包みを開いてしまった。まあいいわ。ここにも見られて困るものはない。
と思ったんだけど。
「身投げしようっていうのに学校の課題を持って行く人間はいないよね」
「あ」
「少なくとも週明けの学校を休むつもりはなかった、と」
しまった。持ち上げた刺繍枠を目の前でくるくる回され、睨もうと顔をあげたのにできなかった。
「一哉?」
「なに」
弟が珍しく気の抜けた顔をしていたから。小さいときの一哉みたい。お姉ちゃまお姉ちゃまと後をついてきていたときの。本気で身投げをしたのかと、この子なりに心配してたんだろう。
「安心した?」
顔を近づけ笑って言うと、一哉はすぐにいつもの顔になって後ずさり、こっちを睨んだ。
「するわけない。最初から狂言だってわかってた」
「顔が赤いわよ。なあに目も赤いんじゃない?」
「そっ、そんなのあるわけないだろ、なんだよ、この刺繍。蠅? これ」
「トンボよ!」
取り返そうと手を伸ばすと、一哉が刺繍枠を高く上にあげた。届かなくはないけど面倒くさい。
「一哉!」
「背はもうそんなに変わらないもんね」
なんてもみ合っていたら、紙が一枚ひらひらと舞い落ちてきた。刺繍枠にくっついていたみたい。あんな紙、荷物に入れてたかしら。
狙ったみたいに私と一哉の靴の先の間の床に落ちたのは、手帳から一枚千切り取ったような、端が一辺びりびりの紙だった。
「!」
「あっ、ちょっと一哉」
紙は、一哉に素早く拾われてしまった。ちらっと見えた弟の横顔には焦りが滲んでいたから、書き置きが出てきたと思ったんだろう。
文枝さんから授業中回ってきた手紙が混じっていたのかな。記憶にないけど。
「なにこれ、誰の字? 男の字だ」
「え?」
拾った紙に目を落としていた一哉が不機嫌な低い声で言って、紙を顔の前に突きつけてきたから軽く仰け反った。
目の前でひらめく紙には確かに力強い男の文字でこう書かれていた。
“宮坂町”
“藤乃宮瑠璃”
鉛筆書きだ。急いで走り書きしたのがわかる少し崩れた文字。私の名前から少し離れて、もう一文。
“すまない”
ふ、と口元に笑みが浮かぶ。「すまない」って、なにによ。犬の話で笑ったから? 黙って置いていったから? それとも、亀だなんて嘘をついたこと?
「まさか、駆け落ち?」
「亀次郎……」
「え? なに、誰」
「誰でもない。早く出てって」
さっ、と紙を奪い返し、一哉の腕を掴んで歩かせ、無理やり部屋から押し出した。
「ちょっ、姉さ」
「ひとりにしてよ!」
「それ誰が書いたんだよ?」
「一哉! おやめなさい!」
「だってお母さま」
一哉と扉のあたりで押し合いへし合いしていたら、騒ぎを聞きつけたお母さまがやってきて、なんと一哉を諫めてくれた。
「お姉さまはそっとしておいておあげなさい! さ、一哉いらっしゃい。下でお母さまになにか弾いて聴かせてちょうだい」
「お母さま」
ふたりを廊下に残して扉を閉める。二言三言、言葉を交わす声が続き、やがてふたりの気配が遠ざかりはじめた。やっと一人になれた。
ほっと息をついて手の中の紙に改めて目を落とす。鉛筆書きの文字を指でなぞった。亀次郎の字。
荷物の中にこれがあったから、すぐに家に連絡が行ったんだ。だけど、ひとつ疑問がある。私、家の場所を亀次郎の前で口にしたかしら。そんな話は出なかったはずだけど。
「……」
考えてもわからない。自分で意識していない間にポロッと口にしていたのかな。
きっとそうね。
◆◆◆
「塩を撒けえええい!」
びっ……くりした。
翌日の午前中、一哉のバイオリン練習を冷やかしながら刺繍の課題を進めていたら、お父さまの怒声が屋敷に響き渡った。
さすがの一哉も演奏の手を止め、呆然とした目を玄関の方向に向けている。玄関、ここからは遠いんだけれど。
「なに、お客さまが来られていたの?」
「そうみたいだね」
そう言った一哉が、バイオリンを手に提げ部屋を出たので私も追いかけた。今日は洋装にしててよかった、袴以上に動きやすい。廊下を少し行けば車寄せが一望できる窓がある。あそこに行くつもりね。
