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悲しみのない自由な世界へ

作者: 杉浦 晴信

 早春の柔らかな陽光がオフィスの窓から差し込み、デスクに積まれた書類に淡い影を落としていた。


 午後二時四十六分。

 時計の針は静かに時を刻んでいて、穏やかな空気が私の気分を高揚させていた。他の社員たちはそれぞれの仕事に没頭し、キーボードのカタカタという音が控えめに響いている。


 それが子守歌のように心地良く、しかし、いつものような眠気はまるでおそってこない。私はチラチラとスマートフォンを確認しては、その挙動に息をのみ、再びデスクトップのパソコンに視線を戻した。


 その時、床がわずかに震えた気がした。それは微かな違和感に過ぎなかったが次の瞬間、大地が怒りをぶつけるかのように、激しい揺れがオフィスを襲った。


 誰もが一瞬で凍りつき、その手が止まると、ほんの少しだが時間が静止したような静寂を感じとることができた。僅かな安堵。


 しかし、「地震だ!」という叫び声が響き渡り、社員たちは一斉にデスクの下に身を潜めた。


 キャビネットが不気味な音を立て、棚の上からファイルや書類が次々と床に舞い落ちてくる。蛍光灯は天井でブランコのように揺れ、今にも外れそうな勢いだった。凄まじい振動が建物全体を軋ませ、その音が耳の奥に響いた。


 私はデスクの下で身を縮めながら、隣のデスクの山田と不安げな視線を交わした。揺れは激しく続き、そのたびに床が波打つように感じられる。


 一分間、いや、それ以上の時間が経過したように思われたが、ようやく揺れは収まり始めた。


 社員たちはゆっくりとデスクの下から這い出し、互いの無事を確認し合う。オフィスは一瞬にして混乱の現場となり、書類や倒れたパーテーションが散乱していた。


 普段の整然としたオフィスの姿はもはや、影も形もなくなっていた。


「皆、大丈夫か?」と部長の田中が声を張り上げた。社員たちはそれぞれ無事を報告し合い、少しずつ安堵の表情を浮かべ始めた。


 しかし、携帯電話の緊急地震速報や、窓の外に広がる混乱の光景が、この地震の恐ろしさを物語っている。


 ところが、私だけは現場の惨状をどこか俯瞰で眺め、他人事とし、己の魂は肉体と別の場所に存在していたのである。


 対面では、部下の山本が焦燥感に駆られながら家族に連絡を試みていたが、通信は途絶えていた。彼の顔には深い不安が刻まれている。


 木村はパソコンの画面に目を凝らし、最新の地震情報を確認しようとしていたが、インターネットも不安定で思うようにアクセスできないようだ。


「避難訓練の通り、非常階段を使って速やかに避難しましょう!」と田中が指示を出した。


 社員たちは手早く必要なものをまとめ、互いに声を掛け合いながら非常口へと向かい始めた。


 揺れの後遺症でまだ不安定な足取りの者もいたが、皆真剣な表情で行動していた。六階のオフィスを出た先には、他のビルから避難してきた人々が既に集まっており、道路は人で溢れかえっていた。


 私たちは、オフィスの仲間と共に安全な場所に避難し、互いの無事を確認し合いながら次の指示を待った。


 外の空気は冷たく、揺れの余韻が心に残る中で、彼らは一つのチームとして助け合い、励まし合っていた。大地震という未曽有の災害の中で、普段以上に強く結びついた仲間たちの姿がそこにはあった。


 春の日差しが再び降り注ぎ、希望の光が少しずつ彼らの心を温め始めていくのを感じながら、私は恐ろしい予感がどうか杞憂であることを、ただ神に願っていた。


「新田さん! 奥さんは?」


 若い女子社員が私の肩を揺さぶった。その瞳は赤く充血している。そう言えば彼女は、私の妻と社内バーベキューで仲良く話をしていた。年齢も近く気が合ったのだろう。ラインの交換もしていたような、そんな気もする。


「今日、って言うか今ですよね?」


「ああ……」  


 私はスマートフォンに目を落とした。【3月11日(金)14時56分】数字の羅列だけが視界に入り、一方で彼女に何か返事をしなければならない使命感が複雑に交差し、精一杯の願いを込めて答えた。


「もうすぐ、生まれるんだよ」 

 

 ――しかし、あの時、私はそう答えるべきではなかった。  


 生まれてきた赤ん坊と入れ替わりで、妻は死んだ。


 幸か不幸か、それは震災の影響とは無関係だったが、私は多くの人命を奪った天災を何よりも憎み、そうする度に己の無力さに心を打ち砕かれた。


 私から大切な人を奪ったその日に、私の大切な子供は生まれてきた。それだけでも幸福なことだ。そう感謝することが望みであれば、私はもう、神に祈るのはやめる決断をするしかない。


