おまけ.黒田宙矢
幼稚園に通っていた頃、生のオーケストラの演奏を聴いたことがある。
指揮者と園長先生が知り合いで、その縁で実現したものだった。今考えてみると、あんなにまだ幼い子供がプロの公演を聴きに行くなんて、とんでもなく贅沢な経験だったと思う。その指揮者は海外でも活躍する有名な人で、地元の楽団の人たちはとても緊張していた。
名指揮者のことを「マエストロ」と呼ぶというのを、この時初めて知った。五歳にしては、なかなかに難しい言葉を覚えたものだ。なんの曲を聴いたのかは、正直記憶にない。ただ、すごく楽しかったのは確かだ。大人数をひとりでまとめるマエストロは、めちゃくちゃかっこよかった。
「この間、孫が誕生してね。遠くにいるから直接は会えてないのだけど、可愛くて仕方ないよ。将来、音楽の道に行ってくれると嬉しいな。君たちの中にも、今日をきっかけにこちらの世界へ来てくれる子が出てくるのを、楽しみにしているよ」
演奏会後に、そのマエストロは園児たちにそう話してくれた。
俺は、大人になったら指揮者になろうと思った。
指揮者になるために、まずピアノを習うことにした。
俺には、周りより才能があったようだ。高校も音楽科がある学校を選び、出場するコンクールでは常に入賞した。
「宙矢君、おめでとう!」
「ありがとうございます!」
ある時のコンクールで、見事一位を獲得した。周りの大人も、みんな俺を認めていた。
「明日は、是非後輩の応援に来てくれないか? たぶん大丈夫だろうがね。優秀な教え子たちで、私も鼻が高いよ」
「あはは。まぁ明日は休みですし、見学しようかな」
次の日、俺は弟弟子の出る部門の応援に来ていた。
その後輩は、中学生の中ではほかと一線を引く実力の持ち主だった。
始まるまで時間もあり、会場でぶらぶらしていた俺は、そこである夫婦と出会った。
「どうかされましたか?」
会場の案内図を見ているその夫婦は、とても上品な雰囲気があった。
ピアノバッグを持った女性は、どう見ても困った様子だ。
「楽屋へ行きたいのだけど、行き方がわからなくて」
「失礼ですが、関係者ですか?」
「そうなるのかしら? 孫がね、今日ここで演奏するのよ。だけど、あの子ったら楽譜をホテルに置いて行っちゃって……。近くにあったバッグに入れて持ってきたのだけど、連絡が取れないの。どうしたらいいのかしら」
この人、孫がいるのか。そんな歳には見えないな。
俺なら楽屋に入れるかもしれないから、預かろうか?
「おお! 今、先生から連絡が来たぞ。『楽譜なら持っています』だと? これは使わないのか? それならいいが」
傍にいた男性が、孫の先生と無事に連絡がついたようだ。
「問題なくて、よかったですね」
「お騒がせしてすみませんね。私たち、孫と暮らし始めたばかりなのだけど、あの子のことはまださっぱりで。今日のこれも、急に決まったのよ。それで久々の遠出になるし、あの子は自由に行動するしで、振り回されてばっかり。娘夫婦も向こうのご両親も、勝手で困っちゃうわ」
女性は、片手を自分の頬に当てた。見事な「困ったわポーズ」だ。
「まぁ、あの子の演奏をちゃんと聴くのは初めてだから、楽しみでもあるんだ。君も聴いていくのかね? お互い、楽しもうじゃないか。では、失礼するよ」
「は、はぁ」
男性は女性の腰に手を回し、ホールの中へと入って行った。
俺の後輩の演奏は完璧だった。これなら、一位は間違いないだろう。
それにしても、次の最後の出演者はふざけているのか? どうして、中学生の部に小学五年生が混ざってるんだ! どこかのコネか?
そして現れたのは、小さな少年だった。名前からして、女の子かと思っていた。
五年生なら、もう少し大きくてもいい気がする。あんな身体で、オクターブが届くのかも怪しい。
何よりありえないと思ったのは、その選曲だ。難曲と知られる、ハンガリーのフランツ・リストの『ラ・カンパネラ』を持ってきた。大人でも難しい名曲を、こんな子供が弾けるはずがない!
表彰式ーー。
俺の後輩はまさかの二位だった。一位は、あの少年だ。
信じられなかった。俺より上手い。繊細さとダイナミックさを兼ね揃えた、プロ並みの演奏だった。
「あら。さっきはどうも」
放心状態の俺に、先ほどの女性が話しかけてきた。
「いい演奏会でしたね。みんな上手だったわぁ」
いい演奏会? これはコンクールだぞ! この人は、ここがどういう場所かわかってないのか?