「自動車だ。いいな、うちにも欲しい」
窓にたどり着いたときには、謎の来客の乗った自家用車は去っていくところで、遠ざかる車の後ろが見えただけだった。
「うちには佐吉がいるでしょ。それよりどなたがいらしてたのかしら」
「さあ。あ、ねえトミ! 誰が来てたの?」
廊下の向こうにトミさんの姿があったけど、声は届かなかったみたい。一哉の問いかけには答えず、急ぎ足で通り過ぎて行く。
「なんだよトミのやつ」
「きっと塩を取りに行ったのよ。お父さま、ものすごーくお怒りだったから」
「だね。気になる。聞いてくる。これしまっておいて」
「あっ一哉!」
もう。バイオリンを押し付けられちゃった。ま、いいわ。すぐに情報を教えに来てくれるはず。
「姉さまねえさま姉さまねえさま!」
ほらね。
バイオリンをケースに片付け刺繍を再開していくらも経たないうちに、息せききって一哉が駆け戻ってきた。弟のたてる騒がしい足音に笑みがもれる。
「なにかわかった?」
「荒瀬荒瀬! 荒瀬が息子と来てたんだって」
荒瀬。
あの下品な男が放蕩息子と来てたの。塩を撒けは正解だわお父さま。車寄せが雪の日の朝みたく白くなるまで蒔いておいて。
「ふうん」
「ふうんって、気にならないの?」
「べつに。下品な成金と放蕩息子のふたりに興味なんてない」
ちく、と針を進める。トンボの羽根の一枚くらいは今日中に終わらせないと。
「そう。僕は見たかったな、芸者に入れあげて金を注ぎ込んだあげく逃げられた男の顔」
「そんな男なの?!」
驚いて弾かれたように顔を上げて叫ぶと、一哉が目を丸くしていた。
「知らなかったの?」
「越田の沙織さまが、放蕩者だから私が可哀想って言ってた」
弟に指摘され急に恥ずかしくなる。さっと視線を手元の刺繍に落とし、課題を進めるふりをした。
金を注いだのに逃げられるなんて馬鹿みたいな男。なんでお父さまはそんな男との縁談を受けてきたのよ。
「その程度の情報だけで家を出るなんてどうかしてるよ。ま、来たのはそいつじゃなかったらしいけど。ほら、そんな蠅、あとにしなって」
「トンボだって言ってるでしょう? ほんっと嫌な子ね――って、来たのは放蕩者じゃなかったの?」
言葉に引っかかりを覚え顔を上げると、一哉が、よほど話したいのか椅子を一客近くに引きずってきていた。
「うん、それがさ、女中がひとりその場にいたっていうから詳しく聞いたんだ」
椅子背もたれをこっちに向け、跨がって座った一哉が、背もたれの上に腕を乗せ、椅子を揺らしながら言葉を続けた。足がしっかり床に着いてる。大きくなったのね。
「ほら、あの髪の短い洒落た子だよ。来たのは次男なんだって。どうも荒瀬の長男は、少し前から行方知れずになっているみたいだ」
「はあ? 昨日お父さまが謝罪しに行ったのに?」
こんなのもう、課題の刺繍どころじゃない。
誇り高いお父さまが、私が食事会に行かれなくなったのを謝りに行ったというから、さすがに申し訳なかったなって反省していたのに、向こうはそのさらに前からいなくなってたなんて。
「そう、それであの鬼の怒りよう。なぜ昨日のうちに言わなかった! って。次男は膝をついて謝罪してたってさ。見たかったなあ」
悪趣味ね。
「次男は放蕩者じゃないの?」
「そういう噂は届いてないね。長男がいなくなったから軍にいたのを呼び戻したんだって。いい男だったって女中が頬を染めてた」
「へえ。そのくらいで土下座するなんて随分心根の安い男」
いい男なら私もちょっと見たかったな、って、なに考えてるのよ、あの下品な成金の顔を思い出すのよ瑠璃。どのみちあれの息子。
「お嬢さま」
「トミさん、なあに? お塩は撒けた?」
と、戸口にやってきていたトミさんに呼ばれた。一哉はまだ椅子を揺らしてる。
トミさんは困った顔をしていた。言いにくいことを口にしなければならない、って感じの。
ため息が出る。
「だん……」
「お父さまがお呼びなのね。すぐ行きます」
刺繍枠を机に伏せて立ち上がると、トミさんはあからさまにほっとした顔をみせ、一哉は椅子を揺らすのをやめた。