 まだ生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめた時、私はまだ、彼に訪れる悲痛な運命を知る由もなかった。


 それは、もしかしたら神頼みを放棄した私に対する報復であったのかもしれない。だとすれば、私の罪は重く、決して許されるものではないだろう。



1



「あのさ、転校生の話したじゃん?」


 翼はカレーのスプーンを口元まで持っていったが、それは彼の胃にはおさまらず、再び皿の上に戻された。


 私は彼の語尾に『じゃん』が付いたのを不思議に思いつつ、空になったコップにミネラルウォーターを注ぎながら答えた。


「ああ、福島からの転校生だろ? こんな時期に珍しいよな」


 五年生の三学期。息子の翼は十一歳になっていた。


「うん、翔太くんって言うんだけさ、なんて言うか……」


 翼はモゴモゴと口ごもり、苦虫を噛んだような顰めっ面をしている。男二人で共に生きてきた私たちは、親子というより兄弟、いや、友人に近い。


 彼は非常に大人びていて、賢く、運動は苦手だがイケメンである。これは親バカな側面を差し引いてもなお、お釣りがくるくらい、本当に翼は良くできた息子であった。


「なんだよ、言いにくいことか?」


「うーん、まあ、端的に言えば虐められてる」


「え? その転校生が?」


「うん、そう」


 彼はため息を吐いてから、カレーを一口食べて水で流し込んだ。


「なんで?」

 私は聞いた。


「福島だから、なのかな」


 転校生が新しい学校に馴染めず、クラスでも浮いた存在になることは想像に難くない、しかし福島だから虐められる、と言うのは些か奇妙な話であった。


「翔太くんは、放射能に汚染されてるって」


「ああ、なるほど」


 なるほど、ではなく「今更?」と返すべきだったか。それにしても震災から十一年、良くも悪くも記憶の隅に追いやられていく過去の惨劇、その被害が現代にまで及んでいるとは信じがたい。


 そもそも、彼ら、翼の年代はまさに震災の年であり、その頃の記憶が残っているとは考えにくい。だとすれば震災=原発=放射能=福島。という方程式を組み上げるのは、やはり不自然に感じられた。


「左の頬に痣があってさ、結構大きな痣で、手のひらくらいかな、それが放射能の仕業だって、そんな風に言うんだよ。感染るから近寄るな、話しかけるな、消毒しろって、病原菌扱いするんだぜ」


「それは酷いな」


「そうでしょ? どうしたらいいかな、俺……」


 片親ゆえに、翼が学校で虐められる、あるいは屈辱的な仕打ちをうけることは私も器具してきた。しかし、このパターンはどう答えれば正解なのだろうか。


 男として、人間として、クラスメイトの虐めを看過できないことは素晴らしい、是非とも悪に負けず、正義の鉄槌を下して欲しいと願うばかりだが、事はそう単純な話ではない。なんなら、気難しい取引先の方がまだ可愛げがある。


「翼はどうしたい?」


「そりゃあ、やめさせたいけどさ」


 彼もその難易度とリスクを分かっているようだ。だからこそ私に相談してきたのだろう。


「先生には?」


「気が付いてないと思うよ、多分」  


「報告してみたらどうだ?」


「チクるってこと?」 

 同じ作業にも関わらず、報告とチクりには天地の隔たりがある。


「一度、うちに連れてきなよ」   


「え? 翔太くんを?」


 少し驚いた様子の翼に私は「うん」と返事をした。彼は何度か小刻みに頷いてから、満足そうに「分かった」と言ってカレーを食べ始めた。



 2



 木下翔太はひょろりと背の高い、日に焼けた少年だった。


 その左頬には赤紫の痣があり、確かにそれは、とても目立つものだった。彼は時々、その痣を右の手のひらで撫でていたが、それは恥ずかしくて隠す、というよりも、愛犬を撫でるような慈しみが込められているように私は感じた。


 彼は福島で生まれ、驚いたことに翼と同じ誕生日だった。つまり、震災当日に生まれた子供なのだ。


「変わった時期に転校してきたけど、親御さんの都合かな?」


 私は、彼に子供が好きそうなお菓子とカルピスを勧めると、「ありがとうございます! 頂きます!」と、しっかり挨拶をしてから食べ始めた。その声は自信に満ちていて、とても虐められているようには思えない。


