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1. それぞれの縁談


 佐吉の引く人力車を降り女学館の門をくぐった途端、待ちかまえていた学友ふたりが駆け寄って来て両側を挟まれた。


「聞いた? 瑠璃さん。千代お姉さまのお輿入れがお決まりになったんですって」

「お相手は猪川鉄鋼のご長男で、来春卒業と同時にご婚礼だそうよ」


 ふたりが同時に話し出したものだから声が混ざって混乱する。壁を白く塗られた、二階建ての擬洋風建築の学舎まで伸びる並木道の脇に、半ば強制的に連れて行かれる。


「ち、ちょっと」


 黄色く色付きはじめた葉を披露している銀杏の大樹の下で、ようやくふたりは私を解放してくれた。

 

「落ち着いて。なんですって? 猪川鉄鋼のご長男と? 千代お姉さま?」


 輿入れ。

 聞き取れた単語を繰り返せば話が見えてくる。


 頭の中で、ぼんやりと顔の見えない男の横に千代お姉さまを並べてみた。私と違って真っ直ぐな綺麗な髪を胸まで伸ばした、お姫さまみたいな千代お姉さま。の横の猪川鉄鋼の若旦那、なんて、まったく知らないひとだもの、顔も髪型も体型もなにも想像できない。


「千代お姉さまは旭都(きょくと)女学館でも飛び切りお優しいお姉さまだわ。お姉さまに相応しい方なの?」


 知らない方のことを頭の中でいくらこね回したってなにも出てきやしない。ふたりに聞かなきゃ。右に左に顔を向け尋ねると、彼女たちの顔が曇った。

 途端、不安が雲のように胸に湧き上がり、風呂敷包みを抱える手に力が籠もる。吹き通る風が、肩に触れている髪を揺らしていった。


「……よくない噂のある方?」


 足を止めこそ、と囁くと、ふたりはそれぞれ別の反応を見せた。和子さんは首を傾げ、文枝さんは力強く頷いて。

 

「どっちなの」

「さあ、私は知らない方だから。でも」


 先に話し出したのは和子さんだ。でも、なにかしら。


「千代お姉さま今週に入ってからずっと元気がなかったでしょう? もうお顔合わせは済ませてるはずだもの、喜べないご縁談なのかしらって」


 そうね、確かにお姉さま、ここしばらく沈んだ顔をしていた。昼休みにも中庭で、中身の減らないお弁当を膝の上に置いて、物憂げに座ってらした。


「猪川鉄鋼ってどんな?」

「先の大戦でぐんと大きくなった会社」

「機械の部品を作る鉄工所よ」

「新興成金ね」


 成金と聞いて嫌悪感に肌が粟立つ。

 お父さまと一緒に前にうちに来た中年の男を思い出した。大きな声で話して笑って、絨毯に葡萄酒をこぼして帰って行った。着慣れない洋装姿で、ネクタイが曲がっているのが目に入るたび気になって仕方なかった。おまけにその日は雨で、厠帰りの男と廊下でばったり会ったとき、その男は湿気を含んで膨らんだ私の髪を、家にいる犬とそっくりだと笑ったの。


 犬に例えるなんて許せない。

 私は藤乃宮伯爵家の人間なのに。


 ほとんど無意識に髪に手をやりながらため息をついた。大丈夫、今日は乾燥しているし、念入りに櫛で梳いてきたし、きちんと整っている。うん、結んだリボンも曲がっていない。


 成金なんてみんなあんななのに決まってる。なんて言ったかしら、たしか荒……なんとか商会とか。絹だとか船だとか砂糖がどうとか上華港(シャンファガン)にも店をとか、規模の大きな話をしきりにしてた。


「で、でも、贅沢に暮らせそうね」


 少しの沈黙のあと、右側を陣取っていた和子さんが言葉を絞り出してきた。そうね、お金には困らないでしょう。お金だけはお持ちなのよああいった方々は。


「お金の苦労はなくたって、品のない散財に付き合わされるでしょ」


 左の文枝さんが鼻を鳴らしながら不愉快そうに首を降ると、おさげが二本の鞭さながらに振れ彼女の肩を打った。文枝さんのお父さまは大学の先生、それもあって彼女は知性をなにより重んじる。


「猪川の息子は鉄臭い無骨な猪って叔母が前に言ってたの。私はいや。身売りと同じよ」

「文枝さん、それはちょっと言葉が過ぎるのではなくて?」


 さすがな物言いに注意すると、文枝さんは居心地が悪そうに視線を逸らした。会話が途切れる。


「ねっ、ねぇ今日は帰りに東彩楼に行くのはどう?」

「いいわね!」


 和子さんの提案に文枝さんが乗り、場の空気がわっと明るくなった。私以外。だって保護者なしに桔梗通りへ行くのはお父さまに禁じられているんだもの。東彩楼は桔梗通りにある珈琲茶館(コーヒーハウス)だ。私は行ったことがないからどんなところかわからない。前を通ったことはあるのよ、馬車で。


「みるくほうるじゃ駄目かしら」


 どこから飛んできたのか、丸まった大きな茶色の枯れ葉を踏みながら提案した。ミルクホールなら学校のそばにある。編み上げ靴の底が鳴らした葉の潰れる音は、さながら私の拗ねた心。どうせ却下されるのはわかってる。


