第十二話 口にした願いは(2)
「相談、ですか?」
雫音が聞き返せば、与人は何とも言えない、複雑げな表情になった。
「はい。実は、雫音殿のお耳に入れておきたいことがあるのです。以前にもお話したかとは思いますが、現在、日ノ本全土で干ばつが続き、困っている者が大勢います。そして、どうやら雫音殿の噂が諸国まで広がっているようでして……雫音殿の力を貸してほしいと、各国から書簡が届いているのです。先日、火之国の刺客が置いていった書簡にも、雫音殿の力を貸してほしいといった旨が綴られていました」
どうやら、雨女神様の来訪を求める書簡が、諸国から続々と届いていたらしい。
「しかし、雫音殿を他国に向かわせるなど……やはり危険だ」
与人は眉を顰めて、低い声で言う。
それに異を唱えたのは、後ろに控えている千蔭だった。
「でもいずれかは、雨女神様を奪還しようって、他国が風之国に攻め入ってくるかもしれないよね。特に火之国は先日の件もある。また何を仕掛けてくるか、分かったものじゃないよ」
「あぁ、それは分かっている。それに、他国の民が困っていることは事実だ。それを救いたいという思いもある。しかしオレは……雫音殿を送り出すことが、心配なのだ。オレも共に付いていければいいのだが……」
「与人様が直々に向かうなんて、許すわけないでしょ」
領主が国を空けて諸国を回るなど、普通に考えてありえない話だ。
しかし与人は、ここで冗談を言うような男ではない。良いと言われれば、本当に同行するだろう。そういう主だと分かっているからこそ、千蔭は頭が痛くなってしまう。
「……」
二人の話を黙って聞いていた雫音は、声を上げようとした。けれど躊躇し、開きかけた口を閉じる。
そんな雫音の様子に、千蔭は目敏く気づいた。
「どうかした?」
「……いえ。何でもないです」
「……あのさ、言いたいことがあるなら言いなよ。アンタのその口、何のために付いてるわけ? ただのお飾り?」
口を閉ざした雫音に、千蔭はきつい口調で責め立てるようなことを言う。それを聞いた与人はギョッとした顔をして、慌てて千蔭を制する。
「なっ、千蔭! オマエは何を言って…「いいから、与人様は黙ってて」
しかし、自身が仕えている主さえ一蹴してみせた千蔭は、雫音から目を逸らすことなく、尚も問いかける。
「アンタはさ、どうしたいわけ?」
「……私、は……」
「……大丈夫だよ。アンタが出した答えを、誰も跳ねのけたりしないから」
雫音は、そろりと顔を上げる。視界に映ったのは、予想に反してずっと優しい顔をしている千蔭だった。鼓膜を揺らした声も、雫音の心を解きほぐすような、柔らかな響きを持っている。
――気づけば雫音は、固く閉じていた口を震わせていた。
「わた、し……行きます」
「雫音殿?」
「困っている人たちがいるなら……私の力で、少しでもその人たちを助けることができるなら……私、行きたいです」
千蔭の言葉に背中を押された雫音は、困惑している与人を真っ直ぐに見つめて、自身の思いを打ち明けた。
「お願いします」
そう言って、頭を下げる。
「……雫音殿。顔を上げてください」
与人に促されて、雫音は恐る恐る頭を上げる。
せっかく心配してくれた与人の気持ちを、無下にするようなことを言ってしまった。
怒らせてしまっただろうか。呆れているだろうか。……困らせて、しまっただろうか。
無表情ながら、雫音の顔には微かな不安の色が滲んでいる。けれど、そんな雫音の心配をよそに、顔を上げた先では与人が朗らかに微笑んでいた。
「お願いする立場なのは、むしろこちらの方です。他国の民を救うためにも、雫音殿の力を貸してください」
与人は胡坐をかいた状態で、深々と頭を下げる。
「雫音殿がこうして、“お願い”をしてくださったのは、初めてですよね。……オレはそれが、とても嬉しいです」
そう言って下げていた顔を上げた与人は、目を瞬かせて固まっている雫音を視界に映すと、可笑しそうに、嬉しそうに笑う。
予想外の返しに呆けていた雫音だったが、本当に嬉しそうに笑っている与人の姿を見て、胸の中にじわりと、温かなものが広がるのを感じる。
「与人さん。本当に……ありがとうございます」
雫音は、これまで世話になった分の思いも込めて、心からの感謝を伝えた。
(……やっぱりアンタには、そういう顔の方が似合ってるよ)
そして発破をかけた張本人は、いつもよりずっと柔らかな表情をしている雫音をチラリと盗み見て、フッと口許を緩める。
「与人様、安心してよ。他国には俺が付いて行くからさ。……この子が行くって言ったら、初めから俺を護衛に付けるつもりだったんでしょ?」
「あぁ、そうだな。……千蔭。雫音殿のことを、きちんとお守りするんだぞ」
「はいはい、分かってるよ」
「それから……言わずとも分かっているとは思うが、オマエは風之国にも、オレにとっても必要な存在だ。雫音殿と共に、無事に戻ってくるんだ。いいな?」
「……言われなくても、分かってますよ。全く、与人様は心配性なんだから」
千蔭は溜息を漏らしながらも、まんざらでもなさそうな、どことなく嬉しそうな顔をして、与人の言葉にしかと頷いていた。