「交通事故で、両親はもういません。親戚が東京にいたので、今はそこでお世話になっています、あ、このお菓子おいしいですね、東京限定ですか?」


 彼は両親の事故よりも、お菓子の方が重要であるかのように目を輝かせた。しかし、それはコンビニで買える変哲もない商品であり、彼なりの気遣いなのだと私は判断して、なんだか少し悲しくなった。


「翔太くんはスポーツとかやらないの?」


 空気を察したのか、翼が彼に質問を投げかける。


「福島では少年野球チームに入ってたよ」


「え! まじ?」


 翼の目が見開いた。彼も同様に小さい頃から野球をやっていて、それは私の野球好きが影響しているのは間違いないが、だったら、どうして名前が翼なのだと聞かれた時には返答に窮したものである。


「だったら、一緒にやろうよ! ポジションは?」


「センター」

 翔太は答えた。


「俺はショート。まあ、今はちょっと体調が悪くて休んでるけどさ。でも良かったね、被らなくて」  


「うん、でも僕は野球チームには入れないよ」 


「え? なんで、なんで?」


 翔太は小学生が駆使できる精一杯のフィルターを通して、その理由を話してくれたが、要約するとお金がかかる。そんな負担を親戚の人には頼めない、だから野球チームには入れない。と、そういうことだった。


 確かに野球を始めるにはグローブにバット、ユニフォームが必要になる。月謝は安いがその分、母親たちが持ち回りで子供たちの面倒を見ることが慣例になっていた。


 彼の面倒をみている親戚とやらがどの程度、好意的であるのかは不明であるが、少なくとも小学生が気を使うだけの距離感であることは察した。


「翔太君はどうだ? 続けたくないのか、野球」

 私は聞いた。


「いや、続けたいですけど……」


 なんだか、新たな問題が増えたような気もするが、野球を始めれば陰湿な虐めも解決するかもしれない。一石二鳥だ。私は安易にそう考えた。


「とりあえず、キャッチボールしようよ! お父さんのグローブ借りてさ、ね?」


 翼は本当に野球が好きだった。暇さえあればキャッチボールに突き合わされ、ボールが見えなくなるまでノックをさせられた。翔太が友達になってくれたら私の負担が少し減るかもしれない。つまり一石三鳥だ。


 私たちは家から直ぐの河川敷に移動し、少年野球チームで習った準備運動を入念にした。翼は自らのグローブを、翔太は私のグローブをはめてお互いに距離をとる。


 翼は「お願いしまーす」と頭を下げてから、使い古した軟球を放った。それは山なりの放物線を描きパスンと音を立てて翔太のグラブに収まった。


 次に翔太がボールを握る。その一連の動きを見て、私は彼のセンスがずば抜けていると感じた。捕球動作から投球するまでのスムーズな移行、しなやかな腕の使い方、指先から放たれた軟球が空気を切り裂く音が聞こえてくるようだった。軟球がスパンと翼のグラブに収まると、彼は「うん!」と言って頷いた。


「翔太くんは、野球をやるべきだね」 

 翼は言った。


「ああ」

 私も頷いた。


「でも……」 


 翔太は少し照れたように右手で頬を撫でた。痣のある左の頬を。それはやはり、なにか特別な儀式のようでもあり、誰かに向けたサインのようでもあった。


3


「怪我をしたら、誰が責任を取ってくれるのですか? それに中学校になったら新しい道具が必要になるでしょう、その費用もそちらが負担して頂けるのですか? 高校に行ってもそうです、中途半端にやるくらいなら、今のうちに辞めてしまった方がいいに決まってるし、そもそも、他人の家の事情も知らないのに失礼じゃありませんか? まるで私たちが翔太を不自由に扱っているような印象を与えるじゃありませんか。それって変じゃありません? 私どもは好意で預かっているのに、夫の親戚筋ですから私には関係もないのに」 


 私は彼女に一括されて、すごすごと帰宅することを余儀なくされた。それは、あの女性が言っていることは一理あるし、金を出すから翔太に野球をやらせてくれと言うのは、確かに失礼である。


「ごめん」 


 私は翔太と翼に謝罪した。大人として、もう少し頭を使って行動すべきだったと反省したが、彼らはすでに頭を切り替えていて、次なる作戦を思案していた。


「原点に返ろう」


 翼は言った。


「原点?」


 翔太が不思議そうに首を傾げる。この二人はすっかり気が合うのか。すでに親友のように仲良くなっていた。


「うん、まずは翔ちゃんの虐め問題を解決しようか」 


「え? 俺って虐められてたの?」

 翔太は言った。


「え? 自覚ないの?」

 翼が驚いていると、彼は「うん」と答えた。


「ほら、痣のこととか。放射能とか、渡部たちが……」 


「ああ、別にいいよ、気にしてないから」  


 翔太は本当に気にしてないよ、ともう一度言った。しかし、それが本心なのかどうか、大人の私にも見抜くことはできなかった。


 少なくとも三人でいる時の翔太に悲壮感や孤独感は感じられず、むしろ健康的な小学生のお手本のように見えたものである。


 私たちは三人で野球をしたり、食事をしたり、時には映画を観に行ったりした。私たちはいつも三人で、それは私の仕事がフリーランスで、かつ在宅だったことも大いに関係するのだが、その関係は彼が大人になるまで続くことになる。