「まだそんなことを言ってるの瑠璃さん、私たちも来年は最上級生。ミルクホールには中等部の子もいるじゃない」


 やっぱりね。


「あなたには冒険が必要。行きましょうよ。黙っていればわからないわ。モダンで素敵なお店なのよ」

「藤乃宮のおじさまも心配性ね」


 ふたりの興味は千代お姉さまから桔梗通りへの寄り道にすっかり移ってしまった。私だけがひとりぼっちな気持ちで、さっき文枝さんの発した言葉に囚われている。


 身売りと同じ。


「そうだ、今日は大切な話があるから、寄り道せずに帰ってこいと言われていたのだわ」


 出がけにトミさんに声掛けされたのだった。寄り道を断る口実ができて内心ほっとした。厳しいお父さまの言いつけに背くのはちょっと怖いから。


「あらそうなの? なに、まさか瑠璃さんにもご縁談?」

「やめてよ! まだ十七なのよ」


 ほっとしたのもつかの間。

 自分でもこっそり不安に思っていたのを言い当てられぎょっとした。


もう(・・)十七、でしょ?」

「とはいえ藤乃宮伯爵家のご令嬢に相応しい殿方なんてそこらに転がってるものでもないし」

「そうよね、華族でお年の合う方は、そぉねえ、洲崎さまの……」

「まさか! 雅臣お兄さまと私なんて有り得ない。洲崎は侯爵家なのよ。うちみたいな」


 没落寸前の伯爵家。


 最後まで言わなかったけど、その場の全員の頭に浮かんだだろう言葉を口に出すものはいなかった。気まずい沈黙再び。今日の私は空気を壊してばかりだ。


「授業がはじまってしまう、行きましょ」


 責任をとって一番に口を開き、校舎を指差し大きな一歩を踏み出した。袴って歩きやすい。歩いているだけで元気が出る。帰ったらすぐに着替えさせられてしまうから、学校にいる間にたくさん動いておかなくちゃ。


「課題の刺繍終わった?」

「まだよ。眠くなっちゃって」

「わかるわ」


 なんて話していたら予鈴が鳴った。周りの子たちと一緒に慌てて駆け出したら、もやもやしていた気持ちはきれいさっぱり吹き飛んでいった。


 ◆◆◆


「お帰りなさいませお嬢さま」

「ただいま……ね、お客さまはいらしてる?」


 玄関まで迎えに出てきたトミさんに風呂敷包みを渡し聞いた。表には馬車も車もなかった。


「いいえ、今日はどなたも」

「そ」


 よかった。帰ってきたら私にも見合い話が、っていう恐れていた展開はなさそうだ。


一哉(かずや)は? いないの? えらく静か」

「バイオリンのお稽古日で大先生(おおせんせい)の日ですからお出かけに」

「ああ、今日は第二木曜だったわね、よく続くわ、あの子」


 四つ年下の弟は、生意気な性格ながら私が一年で根をあげた楽器を十年も習い続けている。そこだけは尊敬するわ、そこだけは。


「旦那さまが書斎へお越しになるようにとおっしゃっておいでです」

「着替えたらすぐ向かいます」


 お父さまと話すなら洋装より和装にしなきゃ。面倒だけど和装のときの方が我が儘が通るの。我慢よ、がまん。

 そう考え、装いも新たに離れのお父さまの書斎へ向かったのだったけど。


「お父さま、瑠璃が参りました」

「座りなさい」


 扉の開かれた奥、暖炉を背に厳めしい顔つきをして立つお父さまを一目見て、これは駄目だってすぐにわかった。とりつく島もない、そういうときの顔をしている。


「はい」


 素直に答えてソファーに腰を下ろす。小さな卓の上に置かれた桂葉焼きの青い灰皿に使われた形跡はない。すなわち、それほど深刻な話ではなさそう。お父さまに悩みごとがあるとすぐに灰皿がいっぱいになるから――。


「瑠璃」

「はい」


 考えを中継したのを気取られないよう、背筋を伸ばしはっきりと返事をした。お父さまは満足げに頷くとゆっくり歩を進め、ふーっと深いため息をつきながら向かいのソファーに座った。


「お前も十七になったな」

「はい」


 ああ。


 その一言ですべてを察した。

 縁談だ。


「是非お前を、と言う者が現れた」

「そうですか……一体どちらからお話が?」


 尋ねる声が震えている。答えを聞くのが怖い。膝の上で拳を握る。指の関節が白くなるほど力をこめて。


「ふむ」


 成金はいや。

 成金はいや。


 跡取りじゃなくていいから、財閥や学者さまのおうちの方を。どうか神さま仏さま菩薩さまお願いします。成金はいや。


「覚えているだろう、以前に一度うちに来た荒瀬商会の長男――瑠璃?」


 荒瀬商会。

 私を犬呼ばわりした新興成金。


 さあっ、と血の気が引いた。目の前が暗くなる。帯を強く締めすぎたかしら……。


「どうした瑠璃気分が悪いのか、真っ青だ、トミ! トミ! 来てくれトミ!」



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