「せっかくだし、あの子の楽屋へ行ってみたいわぁ。でも、やっぱり難しいかしら?」
あぁ。まぁ、そうだよな。この人の孫も、俺の後輩と同じできっと落ち込んでいるのかもしれない。だとしたら、励ましてやりたくもなるか。
「よかったら、一緒に楽屋に行きませんか?」
「まぁ! よろしいの? 嬉しいわ」
「自分も用事があるんで、案内しますよ」
気づけばそんなことを言っており、俺は夫婦と一緒に出場者がいるであろう楽屋方面へ向かった。
廊下で、俺の後輩が盛大に泣いていた。
その悔しさは、よくわかる。もし昨日のコンクールにあの少年がいたら、俺もこうなっていた。
「可哀想に。これ、お使いになって」
女性は、高級そうな品のあるハンカチを渡してあげた。
知らない人からいきなり慰められ、後輩は戸惑っている。
「あ、ありがとう……ございます」
「いいのよ。男の子でも、泣きたい時はあるのでしょう。それにしても、あなたの演奏もとっても素敵だったわよ。素晴らしかったわ」
「そうだな。私の娘もずっと音楽に関わってはいるが、あれはどうも合わん。だが、君のはとても聴き心地がよかった。誇りなさい」
「……はい」
男性からも言葉をかけてもらい、いつの間にか涙は止まっていた。
「おふたり共、ありがとうございます。彼は、自分の知り合いでして」
「そうだったのね。それなら、あなたもピアノを?」
「はい。実は昨日出場しまして」
「あら。それはお疲れ様でした」
それから、俺は自分の先生に落ち込んでいた彼のことを任せた。気になる奴もいるし、もう少し奥まで行ってみる。
そして、人だかりを見つけた。
その中心には例の少年がいて、インタビューを受けていた。
「どうだったって……つまんなかった」
は? コンクールがつまらないだと? こいつは何を言っているんだ!
「出ろって言うから出たけど、楽しくなかった。昨日も聴いてみたけど、面白くなかった」
昨日、いたのかよ!
俺の演奏にそんな評価した奴、初めてだぞ!
「音楽って、もっと自由であるべきじゃないの?」
決して、悪意はないのだろう。純粋な目で語る少年に、大人たちはたじろいでいる。
これが普通のガキなら叱るところだ。だが、あんな演奏をする奴に、ここでは注意をできる者はいない。
彼の先生らしき人も、代わりに頭を下げることしかできない。
「マエストロからの推薦で出してみたんですけど……その、すみません」
ぺこぺこする先生に対して、少年は不思議そうな表情をしている。
自分のためにこうしているのを、理解できないのか!
「あぁ、いたいた」
「おー、ここにおったか」
俺の後ろについていた夫婦は、大人に囲まれた少年に気がつくと、スルスルと人を避けて進んでいく。
え? 孫ってあいつ?
「お疲れ様」
「え? なんでここにいんの?」
祖父母の登場に、彼は驚いている。
「東京観光でもしてるのかと思った」
「だってね、これを届けないとと思って。大事な物なのかと心配だったのよ。連絡しても出ないし」
ピアノバッグを渡され、その中身を見た少年は焦る。
「な! これ、持ってきちゃったの!? 使わないよ!」
「先生からそう聞いたんだがな、その時点でもう会場に来てしまったよ」
「えー。そっかぁ。しょーがない」
受け取ったバッグを隠すように持つ少年。
女性は、そんな彼の頭を撫でてあげる。
「ピアノ、上手だったわー。おばあちゃん、びっくりしちゃった」
「あんなの、別に……」
「もう。そんなこと言って。今朝、あんまりご飯食べてなかったでしょ。お腹空いてるんじゃない? 何食べたい? あら。クマできてる。遅くまで何かしてたみたいだけど、子供が夜更かしなんてダメよ。母親たちみたいな無茶苦茶な生活送ってちゃ、身体に良くないわ。おばあちゃんたちの所に来たからには、もっと子供らしく健康に過ごしましょうね。まずは何がしたいかしら? 甘えていいのよ」
「まずは……寝たい」
そこで、少年の身体が揺れる。
瞼が閉じていき、スローモーションのようにゆっくり倒れていく。
「おっと」
少年の祖父が見事キャッチすると、周りの大人たちが慌て始めた。
「まぁ! どうしましょ!」
「と、とりあえず楽屋に!」
「こっちです!」
目の前で運ばれる少年。
彼の手から、ピアノバッグが落ちた。俺はそれを拾う。
寝不足か? 仕方ない。後で届けるか。
たまたま行ったピアノのコンクールに現れた、天才少年。
これが、俺と洙田音色との出会いだった。