 ある日、学校の先生に私は呼び出された。それは授業参観や、三者面談ではなく緊急の、そして私だけの呼び出しであった。


 そろそろと教室に入ると、そこには不満気な表情を隠そうともしない翼と、退屈そうに校庭を眺める中年男、担任の後藤がいた。


「どうした?」


 私の問いに、翼は鼻を鳴らした。質問に答える気はないようだ。


「渡部と喧嘩をしたみたいで」 


 後藤はそう言って椅子に座り、私も翼の横に座るよう促してきた。その態度がどこか尊大で、たいした報酬も支払わないのに偉そうにするクライアントや、雀の涙程度の税金しか払っていないにも関わらず、政治家への文句ばかり言っている中年主婦を想起させ、はやくも私は臨戦態勢を取った。


「まあ、喧嘩と言ってもこいつが一方的に殴っただけですがね」


 後藤はそう言ってため息を吐いた。余計な仕事を増やしやがって、俺は忙しいんだよ、と、そんな雰囲気をブンブン感じる。


「それは後藤さん、その渡部ってやつに問題があるんですよ」 


 私はあえて先生とは呼ばなかった。なぜなら、コイツは別に私の先生ではないし、どうやら教えを乞うこともなさそうだ。薄っぺらい。和紙のような人生を歩んできて、きっとこれからも続けていくのだろう。


「は? あんた何を言って?」


「あんただあ?」


 私は勢いよく席を立ち、後藤を見下ろした。


「あ、いえ。新田さん、なにがあっても暴力はいけませんよ、暴力は」


 彼は予想外の態度に焦っていた。しかし、私は翼が何の理由もなく人を殴るような人間でないことを知っていたし、彼が言い訳をしないのであれば、それは事実なのであろうが、それには相応の動機があるはずだ。


 それを一方的に翼だけを残し、悪と断罪し、親を呼び出したのであれば、私は彼を守るために戦うだけである。 


「で? 翼。どうして殴った」 


 私は正面を向いて後藤を威嚇したまま聞いた。


「渡部が翔ちゃんに、お前は放射能汚染で高校生まで生きられない、可哀そうな奴だなって、そう言いやがった」 


「ほう、で?」   


「生きてる意味ないから、自殺しろよって、どうせ死ぬんだから、クラスに迷惑が掛からないように死ねって」 


「だからって暴力は――」 


「後藤さん」

 私は後藤を睨みつけた。 


「はい」 


「その場に私がいなくて良かったですね、いたら殴り殺してましたよ。おい、翼、行くぞ」


「あ、うん」


「ちょ、先方に謝罪は……」  


「ああ、翔太は毎日のように家に来ますから、謝罪はいつでも構いませんよ、ええ、菓子折りなんていりませんから、お待ちしてます」 


 そう言って私と翼は教室を出た。その瞬間、私たちは声を出して笑いあい、翼は私に「父ちゃんこえー」と呟いた。


 そして昇降口には翔太が待っていて、「大丈夫だった?」と、声をかけてきたので、私は黙って左頬を撫でてから親指を立てた。


 それは私たちの合図であり、ある種の願掛けでもあった。


 翔太の痣は生まれた時からのもので、やはり、小さな頃にも揶揄われていたらしく、その度に彼は母親に泣きついた。


 すると、母は「ごめんね、ごめんね……」と、やはり泣きながら翔太の頬を撫でてくれた。優しく、少しでも良くなるように、母は撫でてくれたのだ、と翔太は言った。


 それが翔太はとても好きだったが、母を悲しませるのが嫌で、何を言われても我慢をするようになった。そして時々、母がそうしてくれたように、自分で頬を撫でるようになると、いつの間にかそれが癖になったのだと話してくれた。


 そんな話を打ち明けたのは、私たちが初めてだと彼は言った。私は涙を堪えてその話を聞いていた。


 もう、翔太には頬を撫でてくれる母親がいないのだ。彼は永遠に自分で頬を撫でるしかないのだ、そう考えると彼が、私にはどうしようもなく愛おしく思えた。


「俺たちも真似しよ」 


 そう言ったのは翼だった。私はそれに賛成した。


 


