10.ダッタン人の踊り
続いての曲は『歌劇《イーゴリ公》より「ダッタン人の踊り」』。
この曲は、ロシアのアレクサンドル・ボロディンが作曲したものだが、彼は未完のままこの世を去ってしまう。代わりに、ニコライ・リムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフ というふたりの友人が完成させたオペラである。
『イーゴリ公』の数ある曲の中で、「ダッタン人の踊り」はとても有名だ。しかし、本来は「ポロヴェツ人の踊り」が正しい。曲名を知らなくても、CMなどで日本人にも馴染み深い。
「イーゴリ公」は主人公の名前で、祖国ロシアを守るために息子と共に遠征に向かう。そこでポロヴェツ人の捕虜となり、敵に気に入られる。
この「ダッタン人の踊り」は、その場面で出てくる。ネロが奏でる有名なソロは「若い奴隷女の踊り」を表したものだ。それに実音のアングレが続く。
そのほかにも男たちや少年たちも登場し、荒々しさや野生的な踊りも表現する必要があり、難度は高い。できるだけいろんな難曲に触れさせたいと思った実音がネロに頼み、こうして大三東の一部の部員も参加することになった。
「だから、エロさが足りねーって。あ、違った。その、あれだよ。誘惑! 誘惑するつもりで吹け!」
以前セクハラだと言われた言葉を言い直すネロ。だが、あまり内容は変わっていない。
「あのさ、色目使ったことない? そんな吹き方しても落とせねーよ」
(使ったことなんて、あるわけない!)
実音は心の中で突っ込んだ。
オペラの中では、ここは女性ダンサーの見せ場だ。バレエ音楽と言っても良いほど、妖艶な踊りを披露する場面である。
理解はしていても、実音は実際にそのような誘惑はしたことがない。求められても困る。
「オレの吹き方、よく聴いとけよ」
女子高校生に要求するにはかなりアウトなことを、ネロはお手本で聴かせる。
綺麗なメロディーが有名であるが、ネロの演奏はとても色気があり官能的だ。彼がそのように吹くのならば、アングレも同じように吹かざるを得ない。
よく演奏会で聴くようなものではなく、ネロはオペラの雰囲気にこだわった。
「そんなんじゃ、全くそそられない」
「はいアウトー!」
実音の吹き方にダメ出しするネロに、客席にいた黒田宙矢はストップをかける。
「完全にセクハラ。言いたいことはわかるけど、それ訴えられてもいいやつ」
「あ゙? クロ、邪魔すんなよ。ってか、ミオ。オレの『サロメ』がよかったんだろ? だったら、あれくらいのをやってみせろよ。つーか、あの曲よりマシじゃん!」
「あれもな、いろいろアウトな曲だよなー。雅楽川ちゃん、ネロの言うこと無視していいからね。というより、訴えるなら俺は君の味方するから」
「いえ、もっと色気を出せるように練習します!」
「ほら、ミオもこう言ってんじゃん!」
「えー。ちょっと、雅楽川ちゃん?」
何度もネロの音を聴き、それを真似するうちに何か掴めそうな実音。
せっかくのストッパーを外せる環境で、自身の成長のためにできるだけ要求に応えようとする。
「そこ、ブレスもっと取って。次の入りはわざと遅れろ。後半はさらっとしていいから。あと、最後はもっと遅くする」
細かい指示を聞き、曲の解釈やニュアンスをふたりで揃えていく。
そのレベルの高さに、周りは圧倒された。
「次、ほかも入って」
そして、その先の練習へと続いていく。
「クラリネット、転んでる。順番に吹いて」
ここで、『ローマの松』と同じようにひとりずつソロを吹くことになった。
さっきの曲と違い、このソロはテンポが速い。指だけでなくアーティキュレーションもきっちりさせないと、ネロの合格点には達しない。
「論外」
海は、最後まで吹かせてももらえなかった。途中で止められて、一言だけで終わる。
海以外には、一年生の松崎も参加している。彼女も海と同様の結果だった。
(悔しいー!)
