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第十四話 約束の旅立ち



 明朝。空はめずらしく晴れていた。

 まだ明けきらない朝の青い光が、障子戸の向こうから流れ込んでくる。


 しかし、満ちたすがすがしい空気とは反対に、雫音の心はどんよりと沈んでいた。

 昨日、八雲に言われたことが、小さなしこりとなって心に引っかかっているからだ。


「雫音殿、起きていますか?」


 支度を終えてボーッとしていれば、障子戸の向こうから声が掛かる。与人の声だ。出立前に少し話したかったとのことで、こうして訪ねてきたくれたようだ。


 座布団に腰を下ろした与人は、雫音の顔を見て、心配するような目つきになる。


「浮かない顔をしていますね。何かありましたか?」

「……いえ、特には。何もないです」


 雫音自身、無表情で感情が相手に伝わりづらいという自覚はあるので、まさか与人に落ち込んでいると気づかれるとは思っていなかった。

 けれど、心に巣食うモヤモヤを与人に話そうとは思わない。雫音の意思を汲んで諸国へ送り出そうとしてくれている与人に、余計な心配はかけたくなかった。


 だから雫音は、何でもないと白を切る。それに、これから風之国を離れることに対して、気持ちが不安定になっているところもあるのかもしれない。そうも思えた。


 雫音は自分の感情にさえ鈍感なところがあるので、確証を持って言えるわけではないが――多分、不安なのだ。

 生まれて初めて、雨女の体質であることを、他人から感謝された。受け入れてもらえた。そんな温かな場所から離れることが不安で、少しだけ寂しい。


「……雫音殿。一つ、約束をしていただけませんか?」

「約束、ですか?」

「はい」


 雫音が何も話すつもりがないことが分かると、穏やかな顔をした与人は、雫音に一つの約束を持ち掛ける。


「雨を降らせる旅が終わったら、最後には必ずまた、風之国に帰ってきてください」

「え? でも……私は風之国の生まれというわけでもありませんし、雨が降るようになった今、またこの地に帰ってくる理由もありません、よね?」


 雨が降るようになった今、雫音が帰ってくる必要はない。玉依の巫女のお告げで、慈雨をもたらされた地は、当分干ばつに困ることはないと云われているからだ。だから、雫音という存在にもう価値はない。


 けれど与人が帰ってきてほしいと願っている者は、雨女神様ではない。神様などではない、ただの少女である、雫音自身だ。


「俺は、雫音殿が雨を降らせる力をお持ちだから、帰ってきてほしいと言っているのではありません。ただ、雫音殿に帰ってきてほしい。それだけです」


 与人の言葉はいつだって真っ直ぐだ。優しくて、裏表がないから、胸にすっと融けていく。

 ――それは、雫音に勇気をくれた。与人の言葉で、胸にあった靄が小さくなっていった気がした。


「約束、していただけますか?」

「……はい。約束します」

「では帰ってきたら、旅の道中の話をたくさん聞かせてください。楽しみにしています」


 嬉しそうに微笑む与人の目を見て、雫音はきゅっと口許を結びながらも、コクリと頷いた。その目の下はほんのりと色づいている。


「準備はできた?」


 和やかな空気が広がる中、雫音を呼びにきたのは千蔭だった。

 与人が一緒にいることも分かっていたようで、


「話はできたの?」


 と、特段驚いた様子もなく尋ねている。


「あぁ、大丈夫だ。……雫音殿、お気をつけて。風之国にて、無事の帰途を願っています」

「……はい。いってきます」


 誰かに“いってきます”と言うのも、こんな風に送り出してもらうのも、久しぶりのことだった。


 この世界において――いや、元の世界にいた時から、雫音は独りだった。家に帰っても、出迎えてくれる者などもういなかった。


 そんな自分にとっての“帰る場所”があることは、雫音の心を強くしてくれる。

 優しい与人は、それを分かって雫音を送り出してくれたのかもしれない。



 外を見れば、また雨が降り出していた。絹糸のような細くやわらかな雨だ。


 雫音は、最後にもう一度だけ振り返る。

 そして、与人の顔をしかと目に焼き付けた。



 ***


 雫音は、ひと月前まで、生きることに意味などないと、心からそう思っていた。


 自分が居ても居なくても、誰も困らない。悲しんでくれる人は、もういない。

 自分には何の価値もないのだと、むしろ疎まれる存在なのだと全てを諦めて、だったらいっそ、消えてなくなってしまいたいと――そう考えていた。


 けれど今は、少し違う。


 この力を、誰かのために使うことができる。こんな自分にも、まだ出来ることがある。


 “雨を降らせることができる自分”を誇ることは、まだできそうにないが……それでも、大嫌いだった自分のことを、ほんの少しだけ受け入れることができそうだ。


 自分という存在に、少しだけ、存在意義を見出せるような気がしていた。


「それじゃあ、行こうか。アンタは俺の馬に一緒に乗って」

「はい。よろしくお願いします」


 始めに向かう先は、自然と調和した暮らしを大切にしているという、深緑の美しい土地。緑之国だ。


 ――慈雨を降らせるための長い旅が、今、幕を開ける。



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