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霖雨蒼生(りんうそうせい)の姫君にはなれない。  作者: 小花衣いろは


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第二十三話 強くなりたい



 今の雫音は、やらなければならないこと――やりたいと思うことが山積みだった。


 自分の身は自分で守れるように、己を鍛えること。雨を自在にコントロールできるように、精霊と意思疎通をはかれるようになること。そのためにも、強い心を持つこと。

 それに、今後も険しい山道を移動することを考えると、体力だって十分につけておきたい。


 けれど雫音は、山積みの課題を少しずつこなしていく今の時間が、嫌ではなかった。むしろ心地良ささえ感じていた。

 無意味に、無感動に、何の目的もなく生きてきた雫音にとって、やるべきことが明確に見えているここでの日々は、ひどく新鮮で、生を謳歌していると実感することができた。


 これも雫音にとっては、ささやかな生きる理由の一つになっているのかもしれない。


「お、雫音だ! 一人で何してんだ?」


 屋敷の裏庭の隅で、八雲に教わった護身術の復習をしていれば、そこにやってきたのはフィシだった。

 食事の席で時々顔を合わせることはあるが、こうして二人きりで話すのは初めてだ。人見知りの気がある雫音は、自分より一回りも年の離れた子ども相手だというのに、それでも少しだけ緊張してしまう。


 けれどフィシは、気まずさや緊張といった感情とは無縁の性格をしているようだ。雫音の目の前まで歩いてくると、ニパッと眩しい笑みを広げる。


「私は、護身術を覚えたくて……教わったことの復習をしてたんだ」

「へぇ、すげーじゃん! あっ、そうだ。おれも横で剣の練習しててもいいか? 本当は兄ちゃんから稽古をつけてもらうはずだったんだけど、急な仕事が入ったらしくてさぁ。それが終わるまで、暇してたんだよ」

「うん、もちろんいいよ」

「よっしゃ!」


 フィシは手にしていた木刀を両手で持って構えた。木刀を振り下ろすたびに、ぶんっと、風を切る音が重たく響く。


「フィシくんは、剣道……でいいのかな。上手なんだね」

「へへ、まぁな! おれさ、鍛錬してこれからもっともっと強くなって、それで、兄ちゃんのことを支えてやりたいんだよ。強い武将になるのが夢なんだ」


 夢を語るフィシの瞳はきらきらと輝いていて、雫音の目にひどく眩しく映った。


「フィシくんは、すごいね。将来のこともちゃんと考えて、頑張ってる。本当にすごいよ」


 雫音は、心からの尊敬の言葉を伝えた。

 自分がフィシくらいの年齢の時など、ここまで何かに一生懸命になれるようなことなんて、何一つなかった。周りの同級生たちのように、語れる夢の一つも持っていなかったように思う。そんな自分を思い出すと、少しだけ恥ずかしくなってくる。


「おれは、雫音だってすごいと思うけどな」

「え? ……私が?」

「おう! だって雫音は、日ノ本に雨を降らせるために、諸国を旅してるんだろ? それってすっげーことじゃん。雫音のおかげで救われてる人たちがたくさんいるってことだからな。おれは、カッコいいなって思うぜ!」


 子どもながらの、裏表を感じさせない真っ直ぐな言葉だ。これまでもたくさんの人に伝えられてきた感謝の言葉だったが、それが純粋に、とても嬉しく感じる。


「ありがとう、フィシく……「おい、小童。そこで何をしている」


 雫音の声を遮るようにして響いた声は野太く、剣呑な響きを持っている。こちらに近づいてきたのは、シルヴァに仕えている三人の家臣たちだった。


「……何だよ。おれはただ、兄ちゃんの仕事が終わるまで、ここで剣の稽古をしていただけだ!」

「全く、長はお忙しいというのに、毎日毎日性懲りもなく訪ねてきおって」

「シルヴァ様がお前に稽古をつけてやる義理などないのだからな。少しは弁えろ」


 家臣の男たちは。あからさまな悪意をフィシにぶつける。忌避の色を宿したその瞳は、ひどく冷たく感じる。


「……ま、待ってください」


 雫音は我慢できず、口を挟んでしまう。家臣たちは億劫そうな雰囲気を微かに醸し出しながらも、雫音が客人という立場であるからか、外行きの微笑を湛えて返答する。


「何ですかな、雨女神殿」

「その言い方は……ひどいと思います。フィシくんは、シルヴァさんのために強くなろうって、こうして頑張っているのに……」


 人に意見を言うのが大の苦手な雫音だが、勇気を振り絞って伝えた。きっと分かってもらえるはずだと、そう思って。けれど返ってきたのは、冷めた嘲笑だった。


「はっ、小童一人が剣を振り回したところで、何が変わるというんです」

「小童一人の戯れに付き合わされる時間と、国の政や戦、民のことを考えることに割く時間。どちらが有意義なものかなど、考える間もなく分かることです」

「だ、だから、そんな言い方は……「雫音、もういい」


 雫音は言い返そうとした。けれどフィシに手を引かれて、止められてしまう。


「ふん。どこの馬の骨とも知れん下賤な血が流れているお前が、長の弟などと……片腹痛いわ。何と汚らわしい」

「本来であれば、この敷居さえ跨いでほしくはないんだがな」

「っ、……」


 その言葉の意味を、脳が理解した瞬間。――息が詰まった。言い返そうとしたが、漏れたのは吐息だけだった。雫音は両手を強く握りしめる。掌に爪が喰いこむ痛みを感じたけれど、ただ、耐えた。男たちがこの場からいなくなるのを、静かに待った。


 男たちが去っていき、残された二人の間には、ひどく重たい沈黙が落とされる。


 雫音は、フィシに何と声を掛けたらいいのか分からなかった。人と関わることを避けて生きてきた雫音には、気の利いた慰めの言葉の一つさえ出てこない。

 チラリと斜め下を見れば、フィシは俯いていたけれど、小さな手は、微かに震えていた。


「……おれさ、兄ちゃんとは血がつながってないんだ。赤ん坊の時に捨てられてたのを、兄ちゃんが見つけて、育ててくれたんだ。だから、アイツらが言ってたのは本当のことで、何も言い返せねぇ。それが、すごく……悔しい。おれ、もっともっと、強くなりたいっ……!」


 涙声のフィシは、下を向いて、目元を乱暴に拭っている。


 ――フィシくんの血が汚れているなんて、そんなことあるわけない。シルヴァさんのために頑張っているフィシくんは、すごくすごく、立派だよ。だから、大丈夫だよ。


 雫音はそう伝えようとして、けれど結局、口を噤んだ。

 その慰めの言葉のどれもが、ひどく軽いものに思えてしまって。


 ――こんな時、守ってあげることのできない自分はひどく無力で、情けないと思った。


「……私もだよ。もっと強くなりたい」

「っ、うん……」


 雫音は、フィシの手をそっと握った。

 握り返してくれた手は少し震えていて、温かかった。



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