ソロ以外にも指の速い箇所がいくつもある。
海は、ネロがほかの楽器を見ている間も指を動かして練習した。
そもそも、この楽譜を渡されてからそんなに日が経っていない。また、彼女はこの演奏会の練習で、初めてA (ラ)管のクラリネットを扱っている。
オーケストラの曲では、欲する音の響きや、調によっての吹きやすさでA管とB(シ♭)管を使い分けることがある。吹奏楽ではほぼ使わないA管は、リードもマウスピースも同じだが、慣れるための時間を要する。
同じ曲の中でそれぞれを入れ替えなければならず、しかも大学の楽器のため大三東では練習が難しい。そんなハンデを背負って、海は今ここに座っている。
(実音だって、あんなに目立つアングレのソロやっとるんだもん! わたしだって!)
ネロに褒めてもらえない怒りを糧に、彼女はこの試練を乗り越えようと励んだ。
この日の練習が終わった。
『ダッタン人』の合奏の間、十九号館で練習していた者たちもホールに集合する。
代表の白浜春雪が挨拶をした。
「今月の合同練習はもうないけど、各自さらっておこうね。じゃあ、また来月お願いします。お疲れ様でした」
今月末には、全国大会が控えている。そのため、暫く練習が空く。今日は、島原大学のAチームの貴重な時間を使っての合奏だった。
解散の流れになり、それぞれ片づけをする。
そんな中、造酒迅美は後輩の有馬咲太郎の姿を探していた。彼は、彼女と共に『ダッタン人』のメンバーだ。しかし、『ローマの松』の件で楽屋送りになってから、戻ってきていない。
そして、実音も彼のことはずっと心配していた。様子を見に行こうとすると、またもやネロに止められてしまう。
「今はやめとけ」
「ネロさん。あれ、わざとですよね?」
小声でやり取りするふたり。
実音はネロの思惑には、初めから気づいていた。
「私も、彼については前から考えていました」
「甘いな。あれは、もっとプライドを折った方がいい。今のうちにやっとかないと、次のコンクールで苦労する」
実音はこれまで、ソロやファーストにこだわる有馬に対して、ほかの天才の話をしたり、表現力の足りないことを指摘したり、別の楽器とのブレンド強化を取り入れたりした。
吹奏楽は団体戦。それを考慮してアドバイスをしてきたつもりだが、ネロはもっと厳しかった。得意のファンファーレで彼の自信を根っこから引っこ抜くことで、精神面でも成長させようとしている。
「今日は放っておけ。あの楽屋は、ここの音が聴こえる。ミオがオレの要求に応えれば応えるほど、あいつのプライドはズタズタになっただろうな。同級生のノダもだが、オレについて来られる奴との違いを思い知ったはずだ」
そう言うネロは、とても悪い顔をしていた。まさに暴君に相応しい。
しかし、意地悪でそうしているわけではないことを、実音は感じ取っていた。
「わかりました。今日はそのままにしておきます」
造酒が楽屋に向かったのを見て、溜め息をつきながら彼女はネロの言うとおりにした。
「失礼しまーす」
楽屋のドアをそっと開ける造酒。
中からは、トランペットの音が聴こえる。
(ずっと、練習しとったんだ)
感心して、奥に進む。
「もう練習終わったよ。早く片して帰ろ……」
そこで後輩の様子を見て、彼女は言葉を失ってしまう。
いつものチャラい雰囲気はそこにない。怒りや悲しみや悔しさが混ざったような、見たことのない黒いオーラを放っていた。しかも、音も沈んでいる。
「……何すか?」
「……帰ろ」
「……今行くんで」
「……うん」
生意気な後輩が、この時はとても恐く感じた造酒。
これ以上話しかけてはいけない気がして、すぐに部屋を出た。
(うわー。どうしよっ!)
先輩としてどうするべきかわからず、逃げるように彼女はホールへと急いで戻った。