 案の定と言うべきか、翼と翔太はクラスで孤立した。その責任が自分にあることは火を見るより明らかで、彼らには貴重な学校生活を棒に振ってしまったことを何度も謝罪した。


「全然いいよ、三人でいるほうが楽しいし」


 翔太は言った。


 私たちは毎日、三人で野球をした。翔太の才能は明らかに群を抜いていて、中学校に入ったらシニアのチームに入れようと、私は勝手に画策をしていた。


 その為の費用や、雑用はなんでもやる覚悟もあったし、翼もそれには賛成してくれた。幸い、シニアのチームには同じ中学の生徒がいなかったので、特筆した才能に恵まれた彼らはすぐチームに溶け込んだ。 




「なあ、誠二郎」


 いつからか、翼はお父さんと呼ばなくなった。それが、父親を亡くした翔太への気づかいなのか、年齢による反抗期的なものなのかは分かりかねたが、私は嫌な気分があまりしなかった。


「もうそろそろ、だろ?」


「まだまだ、大丈夫だって……」 


 翼の白血病が発覚したのは小学生の時だ。治療が始まり、翼の生活は一変した。学校に通う代わりに、病院での長い時間が始まった。化学療法は辛く、体力を奪い取っていった。


 それでも、翼は決して諦めなかった。グローブを抱きしめながら、いつも「絶対に治るんだ」と自分に言い聞かせていた。


 高学年になると、翼の病状は一時的に安定し、彼は再び学校に通えるようになった。短い期間だったが、彼は再び少年野球に復帰し、仲間たちとともにグラウンドを駆け回った。


 その姿はまるで自由に羽ばたく鳥のようだった。しかし、再発は突然訪れる。高校進学を目前にした翼の体調は再び悪化し、彼は再び病院での生活に戻らなければならなかった。それからは早かった。死神はあっという間に翼を妻の元へと連れ去っていった――。



 

「誠二郎さん知ってたのかよ、知ってたに決まってるよな! 息子のことなんだから、なんだよ! 俺だけ蚊帳の外かよ、そーだよな、俺は所詮は他人だよ、無関係だよ! 俺が死ねば良かったよ! そーだろ? あんただってその方が良かったんだろ!」


と、翔太はまくしたてた。

その身長はもう私をゆうに超えている。



『パンッ』っと、乾いた音が室内に響いた。私は生まれて初めて人を叩いた。


「本当にそう思うのか?」

 私は翔太を見つめた。


「本当に、そう思うのか? 答えろ」


「ごめん……」


 翔太が下を向くと、涙がポロポロとフローリングに落ちた。私は自分よりも背が伸びた息子を強く抱きしめた。


 私たちは久しぶりに二人でキャッチボールをした。家からすぐの河川敷。小学生のとき、三人で日が暮れるまで野球をしていたこの場所で、私たちはボールを投げあった。


 あの頃よりもずっと離れた距離で、お互いの表情が見えないほどの距離で、私たちは泣いていた。


 鉄橋を通る貨物列車が、その声をかき消してくれる。だから、私たちは思う存分、泣き続けることができた。


4


 部屋のサイズにまったく合わない大型のテレビ。搬入するのに苦労したが、おかげで臨場感のある映像を堪能することができる。そもそも、勝手に送られてきたのだから、私に拒否権はないのである。


 試合は九回、ツーアウト満塁。

 一点のリードを守り切れば、日本一が決まる大事な局面だ。


 私はテレビの前で胡坐をかいて唾を飲み込んだ。それから慌てて仏壇の写真を取りに戻り、テーブルの上に置いた。


 ピッチャーがセットポジションから足を大きく上げた。渾身のストレートが甘いコースに入ると、バッターはそれを見逃さずに振りぬいた。


 乾いた音と共に白球が左中間に伸びていく、これは抜ける。サヨナラ負けだ。誰もが覚悟を決め瞬間だった。


 前傾姿勢になり、まるでチーターのように疾走する影が画面の端から現れた。落下地点に向かって一直線に疾走すると、ボールに向かって飛び込んだ。彼はゴロゴロと転がり外野のフェンスに激しく激突した。


 球場が一瞬だけ静まり返るが、彼がグラブをはめた左手を掲げると、割れんばかりの大声援が球場内にこだました。ナインが、いや、ベンチの人間も全て彼のもとに駆け寄っていく。


 彼は照れたように右手で頬を二回撫でてから、夜空に向かって、その拳を大きく突き上げた。




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